父の記憶
開いた1ページ目は、ここ、ウォルバーへ赴任した所から始まっていた。
おおらかだった父に似合った、しっかりとした筆跡で、日記は綴られている。
前任者が老衰でこの世を去ってできた空席に、中央都市でくすぶっていた父が選ばれたらしい。
全くの偶然だったそうだが、突然舞い込んだ出来事に、父は前向きだったようだ。
父が選ばれた当時、ウォルバーの経済状況はお世辞にも良くはなく、インフラやギルド等もまともに整備されていなかったようだ。
それでも希望に燃える父は、地域の役人達や自治会に掛け合って、ウォルバーを発展させるべく奔走した。
始めのうちは、まだ若い父を胡散臭そうに見る向きも強かったが、次第に父の本気が伝わっていったようだ。
懐疑的だった役人や村長達だが、父に協力することを約束してくれた。
父は、中央都市からの道路を整備し、商人を呼び込むことで、商業を活発にすることを企てた。
それに並行し、ウォルバー内での商業力を強化すべく、各地より商人を集めた。
これが現在の商人ギルドの礎となる。
父の日記に、それらの活動の履歴が、事細かに書き記されていた。
時に挫折を味わい、打ちひしがれながらも、決して諦めることはなかったようだ。
ドロテアは、良質な物語を貪るように、それに没頭してゆく。
ページを繰る手は止まらない。
道路の整備や商人の誘致、交易路の成立など、父の活躍によってウォルバーは賑わいを少しづつ増していった。
そんなある日、父は立ち寄った村長の家で、美しい娘を目にする。
彼女は村長の孫娘だった。透き通るような肌の持ち主で、頬はほの赤く染まっている。伏し目がちな瞳は光を湛え、どこか陰のあるその姿に、父は一目惚れしたようだ。
父はその後、何度となく村長の家に赴いた。
それは仕事の都合であったり、工事の打ち合わせだったりしたのだが、その都度、その美しい娘を見かけた。
父はある時、思い切ってその娘へ話しかけた。始め、娘は驚いていたようだが、父が無害で、地域のために尽力しているのだと分かると、一転して朗らかに話すようになった。
楽しそうに会話をする父と孫娘の姿を、村長と、その息子は目を細めて眺めていた。
―――時は過ぎ、その時手掛けていた道路工事が一段落着いた。
お祝いとして、村長宅で打ち上げの宴会が開かれることとなる。
地区の役人や、地域の実力者などが集い、宴会の場は盛り上がっていた。
しかし、どちらかというとその雰囲気が得意ではない父は、盛り上がる居間を背に、中座して庭に出る。
夜風に当たり、酒で火照った体を冷やしていると、冷たい水が差しだされる。
思わずそちらを見ると、村長の孫娘が、微笑んでそこに立っていた。
父も微笑み返すと、水を受け取る。孫娘は、父の隣に座る。
父と孫娘は、色々な話をした。中央の中級貴族としての生活。うだつの上がらない毎日。
それでも、ここ、ウォルバーに来てから、毎日が充実しているという事。交渉の席で起こった驚いた事や面白かった事。
孫娘は、その一つ一つに驚き、笑い、新鮮な反応を見せた。
どうやら、彼女は生まれつき病弱で、あまり外へ出たことも無かったらしい。
―――そう、病弱な娘は、時に際立った美しさを見せる。
透き通った肌、赤い頬、うるんだ瞳。それらは、病人の特徴とも符合する。
その話を聞いた父は、彼女に対する猛烈な庇護欲が湧いた。
彼女の手をそっと握る。
孫娘は驚いたような反応を見せたが、抵抗はしない。
彼女からも、そっと手を重ねられる。
見つめ合った二人は、居間から漏れる淡いランプの光を背に、キスをした―――。
それから二人は、時間を見つけて逢瀬を重ねた。
あまり家から出たことがないという彼女に、父は色んな光景を見せたいと思ったようだ。
美しい滝や、鮮やかな花畑。美味しいレストランなどに彼女を連れていった。
その都度、彼女は照れたような笑みを父に向けたという。
そして父は、ある決意をする。
レストランで食事をし、村長の家まで送り届ける道中。
周囲は薄暗くなりかけていた。しかしそれでも、周囲には家々のランプから漏れ出た光が、点々と光っていた。
なんだか幻想的できれい。
彼女はそう呟いた。
それを聞いた瞬間、父はこう口走っていた。
―――君の方が綺麗だ。
陳腐な台詞だ。遙か過去から使い古された。手垢のついた表現。
だからこそ、彼女の心に素直に届いた。
嬉しい。そう一言放つと、父の胸にそっと収まる。
ゆっくりと暮れなずむ町の片隅で、いつまでも二人は抱き合っていた。
―――翌朝。いつものように村長の家に向かう。
しかし、気分はいつもとは違っている。
普段より念入りに髪を整え、服も一張羅を準備した。
口の中が乾く。唾を飲み込み、無理矢理進む。
村長宅の前では、彼女が待っていた。
父の到着を喜ぶと、そっと腕を抱く。
そう、今から彼女の両親と、村長。彼らに、結婚の許可を受けに行くのだ。
これまでの人生で、こんなに緊張したことはない。
ウォルバー統治の拝命を受けた時でさえ、ここまで緊張はしなかった。
だが、これを越えなければ、幸せを手にすることは出来ない。
小さく気合を入れ直すと、改めて村長宅の扉をノックした。