57話 冬馬の力
直輝の放った術により霊気が暴走してしまった。その異常を正常に戻すべく、冬馬は意を決して社殿の方へと向かった。
冬馬は氏郷と共に、守護之御魂神社の社殿に向けて石畳の上を歩いていた。舞美子の『闇夜結界』が消えた今、時折冷たい風が吹き抜けていく。山中ではさすがに夜も更けて来ると、身震いするほど冷え込んできた。だが、そんなことをボヤいている余裕など、今の冬馬には全くなかった。
社殿からは依然として、戦国武将の魂の気配は途絶えることがなかった。魂はそれぞれ様々な方角へと飛んで行っている。目には見えないので不確かな部分はあるが、確実に言えるのは嫌な予感しかしないことだ。泰典の言ったことが正しければ、これは日本全国へ散らばっているということになるからである。
そして、確実にわかっていることがもう一つあった。それは一刻も早く霊気を正常に戻し、新しく結界を張らなければいけないということだった。
「早くあれを止めないと!」
「焦るな冬馬!」
「うっ……そうだね、ごめん」
冬馬は気持ちばかりが先走ってしまう自分を諫めた。こういう時こそ、冷静沈着に対応しなければならない。頭ではわかっているが、それがなかなかに難しい。そもそも、具体的に何をどうすれば良いのか考える必要がある。冬馬が『相承の儀』によって得られたものはあるが、その力も決して万能ではない。意識して使えるものなんて、ほとんど無いのだから。
「それにしても、とんでもない事になったな」
「え? 氏郷さんでもこんな経験無いの?」
「無いことは無いけど、ここまで大規模な破壊は初めてかもな」
「直輝はとんでもない事をしたんだ……」
守護霊として変わりゆく時代を見て来たであろう氏郷でさえ、これ程の事態は初めてだと言う。
悪霊や魔霊から人々を守る守護師が引き起こした出来事。過去にこういった事例があったのか、冬馬には未知の部分でもある。
「まあ、似たようなことはあったかもしれないし、俺たちの記憶は曖昧な部分も多いから気にすんな。今は人間じゃないからさ」
「人間じゃない……」
そう、氏郷は一度は死んだ身なのだ。こうして話をしていると、それを忘れてしまう。死を迎えて守護霊として蘇るということは、性格だけでなく記憶にも影響を与えるということなのだろうか。そして、それは直輝にも当てはまるものなのだろうか。
ただ、そんなことを考えていると、意外と冷静になっている自分に気付く。
「でもな、守護師たちならわかっているはずさ。あいつらは術もそうだけど、想いもずっと継承してきている。そんな奴らがお前に出来るって言うんだから、絶対に出来るってことさ」
そう言って氏郷は優しく微笑んだ。
まだ霊気の知識が薄い冬馬には、少々荷が重いかもしれない。それでも氏郷の言う通り、歴戦の守護師が冬馬に託したとなれば前を向くしかない。
「そうだよね。今はやるしかないもんね」
「そういうことさ。お前の親父はな、どんなに苦しい時でも常に前を向いていた。お前にもその血が流れているはずだ。ま、そういうことさ」
「うん」
不安で気を落としそうになった冬馬を、氏郷はまた背中を押してくれた。それが本当に嬉しかった。それに、後ろにいる百戦錬磨の守護師たちもいれば、今は隣に氏郷もいる。今は一人じゃない。今は皆の想いも背負っている大事な場面なのだ。中途半端な気持ちでは成し得ることは出来ない、これは自分にしか出来ないことなんだと、冬馬は強く自分に言い聞かせた。
「よし!」
気合いを入れ直した冬馬に、氏郷はまた優しく微笑んだ。
「冬馬、念のため身体強化の術を掛けておいた方が良いかもな。何があるかわからないし」
「え? あ、うん」
冬馬は目を瞑り、頭の中で身体強化をイメージする。すると、どうすれば良いのか何となく理解出来た。
《我が魂に集いし者たちよ 我が身体を強化せよ》
冬馬の体がほんのりと黒い光沢に包まれていく。
恐らくは普段より集まってくる霊気は少ないはずだ。経験豊富な守護師たちにとっていつもの感覚より思うように霊気が集まらないので、今のこの状況はやりづらいに違いない。それでも冬馬には関係なかった。なぜなら、これほどまでに霊気を扱った経験が無かったからだ。今日まで守護師指輪を付けたことがなかった冬馬にとって、これが功を奏していると言えるのかもしれない。
そして、身体強化の術をやってみてわかったことがあった。それは無意識の中にある知識を引き出すためには、イメージをすれば良いということだ。わかり易く言えば、何か切っ掛けを与えてやれば、点から線となって繋がっていくような感覚だろうか。ひょっとすると、他にももっと役に立つような術がすでに備わっているのかもしれない。
それから冬馬は一度深呼吸をしてから、改めて頭の中を整理した。
「何をやればいいのかな? 光太さんの時は無我夢中であんまり覚えてないし」
舞美子は光太を自我喪失から救った時のことを例に挙げていた。これも大きなヒントに違いないのだが、悠長に考えている時間もない。冬馬はとりあえず社殿の方へ行ってみようと考えた。何か切っ掛けを与えるものがわかるかもしれないと思ったからだ。
その時、氏郷が意外なヒントを与えてくれた。
「たぶんだけどな、あの『北の守護』が関係している」
そう言って氏郷が指差した方角には、対になって向かい合っている狛犬のような像があった。
「北の守護って、ひょっとして僕が注連縄を切ったところかな?」
それは光太と対戦した時のことだ。光太が放った爆発するような術で吹っ飛ばされ、勢いの余りにぶつかって注連縄を切ってしまった。冬馬はそこに銅像らしきものがあったことを思い出した。
「確か、あそこで二之丸家の当主がよく何かをやっていたような……。あそこを使えば何とかなるかもしれないな」
「思うって……でも、あれってそんな大事なものだったんだ。そっか……」
言われてみれば思い出したことがある。見えない壁のような何かに激しくぶつかった感覚だったが、体には大きな怪我はなかった。ひょっとするとあの時、何かに守られていたのかもしれない。そう考えると、あながち間違いではないのかもしれない。
「ガモチュウさんの言う通り、あそこかもしれない」
そう思うと、冬馬は引き寄せられるような感覚になった。
父から受け継いだ力と想い。恐らくはその影響だろう。吹き飛ばされてぶつかった時は、ここまで強いものは感じなかった。これが無意識の中の記憶に対する切っ掛けになったのかもしれない。
冬馬は逸る気持ちを抑えられなくなり、小走りになって速度を上げた。そして、間もなく黒鳥居に近づこうとした時だった。
――――――――‼
隣にいた氏郷が止まれと言わんばかりに左手を横に広げた。氏郷からはヒシヒシと緊張感が伝わって来る。危険な何かを感じたに違いない。それは冬馬も感じていたからよくわかる。どこからともなく強大な気配が伝わって来るのだ。だが、姿は見えない。それでも間違いなくこちらに近づいていることは、冬馬でも容易に感じることが出来た。
「冬馬っ! 動くなっ!」
「は、はいっ!」
一気に高まる緊張。冬馬は途轍もなく嫌な予感がした。
「あれは…………まさかっ‼」
後方にいた守護師からも声が上がる。声の主は舞美子だった。後に続く「こっちに現れるなんて――――」という言葉までは聞こえてきたが、その後は轟音が鳴り響いたせいで聞き取れなかった。
「何か来る……‼」
轟音の正体は霊気が共鳴するような耳鳴りだった。恐らくこれは実際の音だけではなく、霊気による感覚で脳内に聞こえる音も混じっているのだろう。やがて「ドスンッ」と胸の奥に響くような衝撃が走る。今度は風を切り裂く音と共に、黒い渦を巻きながらようやくその姿を見せた。宙に舞うその正体は黒い人影だった。
「また魔霊が……!」
冬馬は直感的に魔霊が出て来たのだとわかった。だが、どこか様子がおかしい。豊臣秀吉や石田三成が現れた時とは何かが違うのだ。その容姿からして違う。その姿は人の形をしているのだが、秀吉や三成のような人間の姿には見えない。それは悪霊と見間違える程、不確かな幻影のような存在が目の前に現れたのである。灰色だが限りなく黒に近い赤みを帯びたグレーで、まさに悪霊そのものだ。
だが、悪霊とは明確な違いがあった。それは今まで感じたことが無いほど、強力な霊気が黒い人影に密集していたことだ。そこから強大な禍々しい負の感情が溢れ出ていたのである。
グオォォォォォォ……
黒い人影の発した呻き声は耳から聞こえるのではなく、頭の中で鳴り響いている感覚だ。霊気を介して体中に伝わって来たのである。その重厚な声色に加え、黒い人影の圧倒的な霊力に冬馬の体は次第に硬直していく。まるで体が本能的に「ヤバい」と叫んでいるみたいで、言うことを聞かなくなってしまっている。そう、まさに『蛇に睨まれた蛙』とはこういうことを言うのだろう。隣に氏郷が居なければ、恐らくパニック状態に陥っていたに違いない。冬馬は辛うじて思考回路がまだ働いている状態だった。それでも、完全に身動きが取れなくなってしまった。
(威圧感が半端ない……!)
守護霊の信長や家康を初めて見た時も圧倒的な存在感を感じたのだが、それ以上のものを感じる。その要因は恐らく、相手から強い敵意が伝わって来るからだろう。
そして、少しの違和感を覚えた。それは初めて見る相手に違いないのだが、どこかで会ったことがあるような気もしたのである。それが冬馬の記憶の奥底にあるものなのか、それとも受け継いだ想いの中にあるものなのかはわからない。だが、どこか運命的な縁を感じるという不思議な感覚に陥っていた。
黒い影はゆっくりと地面に降りて冬馬と氏郷に対峙した。その背丈は二メートルを遥かに超えている。顔を見るには見上げるほどで、人と呼ぶより怪物と言ってもいいような人外なる存在だ。
その人外なる黒い人影は冬馬を見るや否や、ぐわっと前屈みになった。
スイ……キ……
何を言っているのか、冬馬は瞬時に理解出来なかった。だが、言葉を発するということはコンタクトが出来るということだ。
「あ、あなたは……?」
声が少し震えた。冬馬は恐怖心を堪えて、何とか振り絞って言葉を出した。
オオオォ…………オマエ…………ニノ……マル!
(やっぱり会ったことがある……!?)
だが、必死に思い出そうとしても冬馬の記憶からは答えは出て来ない。そもそもこんな強烈な存在に会えば、必ず覚えているはずだ。裏山で戦った悪霊の中にいただろうか。いや、こんな相手がいれば忘れる訳が無い。それにもしどこかで会っていたとしたら、今この場に冬馬は存在していないだろう。間違いなく、この黒い人影の餌食になっていたに違いないからだ。
そうなると、答えは必然的に無意識の中にある記憶ということになる。父から受け継いだ『想い』の中にあるということだ。
――――その時、急に冬馬の頭の中で何かの映像がフラッシュバックした。
この黒い人影が冬馬の頭の中の映像に映し出されたのだ。そこには今と同じように対峙している人間がいた。檳榔子染の羽織を纏い、威風堂々とした立ち振る舞いだ。これは恐らく守護師だろう。残念ながら後ろ姿なので顔は見えないが、何者なのか手掛かりになるものが一つあった。その背中には、『ニ』という字を『〇』で囲った紋が印字されている。この人物は一体誰なのだろうか。冬馬は現実から離れ、夢の中にいる感覚に陥っていた。
ふと、名前を呼ばれた気がした。この守護師は自分のことを知っているのだろうか。優しい声色で、ずっと昔に聞いたことがあるような、どこか懐かしい気持ちになった。
――――冬馬っ!
「はっ……」
「冬馬! こいつはまだ記憶が混乱しているただの化け物だ! 今は逃げるんだ!」
「えっ? 逃げる……?」
気が付けば冬馬の前に氏郷が立っていた。氏郷だけでない。信長も並んで立っていた。それぞれに黒と赤の霊気を纏っているが、見るからに当初より色が薄い。これも今の霊気の状況を物語っているのだろう。
まさに冬馬が夢から覚めた瞬間の出来事だった。
――――――――ヌオォォォォォォッ‼
黒い人影から禍々しい霊気が発散された。灰色だが限りなく黒に近い、赤みを帯びた霊気だ。それも物凄い爆発力で、一瞬のうちに冬馬たちを飲み込んでいった。
「ぐわっ‼」
当然、一番近くにいた守護霊たちは瞬く間に吹き飛ばされた。霊気を媒体にしている守護霊にとって、その影響は強過ぎたのだ。しかも、ただでさえ霊力が弱まっているところへ、この強烈な霊気放射を浴びたのでは一溜まりも無い。次第に冬馬も飲み込まれていき、全身に狂気の霊気が纏わりついて来る。
この霊気の感情は怨念そのものだった。憎しみや恨み、そこから生まれる悲しみや絶望に対する虚無まで、色んな想いが入り交じっていた。それが攻撃的になっていて、まさに狂気の感情と言っていいだろう。
(このままじゃヤバい!)
至る箇所で悲鳴を上げる体。そして蝕まれていく意識の中、それでも冬馬は必死に耐えながら考えた。
(そうか……そういうことか!)
冬馬は答えを導き出した。
水気は『生』の根源であり、癒しの力――――これは舞美子が語った言葉だ。続けて舞美子はこうも言っていた。
『異常』を『正常』に戻す力も備わっている――――と。
これは直輝の放った術に対処する為の言葉だ。ただ、もしこれが本当ならば、この黒い人影の狂ったような負の霊気にも効果があるのではと冬馬は考えた。霊気は怨念が生んだものならば、それは人の想いが生んだものなのだ。その想いを癒してあげれば何とかなるのではないか、という答えに行きついた。結局のところ、狂気の霊気も暴走した霊気も、水気によって正常に戻すことが出来るということだ。
これが今の冬馬に出来る、精一杯の思考だった。
(やるしかない!)
どうすれば良いのかは、無意識の中にある知識が教えてくれるはずだ。そして、これが直輝の術にも対抗し得ることになると、今は信じるしかない。
冬馬は頭の中に思い描いた。自分の想いをぶつけるように、そっと呟いた。
「ぼくは君たちを救いたいだけなんだ。だからみんなの力を貸してよ」
すると、冬馬に集まる黒光りする霊気が見る見るうちに濃くなっていった。先程までの霊気不足が嘘のように、次から次へと水気の霊気が冬馬に集まって来る。
(何も考えることはない。今はぼくの想いを強く願うだけ!)
右手の小指に嵌めている守護師指輪に意識を集中する。そして、冬馬は目を瞑り、両の手を合わせた。
《我が魂に集いし水気の者たちよ 我が想いに応えよ!》
冬馬の言霊は劇的な効果を生んだ。赤黒い霊気に包まれた冬馬の体は一瞬のうちに消えていく。だが、それでもまだ足りなかった。黒い人影はまだ狂気の霊気を放ち続けている。その霊気を冬馬が少しずつ相殺しているだけだった。
「みんな、もっと力を貸して!」
冬馬はさらに水気の霊気を集めた。冬馬の体はこれまでにない程に漆黒の霊気で満たされていった。
「うおおおおおおおおおおおおっ‼」
冬馬は体に集まる全ての霊気を放った。体が痛い。気持ちが悪い。心が折れそうになる。それでも、冬馬は気力を振り絞り、霊気に自分の想いを全て乗せる。
「もっと! …………もっと集まれ‼」
それから冬馬を中心に漆黒の霊気が狂気の赤黒い霊気を押し戻し、程なくして黒い人影が放った霊気は止まったのである。
「や、やった……‼」
冬馬は歓喜の表情を浮かべた。黒い人影は呆然と立ち尽くしているように見える。先程までのような禍々しい負の感情が感じられなくなった。冬馬は確信した。この黒い人影の狂気は抑えられたということを。そして、これが自分の戦い方に活かせる方法なのだと、薄っすらではあるが見えたような気がした。
「これだ……! 僕の力を活かせるのはこれだ‼」
だが、ありったけの水気の霊気を使った術の代償は、想像以上に大きかった。
「あ、あれ……?」
冬馬は目の前が白くなっていくことが不思議な感覚だった。体に力が入らない。息苦しい。意識を保とうとするが、ボーっとして思考が覚束ない。
「あっ……またやっちゃったかな……」
霊気の使用過多によるガス欠状態。この時の冬馬はそう思った。
冬馬は膝から崩れるように地面へと前のめりに倒れた。起き上がろうとしても無理だった。胸から顔のあたりを強く石畳に打ちつけたはずなのに、痛みが全く感じられない。すでに冬馬の体は冬馬のコントロール下にはなかったのである。この時、初めて冬馬は気が付いた。右指輪で霊気を使い切ってしまったのだと。
頭の中で月也が言った『一歩間違えれば死に至る事もありますから』というセリフが頭の中で響く。
(ああ……そうか……そういうことだったんだ……)
今頃になってその意味が完全に理解出来た。あの時は指輪を外して左手の方へ付け替えたら大丈夫だった。だが、今は体が全く動かないのである。冬馬は自分の力を過信した訳ではない。ただ、経験の浅さが露呈しただけだった。集まる霊気の多さに油断したのかもしれない。結局のところ、自分の霊力を把握出来ていなかったということである。
(やっぱりぼくはまだまだ未熟なのかな……)
薄れゆく意識の中、冬馬は父を想った。
(父さんだったらもっと……ああ……ぼくはこのまま死んじゃうのかな……)
意気揚々と家を出た冬馬の背中を押してくれた母が、今のこの状況を見れば何と思うだろうか。それを思うと無性にやるせない気持ちになった。体は動かないどころか、この時にはすでに感覚さえなくなっていた。だだ、目からあふれる熱いものだけは感じることが出来た。
(ごめんなさい、母さん…………ごめんなさい、父……さん…………)
それから間もなくして、冬馬は完全に意識を失ってしまった。




