05話 悲しみを乗り越えて
いよいよ本編が始まります。
陽が沈み、東の空に月が輝き出した暗がりの山の中を冬馬は歩いていた。その歩く様は急ぐ訳でもなく、街灯の無い山道を明かりも点けずに進んでいく。それでも勝手知ったる道なので、暗くても迷うことはない。
その身なりは軽装で荷物は持っていない。山登りという恰好ではなく、散歩といった体である。ブルージーンズに濃いグレーのパーカーを着ているカジュアルな服装は、まだ春になったばかりの肌寒い夜風を凌ぐには十分であった。
冬馬の体躯は大柄でもなく小柄でもない。端正な顔つきではないが、バランスはまずまず良い方だろうか。短めの黒髪でセンター分けの至って普通の髪型。特に目立つところが無いのが特徴だろうか。言わばどこにでも見かけるような青年である。
冬馬は辺りをキョロキョロと見回しながら坂道をさらに上っていく。山道は鬱蒼とした木々に囲まれていて、所々で道を照らしている月明りを遮っていた。それでも暗い夜道を気にすることもなく、冬馬は何かを探すように落ち着いた様子で歩いている。
ふと冬馬の足が止まり、前を見据えたまま立ち止まった。睨みつけるような目で見つめる先に突如として現れたのは、微光している黒い人影だった。
「やっぱり今日も出てきたね」
冬馬はまるでおもちゃを見つけた子供のように、少し口角を上げて嬉しそうに笑みを浮かべた。
冬馬が見つめている人影を初めて見た者は、恐らく驚き慌てふためくだろう。人のようで人ではないその姿は、歪で不気味な雰囲気を醸し出している。全体が薄く黄色を帯びて微光しているそれは、悪霊と呼ばれる怪奇な存在である。
そんな悪霊を見ても冬馬は慌てていない。なぜなら、これが初めて見るという訳ではなかったからである。
冬馬が悪霊を初めて見たのは、今から一年ほど前のことだった。
当時、家にいた白猫の『フク』が、ある日を境に忽然と姿を消した。
いつも昼は日向ぼっこ、夜は散歩で居なくなることはあったのだが、朝と夜のご飯時には必ず家に帰って来ていた。初めはそのうち帰って来るだろうと思い、しばらく様子を見ていた。それでも一向に帰って来ないので、冬馬は待ちきれずに近所を捜索することにした。
とりあえず家の周辺を歩いて捜してみるが、どこにいるのかなんて皆目見当もつかない。田舎町なので周りに住宅は少なく、何人か近所の人に聞いてみたのだがわからなかった。
日暮れまで捜してみたが見つからず、冬馬は諦めて帰宅しようとした。だが、ふと何気なく家の裏手の方にある山へと足を運ぶことにした。既に辺りは暗くなっていたので、山へ入るのは少々危険であった。それでも冬馬は何かに引き寄せられるかのように山へと向かった。
そして山の入り口付近まで来た時だった。
冬馬は何かを感じた。
言葉では説明しにくいのだが、恐怖感と言えばいいだろうか。近づいてはいけない危険を察知するような感覚に陥った。
そこに行きたくないと思いつつも行かなくてはいけないという、何故だかわからないが自分でも理解し難い矛盾する感情が芽生えていた。それでも冬馬は勇気を振り絞り、恐る恐る山へと入って行った。
そこは昼間とはまた違った山の顔だった。
薄暗くて不気味で幽霊やお化けといった怪奇など信じていなかった冬馬だが、さすがにこの状況は足が竦むような感覚になった。
しばらく歩いていると、誰かが叫んでいるような声が微かに聞こえてきた。冬馬はドキドキしながらもゆっくりと慎重に進んでいく。すると、声の主であろう動物が毛を逆立てて何かに向かって「フーッ」と唸っていた。よく見れば首には青い紐で鈴の着いた首輪をしている白い猫だった。この猫には見覚えがあった。冬馬の家にいた白猫のフクだからである。
「あっ、フクだ! こんなところにいたのか。良かったあ。 ……でも、何してるんだろう?」
冬馬は不思議に思い、もう少し近づいてみる。やはり冬馬のよく知るフクで間違いなかった。だが様子がおかしいことはすぐにわかった。他に野良猫がいるのか、それとも野犬でもいるのか、何かを威嚇しているようだ。フクの視線の先を目で追うと、そこにいたのは人の姿をした悍ましい化け物だった。その姿はまるで幻影のように不確かで、全体が薄い黄色を帯びて微光している黒い人影だった。
「えっ! 何、あれ!?」
その声に反応したフクは冬馬の方へ振り返った。その瞬間、黒い人影が動き出してフクに迫る。その動きは尋常ではなく、目で追えない速さであった。
そしてまさに、一瞬の出来事だった。「ダンッ!」という鈍い音の後に冬馬の目に映ったものは、目の前を小さな白い体が回転しながら吹っ飛んでいく姿であった。
「ああっ!? フクッ!」
冬馬は胸が押しつぶされそうになりながら、小さな白い体が横たわっている所まで必死に走った。そこに辿り着くまでほんの数秒ほどだったが、色んな感情が次々と湧き上がる。辿り着いた時には目が赤くなっていて、目の前のフクの姿はぐったりとしてピクリとも動かなかった。
「どうして……、どうして!」
頭が真っ白になった冬馬は、動かなくなった白い体を抱きかかえた。その体はまだ温かい。どこか怪我をしているようには見えない。目を瞑っていて、まるで眠っているようにも見える。だが現実は首を垂れて手足もぶらりとして、体の力が完全に抜けているフクの姿だった。
フクは元々迷い猫だった。
雨の降る日に、白い猫が家の前でじっとして座っていた。木陰で雨には濡れていなかったので、始めは気にも留めていなかった。だが明くる日も同じ場所で座っていた。冬馬が見かねて餌をやると、すぐには手を付けなかったが翌日には餌が無くなっていた。それからしばらく餌をやっていると、いつの間にか住み着くようになった。
フクはずっと暗く沈んでいた冬馬の心を癒してくれた、大切な友達のような猫だった。友達がいなかった冬馬にとって、フクは大切な存在だったのだ。一緒に暮らしている母が、「家に福が来るように」という安直な理由で名付けた『フク』という名の白猫。だが名前の通り、どこか暗く沈んでいた家の空気を明るくしてくれた家族でもあったのだ。
虚無感に包まれている冬馬に、黒い人影が引き寄せられるように近づいて来る。どうやら黒い人影は他にもいるようで、次から次へと何体も現れた。フクの小さな体をそっと道の脇に寝かせて、冬馬は黒い人影を睨みつけた。
「お前ら、何なんだよ……。くそっ……、くそっ! くそおおおおおおおおっ‼」
冬馬が激しく心を乱して慟哭すると、冬馬の体が薄っすらとぼんやり光り始めた。だが冬馬にとってそんなことはどうでも良かった。今は憎かった。ただ、この黒い人影が憎かったのだ。
無我夢中で必死に次から次へと向かってくる黒い人影へ素手でぶつかっていく。速いと感じた黒い影の動きがはっきりと見える。何をどうしたのか全く覚えていない。自然と力がどんどんと湧いて来る感覚で、冬馬はその不思議な感覚に身を任せた。気付けば山の奥深くまで入り込んでいたのだが、辺りにはもう黒い人影の姿はなかった。
そこでようやく我に返った冬馬は、フクが倒れている場所まで急いで戻った。辺りはすでに真っ暗になっていて道がよく見えない。それでも何も考えることは出来ず、必死で山道を駆け下りていく。そしてようやく辿り着いたその場所には、フクの姿はなかった。
「あ、あれ!? フクは? フクはどこ行ったんだ!」
再びパニック状態に陥り、周囲を懸命に捜すがどこにも見当たらない。黒い人影にやられたのか、誰かが連れて行ったのか。それとも、ひょっとして……。
結局それからもフクは見つからなかった。家に帰っているかもしれないという一縷の望みを抱いて冬馬が家に帰ったのは明け方であった。心配していた母にたっぷりと説教を食らったのは言うまでもないが、残念ながら家にもフクの姿はなかった。
そんなことがあって以来、夜になるとこうして山へ入ってはフクを探していた。冬馬はフクのことをあれから色々と考えた。ひょっとして倒れた後に目を覚まし、死が近いことを自ら悟ったのかもしれないとも思った。猫は死期を悟ると飼い主の元から姿を消すことがあるというが、本当のところは体が弱っているので外敵から身を隠すという防衛本能が働くようだ。フクは誰の目にも付かない場所でひっそりと息を引き取ったのかもしれない。そう考えると腑に落ちなくも無いが、それは冬馬には受け入れられなかった。
(どこかできっと、フクは生きている)
根拠のない願望であり希望であることはわかっている。だが、不思議とそう思ってしまうのである。そう思うことで前向きにもなれたし、暗く沈んでばかりではいけないことを冬馬はよく知っていたのである。
それに、この暗い気持ちを払拭させることが出来る丁度いいものがあった。それはフクの捜索と同時に何度も遭遇した悪霊だった。こいつらを倒せば何かわかるかもしれない。ひょっとしてこの悍ましい黒い人影を追いかけていたら、何処からともなくフクがひょっこり出てくるかもしれない。そう思いながら冬馬は得体の知れない悪霊とこの一年間、死に物狂いで戦ってきた。
そして今日はそれが出来る最後の日でもあった。
「今日こそフクの居場所を教えてくれよ!」
冬馬の体がほんのりと薄暗く輝き始める。自分でもどうしてこんな体になるのかわからない。わかっていること、それはフクが倒れて居なくなったあの日以来、夜にここへ来ると不思議な感覚になることだった。奥底から力が湧き上がるような、自分が自分で無くなるような浮ついた感覚。空に月が出ていると尚のこと、その力が強くなった。自分の動き全てが人外の力となり、想像を絶する速さになる。それはまるで夢の中で動き回っているような、現実離れした不思議な感覚だった。
「やっぱり聞いても無駄か。結局、最後までわからなかったな」
そう言った冬馬の目は、体の光とはまた違った寂しい輝きを帯びていた。ゆっくりと瞼を閉じる。そして次に開いたその目は、強い意志を秘めた鋭い眼差しに変わっていた。
おもむろに両手を胸の前まで上げて拳を形作る。ほんのり微光した体を前のめりにすると、その勢いで悪霊に突っ込んでいく。それは走るというより跳んでいるようにしか見えない飛び込みで、悪霊の体のド真ん中へまっすぐ伸ばした右の拳を叩きこむ。すると悪霊は霧散するように消えていく。
「次だ!」
そして一体、また一体と冬馬は次々に悪霊へ突っ込んでいく。ただひたすらに胸の真ん中へ拳を叩きこむことを繰り返す。彼の経験則から、これがこの悪霊を倒す一番効果的な方法だったからである。軽快に動き回る様は、まるでCG動画を見ているような不可思議な光景である。
この日も手あたり次第に湧いて出てくる悪霊を殲滅した冬馬は、脱力感に襲われたかのように呆然と立ち尽くした。
「ひょっとしてフクにはもう会えない……のかな」
再び目頭が熱くなってきた心に嫌な感情が湧き出てくる。冬馬は握り拳にした手を下へと突っ張り、俯いてその感情を必死で堪えた。
しばらくしてからようやく落ち着き、一つ大きく深呼吸をした。
負の感情を持っていたら自分が自分で無くなる。自分を見失ってしまうのだ。ここに来るといつもそんな気持ちになるので、冬馬は何でも前向きに考えるようにしていた。そうすることで自分が自分であることを保っていられる。そしてそれが普段の生活でも良い方に発揮されていたからである。
それからも山中を歩いてフクを捜し続けたが、結局最後まで見つからなかった。
「そろそろ家に帰らなきゃ……」
そう思うと後ろ髪を引かれる思いだったが、無情にも冬馬には時間が残っていなかった。ふと空を見上げると、奇麗な月が微笑んでいるかのように見守っている。そう思えるほど感傷的になっている自分に気付くと、冬馬はどことなく気持ちの整理がついたのだった。
「じゃあフク、元気でな。行ってくるよ」
最後に顔を上げて無理やり微笑んだ冬馬は、振り返ることなく走って山を駆け下りていった。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます!
ようやく、主人公の登場です。基本的にここからは主人公中心に話が展開されていきます(たぶん)ので、お楽しみにしてください。
次話は二日後の投稿になります。冬馬のこれまで生きてきた背景を中心に描いていますので、この後もどうぞよろしくお願いします!