酔狂綺譚
賢者様は慈悲を持っていました
烏が鳴き、蝙蝠が飛ぶ。
塵芥が舞い、街灯が揺れる。
灰色の世界に純白の鼠が走ったのを少年は見た。場所を間違えたのではないかと言う程に悍ましい、白。
ボロボロのマントを羽織った少年は、何も考えずにそれを追いかけた。焦点の合わない目を凝らして。
時折転けながら、壁伝いに歩く。時折鼠は視界からふらりと消え去るが、次の瞬間には少年の視界についっと戻ってくる。──まるで少年を案内する様に。
月暈を伴い、月が夜空に存在を知らしめた頃、鼠はふと行き止まりで止まった。一体どのくらい歩いたのだろうか。元々体力すら残っていなかった少年は、行き止まりと知った瞬間に崩れ落ちた。絶望に苛まれながら。
白い鼠はそんな少年の元へ駆け寄り、細く長い尻尾でちょいちょいとつついた。何度も何度も、時折くすぐるように。そして唐突に、ちゅうっと高い声で一声鳴いた。少年の頭へ駆け登り、もう一度また鳴いた。
ふわりと、闇から溶けだす様に1人の少女が現れた。紺のキャミソールワンピースのみを無防備に着て、白い肢体を晒している。その細い肩紐の片方は肩からずり落ちており、腕に辛うじて引っかかっている状態だった。
肩程までの黒髪をゆらりと揺らし、少女は白い鼠を見た。その次に、鼠が踏んずけている少年を。
「おい鼠、それはなんだ。まさか供物だとは言うまいな」
ヒール音を響かせ、少女は死体の元へ歩み寄った。
「私は貴様等とは違って屍肉は食べん」
ちゅいっちゅいっと鼠は少女に何か訴えかける。少女は怪訝そうな顔をし、少年をのぞき込んだ。まだ幼く、汚れてはいるものの顔立ちは整っている。白く細長い指を伸ばし、その頬に触れ、つつく。
三拍。
「やっぱり死んでおろう? 動かぬわ。まぁ、主が直々に連れて来た供物だ。墓くらいは掘ってやる」
掌をひらりとしながら、踵を返した少女に鼠はもう一度鳴き声を上げた。痺れを切らした様な鳴き声に少々呆れながら、少女は振り向いた。薄手のキャミソールがふわりと空気を孕む。
鼠は頭を駆け下り、少年の手に移動した。そして少女が何かまた言う前にと、急いでそれに噛み付いた。赤い血が少し舞った。
「おい待て──んん?」
痛かったのだろう。少年は流石にピクリと動いた。そして大きく塵芥と共に酸素を吸い込むとまた、混沌に落ちた。
白い鼠は真っ赤な瞳を持ってして少女──賢者様を見上げるともう一度鳴いた。
「生きているのか、そやつ。して、お前はどうしろと言うのだ? このまま死なせるのが自然に逆らわない、有意義で、賢い選択だと思わぬのか?」
鼠を片手ですくい上げ、賢者様はそう問うた。弱い者は淘汰されるのみ。輪廻の輪に戻り、また新たな人生を綴る。賢者様と少年と鼠の上を蝙蝠がひらひら舞った。
「死生有命とも言いおろ?」
少々小馬鹿にしたように、賢者様はそう言い切った。掌の鼠はしゅんと項垂れ、耳を横にした。月暈は何時の間にか消え去り、月すら雲に隠されていた。
暫く睨み合いが続いた。
人を見下すことしか出来ない賢者様と、少年を助けて欲しい白鼠の睨み合い。
深い深い溜息を吐いた賢者様は肩紐を直すと、屈みこみ、その細腕で少年を容赦なく引きずり始めた。鼠は肩に移動して、感謝の意を伝えるべく賢者様の首筋にスリスリしている。
「毛がつく。止めんか」
賢者様は鼠の首根っこをひっ掴み、ぼとりと地面に落とした。コンクリートの地面には、ガラスの破片やら何やらが散乱している。抗議の声を上げた鼠を爪先で蹴り飛ばす。
「こ奴を連れてきたのは主だろうが。とっとと扉を開けい! じゃなくばこ奴は死ぬぞ!」
ピシャリとした賢者様の言葉に、白鼠は急いでガラスを駆けた。そして埃を被っている石や何かの遺骸の間に、するりと身を滑らせた。
直ぐに鼠は何かの鍵を咥え、賢者様の前に姿を現す。賢者様がイラついているのを察してか、鼠は躊躇うことなく器用に錠を開けた。鈍い金に輝くそれを元の場所に戻し、鼠はちゅうっと鳴いた。
少年を引きずったまま、賢者様は反対の腕で何も無い箇所をぐっと押した。煉瓦の壁に亀裂が入り、道が出来る。鼠は先導する様に隙間を入ると、クッション代わりになる物を探しに部屋の奥へ消えた。
賢者様の住処は本が沢山、乱雑に放置されている。どれもこれも図鑑と呼ばれる分厚い本。世を謳った馬鹿らしい論文や小説、その類は一切置かれていない。ここにあるのはどれもこれも賢者様自ら選んだ本。
賢者様の暇潰しの糧や枕となる本しか置かれていない。
ややあって、賢者様は鼠が用意しておいたクッションの上に少年を落とす。そして疲れた、とでも言うように腕を伸ばして大きく背伸びをした。──また肩紐がずれ落ちた。
吹き抜けの先にあるステンドグラスの窓からは、月光が刺している。柔らかな色に染まった光は花瓶に生けられた花を照らす。
鼠は卓上ランプを付けると今度は包帯を咥え、戻ってきた。賢者様はそれをただ無言で見ている。紅くて大きな宝石がつきたネックレスが、キラリと胸元で揺れていた。鼠の赤くて丸い目が賢者様を訴える。
賢者様はただ溜息をつくと鼠から包帯を受け取り、手元にあった度数高めの酒を注いだ。繊細な模様が描かれているガラスのコップは、直ぐに琥珀色に染まった。それを1口クイッと飲むと賢者様は、唇を舐めた。
胡座をかき、ボロボロのマント剥ぐ。ぶわっと埃が舞い踊った。鼠は驚いた様に鳴くと、本の片隅に隠れた。賢者様はそんな鼠を無視して、マントを適当に投げ置く。
シャツも剥ぎ取ると露わになる少年の肌。打撲痕、擦過傷、切り傷、鞭打ち痕、縛られた痕、火傷、はたまたこれは根性焼きの痕か。流石に顔を顰めながら、賢者様は少年の腕を見た。──無傷。
「おい鼠。厄介なものを連れてきおったな。こやつはどう見ても脱走した何かだろうが」
酷く通る声で賢者様がそう言えば、鼠はコロコロともう1つの酒瓶を器用に転がしてやってきた。手当を始めた賢者様にそれを差し出すと、鼠は上目遣いをした。そんな鼠を賢者様は横目で見やるだけ。
「ふんっそんな事せずとも助けてやるわ。助けた後は捨てるがな」
ちゅうっと鼠が抗議の声を上げると、賢者様は今度は睨んだ。鼠は竦み上がり、酒瓶に身を隠す。
「馬鹿者めが。せっかく俗世を離れ、満ち満ちた生活をしている私の前にこんな者を連れて来よって。住処に招き、手当しているだけでも感謝せんか」
賢者様は容赦なく傷だらけの少年に酒を振りかけた。傷に染みるのだろう。少年は小さく呻き声を上げた。そしてクッションをぎゅっと握りしめて、起き上がろうと藻掻く。
賢者様は立ち上がり、少年のその手をヒールで踏んずけた。片方の肩に寄せていた黒髪がバサりと自由を得る。賢者様は少々の怒りを滲ませながら、犬歯剥き出しに言った。
「主、生きたいなら黙ってぶっ倒れておれ。痛みにも耐えぬけ。死にたいなら、残りの人生を謳歌すべく暴れて見せろ。それから鼠共の餌にしてやるわ」
鼠がちゅうっと賢者様の足元に駆け寄り、今晩幾度目かの抗議の声を上げた。文字通り、ピクリとも動かなくなった少年を見て賢者様は足を退く。
「もっとも直々に鼠の姫が連れてきたんだ。鼠から見てもお前は余程に不味いと見た。元々主に選択肢なんぞ無いわ」
愉快に、痛快に賢者様は唇を三日月に歪めた。楽しい暇潰しを見つけたとでも言う様に。
賢者様は再び胡座をかき、手当を始めると言った。
「────生きよ。そして私を楽しませよ」
賢者様の閑散なる日は、惨憺たる少年によって終わりを告げる。