3.V.S.熊
その熊の体長は二mを優に超し、ムクの三倍はあろう体躯をしていた(因みに、ムクの身長は百三十五m、体重は四十二kgである)。通常であれば大人も真っ青な状況なのだが、
「良かった。正直、今は人間を相手にしたくなかったんだよね」
ムクは違っていた。寧ろ、練習相手が見つかってほっとした表情をしている。
ただ、熊の方はそう考えない。夢の中とはいえここは彼らのテリトリーの中だ。自分の場所に踏み入れられ、荒らされるかもしれない状況では黙って見過ごすわけがない。
「オオオオォォォォォォォ‼」
熊が雄叫びを上げると共に、右腕を全力で振り上げムクへと襲い掛かる。普通であれば怖気づきこのまま引き裂かれてもおかしくはないのだが、ムクはその攻撃を躱す。
(うぉう! 一撃でも当たれば死ぬな)
一瞬の逡巡であるが、ムクは攻撃の強さに驚いた。そして次の瞬間ではすかさず右拳を作り熊に突き出す。その拳が右肩に直撃した。しかし、熊は怯まない。逆にムクの右腕に痺れた痛みが走る。
(お、思ったよりも硬い体だ)
すかさず熊が左腕で二撃目を繰り出す。ムクは何とかその攻撃を倒れながら避けるが、熊の怒りは治まらない。身体全てを一旦振り上げ、ムクを押し潰すかのように倒れ込んだ。
(流石にまずい!)
ムクはアドレナリンを前回にし、体を横にローリングさせ間一髪逃れた。熊が立ち上がる前に攻撃をするために、それより早く立ち上がって、宙返りをしながら踵落としを食らわせ距離をすぐさま取る。
(くぅっ! どこも硬いな!)
これは先ほどの攻撃よりもダメージを与えられたが、こちらも足にダメージを負う。動けないこともないが、幾分動きが悪くなることは避けられない。しかも、このダメージを負わせたことにより、熊の怒りは頂点へと達した。
「ガアアアアァァァァァァッ‼」
怒り狂った熊はムクに突進する。大型バイクが時速四十kmのスピードで突っ込んでくるのを想像して欲しい。ぶつかれば命の保証はなく、確実に死ぬであろう。そんなのが目の前に迫ってきているのである。恐怖心で動ける状況ではないはずだ。
ただ、ムクは恐怖よりも興奮に支配されていた。アドレナリンは全開に分泌され、それにより思考と視界がクリアになる。周りを見渡したかと思うとムクは――
一目散に逃げだした。
それに熊は驚き(そういう風に見える表情だったためこう解釈した)つつも、だからと言って侵入者を許すわけにもいかないため追い掛けた。
ムクは左右にジグザグに走る。なるべく距離を取りたいとは思っているが、熊のスピードはムクよりも若干早く、徐々にその差はなくなる。追いつかれるのは時間の問題であった。熊の方はというと、意外と追いつくことができず苛立っていた。
すると突然、ムクはぴたりと立ち止まり振り返って相手を見据える。これが人間であれば訝しんでムクを見るが、熊はチャンスといわんばかりに、ありったけの力を込めて突撃する。
流石に真正面から熊が突進してくる状況には恐怖を感じざるを得ないムクであったが、それでも相手の動きを見極めようと目は忙しなく動かしている。
いよいよその差が約三mとなった。ムクの心臓は早鐘を打ち、今にも張り裂けそうな勢いである。
(これが失敗したら、どうなるのかは分からんが、成功させるしかない……!)
ついに二mまで迫った熊の目は血走っている。それは確実に相手を仕留めてやるという覚悟の表れであろう。正に野獣の如きである。そして熊は勝利を確信し、一気に飛び掛かった。その刹那――
ムクは真上に跳び上がった!
そしてその後ろには巨大な大木が姿を現す。勢いを殺すことができない熊は、慣性の法則に従い、見事巨木へと突っ込んでしまった。自重と木の重さにより体には痛みが駆け巡り、脳は脳震盪を起こし、そのまま熊は気を失ってしまう。
大きな木のため幹には陥没しかできない。即ち倒れてくることはなかった。そして、気絶した熊の上に降りてきたのは、逃げたムクである。いやこの場合は逃げたとは一概に言えない。実際ムクはこの巨木を見つけた瞬間に、この作戦を思いついたのである。
(はぁ、うまくいって良かった……)
ムクは安堵の溜息をついた。熊に喧嘩を挑んだだけでなく、それを倒そうというのだ。どう考えても一般人の考えではない。しかしムクは野望を諦めることなく、寧ろ貫こうと決めて行動した。その結果であろう。ムクは鼻息を一つフッとつき、熊を見つめて思う。
(この位の熊を倒せたということは、人間相手なら楽勝だな)
そしてこの出来事により、ムクにはより大きな自信がついた。その自信はムクにとっては希望に満ち溢れているが、外目では絶望でしかない。逃げる選択をした方が、もしかしたらムクにとって良かったかもしれない。
しかし、時すでに遅し。ムクは野望を遂行するために熊を置いてその場から駆け出すように去っていった。
* * *
ムクが逃げ回っている間、樹上で様子を始終見ていたヒバリは、唐突な決着に頭が回らなかった。ようやく落ち着くと、ムクの強さに感心すると共に畏怖を感じた。
(あんなでかい熊を相手に一歩も引かないなんて……。どれだけの手練れでも普通無理よ)
ヒバリはこの時点でムクを観察対象から警戒対象に切り替えた。しかし依然として仲間に知らせる気はなかった。自分一人で対処したいという思いの方が強かったからである。
(次に何か行動を起こすようであれば、介入するしかないね。と、その前に……)
ヒバリは樹上から飛び降り、ムクの倒した熊の元へと足を運ぶ。気絶しているのを確認し、懐から物を取り出した。
それは小型の発信機である。その電源をオンにし、右腕に付けている機械から電話帳を呼び出し、クリム界の治安を守る治安統括局へと発信した。
「こちらコードナンバー二〇八八九、『バード』です。負傷者……と言っていいか分かりませんが、一名倒れています。野生の熊です。はい、獣医班を呼んで下さい。私は野暮用でこの場から離れますので、後は発信機を頼りにお願いします」
そう言って通話を切る。ヒバリはふぅと溜息をつき、
(これでこの熊は何とかなるかな? 死んでないといいけど……)
熊の様態を心配する。あれだけ盛大にぶつかったため、死んでもおかしくはない。本当はこの熊の傍にいてあげたい気持ちもあったが、今は違うと自分の心に鞭を打ち、去っていったムクを追い掛けることにした。
余談ではあるが、この熊は獣医班に素早く見つけられその場で応急処置を、そして運ばれた先で手術が行われ、一命を取り留めた。しかし、この一件で野生での生活に恐怖を感じたのか一向に帰ろうとせずに、この後も獣医班の居住区のマスコット(?)として住むことになるのであった。




