第四楽章
完結編です。
検問前に比べると、通過した後は拍子抜けするほど順調だった。道路は閑散としていて、倒壊しているビル家屋はない。やはり地震とは違うナニカが起きているのか。地震が二次災害、考えただけでゾッとする。良平は法定速度を若干上回るスピードでバイクをとばした。二人に会話はなかった。正面よりやや左に西新宿の高層ビルが見えてくる。もう少しだ、もう少しだ。新宿に入ると、良平はこまめにナビをチェックする。ビル街に慣れていないと困惑するのは当然だ。清美は余計なお節介はせず、全てを良平に身を任せる。そして遂に着いた。鬼のように二本角を生やした東京都庁ビルだ。
本来ビル街の道路は駐車禁止だが、車やバイクが所狭しと駐まっている。良平が適当なところで駐車すると、清美は一目散に都庁へと走り向かった。
「ちょっと、清美さん!」
良平も慌てて後を追う。追いながらまた臭いを感じた。さっきより薄れている?遠ざかっている? 判断できない。焦げ臭い、しかし木材が焼けた臭いではない、薬品が発火した? アスファルトや岩石が高熱を持ったような、あらゆる臭気を感じる。風上は都心と思われる。それも近くではない、どこか遠くから届いている臭気を。
エントランスは群衆であふれていた。ものすごい数の人達が座り込んだり、毛布で寝かされていたりする。直接家屋を失った被災者なのか、帰宅できない避難者なのかちょっと状況が掴めない。突然に入ってきた清美に関心を寄せる者はない、みな焦点の合わない顔で呆然としている、あるいは寝付けないだろう毛布をかぶっている。良平も追いついて清美の背中越しに周りを見回している。
ようやく女性事務員と思われる人を見つけた。映画女優のような美人だ。彼女は老人に飲料用給水器の使い方を根気よく説明している。プラスチックの栓をつまみながら下に押すだけだが、老人は上手く出来ないでいる。清美は女性職員に駆け寄る。
「あの、わたし野口清美と言います」
「はい、野口さんね。まずは用意してある毛布の受け渡しと」
「いえ、そういうんじゃなくて。わたしは『東京都知事・野口昇一の娘』清美です。父に会いに来ました」
興奮のためちょっと声が大きすぎたろうか、エントランスがざわつき、背中にいたいほど視線を感じる。良平は先ほどから厳しい顔をしている。エントランスに待避している人々の様子を見回しながら、やたらと臭いを気にしているようだ。
「本当なの?」
疑うと言うより驚いた口調で彼女は問う。
「確認して下さい」
彼女は急いで、おそらく警察官の待機所へ走り込む。一分もかからずに警察官がやってきた。
「IDカードを」
警察官が言う。どうしてこう警察官という職業は無駄に高圧的なのだろう。
「名前は」
「野口清美」
「年は」
「二十八です」
良平がちょっと驚いた顔をする。こんな時でも年齢を聞かれるのは野暮だと思う。
「住所は」
藤沢の住所を言う。昨晩のデジャヴを感じる。ぬり壁巡査は今日もどこかで検問をしているのだろうか。
「ここからは、あなたのより高いレベルの個人情報を照会します。ご同意頂けますか」
「はい」
IDカードには比較的レベルの低い個人情報しかすり込まれていないが、本人の同意を受けると住基ネットにアクセスし戸籍情報・犯罪歴などあらゆる情報を閲覧できる。もちろんその権限があるのは警察官ほか治安維持法に基づいた極一部の役職だけだ。
この警察官専用タブレット端末は対角線上の角と角に人差し指を通す穴が開いている。清美と、対面する警察官がそれぞれ指を入れると静脈認証され個人情報が送られてくる。もちろん照会する側、警察官も事前に登録していないとエラーになる。送られるとタブレット画面がふっと見えにくくなる。正面に持っている警察官以外は参照できないという徹底した仕組みだ。
「ご両親の氏名、生年月日を言って下さい」
清美は父親の生年月日、実母と継母の名前と生年月日をそれぞれはっきり答えた。疑うなら二人の命日も言える。
警察官は女性職員に目を向け、頷く。母の名前を二人伝えたのが決定打だろう。
「間違いないですね。都知事も、家族が来たら至急伝えて欲しいとのことでした」
最後の一言は父が警察官に直接伝えたのか、今の個人情報に備考として載っていたのか。それはさすがにわからない。
良平に関しては簡単な身元確認で済んだ。年齢は二十五歳だという。けっこう老けて見えるのだなと清美は思う。女は自分の年齢は伏せたがるのに、他人の年齢には興味津々なのだ。
「わかりました。まずは私の上司のもとへつれていきます。野口さん、一緒にどうぞ」
職員専用通路を歩き出す。もちろん良平も同伴だ。
「けっ、身内だけ特別待遇かよ」
背中に罵声を浴びる。清美は知らん顔をした。娘が父に会いに来て何が悪い。
「一体何が起きているんですか」
女性職員に問う。彼女はまた驚いた顔をする。それを知らないでここに来たのか。そんな表情だった。彼女は答えてくれなかった。まさか箝口令が通達されている訳でもあるまい、そんな雰囲気ではなかった。単に自分の口からは話したくない、詳しいことはわからないといった感じだ。
女性職員は清美の問いには答えず問い返す。
「ところでこちらの方は? ご主人ですか」
「はいそうです」
良平の即答ぶりに頭をガツンと殴られた気分になる。
「ち、違います! 話をややこしくしないで下さい」
「ごめんなさい。僕には女房子供がいます」
「へーそうなんですか、ちょっと意外です」
「これもウソです」
「意味のないウソをつかないで下さい」
先導する美人職員はつまらないコントを見せられた客のようにきょとんとしている。
「えーと、わ、私の命の恩人です」
今の掛け合いの後では、有り難みが全く伝わらない。
ここからがお役所仕事だった。案内してくれた職員の責任者なんとか衛生部にあいさつしたらなんとか政策部まで案内され、またなんとか監察室に促されてなんとか総務部にあいさつし、そのなんとか本局に。とにかくバイクの道中よりずっとややこしい。しかも会う人会う人が要りもしない名刺をくれるので、途中からどれが誰の名刺かわからなくなってくる。下手に紛失して迷惑かけるのも嫌なので、後で父に返そうと思った。そしてそのどの職員からも事態の説明はなかった。単に都知事の娘として丁重に扱っているだけで、肝心な話になると口を紡ぐ。
「第三者に言っても信じてもらえない、いや、みんな事態が信じられないんだろう」
良平が言う。
「何かわかったの?」
「いや」
良平もそこで黙る。
「幾つかの想定はしている。でもそれらは余りに荒唐無稽だ」
清美は何が何だかわからない。
ようやく都庁の中枢にさしかかってきたようだ。今までの手続きはただの挨拶回りだったのかと勘ぐりたくなる。
何度目かに交代した職員が案内する。
「ここから先は原則として金属探知機を通ります。全てが持ち込み禁止というわけではありませんが、所持品のチェックだとお考え下さい。そうはいっても所持品は必要最小限にして頂きたいので、お手元の貴重品などはすぐ横にあるロッカーをお使い下さい。脱衣が必要ならロッカールーム奥に脱衣所がありますのでそこでお願いします」
今度も別の美人の職員が説明をする。女性職員は顔で採用されているのかと勘ぐってしまう。
「メガネはどうすればいいですか」
良平が聞く。
「一度メガネをかけて通って頂き、問題なければ持ち込み可能です。しかしメガネ程度では反応しないでしょう」
中だるみしていた緊張感が戻ってくる。ついでなのでマグロ漁船レインコートもここに脱いでいこう。使用済みライトセーバーを置いていくのはちょっと寂しいが仕方がない。ベルトのバックルは? たぶんメガネの説明と同様だろう。良平がいる脱衣所からガシャガシャと金属音が頻繁になっている。検問で没収、などと言っていたがまだまだ隠していたのか。有事の際には頼もしく思えるが、平穏な空気には似合わないコワい人だ。清美は受けた恩を棚に上げて勝手なことを思う。ロッカーのキーはプラスチック製だった。
清美は一発クリア。メガネをかけた良平も一発クリアだった。職員の言ったとおり、バックルやデニムのボタンなどは反応しないようだ。どうやって要注意の金属、チェックの必要ない金属を仕分けできるのだろうか。ちょっと謎だ。
さんざたらい回しにされたので、いま何階にいるのかわからない。そういえばさっきのエレベーターにも階数表示がなく不気味だった。実はこのたらい回し、階数を悟らせなくするための作戦なのだろうか。良平の顔を横目で見ながら考える。
「なんですか」
「いえ、別に」
都庁に着いてから良平はなんだか寡黙になっている。意外と初対面や初めての場所が苦手なのだろうか。
「もうすぐ事態の真相に近づくからね。僕なりに緊張してるんだよ」
清美の心を読んだふうに、良平は言った。
最後に特別重そうな扉の前に出た。なんとか本局の牧田という初老の男性が扉を開ける。
「うわ」
「おお」
二人とも感嘆する。東京都防災センターだ。正面に二面の巨大スクリーン、片方は東京都の地図と色分けされた状況を示す図があり、もう片方はライブカメラだろう、映像が映り小刻みに切り替わる。室内の人数は五、六十名前後だろうか、絶え間なく怒鳴りあうように報告をしたり受けたりしている。この光景何かに似てると思い、すぐ思い当たった。学校の授業で見た、オンライン運用に切り替わる前の証券取引所だ。外からだと安穏とした佇まいだった都庁、しかし中では男たちが女たちが戦っていたのだ。
防災本部長の席に父はいた。先ほどからずっと私たちを見つめていたようだ。思わず駆け寄りたくなるが、最後の案内をした職員、牧田に目で確認する。どうぞという合図をもらえたので良平と共に父の元へ歩いた。
「よう、よく頑張ったな」
父は明らかに憔悴している。目にクマができ気持ち頬がこけたようだ。
「この方は?」
清美は良平が余計な事を言いださないように牽制しながら、
「岩田良平さん。私の命の恩人です。バイクで事故したときに救助してくれて、川崎で泊めてもらい、ここに来る際もわざわざ同行してくれました」
「そうか、娘をありがとう」
「岩田です」
互いに右手を出し、握手する。
「ところで、一体何が起きたのですか」
開口一番、良平が聞く。
父は厳しい表情で良平を見つめる。一体何が。聞かない方がいいのではないかと清美は思い始める。父は重い口を開いた。
「メテオライト・インパクト、だ」
「めておらいと?」
「隕石衝突」
良平の顔が青白くなる。
「やっぱり。想像の一部にはあったけど」
声が震えていく。
「そんな、そんなばかな。そんな確率って、有り得るのか」
出会ってから道中まで沈着冷静だった良平が動揺している。
「やっぱり、ってどういうことですか」
清美が聞く。
「街の臭いだ。焦げ臭くって、でも材木が燃えた臭いでもない、岩や土が相当高温で焼けたような臭い、これが一番違和感だった。しかも地上から目視できないくらい遠方らしかった。つまりそうとう大規模な異常事態が起きているな、とは思った。核攻撃など人為的なものではないとすとすると、と思ったけど。しかしそんな馬鹿な、そんな確率ってあるのか」
良平は同じ言葉を繰り返す。
「私も岩田君が言った言葉を何百回となく口にしたよ。しかし、おそらく事実だ」
父は冷静に応じる。
しかしおそらく事実だ、変な日本語。清美の思考はさっそく現実逃避しはじめている。
しかし清美も、昨晩最初の揺れに感じた時の記憶をまざまざと思い出す。揺れる直前、奇妙な耳鳴りを感じた。あれは、
「衝撃波」
「そういう報告も受けている」
父は質問と解釈し答える。
「落下時、空気を裂く衝撃波と、爆心した際の衝撃波、両方の可能性がある」
「現在わかっているだけのことを教えてもらえませんか?」
良平は立ち直り、無理を承知で懇願する。意外にも父は素直に頷いた。
「爆心地は新橋当りだと現段階では報告を受けている。皇居の真南だ。方向は南西から北東へ、進入深度は直角に近く、爆心地の被害は痛ましいが水平角に侵入しなかっただけ範囲は狭まったのだろう。大気圏突入時もほとんど中途崩壊はなかったらしい。崩壊していたら散弾銃のよう散って被害をますます広げていただろう。隕石の大きさは二m以上という学者もいればバスケットボール大という学者もいる。どちらも大気圏突入前か後かをはっきり言わないから余り当てにならん。そして台風六号は歴史的に巨大なものだった。こいつが様々な足止めと不幸を呼んだ。台風が状況把握、救出作業を困難にし、用人の犠牲を増やした。台風による自然災害対策会議に備え登庁していた国務大臣、政務次官、事務次官のほとんどがヤラれた。そして強風と豪雨でとにかくヘリが飛べない。現地の様子が全く伝わらない災害は非常に気をもむ、苦しいよ。気象庁は幸い無事だった。台風は今昼には峠を越すそうだ。そうしたら被害状況や救済活動は早急に行う。しかし逆に言うとこの台風が二次災害、つまり火災を食い止めてくれたのかも知れない。なんとも複雑な気分だがね」
正面の巨大スクリーンの東京都地図に目を移す。父の言うとおり皇居の南から北西にかけての部分が、袈裟切りを受けたように真っ黒に塗りつぶされている。どのくらいの広さなのだろうか。地図の見方がわからない清美には想像がつかない。強いて比較となる真北の皇居敷地内全体に比べ、黒いしみはその半分から八割ほどだろうか。想像より小さいのが不幸中の幸いか。ただ深刻な広さだということはわかる。黒いしみは歪んだ楕円のブラックホールに見える。このアメーバのような黒いシミには既視感を感じる。どこでみたのだろう。
「何故もっと早く隕石を捉えられなかったのですか」
「米国の人工衛星にトラブルがあったのは聞いているだろう」
良平は清美の顔を見る。清美は頷く。
「二、三日という発表だったが、実際には二週間近く作動していなかったそうだ。宇宙の制空権はいまだ米国にあるからな。彼らからの情報に頼るしかない。ところが今回この失態だ。米国大使は菓子折もって平謝りだったよ、意地でも頭を下げないあのアメリカ合衆国政府がね。早期発見、警告を発してくれればまだ事前処置……緊急避難態勢の猶予があったろう、悔やまれてならないよ。まぁわかったとしても人類はまだ宇宙外に対する迎撃衛星を作れないでいるがな」
父はイヤミのように言う。
ライブカメラに爆心地が写る。ただの黒い黒い穴だ。異常増殖したガン細胞、いややはり有機的なアメーバを感じる。大雨のせいだろうか、大きな火災は見当たらない。しかし良平が言うように煙がくすぶっていて強烈な臭いを発していそうだ。不謹慎だが消火したばかりのキャンプファイアを連想する。ライブカメラの映像は低画質で細かい部分までははっきりしないが、そこに国会議事堂が、各省庁があったとは。まるで信じられない。一体どれほどの人が被災したのだろう。
「大規模停電の理由は」
「調査中だ。爆心時の〝衝撃波〟だけでいくつもの変電所が壊滅したともの言われている。そして爆心地の消失、壊滅で大規模変電所・送電線がヤラれたと思われる。現在復旧しつつあるのは一重に電力会社の努力だろう。今回の彼らの尽力には感服する。あの嵐の中ご苦労だったよ、命がけだったかも知れない。いずれにせよ詳細は電力会社から近々に報告書が届くだろう」
「かなり大きかった第二震は」
「これも色々な意見が出ている。隕石衝突によってプレートが振動を受けてずれた、という仮定だがそんな想像は小学生にも出来る。目下調査中、だいぶ時間がかかると思うね。今は因果関係より現場の情報および救出が最有力課題だ」
救助、早く救助を、と思う自分がいる。しかしあの黒点の中にどれだけの人が、どんな状態で。いや黒点の周りにも被災した人々がいるはずだ。早く救助を。父によると爆心地周辺へは自衛隊、消防隊がとっくに出動しているそうだ。被災した人の命運は雨と低温に依存するという言葉を再び思い出す。今はただ大雨が憎たらしい。
「TSUNAMIの被害は」
「うん、直接海上で爆心したわけではないが、十分考えられる。しかし調査確認はまだまだこれからだ。君の思っているとおり爆心の影響で東京湾からTSUNAMIが来た可能性は十分考えられる。しかし調査しようにもとにかく台風の被害で手の出しようがない。今後の調査にしても、どこまでが台風被害でどこからがTSUNAMI被害かの判断が非常に難しいだろう」
「これだけピンポイントに隕石が落下するなんて有り得るでしょうか」
「それは私が一番聞きたいよ」
父は吐き捨てるように言った。
国会、内閣が消滅。爆心地は東京。ということは父は今、内政的にも外交的にも首相臨時代行なのだろうか。現在もそうだがこれからの采配を考えると、父の身は堪えられるのだろうか。
そんなとき、防災センターの職員が叫んだ。
「天皇皇后両陛下、皇太子ご夫妻、ご存命を確認! 委細は後に報告とのことですが、危機的なお怪我もないご様子です! 奇跡が起きました」
センター内からどっと勝ちどきのような歓声が上がった。拍手するもの、やたらと抱き合うもの、清美の四肢も震えた。
「大きな成果だ! まだ諦めちゃいかん! 希望を捨てずに頑張って欲しい」
父が、東京都知事がマイク越しに放った。全員からはい! という返事がくる。父の仕事の偉大さを肌身に感じる。
希望、そうだ希望だ。捨て鉢になるのは簡単だが、希望を持ち続けるのは相応の精神力が必要だ。その精神力を鼓舞するのが父の役目だ。
「あっ」清美が呟く「お日様だ」子供じみた表現に一瞬赤くなる。まだ降雨はやまないが雲の切れ間から一瞬太陽が見えた。
「みんなライブカメラを見てくれ。ようやく日が照ってきた。爆心後初めて見る太陽だ。これからが本番だ、救助ヘリ、調査ヘリはいい加減飛べるだろう、意地でも飛べ。マスコミには邪魔するなと早めに牽制しておけ。自衛隊に改めて増員を要請、消防庁にも総力を決するよう再度通達してくれ」
今度は父の言葉を聞きながら、職員は映像がとらえた日の光を凝視する。センター職員がずっと待ち望んでいた光なのだろう。誰からともなく映像に映る太陽に向かって敬礼をするもの、胸に手を当てるもの、手を合わせ拝むもの、様々だ。彼らの背中からは喜びより悲しみが伝わる。しかしその感情は一瞬だった。みんなすぐに持ち場に戻り希望をもって職務を全うせんとする。団結力。清美は図らずも涙を流していた。昨日から泣いてばかりだ。しかしこの涙は悲しみの涙ではない。希望の涙だ。自分に言い聞かせる。良平は清美の肩を抱いてくれている。
「清美、お前シャワーを浴びてきたらどうだ。なんかすすぼけてるぞ。職員用があるからそれを使え」
父は自分の気を紛らわせるかのようにいう。清美にとっては目の前で起こっていることは痛ましいことではあるが、状況が見えてきたことによる緊張感からの解放もあってか、せめてシャワーを浴びたくなった。
「はい、ありがとうございます。お言葉に甘えます」
妙に他人行儀な言葉になってしまう。
「岩田君もどうぞ」
「助かります」
「またこの部屋に戻ってきてもいいですか」
清美が父に問う。
父は清美をしばらく凝視していたが「ああ」と答えてくれた。本来は関係者以外立ち入り禁止なのだろう。
「だが良い報告だけではない。これから痛ましい報告も次々に上がってくる」
清美は一瞬ひるんだ。正直耐えられる自信はないが「はい」と答えてセンターから出る。良平も父に一礼して後に続く。
驚いたことに清美たちをセンターに案内した牧田はずっと待機していた。背が低く初老で痩せ身、顔は目玉が出ていて無駄に彫りが深い。佇まいが執事のようだ。
「わざわざすみません」
「いえ、私も自身の出来ることの少なさに歯がゆい気持ちです」
いまの清美の憤りを代弁してくれるようにいう。
またどこを歩いてるか、登ってるか下がってるかもわからない道を案内される。しかも行きとは違う道のりだ。防災センターが如何に重要な場所であるかがわかる。
金属探知機のあったロッカールームに戻り、必要な荷物を仕分ける。タオルなど必要最小限の洗面用具はそろっているとのことだったので、着替えだけ持ち出す。シャワールームはまた別のフロアらしい。もう本当にややこしい。牧田執事とはぐれたら間違いなく迷子だ。
更衣室で服を脱いでから、自分は湿布薬だらけだということを思い出した、すっかり忘れていた。背中の湿布は自分で剥がせるだろうか。こんなことなら女性職員を呼んでもらうべきだった。手足と脇腹の湿布を剥がす。首の湿布は入念に貼ったので剥がすのに一苦労だ。むち打ちと思われた痛みもほとんど感じなくなった。私もまだまだ若いのかな、と呟いて一人でえへへと笑い、すぐに打ち消す。いまの東京ではしばらく笑うことさえ許されない気がする。それは清美の気の張り過ぎだろうか。背中の湿布はお湯を浴びながら様子を見ることにした。適温のシャワーがとても心地いい、思えば最初の地震、いやメテオライト以来だ。昨晩の事なのにもうずいぶん昔に感じる。しかしあれが全ての発端だったのだ。ボディソープをたっぷりタオルにつけて入念に洗う。今までの疲れと緊張も流れていく気分だ。父に会えた。たどり着けた。緊張はもういいんだと自分に言い聞かせる。背中は届く範囲を自分で剥がす。ちょっと痛みを感じるが少しずつ剥がれてきた。ちょうど背骨に当たる手の届かない部分はタオルでゆっくりとふやかしているうちに剥がれてくれた。髪の毛はごわごわして気持ちが悪い。シャンプーでゆっくり入念に洗う。ゆっくり湯船につかりたい気分だが今はそれどころではない、諦めよう。最後に熱めのお湯を浴び、心と身体の芯を温めた。
更衣室から出ると良平はとっくに済ませていた。ずいぶんさっぱりしたように見える。
「やっぱり女性はゆっくりだね」
と笑う。別に嫌みではなさそうだ。
シャワールームから出ると牧田執事は廊下でずっと待っていたらしい。この人すごいやら呆れるやら。立派だし有り難いとは思うがあまり見習いたくない。
防災センターに戻りますか、と問われたが先ほどの父の言葉を思い出す。『痛ましい報告も次々上がるだろう』シャワーを浴びて気づいたが、清美は精神的にもかなり疲弊している。辛い内容は、取り敢えず今は避けたい。ただ肉眼で見ておくべきものがある。
「展望室へは行けますか、南東の方角が見える方の」
「今は一時避難所にもなっているのでかなりごった返していますが行けます。が、直接爆心地を見ることになりますよ」
「わかっています」
良平も頷く。
「では。都知事にはそう伝えます」
それから、といって牧田執事は携帯電話を取り出した。小型のPHSのようだ。通話専用らしくボタンが少ない。高齢者向けとして売られているのを見たことがある。
「何かご用の際には一番の番号を押してください。私につながります」
さすが執事。至れり尽くせりだ。
展望室は四十五階にある。エントランス同様人口密度が高く、毛布にくるまっている人、携帯電話をいじくっている人とさまざまだ。展望ガラスに寄り、被災地を探す。
黒いアメーバ状の模様が都心の中心を覆って湯気を発している。クレーターに見えるのは先入観があるからだろうか。良平も隣で息を呑んでいる。あの中で何千何万? の人が亡くなった。父ですら事態を把握できていないのだから、清美に想像できるはずもない。良平は何と言うだろう。しかし今は聞きたくない。想像したくないが、隕石墜落の衝撃だ、消滅した人も多いだろう。自衛隊や消防庁のヘリコプターが黒いアメーバに突入していくのがわかる。中心部は難しそうだから近隣の被災者救助が優先なのだろう。黒いしみに目を奪われすぎて気づかなかったが、その周辺のビルはドミノ倒しのように倒壊している。その付近はかなり前から救助活動が始まっているらしい。迷彩服や消防服が走り回っている。一棟一棟に一体何百人が取り残されているのだろうか。一人でも多くの命を、と清美は願う。願うしかない自分に憤りを感じる。
「清美? 清美ちゃんじゃないの」
背後から女性が声をかけてきた。振り向くと高校時代の同級生がいた。当たり前だが大人っぽくになっている。
「カコ? カコなのね」
清美は驚いて返事をする。
元気だった、と問いかけて飲み込んだ。元気だったらここにはいない。
「清美も被災したのね」
「うん、まあ」
つい曖昧で相手を不信にさせる返事になってしまったが、カコは気にする様子はない。
「カコは?」
「夫と義父と義母が行方不明。あの黒い渦の外にはいたはずなんだけど」
「じゃあこれからだよ。きっと見つかるよ、きっと会えるよ」
カコは涙ぐむ。
「自衛隊や消防隊を信用しなきゃ、カコがふさぎ込んでたら駄目じゃん」
「娘が遺体で発見されたの」
「……」
「気が強くて面倒見のいい、正義感ある子だったから。遺体のそば泣き伏せっていると『お母さん、こんなところにいる場合じゃないでしょ。みんなの為に働かなきゃ』って叱咤されている気がして。でももう、でももう」
あとはカコは脈略のない言葉を発して、清美にすがり泣いた。
ひとしきり泣き終えると、良平が言葉を選びながら言う。
「お気持ちは痛いほどわかります、わかるつもりです。でもまだ見つかっていないご家族がいる。戻ってくるご家族のためにも、そして何より亡くなった娘さんのためにも、貴女がしっかりしていなければならないと思います。希望を最後まで持ってください」
間をおいて「偉そうな事を言ってすいません」と頭を下げる。
カコはハンカチを握りしめながら頷く。涙を流しながら何度も頷く。
「こちら方は?」
「ぼくウグゥ」
「私が被災したときの命の恩人」
何を言い出すか分からない良平のみぞおちに肘鉄をくわえて端的に説明した。
「カコは今は?」
「じっとしていると嫌なことばかり考えちゃうし、娘の言葉もあるでしょ。被災者や避難者のお世話をしているの。特に高齢者はいろいろ大変だから」
清美は胸を打たれた。いや喉元をアイスピックで刺された気がした。自分は何と緩い場所に立っているんだろう。
カコは誰かに呼ばれて足早に去っていった。
清美はふらふらと意味もなく窓により景色を眺める。今まで受けた一番のショックだったかも知れない。もちろんカコには全く悪意はないが、清美には痛烈に響いた。人のために、誰かのために、自身の不幸を紛らわす、いやそれを糧としてカコは奉仕している。清美は自分の人生そのものを恥じる。
清美の気持ちを察したのだろうか、良平も黙って景色を眺めている。
少し静かに二人きりになりたかった。牧田執事にコールするとロッカールームが丁度いいので案内してもらう。
道すがら、
「んーんーんんんーん、んーんんんーんーんーん」
良平が不謹慎に鼻歌を歌っている。
「なんですか、それ」
さきほどカコの悲しみを目の当たりにしたばかりなのに。若干いらだちながら聞く。
「ブラームス交響曲第一番」
「はあ」
「世界で一番有名な交響曲は第九だよね、ベートーベンの。ブラームスはそれに憧れて憧れて長い年月をかけてこの曲を完成させたといわれている。第九は歓喜の歌として有名だけど、ブラームスの曲は希望の歌なんだなと、さっき防災センターで天皇陛下存命の報告を聞いて、皆で歓声を挙げた時に思ったんだ」
「希望の歌」
「厳密にはブラームスの方は合唱がないからね、希望の曲かな」
「希望の曲」
「今度貸してあげるよ。まあ有名な曲だからどこでも手に入るけど」
「はい」
良平もあの光景から希望を見いだしたのか。なにか感慨深い。
「私も存じ上げております。確かにフツフツと沸き上がる希望を感じますね」
牧田もそう呟いた。
牧田はふと歩みを緩めると、
「私の」
と聞き取れないくらい小さく呟いた。
「はい?」
「私の息子は難関の大学に入学し法科を学び、入省しました。法務省です。ご覧の通り跡形もありません。絶望的でしょう」
「それは」
清美は次ぐ言葉が見つからない。良平は厳しい目つきで窓の向こうの雨を見つめている。
「私はしがない都の職員ですが、息子は家族中の宝、自慢の息子でした」
でした。まだ過去形にしないで。そう言いたいがどんな言葉も薄っぺらく感じる。
「息子は大学受験の際、防衛大学への進学を希望しました。若かったし、正義感があり、お国のため……もうそんな言葉は死語でしょうが、国を守る職務に就きたいと意気込んでいました」
「もしかして息子さんは」
良平が聞く、
「はい、東南海沖地震で被災しました。私の父の実家が静岡で、帰省していたとき不運にも。実家は倒壊して息子達は生き埋め。すんでのところで自衛隊に救助されました。二階建てが平屋になるほどつぶれましたが、全員自衛隊員が助けてくれました。もう家族中が泣き合い抱き合って喜び合いました。息子はその経験から自衛官を夢見るようになったのでしょう。しかし」
と、牧田は一息つき、
「息子の希望に家族中が猛反対しました。エゴですよね。助けてもらった自衛官になりたいという、息子の純粋な希望を親のエゴで押さえ込んで。この結果です」
そして。
「やり直せるのなら、本人の希望通りにさせてやりたかったです」
最後は消え入りそうな声だった。
清美はまた涙を流してしまう。慌てて拭き取ろうとすると、
「野口さん。息子のために泣いてくれてありがとう。それだけでも救われます。人のために泣くことは恥でも何でもない。涙は死者を弔い、生者の心を救ってくれるのです。そしてそれは、誰にでも出来ることではありません」
清美はわかった。牧田は息子のために号泣したいのだ。
ロッカールームは人気がなく、静かだ。良平と二人ベンチに腰掛ける。
「生きる命が平等なら、死ぬ命もまた平等だ」
良平が突然切り出す。
「でも僕らは日頃、何人亡くなろうが一事件で片付けてしまう。三人殺されても一事件、二十人が事故で亡くなっても一事件。そして、二万人が被災しても一事件。逆に命の価値は1/3、1/20、1/二万と無意識に軽率に受け止めてしまう。なんか変だよね。これはとても間違った受け止め方だ。僕は大きな事件事故を知る度に、ついその軽くあしらわせた命の価値を考えてしまうし、常に憤りを感じていた。でもさっき牧田さんの話を聞いて思ったんだ。おそらく今回の災害は万単位の人が亡くなっているだろう。でも牧田さんやカコさん? が抱えてるほどの悲しみを何万人分も受け入れてしまうと、僕らの脳のキャパシティ、容量は簡単に破綻し気が狂ってしまうかも知れない。だから、話を最初に戻すと事件事故を見聞きして気が狂わないのはおそらく脳の防衛本能なんじゃないかと思う。
だから、えーと」
ここで良平は口ごもる。
「ごめん、何が言いたかったのかわからなくなっちゃった」
良平は苦笑する。
清美は何も答えずに、良平の掌に自分の掌を乗せた。
「そうだ、さっき言ってたブラームスの交響曲、ダウンロードしてみるね」
清美は無理にでも気持ちを切り替えるために、努めて明るい声で言った。
被災者がケータイをいじっているのを思い出した。きっとデータ通信も可能だろう。
「どうだろ、通信制限がかかっているかも知れないけど、って清美さん、ごっついケータイ持ってるね」
「バイクで事故したときも大雨で濡れたときも壊れなかった。私の相棒」
「スズメバチと同様にね」
「そういうこと」
清美は音楽のダウンロードサイトにアクセスする。
「交響曲って長いんだよね」
「さっき話したのは第四楽章、クライマックスの曲だね」
該当の曲が見つかった。やはりダウンロードはいつもに比べて極端に遅い。空気の読めないユーザーと思われるだろうか。ごめんなさい、と胸の中で呟く。十五分ほどかけてダウンロードは完了した。
「あ、ヘッドホンがないや」
「僕のを使いなよ」
良平は革ジャンから取り出した。
「さて、聴いてみます。ご静聴願います」
「僕には聞こえないから静聴も何もないけどね」
良平は久しぶりにけたけた笑う。
不穏な出だしから始まった。また騙されたかと思って良平を見るが、彼はただ黙って正面を見つめている。いたずら小僧の顔ではない。この不安をあおるメロディ、いや音といった方がふさわしいか。バイオリンをはじく音? なんだか落ち着かない。アパートで地震にあった自分を連想する。それが二回繰り返される。そして突如曲は弦楽器を中心に竜巻のようなムードを高める。自然あの台風を連想させる。これは私の、自分自身の追体験なのだろうか。メロディラインをひっぱる主役が打楽器を挟んで弦楽器から管楽器へ入れ代わると、不穏なムードは一変しトランペットが美しく響き、夜明けのような爽やかさに変わる。高音の管楽器は小鳥のさえずりだろうか。ゆっくりと日が昇るようにメロディが落ち着いていく。闇に包まれた森を朝日が照らすような瑞々しさ、それが打楽器と共に段々力強く響いてくる。
そして。良平が口ずさんだメロディ、主題の演奏が厳粛に美しく力強くはじまり、清美は鳥肌を立たせる。これが音楽の力か。身体の水分が全て入れ替わり浄化されるような気分。血湧き肉踊る、魂の高揚、もう大迫力な主題の連続だ。荘厳、颯爽、気高さ、どんな日本語もとうてい及ばない。第九の歓喜の歌が神々に捧げる感謝の言葉であるのなら、このメロディは人間賛歌だ。普通の人間が、地に足ついて、一歩一歩あゆむ。メロディが盛大に鳴り響く度に、清美の身体は痺れ、目頭が熱くなる。あの場所でこの場所で生を全うせんとする人達の映像が目に浮かぶ。そうだ、我々はちっぽけな人間だ。でも生きている、努力している、頑張っている。その血肉の躍動を各楽器が巧みに鮮やかに表現している。ジェットコースターのように、いやそれより上品に緩急をつけてメロディは続く。音符の洪水は果てしなく続く。クライマックスもやはり人間賛歌だ。楽器が音符が狂喜乱舞する。大波のように何度も何度も賛歌は続く。人間は素晴らしい、頑張っている。今までも、これからも、子孫絶えるまで人間は歩き続けるのだ。永遠に。
曲が終わる。良平は口元だけ笑って清美をみつめている。
「すごいですね」口から出たのは子供みたいな感想だ。
「希望、でしょ」
「希望、ですね」
二人は一端エントランスに降りた。被災者避難者の数は先ほどより若干増えているようだ。それにしても都の手際は素早くぬかりない。毛布や緊急用食料などほぼ全員に行き渡っており、随所に給水器が設けられている。近年次々と起きた大震災の教訓が十分に備わっているのだろう。
しかし今後はどうなるのだろう。帰宅困難者と家屋を失った人達の区別は清美にはできない。特に爆心地の場所が場所だけにそこに住まいを構えていた人はどれくらいだろう。ここまで局地的な都市災害は初めてだ。
カコの言葉を思い出す。皆のお世話をする。今の清美には何をどうすればいいのかも分からない。災害ボランティアに来た都会者が逆に邪魔者扱いにされた、という話を聞いたことがある。いまの清美はまさにそれだ。考えてみればカコはもともと甲斐甲斐しく人の世話をできる子だった。私と正反対、当時はそれで済ませていたが、今を考えると性格がどうのという問題ではない。清美は自身の身の振りを漠然と考え始める。
再び防災センターに入る。父に駆け寄ると、
「現在のわかっている範囲で死者三百人、負傷者二千五百人だ。しかしまだ初動調査の速報だからな。まだまだとてつもなく増えるだろう。それに」
メテオライト・インパクト。隕石が直撃し爆発が起きたのだ。
「過去の災害に比べるとおそらく行方不明者が桁違いだな」
父は小さく呟く。
消失・壊滅。今朝の号外の見出しが脳裏をよぎる。
「自衛隊も、消防隊員も、必至になって生存者の救助に当たっているそうだ。まるで功を焦るように、当然協力しながら。今はいい、それでいい。彼らはそのために日夜訓練を受けてきたんだ。とにかく一人でも多くの人命を救って欲しい」
清美は自ずと感慨深くなる。ビデオで見た阪神淡路大震災、東日本大震災、そして東南海沖地震。全てにおいて職務を全うしてくれたのは自衛隊員であり消防隊員であり、海上保安官だった。悪魔はまた首をもたげたが、それを振り払う我々も十分力をつけている。全力で立ち向かって欲しい。そして何も出来ない自分が歯がゆい。
台風が勢力を弱めたことを皮切りにしたかとも思えないが、各国から続々と入電が入っているようだ。
「アメリカ空母ヒル・マリントンから入電。第三次トモダチ作戦を遂行したいとのこと。近海で待機」
「台湾から大型貨物が出航。資材、食料を無償で届けるとの意向」
「マレーシア、シンガポール、フィリピンからも支援物資を届けたい旨連絡。方法は貴国にあわせるとのこと」
「ユーロ各国から続々と入電。可能な限りの物資支援、経済支援するとの旨、通達」
ここにも希望はある。過去世界中の災害を教訓に、海外派遣・受け入れ体勢ともに円滑に行われる。諸国で天災があれば日本は助けに行き、日本で天災があれば諸国は助けに来てくれる。紛争や衝突も多いが、世界はだんだんと一つになりつつあるのだ。団結力、素晴らしい響きだ。
もちろん日本国内、自治体からの支援もすごい勢いでやって来ているのだろう。内政、外交を父は一手に引き受けるのだろうか。父の心労が改めて心配だ。
防災センターの様子も落ち着きを保ちながらより賑やかになってきた。職員も入ったり出たり、気づくと百名前後の人々が各自職務を全うしている。ライブカメラは次々と映像を切り替えている。救助を最優先に、二次災害の可能性を念頭にした被災者、避難者の誘導、仮設住居の早期建築、こなす仕事は沢山あろうが、台風が去り東京都防災センターはこれからこそ本来の力を発揮するだろう。
そんな空気を読んだのか、良平は唐突にさらりとその言葉を発した。
「さて僕はそろそろ、おいとましますか」
「えっ」
「僕のミッションは清美さんを無事ここへ送り届けることだ。任務はとっくに終了している」
「でも」
「それにこの中で僕が一番の部外者だ。これ以上迷惑は掛かられない」
「そんな! 事態はこれからじゃないですか」
「ここにはこの大惨事を収拾する人達がたくさんいる。僕は何の役にも立たない、邪魔だけだ」
言っていることは清美にも判る。現在良平がここにいる意味はない。そして何より良平には良平の、帰ってからの事後対応が沢山あるだろう。
清美は父を見る。ただ黙っているだけだ。
「エントランスや展望室の話からすると、東京以西の電車はもう動いているらしい」
父は小さく頷いた。「間引き運転の状態だがな」
「十分です」
父は立ち上がり、
「娘を本当にありがとう。感謝する」
と再び右手を差し出した。
「こちらこそ、勉強になりました。これからが大変でしょうが、ご活躍を祈っています。そしてできればご自愛ください」
良平も父の過労を心配しているのだろう。男二人が力強く握手する。
出入り口方向に顔を向けた良平は、牧田執事に目配せする。
「お、送っていきます」
良平と父を交互に見ながら清美は言った。
父が清美のお尻をポーンと強く叩く。一体何だというのだ。清美が照れ笑いして見返ると、父はうっすらと口元だけほほえんでいた。
父さん、東京都知事・野口昇一さん。どうか頑張って。都のため国のために。私も微力ながら出来ることからお手伝いします。
良平はロッカールームで荷物をまとめる。またなんだかジャラジャラ音を立てながらライダースーツを着ているようだ。電車内で物騒なことにならなければいいが。清美は黙って廊下で牧田執事と共に待っていた。
エントランスを抜け外へ出る。良平は牧田に丁寧にお礼を述べた。風は強いが雨は小降りになっている。あの雲が去れば台風一過だろうか。二人で新宿駅まで歩く。こうしていると間近で大災害があったこと忘れそうになるくらい日常の喧噪だ。
「なんだかそのまま空を飛んで帰りそうな服装ですね」
「あれは金がかかる上に飛距離に問題があるんだよ」
「冗談ですよ」
「僕のも冗談です」
会話は余り続かない。清美は〝万感の思い〟という言葉を強く感じる。
「車両と住居の件は覚えておいてね。僕らは忘れても彼らはしつこいから」
あのハゲタカか。確かに清美はすっかり忘れていた。落ち着いたら父に相談しよう。
「ライトセーバー、ありがとうございます」
「ウチに持ってくればいつでも充電するよ、っていうか充電済みのと取っ替えるよ」
「いえ、頂いたアノコがいいです」
「そう。でもまた新型、コンパクトなのが出来たらあげるから」
「はい」
屋根の着いた道路は照明が間引きされているのか、普段より暗く感じる。
「清美さんはこれから?」
「避難者、被災者のお世話をしようと思います。人数は何人いても足りなそうでしたから」
「そう」
それから、と言いかけて止める。カコの気負った後ろ姿が目に浮かぶ。これからは福祉や介護の仕事を目指そう。根気がなくて飽きっぽくてすぐ弱音を吐く清美にはふさわしくないかも知れないが、体力と根気と胆力と笑顔を学び、感謝される仕事を目指そう。今からでも決して遅くはないはずだ。『今までもらった恩は、困っている人に返しなさい』岩田の言葉を思い出す。あの時から清美の意識が変わったのかも知れない。カコのご家族が、どうぞ無事でありますように。
新宿西口に近づいてきた。
「清美さん」
「はい」
「東京は、日本は逞しいよ。関東大震災・戦時下の大空襲・伊勢湾台風・奥尻島地震・阪神淡路大震災・中越地震・中越沖地震・東日本大震災・東南海沖地震。まだまだ数え切れないほどの災害にあったけど、日本は絶望することなく復興を重ねてきた。今回も大丈夫だ。絶対にこの困難を克服するよ」
清美は頷いた。良平が挙げた災害だけでも何万何十万人もの人が亡くなった。亡くなった方々のためにも、必ず復興するんだ。それが生を拾った人間の義務だ。
改札まで来た。見送りもここまでだ。ブラームスの高らかなメロティが心の中で鳴り響いている。
「それじゃ、清美さん、この辺で」
そういえば良平は初対面からしばらくはのぐちさんと呼んでいた。いつから清美さんになったのだろう。
「お父さん、岩田さんによろしく伝えて下さい」
「わかった」
「また必ずご挨拶に伺いますから」
「うん」
「昨夜の事故から新宿までの道程、本当にありがとうございます。感謝しきれません」
「記念に写メでも撮りたいけど、さすがに不謹慎かな」
その言葉に清美はたまらず良平に抱きついた。なんだか堅いものが入っているが、深く暖かく安心する。一瞬驚いた良平は清美の髪をなでてくれている。
「撮りましょ、写真」
良平に抱きついたまま、清美は言った。
人目があるのでさすがにツーショットは止めたが、互いに互いのケータイで撮影しあった。良平は直立不動で新兵のようだ。清美は何度か撮り直させ、ようやく許せる程度の写真撮れた。
最後に握手をする。さよならは言わない、お互い「またね」と挨拶しあう。きびすを返した良平はあっという間に人いきれに飲まれた。
良平は自身の戦場へ帰った。父も、自衛官も、消防職員も戦場で戦っている。希望を捨てずに戦っている。
清美も自身の戦場に赴こう。まだ方向性は曖昧だが、自分を必要としてくれる人のために戦おう。そう決意する。
清美の胸にはいつまでもブラームスの音楽が鳴っていた。
了
如何でしたでしょうか。ご感想頂けると幸いです。
来週末(2/11)には全く違った切り口の、冒険ファンタジーを投稿する予定です。
本作以上の長編で、何話に分かれるかはまだ未定です。