第一楽章
本作はタイトルにある曲を「物語にしてみたい!」という発想から生まれました。映画に例えると、BGMは脚本が出来てから音楽をあてがう(と思う)ものですが、その逆をやってみました。世界中の小説家に一発ずつ殴られそうな壮大かつ無謀な挑戦ですね。
なので、もし読み終えたら掲題の曲を聴いてみるのも一興かもしれません。Youtubeにたくさんアップされています。
交響曲通り、話は四楽章(四話)に分けています。一話目は一人語りで読み難いかもしれませんが、二話からは登場人物も増えちょっとコミカルになっていきます。我慢して一話目を通読して二話目に期待してもらうと嬉しいです。
湯船につかっていた清美は強い耳鳴りを感じ、何かが身体をすり抜けたような不快な気分になった。鼓膜の痛みに耳を押さえ顔をしかめていると、湯がはぜた。
建物全体が激しく横に揺れ、洗面器や風呂蓋がゲタゲタと笑い浴槽洗剤や入浴剤が降ってくる。地震だ。湯船は突然大海原に放り込まれた様相になる。まったりくつろいでいた清美は恐怖を覚える間もなく「お、と、と」と浴槽の中で二手二足をふんばり必死に体勢を整えたが、身体が激しく縦にバウンドし、滑る、よろける、立て直すを繰り返す。悲鳴を上げている間さえない。自室の風呂場で溺死なんて洒落にもならない、などと嫌な想像をする。さすがに水を飲んでしまうことはないが、湯が鼻っ柱を打つと泡を食う。いっそ息をこらえて潜ってみようかとも考えたが、もちろんそんな勇気も湯船のゆとりもない。文字通り四苦八苦していると、
バタンと唐突に闇が落ちた。
停電だ。風呂場は漆黒の闇に包まれる。
「震度……四ってとこかな」
暗闇の中、落ち着きを取り戻した清美は独りごちする。アパートが傾く気配もないことから、それ以上でないことを勝手に推察した。暗闇の中で風呂の湯が未練がましく波打っている以外、浴室は先ほどの震えが嘘だったかのように静かだ。アパートは防音設備が整っているので、外部からの音は聞きづらい。耳を澄ますと外は相変わらずの雨で、辺りは暗黒とも呼べる闇が眼前一杯を覆っている。停電するほどの揺れだったろうか。確かに横揺れの長さは普通でなかったが、自室は大した被害はないだろう。しかし暗闇は人を不安にさせる。取り敢えずこの無防備な状態をなんとかしなければと、清美はタオルで髪を結って脱衣所へ向かい、身体を拭く。ショーツはあらかじめ用意してあったので、闇の中でもさして苦労することなくはけた。全身をバスタオルで巻き、深呼吸して自室をのぞいた
清美は年中雨戸を閉め切っているので真っ暗闇を想像したが、天井の角に非常灯のようなものが点っていた。停電に備えての器具なのだろう。電池で発光しているようだ。清美はその存在すら知らなかった。薄暗いことに変わりはないが有り難い。清美は部屋を見回す。
頼りない灯火の中両手で触りながら部屋をチェックして回る。テーブル、パイプベッド、エアコン、パソコンを置いた机、液晶テレビ、ゲーム機、クローゼット、冷蔵庫、洗濯機、全て問題なし。二対の棚からは本や小物がかなりこぼれているが、被害のうちに入らないだろう。
いや、停電が起きたのだ。先ほどまでやっていたゲームのプレイデータが全てぱぁだ。清美は舌打ちする。入浴前にセーブしておけばよかった。前回セーブしたのは一〇時間以上前なのでその間のプレイは無駄になった。もう一度舌打ちし、床に座りパイプベッドに背をもたれる。
停電を伴う地震、しかし全く現実感がない。あの程度の揺れで電気が止まるとは思えない。雨音が遠くから聞こえる。風もあるようだ。停電はこの区画だけ、きっと数分後には復旧するだろうと想像する。そして住民から苦情が寄せられ、電力会社の地域担当が謝罪し……それで終わりだ。清美にとっては一〇時間分のプレイが悔やまれるくらいだ。そもそも日本は幾多の震災を経て……
カタ、カタガタ。床に落ちた小物が小刻みに震える。まるで地獄の釜が沸き出したように、悪魔が降臨し高揚感を溢れさすように床が振動をはじめる。振動はその都度リズムを速くし、広がり大きくなり建物を軋ませ、突如ドンドンドンドン! と床が激しく跳ねた。でかい! これが本震!? 「いやーー!」今度こそ清美は絶叫し、反射的にパイプベッドの下に潜り込んだ。我ながら奇跡的な瞬発力だ。ベッドの下にあった雑誌や段ボールなどごちゃごちゃしたものを膝で蹴り肘で押しのけうつ伏せの体勢で身を隠す。「きゃあーー!」反射行動は冷静だが精神はパニックに陥っている。這った体勢で夜目を凝らすと、非常灯の明かりの中、テーブルが棚が、キッチンの冷蔵庫が! おもちゃのように弾んでいる。信じられない光景だ。あっという間に棚は横倒しになり中身が散らばる、テーブルはサイコロのように忙しく転がる、あの重たい冷蔵庫も敢えなく横倒しになり弾み、キッチンから遙々部屋まで移動してくる。あちこちでガラスが割れるような音が聞こえ、床に転がった全ての物が踊っている。南側のサッシは金属音の悲鳴上げ、それに混じって重い物が叩く鈍い音が聞こえる。エアコンが外れかかっているのだろうか。全てが崩壊していく。天井や柱が崩れたらパイプベッドでは堪えられないだろう。圧死? 嫌だ。下着姿の自分を呪った。さっさと上着を着るべきだった。野口清美さんは下着姿で瓦礫から発見されました、というアナウンスを想像する。風呂場で溺死の次くらいに嫌だ。清美は目を閉じて耐えた。
何十秒か何分かの時を経て、揺れは収まった。そして私は生きている、怪我もない、しかし身体全身がしびれたように動かない。今の恐怖で身体が動くことを放棄しているようだ。寒さではなく恐怖で震えている。もちろんこんな体験は初めてだ。
何度か深呼吸し、落ち着きを取り戻したことを確認してからベッドから這い出る。「震度五……強?」発破された自室を眺め、また一人ごちた。辺りは雨音以外聞こえない。震度三前後であれば数え切れないくらい体験し、当てずっぽうでも想像できたが今回は見当もつかない。小さく見積もって震度五以上か。このアパートの隣人はどうしているのだろう。際立ったざわめきはない。このアパートは防音設備が売りだったので、隣人の気配は感じなくて当然かもしれない。考えてみればアパートに住んでいる人達とは全く面識がない。独身者向けアパートだからそんなものだろうが、今のような有事の時はちょっと気になる。
淡い光を灯す非常灯を頼りに改めて闇の中で目を凝らし部屋の状況を見渡す。立っている物がほとんどなく、壁紙が見晴らせる分やけに広くなった錯覚を覚える。エアコンはダクトだけが引っかかり縦にぶら下がっている。清美は年中雨戸とカーテンを閉めているのでサッシの具合はわからない。非常灯が落ちもせず点っているのが奇跡に感じる。床面は散々たる有様だ。絨毯はその模様すら見えず、棚は全て倒れ、うつ伏せの冷蔵庫の上にテーブルが乗っている。キッチンの床は透明な物がまかれているように見える、おそらくコップや磁器が散乱されているのだろう。素足では歩けそうにないが、清美に部屋にスリッパはない。不格好にずれているコンロを見て意識的に臭いを嗅いだが、ガス漏れの恐れはなさそうだ。清美が命を預けたパイプベッドの上は、さして重たい物は落ちていなかった。熟睡中であっても即死は免れたわけだ。しかし考えてみればパイプベッドの床は網状なので、重い物が落ちてきたら潜っていても一巻の終わりだった。それよりなにより、このアパートが手抜き工事でなかったことに感謝した。
とにかく服を着なければ、何よりもそれからだ。クローゼットの扉は鈍い重さを感じさせつつも開いてくれた。停電下とあって中身は全く見えない。記憶を頼りに手探りでシャツ、ジーンズ、ブルゾンを引っ張り出しそそくさと着替え、厚手の靴下も探して履いた。ついでに冬物として仕舞ったばかりのジャンパーを羽織る。足下の心配は玄関の靴かお便所スリッパか悩んだが、取り敢えずお便所スリッパでまかなうことにした。一通り身に纏い、ベッドの上に座り壁によりかかってやっと人心地ついた。
闇が深い分、雨音が段々癇に障ってくる。数分前、すぐ復旧するだろうと思っていた送電はまるで当てにならなくなった。「地震かぁ」清美は暗闇の中膝を抱えてつぶやいた。小学生の頃、授業で幾つかの大震災記録映画を観た。柱が根こそぎ折れて横倒しになった高速道路。火災という二次災害で燃えている住宅地。空襲跡地のような街並み。建物が崩れる様も恐ろしかったが、別の震災記録に映されたTSUNAMIのインパクトは忘れられない。押し寄せる波、車が家屋がミニチュアおもちゃの様に流されていく。滝のような引き潮、陸に取り残された漁船。ひと波で平地になってしまった住宅地。隣りで観ていた子は泣き出してしまった。何千何万人もの死者・行方不明者。本当に起きたこととは思えない、と子供心に怯えた記憶がある。だが。
「今回はどうなんだろう」
またあの惨状が起きているのだろうか。想像して暗澹たる気分になる。膝を抱えたままため息をついた。清美の住んでいるアパートはいわゆる新興住宅地。百五十年前は森林だったろう山々を削って街に変えた場所だ。TSUNAMIの心配はまず無い。
「ここまで届いたら日本水没だな」
と苦笑する。まだ震源も震度も被害も皆目見当がつかない。
過去の地震を振り返っていると、ふと違和感を覚えた。昔の記憶と照らし合わせると、この地震は何かがおかしい。漠然と思いを馳せている最中、もっと身に迫った現実的な問題に気づいた。
「そうだ、玄関!」
清美は肝心なことを忘れていた。命あっても閉じこめられたら堪らない。清美の部屋は二階なので窓から脱出もできないのだ。お便所スリッパを履き、不安な気持ちで玄関に近づく。オートロックで申し訳程度しかないドアノブを押すが、いつも通りには開かず、サッと血の気が引く。建物自体が歪んだのだろうか、押す力を次第に強くしていくと金属の甲高く鈍い音を立てて動いていく。ある程度開いたら突風でタガが外れように勢いよく開いた。開いた景色は
「え?」
外は土砂降りの暴風雨だった。
轟音と共に水が横殴りに飛び込んできた。叩き突ける雨粒はパチンコ玉ほどあるかと思えるほど激しく重く降り注ぎ、清美の顔、膝、腕、胸元をあっという間にずぶ濡れにする。強風は清美が頭に巻いたタオルを軽く吹き飛ばし、屋内まできて床面に散らばった小物を渦まき散らす。雨音に混ざって吹いているのは電線が震える音だろうか。雨粒が機関銃、強風は死神の鎌、電線はさしずめしなり狂う鞭のようだ。間違いなく台風だ。台風が来ていたのだ。今まで気づかなかった清美をあざ笑い挑発するように雨粒が顔を叩く。
部屋でベースを弾いても迷惑がかからないよう防音効果が売りのアパートを選んだのだが、雨戸も年中閉めて外気から密閉された部屋にこんな盲点があるとは思わなかった。確かに何日も表へ出ず空さえ見ていなかったが、まさか台風が来ていたとは。独り暮らしかつ世情に疎い生活の報い。テレビも新聞も見ずゲームばかりしていれば季節も時間も疎くなる。食事はチンするものかお湯かけるものだけ。フライパンもいつ使ったものか覚えていない。外にでるのは一週間に一、二回だ。
とにかく、気を取り直して扉を閉じる。が、今度は閉まらない。精一杯の力を込めたが扉は残りの数センチほど余してそれ以上は閉じられない。密封するのは諦めた。けたたましい雨音と湿気を含んだつんざく風が不愉快だが、無理に締めて今度はまた開かなくなるも困るのでとりあえずこのままにしておこう。
改めて着替え、先ほど寄っかかっていた壁にもたれ膝を丸めて考えた。巨大地震と台風。最悪の組み合わせだ。瓦礫に埋まった人が命を維持できる時間は、温度と雨量に大きく関わるらしい。想像しただけでゾッとする。それとも火災という二次災害の延焼を豪雨がくい止めてくれるのだろうか。とにかく今自分に生があることに改めて感謝しよう。しかし。
「これからどうしよう」
どうにかしなくちゃ。何を? どうやって? 一つ一つ問題定義して解決していこう。
まずは灯りだ。非常灯は有り難くも点っているが、それでもこの薄明かりでは部屋の中を歩くことさえままならない。懐中電灯、ろうそく、そんなものは持っていない。備え無ければ憂い有りだ。昔煙草を吸っていたときのライターはあるだろうか。確かキッチンの引き出しに放っておいたはずだ。闇の中を歩く度にお便所スリッパ越しに何かをぱりぱりと踏んでいる。半開きになっている引き出しを開け手探りでかき回すと、使い捨てライターを二個みつけた。灯をともすと頼りない炎が弱々しくあたりをオレンジ色に照らし、すぐ消えた。ガスがぎりぎりあるかないかだろう。大切に使わなくては。しかし光源を得るには何かを燃やす必要がある。たいまつをイメージしたが、まさか雑誌やチラシに火をつけるわけにもいかない。燃えやすく長持ちして危険でないもの。しかも大雨の中でも消えにくいもの。見当がつかない。炎は却下だ。
そうだ、ケータイ。ケータイならライトがつくはずだ。清美は普段枕元の充電器にケータイをのせている。ベッド周りはあまり荒れていなく探しやすい。パイプベッドの周りをなぞるとゴツい固まりが見つかった。早速操作すると眩しすぎるくらいの明かりで一瞬目がくらみ、モノトーンだった景色が久しぶりに色をなす。清美のケータイは頑丈で防水で大容量バッテリーが特徴だ。なんとなく格好いいから選んだだけだが、こんな時は本当に頼もしい。まずは第一関門、明かりの確保はクリアだ。試しに父の職場にかけてみたが案の定つながらない。思った通りだし当分は復旧しないだろうから、代わりに一七一(災害用伝言ダイヤル)にかけ「部屋はめちゃめちゃだけど、私は平気だから」と短いメッセージを吹き込んだ。忙しい父だ、十分だろう。これすら聞いてくれるかどうか疑問だ。
ケータイライトで改めて部屋を見回す。想像以上に散乱していて思わず嘆息する。自分の部屋ではないようだ。液晶テレビは前倒しになっていて画面の状態はわからない、割れていないことを祈ろう。ゲーム機は元にあった場所からかなり移動しているが損傷はなさそうだ。明かりを確保して心配するのがこの二つであることに、清美は我ながら呆れる。ある程度様子をうかがったところでライトを消した。今後いつまで使用するかわからない。こまめに使わなくては。
次は情報だ。とにかく地震による影響を知りたい。いろいろ考えあぐんだが、最寄りのコンビニへ行ってみることにした。店員や客から何らかの話しが聞けるだろう。最寄りといっても徒歩十分はかかるし外は豪雨なので、レインコートを取り出した。バイクに乗ると言い張ったときに父が買い与えてくれたものだ。工事用ブルーシートより厚手のフード付きツーピースで、そのままマグロ漁船に乗れそうな代物だ。
闇夜に台風の中を一人歩きするのは危険だ。闇に乗じて誰に襲われるかわからないので、バイクを使うことにした。扉が閉まらないのは心許ないが、こんな時に独身者向けアパートに侵入する輩もいないだろう。防水グローブをし、合成樹脂でできた密着性の高いブーツを履く。駐輪場まで無いよりましかと思い手にした傘は、差した途端に強風にあおられ一瞬で骨と皮だけになった。
アパートの廊下から街並みを観察する。街灯はところどころ点いていた。おそらく二次電源を搭載したものだろう。しかし数は知れている。廊下の照明はもちろん消えていて、階段はもとより廊下もケータイライトで照らして慎重に歩く。ここで滑って転べば先ほどまでの幸運が水の泡だ、我ながらじれったいほど慎重に段を降りた。フードを叩きつける激しい雨音は聴力を麻痺させ、まるで雨期の熱帯林を歩いているようだ。
駐輪場はアパートから二ブロック先にある、車・バイク兼用で鉄骨むき出しの三階建て。各階に二列四マスに仕切ってあり、一マスに車なら一台、バイクなら二台停められる。最近は車離れが進んでいる。理由は購入するにも維持するにもとんでもない税金がかかるからだ。「重量税ってなんだよ、俺の車の重さが誰に迷惑かけたさ」と珍しく車を購入した知り合いはぼやいていた。おまけに二年前から車両駐車場料金にも税が加算され、逆にバイクは運転者以外に幼児を含め二人まで同乗できる法律と新型バイクが用意されたので、独身者や小所帯な家族はバイクに流れた。実際、渋滞という過酷な時間の無駄遣いは一昔前に比べると減りつつあるそうだ。
清美のバイクは駐輪場一階に停めてある黄色い中型スクータータイプだ。この車体に縦縞で黒に染め「スズメバチ」と呼んでいるお気に入りだが、人からはプロ野球ファン? と聞かれるのが玉にきず。バイクをみる度に父との諍いを思い出す。どうせ俺が金出すのになぜ車にしないのだ、むき出しで時速百km走る乗り物なんてとんでもない、自分が安全運転でも事故に巻き込まれることは十分ある、などなど。結局清美は強行突破で免許を取って車両も買ってしまった。さじを投げた父からの要求は一.必ずフルフェイスのメットをかぶること、二.真夏でも長袖長ズボンで乗ること、三.無茶はしないこと。三の意味が曖昧でよくわからないが、清美はきちんと守っている。バイク乗りなら当然なことだが。
駐輪台をケータイライトで確認しながら、IDカードをタッチしバイクの施錠を解除する。ずいぶん長いこと乗ってなく、チャージプラグにも繋げていなかったので電駆動は無理だろう。キー代わりのIDカードをバイクに差し込みイグニションダイヤルを右一杯にひねるが電駆動ランプは予想通り無反応。ドライブモードをオートから手動にし、駆動をガソリンにしてキックスタートするとあっさりエンジンはかかった。やはりハイブリッドバイクにして正解だ。昨今はバイクもフル電動が半数を占めるが、駆動系は一つより二つあった方が安心できる。この知恵を授けてくれたのは皮肉なことに父だった。何故か父の世代は車もバイクもフル電動に不信があるらしい。
コンビニまで数分もかからない。父との約束通りメットをかぶりバイクに乗ってゆっくりとスタートした。ガソリンエンジンの振動は至極なめらかで、ドライブモードをオートにした場合どっちで走っているのか気づかないくらいだ。ライトを点けるとトンネルを抜けた様に景色が広がり、目が痛むと同時に知らず緊張していた神経がふっと緩む。しかしメット越しでは闇と雨で視覚も聴覚も頼りにならない。慎重に慎重に走らせる。ここは埋め立て地ではないので液状化の心配は低いだろうが、アスファルトが割れたり歪んだりしている可能性は十分ある。ゆっくりと家屋を見回しながら進むと、ろうそくやライトを点けているだろうか、点々と家屋からオレンジ色の淡い光がもれているのがわかる。大雨で生活音は聞こえない。
豪雨の中ジェットスキーに乗っている気分でコンビニに着いた。雨量は多いがメットとレインコートのお陰で身体は濡れていない。看板の明かりが消えたコンビニは、店内も薄暗く豪雨の割にはまばらに人がいた。メットを脱いで店内へ入る。真っ暗ではなく照明がぽつりぽつりと点いているのは自家発電だろうか。店内は予想に反して大きな被害はないようだ。商品陳列棚も倒れていない、床に落ちた商品もまばらだ。清美のアパートだけが大げさに揺れたのだろうか。
店員が拡声器を持って叫んでいる。
《先ほど発生した大きな地震で送電がストップしたため、現在IDカードや電子マネーでのお買い求めは出来ません。お買い上げは現金でお願いいたします。購入時の混乱を避けるため、商品は一人お一つでお願いいたします。お弁当・おにぎりは完売。懐中電灯、乾電池、ろうそくなどの照明・電気機器も全て完売となっております。ご了承下さい。繰り返し申し上げます。先ほど発生した……》
地震発生からずっと喋り続けていたのであろう、店員の声は涸れている。拡声器からの内容はおおむね予想通りだ。今どき現金を持って買い物する人がいるのかと思ったが、この事態を見越していかのように現金払い客は多かった。しかし所在なさげにぶらぶらしている客もいる。考えていることは清美と同様だろう。ここに来たらなにか分かると思ったのだ。出発してから今まででわかったことは、この近辺で家屋倒壊など惨事は起こっていなさそうなこと、コンビニに来ても余り情報収集にならないということ、そして店内から察するに地震は思ったほど実被害がない……? ということ。停電被害の方がよほど堪えているようだ。それでも客同士や二人連れで来ている客の話し声だけでも参考になる。
「テレビはともかく、ラジオも使えないってのはどういうことだろう」
「全く聞こえなくはないみたい。雑音混じりに地方局は聞こえてる」
「震度六以上あったよな」
「え? そんなでもなかったぞ、ウチは」
「電話は全滅だった。全く役に立たない」
「EEWも流れなかったしな」
そうだ! 地震直後に感じた違和感の原因の一つはEEW、緊急地震速報だ。地震波をいち早くキャッチし警告するシステム。近年はビデオを観ていたりゲームをやっていても、そしてテレビを消していても自動的に画面が切り替わり警報が鳴る。そして一番身近に警報してくれるのが携帯電話だ。今までも何度かあの警報で慌てたことがある。結果到来する地震が震度二、三であろうとも、あからさまに抗議する者は少ない。それだけ頼られてきたのだ。しかし今回は全く鳴らなかった。清美は念のため携帯電話を確認してみたが、やはり警報の履歴はない。胸の内にどす黒い不安が渦巻く。一体何が起きているのだろう。
意を決して店員に声をかけてみる。
「あの、すいません」
「はい?」
店員は迷惑そうに返事をする。それは清美に対してではなく、騒ぎに疲労しているからだろう。
「なにか、地震に関して情報はありましたか?」
「ありません。EEWの警報もなく全てが唐突だったので驚いています。本社からの連絡がないし、通じません。今は災害時マニュアルに則って営業してます。警察官が一度寄りましたがすぐに他方へ行ったようです、やはりかなり慌てていましたね」
何度も聞かれたのだろう、店員はすらすらと事情を説明した。
「台風は、台風の状況はどうですか?」
我ながら間抜けな質問だ。店員の顔色は一転し、いぶかしむように、
「見ての通りです」と答えた。仰る通り。
これ以上手を煩わせても申し訳ないのできびすを返し店内をぶらぶらした。あわよくば新しい情報を聞きたかったが、客の会話は似たり寄ったりだ。見知らぬ客を捕まえ質問するのも気が引ける。歩き回っているうち、入り口の自動ドア付近に新聞の自動販売機があることに気づいた。普段は外においてある物だが、強風雨のため店内に移動したのだろう。IDカードをタッチしたが、やはり電源が入っていないので反応はない。新聞販売機の前でぽつねんとしていると、
「鍵は開けてありますから、勝手に持って行っていいですよ!」
と店員の怒鳴り声が聞こえた。夜になってからの朝刊は需要がないのだろう、ありがたく三紙まとめていただくことにした。
帰りも凶暴な雨量だったが、メットとコートのおかげで全く濡れていない。マグロ漁船仕様のレインコートに感謝をしつつ自室に戻る。開錠の癖でIDカードを取り出したが扉が閉じていないことを思い出した。いつまでもこのままではまずいがあの地震の後だ。扉の修理をしてもらうのにどれだけかかるだろう。清美はこの部屋にとどまるのを半ば諦めている自分に気づく。どうせ当分はゲームどころではないだろう。
多めに貰った新聞紙は、生活面・経済面など現状では必要ない面を間引いて、ガラスの散らばったキッチンや何が何やらわからなくなっている床面に敷いた。そして各社三面記事をパイプベッドに並べ、携帯電話の明かりを頼りに読み始めた。日にちは六月二十二日、もちろん今日の日付だ。
「二国間緊張高まる。緊急事態宣言発令か」
「米観測衛星にトラブル、復旧のめど立たず」
「台風六号、本州に上陸」
三紙とも似たり寄ったりで、乱暴に分けるとこの三つが主なニュースらしい。北との緊張が高まっているのは気になるが、緊急事態宣言という文言はネットでも毎月毎週の様に踊っている。人工衛星の記事も興味をそそるが今はそれどころではない。とにかく差し迫った台風の情勢と現状を追う。
「フィリピン南部で発生した大型で勢力の強い台風六号は六月二十一日二十一時現在で中心の気圧は九百五十ヘクトパスカル。瞬間最大風速は秒速二十五mから三十m、紀伊半島から本州に上陸し東名阪を沿うように東北東に進む見込み」
見込み通りになって関東地方を直撃しているわけだ。清美はベッドの上であぐらをかき腕組みし考える。上陸直前で九百五十ヘクトパスカル前後は尋常ではない強烈な勢力だ。しかも、自信はないがまだ梅雨は明けていないだろう。年々梅雨入りも梅雨明けも大きくずれていると聞く。天気図に目を凝らすと梅雨前線が本州を沿うようにがっつり延びている。台風が前線に乗って上陸したら、各所でゲリラ豪雨が発生し、もはや雨とはいえない滝のような降水になるかも知れない。浸水、てっぽう水、土砂崩れ、被害は計り知れない。この台風は大災害を及ぼす危険が十分にある。ひょっとしたら……。ひょっとしたら地震はともかく停電の原因はこの台風のせいではないだろうか。最初の揺れは大したことなかった。いや十分驚いたけど大停電になる程の大きさではなかった。台風、停電、地震。清美の頭の中でこの三つが回っている。
ある新聞には天気図の紙面に小さなコラムがあった。
「【迫り来る気象変動】毎年のように猛暑冷夏、寒冬暖冬が取りざたされるが、台風の発生が狂っていることも忘れてはならない。台風はもはや夏の風物詩ではなく、梅雨入り前の五月下旬や、十月下旬に本州を襲来した記録もある。北極の氷は観測以来減り続け昨年はついに最盛期の三十%を切っている。未曾有の天災も近いかも知れない」
要約するとこんな内容だった。今回の台風と異常気象をこじつけたいらしい。
「近いかも知れないっていわれてもなぁ」
清美は暗い天井を見上げた。私達のせいじゃない、という言葉は飲み込んだ。言っても詮無きことだ。
情報収集はこの程度か。全くなにもわかっていないも同然だが、現時点ではこれで精一杯だ。時期が来れば自ずと入ってくるだろう。さて次にやることは。
「腹減ったなぁ」
考えてみれば半日以上何も食べていない。もともと食事に頓着ない清美は、放っておくと丸一日食べない日さえある。だが憔悴している今こそ摂食しておいた方が良さそうだ。普段の清美の食事はお湯をかけるかチンするものばかり、電気もガスもない状態ではどちらもままならない。
「乾パンでもあれば」
と呟いてから口元をゆがめる、一体いつの時代だよ。
暗い部屋の中で食料の家捜しを始めた。キッチン下部の物入れにはスナック菓子、レトルト食品、インスタントのラーメン・焼きそば・パスタ、チンするライスが見つかった。ライスをそのままかじるのも酔狂だがそれは最悪の事態にとっておこう。あとは……冷蔵庫を振り返ると見事にドアを下にしてうつ伏せに横たわっていた。お便所サンダルを履き渾身の力を込めて裏返す。勢いパリだかグシャだか冷蔵庫につぶされる音がしたが大事に小事だ、気にしない。扉を開けると、ウーロン茶、清涼飲料水、ビール、ビール、ビール、飲みかけのワイン、スティックチーズ、カマンベールチーズ。マーガリン、塩醤油タバスコ七味とうがらし練りわさび。冷凍庫には冷凍食品、そして未開封のクロワッサンが一袋みつかった。これは大きな収穫だ。いつ買って何故冷凍庫に入れたのかさっぱり思い出せない。袋を確認すると賞味期限をとっくに切れていたが、冷凍していたのだから大丈夫だろうと勝手に決めつけた。
割れていない平皿を探しレトルトカレーをぶちまけ、凍ったクロワッサンにつけて食べてみた。「お、これはなかなか」いける。本場カリー店のナンを食べるような感じか。チーズとクロワッサンも相性がいいようだ。クロワッサンは凍っていてバリバリするが、こういう食べ物だと思えば悪くない。さすがに温めていないカレーの具は苦くて味気ないが、バランスを考えると食した方がいいだろう。五つあったクロワッサンはすぐに胃袋へ収まった。最後にウーロン茶を飲んで口の中をさっぱりさせた。
そういえば水道は通っているのだろうか? キッチンの蛇口を傾けると何事もなかったように水が出てきた。心なし濁って見えるのは気にし過ぎだろうか、それとも暗闇だからだろうか。ついでにコンロをひねったが、やはりガスは点火しなかった。当たり前だ、安全装置が働いているに決まっている。
ぜいたくな食事を済ませ一息ついた。締め切れない玄関からはいまも風切り音が聞こえる。一七一にコールしたがメッセージは入っていない。
「やっぱ父さんのところへ行くべきかな」
ぼんやり考えていたことを口にする。せめて台風が過ぎてからにするべきか。しかし天気図をみる限り大陸気団の勢力が強く停滞する恐れもある。この状況で一晩、最悪明日の晩まで過ごすのは憂鬱だ。余震はもちろんだが、日本の、特に関東の治安は昔に比べかなり悪くなっている。やくざまがいも横行し少年窃盗団など物騒な子供たちも増え、治安国家日本は今や昔の話だ。扉の閉まらない部屋で過ごすのは怖い、睡眠もままならない。父は職場に出突っ張りだろうし、父と接触できなくても家族と知れば保護してもらえるだろう。台風の中をバイクで疾走するか、閉じない扉に怯えながら助けがくるまで寝て過ごすか。
清美は前者を選択した。
父の職場は新宿だ。普段ならばバイクで一時間半ほどで着くだろうが地震の後でこの暴風雨だ、かなり長く見積もった方が賢明だろう。ケータイの時計を見ると十時三十分、地震が起きたのは八時半前後だったろうか? 風呂に入ったのは……覚えていない。地震が起きてからはとにかく慌ただしかったので時間を確認する余裕もなかった。これから長時間バイクを走らせるとすると、仮眠をとった方がいい。とるべきだ。三時間寝て三時間かけて新宿に向かうとすると着くのは早朝か。迷惑かも知れないが喧噪が静まっている(であろう)分、混乱に巻き込まれず都合がいいと思う。何時だろうが着いてしまえばどうとでもしてくれる。よし、それでいこう。
ベッドに広げた三面記事を畳み、敷き布団の上を丁寧に払い横になってみる。と、とたんに地震の恐怖がよみがえり飛び起きてしまった。余震に対する恐怖があるのだろう。緊張の連続だったせいか、気を緩ませることの出来ないのかも知れない、と自己分析をする。これがPTSDというやつか。いやいや、きっと一時的なものだ、問題ない、問題ない、と自分に言い聞かせる。義務として寝るのだ、いや、とにかく横になってリラックス、寝ることは考えずにとにかく横になって目をつむるのだ。ゆっくり穏やかに復唱する。深過ぎない深呼吸をしながら横になり掛け布団をまとう。頭の中は真っ白、なんにも考えないよう、自己催眠のように言い聞かせる。玄関からの風切り音も気にならなくなってきた。敷き布団へ吸い込まれるように眠気が誘ってくる。意識が遠のく間際、地震発生直後に感じたもう一つの違和感を反芻した。
なぜ第一波の揺れで停電が起きたのだろう?
なぜ第二波の揺れの方が大きかったのだろう?
夢を見た。
夢には現実に起きていると錯覚するものと、あぁこれは夢なんだなと俯瞰した気分でいられるものがある。後者は端から見て滑稽で笑ってしまう夢であったり、歯軋りするほどやるせない夢だったりする。今回は俯瞰した夢だ。清美は池の縁に足首まで浸かって立っていた。池はアメーバのように歪んだ楕円だ。池の水は透明と思えたがよくみると濁り、どんよりし、暗くなり、墨汁のように深い黒になり、オイルになりコールタールのように粘性が生じ、その液体は清美の膝まで浸した。嫌な予兆にも感じる。液体は重くて足が抜けにくいが、今はそれどころではないらしい。清美の目は正面を見入っている。水面に後ろ姿の女性が立っている。池にはまることなく、黒色の水面にきれいな波紋を散らしながら浮くように立っている。水面を歩くのはなにトカゲだっけ、俯瞰した私はくだらないことを考えるが、夢の中の清美は水面に佇む女性に釘付けだ。女性は明治初期の婦人のような格好でもあり、京都の舞妓さんのようでもあった。いずれにせよ和服だ。全く色彩のないモノクロカメラで撮ったようでもあり、袖から帯から色彩豊かで艶やかなものでもある。女性は清美が近寄る気配を、清美は女性が歩き出す気配を窺っている。「母さん」動き出したのは清美からだ。顔すら見せないその女性に清美は呼びかける。聞こえているのかいないのか、振り向きもしない。私は母さんを知らないし、写真もビデオも見たことがない。母さんなわけないじゃん、振り向くわけないじゃん、俯瞰している私は思う。しかしどす黒い池にいる清美は追いたいようだ、会いたいようだ。女性は水面の優雅に歩き出した。下駄も足袋も汚すことなく軽やかに、黒い波紋を作りながら歩いていく。対照的に清美はどす黒い液体から足を引き抜き一歩前へ。片方の足を引き抜き一歩前へと歩く。気がつくと清美の身体は腰まで浸かっている。清美が一歩あるく間に女性は五歩以上歩く。追いつくわけがない。遠ざかるほどムキになって追いかける。気づくと女性はどす黒いアメーバ状の池から離れ、空を歩いている。私はそんな自分を傍観する。自身の恥部を露わにさらしているようで気分が悪くなる。いや、私は母に執着もしていない、そんな気持ちははなから持っていない。そもそも会ったこともない母に特別な感情など持ち合わせていない。たまたま深層心理とやらがこんな恥ずかしい夢を見させているだけだ。深層心理は私の一部だけど全部ではない。こんな場面だけで私を語るな。ドンドン! 叩いているのは俯瞰した清美自身だろうか。ドンドン! そうだ止めろ、こんな茶番劇。ドンドンドン! 早く起きろ、目を覚ませ。ドンドンドン! 「のぐちさーん」そうだ私は野口清美だ。ドンドンドンドン! 「いないんですかー、野口さーん」そうだここにいるのはのぐちし
飛び起きた。寝汗でびっしょりだ。慌てて返事をする。
「はーい、ちょっと待ってくださーい」
何か悪い夢を見ていたようだ。生返事をしながら必死に意識を現実へ戻す。揺れて消えて降って困って食って寝て、そして来客だ。外出着のまま寝たのは幸いだった。相変わらず風切り音の激しい玄関に注意を向ける。閉め切れていない扉の向こうに人が立って……いるようだ。ドアチェーンをしていない、試してすらしていない自分の迂闊さを呪った。ケータイのライトを点けゆっくりと玄関に向かう。対衝撃仕様のケータイだ、いざとなったら鈍器にもなるだろう、しかしここまで慎重にするほどなのだろうか? 敵意のある侵入者はノックなどしない。自分の警戒心に呆れるやら誇れるやら。いや誇れるほどなら最初から玄関の問題をなんとかしてから寝るだろう。単に思慮の浅いビビりなのだ。
「隣りに住んでる堀巻というものです」
ライトを当てると日焼けサロンに通った羊のような男が立っていた。三十代半ばといったところか。もちろん面識はない。
「あ、お世話になっています」
清美はぺこりと頭を垂れる。身体にまとわりつく視線を感じた。不快だ。
土砂降りの中での会話だ、自然大声で叫びあうような会話になる。
「いやぁ、なんか大変なことになってるでしょ。野口さんのところはどう?」
「いやもう、命あったのが奇跡みたいなもんで」
「でしょ。あれからしばらくして、やっぱアパートの住人がどうなったか気になってね。逆隣りの沢見さんとしばらく話し込んで、やっぱこのアパートの住人だけでも安否確認できないかなって。普段交流無いから躊躇したんだけどやっぱ気になるから。やっぱ手分けして確認しようって、ずいぶん遅くなっちゃったけどね」
「はぁ」
堀巻は喋りながら清美を胸元から太股までを露骨に舐め回すよう視線を送る。品定めされているようだ。蛇の舌をもった羊男。肩まで伸びたパーマの上から頭をかきながらいう。
「さいわい打撲とか硝子で切ったとか軽傷の人ばかり。で、最後に野口さんのところに来たわけ。扉が閉まりきってないから逆に心配したっていうか逆に躊躇したっていうか。でもしつこく声をかけて良かったよ。寝てたのかな、起こしちゃったみたいで悪かったね」
「いえ、そんな。ご心配おかけしまして。私はかすり傷一つありませんから」
「それは良かった。で、野口さんはお一人?」わかりきった質問をする。
「いえ、主人が、まだ帰ってきてません」
我ながら白々しいウソに赤面、耳まで熱くなるのがわかる。堀巻は一瞬口を歪めたが「へえ、それは心配だね」とウソに乗ってくれた。それとも鼻で笑っているのか。
「それじゃ、このアパートの人は軽傷者だけなんで、安心して、ね。」
堀巻は長居せず帰ってくれそうだ。
「あ、扉、すぐに直るといいね。用心してね」
具体的なアドバイスはしてくれずにきびすを返した。
清美は部屋に引っ込む振りをして、堀巻の様子を伺った。自室の扉を開けて開口一番「主人だってさ」という笑い声が聞こえたような。そして中からだみ声の笑い声が聞こえたような。忌々しい雨音が確信を曖昧にしてしまう。
扉のチェーンロックはやはり届かなかった。しかし策を弄する必要もない。すぐにこのアパートは出て行くからだ。清美は今更になって怖気を感じた。信じられないことだが、堀巻はあの暴風の中でもはっきりわかるほど酒臭かった。そして堀巻の部屋には複数の男たちがいるはずだ。壁に耳を当てるがここは防音が売りのアパート、男達が酒盛りしているはずの隣室は物音一つも聞こえてこない。が、地震とも台風とも違う恐怖が清美を襲う。
独り暮らしの女性が強姦・殺害され、その犯人は同じアパートの隣の住人だったという事件を思い出した。他人事のように聞いていた犯罪が今、自身の身に迫っている。昨日まで気楽な一人住まいだったアパートが、隣人を知っただけで突然危機感を覚えてしまった。今の来訪は下調べ、次にどんな行動を起こすのか、考えたくもない。女暮らしの誇大妄想かも知れない、そうであって欲しい。しかしここに居ては、留まっていれば体力以前に神経が参ってしまう。
ケータイの時計を見ると日付がかわって0時半を回っている。皮肉なことに掘巻の来訪が目覚まし代わりになったわけだ。もう一度考える。ここに留まるべきか、出立すべきか。深夜に豪雨の中バイクで走るのは危険だ、特に今回のような状況では何が起こるかわからない。しかし先ほどの来訪者と私の妄想を顧みると、一分もここに長居したくない。理論的警告より生理的悪寒が上回った。当初の予定に変更なし、出発の準備だ。
天袋からディバックを探す。闇の中なので握っては投げ握っては投げ放り出す。一通り投げ降ろして目的のディバックを見つけだした。飲食料、衣類、申し訳程度の貴重品。まとめてみると自分の部屋に〝大事なもの〟がほとんどなく、笑ってしまう。コンビニでは現金が必要だと言っていたが、この部屋の状態から小銭を探すのは困難だ。
清美は軽く深呼吸した。睡眠もとれた。夢を見たようだが記憶にない。父のところへ行く。会えればなんとかしてくれるだろう。名乗ればどうにかしてくれるだろう。時間帯が心配だったが、おそらくどの企業も不夜城と化している。父なら尚更だ。念のため災害伝言ダイヤルにメッセージを吹き込む。「これからそちらへ向かいます。着くのは早朝になると思います」やるべきことはやった。躊躇する理由は一つもない。レインコートを着てブーツ、グローブを履く。ディバックを背負い、フルフェイスのメットを抱え、さあ出発だ。
癇に障る豪雨は未だに続いている。玄関で早速メットをかぶる。忘れ物はともう一度確認した。このアパートともおさらばだ。扉は相変わらず中途半端で締まらない。「あばよ!」清美は扉に思いっきり跳び蹴りをくわらせた。非常識な力を受け扉は閉まった。施錠の確認はしない。当分、いや二度と帰宅する事はないからだ。
再び駐輪場へ向かった。通りすがった家屋はさっきよりもオレンジ色の照明が目立つ。やはりおいそれと眠れないのであろう。もしくは明かりをつけたまま寝入っているのか。「スズメバチ」は駐輪場で殊勝に佇んでいる。IDカードで施錠を解除しそれをバイクに差し込む。ディバックを荷物入れに放り込んだ。ガソリンの残量計は半分程度だが必要十分だろう。もちろんガソリンスタンドが営業していれば儲け物だが可能性は低い。まだバッテリーの充電は低いらしくバイクはエンジン駆動でなめらかな排気音をたてた。ライトを点ける、久しぶりに眩い光が襲う。目が慣れてからゆっくりとアクセルを回した。
都心へ向かう道路はコンビニとは反対方向だ、慎重に走らせる。今のところ液状化はもちろんアスファルト崩壊も見あたらない。幹線道路まではゆっくり走って十分程度だろう、路面に気を配りながら周辺の家屋やマンションを窺う。倒壊半壊している家は皆無というのはある意味信じられない光景だ。あの揺れは幻だったのだろうか。路肩に目を向けると電信柱は斜めになっていたり、広告や硝子の破片がところどころ飛散しているのが地震の余韻を感じさせる。
幹線道路に出て都心方面の上り線に乗る。下り線は大渋滞だ。いくら車両のバイク化が進んだと言っても、運搬の主流はやはり車やトラックだ。上り車線はまばら、つまり震源は都心なのだろうか。いや、単に労働人口が都心に偏っているだけだ、思いこみはしないでおこう。それにしても、と清美は思う。日本の建物はなんと逞しいものか。学校で観たビデオのような凄惨な光景を覚悟していたが、道路沿いの雑居ビルも何事もなかったように建っている。もちろん硝子が割れたビルは沢山あるし看板が落ちていたり中途半端にぶら下がっていたり(真下は黄色いビニールテープで立ち入り禁止になっている)するが、知らずに見たら大地震直後とはとても思えない。それとも清美が感じた揺れが大げさで、そもそも騒ぎ立てるほどの地震ではなかったのではないだろうか。コンビニで問題になっていたのも停電が主だった。
道なりに北東へバイクを走らせる。山を二つ三つ越えて、ある繁華街に出たとき我が目を疑った。大雨の中、まるでお祭りのような人だかりがうごめいて、歩道はもとより車道の隅まであふれている。台風の中の強行軍。花火大会が直前で雨天中止になってしぶしぶ帰る人の群を連想した。懐中電灯を持っている人も多い。人々はおおむね下り方面に向け歩いている。真っ暗な上にみな傘をさしているので表情は伺えない。足下に集中するため下を向いてトボトボと歩いている。「帰宅難民」学校で習った言葉を思い出す。前時代と違って帰宅困難者を受け入れる施設は多いと聞くが、やはり家族の安否が気になるのだろう。片手に傘、片手にケータイでひっきりなしにコールしている人も見受けられる。懐中電灯を持っている人は、なるべく周りも配慮して広範囲を灯しているようだ。会話を交わしている光景はない。大雨と強風で、みな疲労と不安を抱えながら家路に向かっているのだろう。清美のバイクは上り車線をゆっくりと走行する。この人だかりだ、迂闊にスピードを出せばはねてしまう恐れがある。流れは至極スムーズ、しかし交差点は毎回肝を冷やす。信号機が機能していないからだ。無灯火の信号機は廃墟を連想させて不気味だ。交差する車両ももちろん灯火しているが、暗闇と大雨で距離感がつかめない。交差点に恐る恐る進入するのはちょっと度胸がいる。
歩道の人混みがまばらになり、やっとスピードが出せると思ってきたところで上り線がじんわりと不自然に混みはじめ、ついには停車した。何事かと遠くを眺めると、派手な照明車が路面を照らし、赤いライトをくるくる回した車が見える。どうやら検問をしているようだ。瞬間ドキリとしたが、なにもやましいことはないことに気づいて苦笑する。まさかこれ以上は進むなといわれるのだろうか。前方の車両と警察官のやりとりを見つめる。確認の済んだ車両は普通に走行を続けているようだ。あくまで有事の際の場当たり的検問といったところか。
長いこと待たされてやっと清美の順になった。対応する警察官は二人。ぬり壁とネズミ男のような風体だ。清美はバイザーを上げた。それだけでもすごい水量が顔を叩く。
「IDカードを」
ぬり壁が手を差し出す。対応もぬり壁のようだ。バイクからIDカードを抜き取り手渡しする。カードを抜き取るとエンジンは自動的に停止する。ぬり壁がタブレット端末に清美のIDカードをあてがい個人情報をチェックしている間に、ネズミ男はアルコールチェックをし、トランクの中身を確認する。薬物チェックは省略らしい。
「何の検問ですか」
「台風と地震で都内の一部機関が混乱している。この機に乗じてテロ工作など不穏な動きをする連中を取り締まるための検問だ」
なるほど。場当たり的検問などあるはずがない。
「名前は」
「野口清美」
「歳は」
「二十八歳」
「住所は」
さっきまで住んでいた藤沢のアパートの住所を述べる。
「職業は」
「毎日ゲームをやっています」
「ゲーム開発者か」
無言で受け流す。相手が勝手に思いこんでいるだけで、清美はウソは言っていない。
「目的地は」
「新宿です」相手の顔色を伺うが、表情は全く変わらない。さすがぬり壁。
「目的は」
「父の職場があります」
「連絡は」
「全く」
「行き違いにならないか」
「父とは別居しているので」
「退社しているのでは」
「この騒ぎです。職場に残っているでしょう」
「お父さんの職業は」
清美は答える。ぬり壁は無言で清美を見つめる。
「気をつけて行くように」
え、拍子抜けする。
「あの、何が起きているんですか」
「台風と地震だ」
さすがにイラッときた。
「震源とか規模とか被害状況は? この先危険はないんですか」
「大した地震じゃなかった。だが情報がかなり混乱している。危険かどうかは行ってみればわかる」
目を丸くした。警察官の言う台詞だろうか。
「危険に合う前に引き返せる」
道路網は支障ないという意味か。
「私は通っていいんですか」
「家族に会いに行く者を止める権限はない。詳しいことは行けばわかるだろう」
あまりにも警察官らしくない対応なので、清美は確認する。
「あの、身分証の提示を」
清美が言い終わる前にぬり壁は特殊なIDカードを取り出し、タブレット端末にあてがい清美に画面の情報を見せる。初めて見るものなので、見せられても本物か偽物かさっぱりわからないが偽物のはずも意味もなさそうだ。
清美は自身のIDカードを受け取り再びバイクに差し込む。エンジンはかけ直しだ。
「ありがとっ、花咲正美巡査っ」
バイクのスロットを回し、再び暗闇の道路を疾走し始めた。
闇と降雨で見晴らしが悪いのは相変わらずだが、車両専用道路に入ったため清美はスピードを出した。ドライブモードをオートに切り替える。マフラーを改造したバイクなどと違い、清美のハイブリッドバイクの排気音は直線的で美しい。電気掃除機の音を上品にした感じよ、と説明したら笑われたがフィーリングはそんな感覚だ。電動に切り替われば振動は皆無、魔法の絨毯だ。
「大した地震じゃなかった」
「行ってみればわかる」
「危険に合う前に引き返せる」
「詳しいことは行けばわかる」
ぬり壁巡査の言葉を反芻する。警察が、少なくとも現場の警察官が状況を把握できていないのは本当だろう。個人として推察は出来るが一警察官が一般人に不確かなことを言ってはいけない、こんなところだろうか。とするとぬり壁巡査は清美にかなりのヒントをくれたことになる。彼なりに状況を推察しているのだ。一体何を? 「行けばわかる」そういう事だ。
最後に父と会ったのはいつだろう、清美は記憶を辿る。二、三年ほど前か。父は仕事に生きる人だった。家族を、私を顧みることはなかった。私の歳も誕生日すら覚えていなかっただろう。いや、私の誕生日は実母の命日でもあるので、悲しい記憶として刻まれているかも知れない。実母は私を生むことで精力を使い果たし、逝った。私も死産寸前だったそうだ。「お前は奇跡の子だよ」幼い頃よく父はそういった。しかしその瞳に喜びはなく寂しさが映っていた。愛する妻を奪った子供、そう意識したこともある。それを口にしたら思いきり頬を張り飛ばされ三日間腫れが収まらなかった。そんな目にあいながらも「図星を指させて動揺した」と解釈した。嫌みな娘だ。もちろん今では感謝している。もし父が手を挙げなかったらそれこそ私の発言を認めたことになる。父は単に情けない、母の恩知らずな娘を張ったのだ。
継母が現れたのは高校入学後だった。もちろんそれ以前、だいぶ前から交流はあったと思うが、私の心の成長を待ったのだろう。成人するまで待たなかったのは、思春期後半のうちに家族になるという半ば賭けにも似た覚悟だったのかも知れない。継母は見事な人だった。私に対して自分の立ち位置を常に意識し、時に母のように、時に姉のように、時に友人のように接してくれた。旦那の連れ子にここまで神経を使い、神経を使っている素振りをみせない人はそういないだろう。それでも私は継母を愛せなかった。娘にも妹にも友人にもなれなかった。私は子宮の中でしか母を知らない。子宮の中にいた十ヶ月の時間だけが私と母とのつながりであり、全てだった。しかし継母が嫌いだったわけではない。彼女の努力は称賛に値するし、それに報いなければと私も子役を演じた。傍目では仲の良い母子に見えたろうし、私もそう思った。でもやはり継母は継母だ。実母にはなれない。そう思いながらも、それでもずっと長い間生活し暮らし続けるのだと思った。
だから継母を亡くしたとき、あんなに取り乱し号泣するとは思わなかった。喪服の参列者がもらい泣きするほど半狂乱に泣きじゃくった。ごめんなさいごめんなさいと棺に突っ伏し叫び続けた。周りに人は私が何に謝っているのかわからなかったろう。父なら気づいていたかも知れないが、あのときばかりは父も憔悴しきっていた。もともと生活感を感じさせない父だったが、全く生活感のない男に変貌したのはたぶんこの頃からだ。
なにもかも自暴自棄になり、会社を辞め、独り暮らししたいと父に頼んだのはそれから数年後だ。父は責めもせず追求もしなかった。ただ、そうか、と言った。生活面は心配するな、とも言ってくれた。別居という距離に反比例して、父は清美のやることなすことに口を挟むようになった。押しつけや命令は決してしないが、私の行動一つ一つに注意しアドバイスをしてくれている。
ひとしきり物思いにふけりながら運転を続け、これは如何と気を取り直し首をならした。
ふと、正面に銀色の筋が見えた。雨足とは明らかに違う。とっさにアクセルをゆるめブレーキをかけたが、それ以上の勢いでバイクは急減速する。突如エアバックが飛び出した。「しまった!」清美が叫ぶ暇もなくバイクが失速する。左側に激しく横転、エアバックのおかげで直撃ではないが左太股に鈍痛が走る。あとはもうなにがなんだ。あり得ない方向に清美とバイクは弾かれ、メットが鈍い音をさせる。何が起きたかわからないうちに、清美は生まれて初めて気を失った。
さて、話はもう少し膨らんで楽しくもなっていきます。二話目は2/4 17:00に掲載予定。




