散文詩 『園』
その山がもっとも美しいのは頂上付近ではない。
裾野は微妙なカーブを描きやがて地平線とひとつになる。
太陽国を象徴する山を横目にしながら、国道から県道に入る。
さらにそこからいくつか支道から支道を移動すると、その「園」が建っているのが視界に入る。
本当に豪華な建物だ。
まだ見ぬ実物をパンフレットの中に見出して、客は思わず唸った。視ようによっては高級なコテージと言ったところだ。
しかし都心にあったらそれほど人の目を引かないだろう。
付近には木立と地平線と、
そして施設の設立者、そしてそれを受けた運営者が誇るのだが、
何よりも太陽国を象徴するお山がそびえている。
こんな何もないところで一人お山の大将を気取っている風が、この建物と敷地には漂っている。
自然のそれと比較して、人工のなんと粗末なことか。
園長は、噂を聴きつけてやってきた利用申請者の家族にこう説明するのだ。
事前に渡したパンフレット見ればわかるでしょう、と前置きして・・・、
「どうでしょう?すばらしい風景でしょう。毎朝、毎夕、これを我が物にできるのですよ。たまにはみなでピクニックに出かけ、一望しながら食事をします」
あたかも毎朝、毎夕、それを仰ぐことで「病気」が治るかのような言い様だ。
本人はそう言いながら、ほとんどの時間を摩天楼と摩天楼の間を行き交いする生活を送っている。
月に一度、訪れたら普通。二度だったら驚愕。三度だったらきっと「お山」が噴火するのではないかと、職員たちの話の種になっているほどだ。
例の園長はそのピクニックとやらに同行したことなど、ただの一度として、ない。
ここに送られた人たちはお山を目にすることで、病人からやっと「人間」であることを承認される。
しかしながら、金銭という概念を幼い子供に植えつけるために使われる、特別にでっとあげた貨幣のように、「人間」はこの施設限定だ。
一般社会ではとうてい受け入れられない人たちが「人間」になるためには必要な土地と建物だといわんばかりだ。
彼らは一歩でも敷地から出たら、とたんに「病人」の烙印を人々によって見出されるだろう。
それは生まれたとき、すでに烙印されていた。
どのような手段を取ろうとも消しようがない。
いかに美しい山を朝な、夕な、仰ごうとも消えはしない。
そんなことで消えるくらいならば、この土地は必要なだが、税金対策としてこれほど広大な土地を入手する必要もないし、建物も必要ない。ただここに連れて来ればいいだけのことだ。その後、家庭に帰ってもらえばよい。
そんなことが不可能なことは、
いっしょに暮らしてきた家族が誰よりも知っている。
親というものは子供が賢く育ってほしいものだ。
人というものはよりより未来を期待するものだ。
しかし理想だけを夢見るようにつくられていないようだ、あいにくと。
年月を経過すれば現実を直視するように人はつくられてもいる。
腐った種は、いかに水を撒こうと、栄養を注入しようとも発芽させるのは不可能だ。
手を尽くしたと、
思い余った親たちが最後に希望をつなぐのはこの園だ。
しかし最後の希望というわけではない。
いま、彼らの視界に入っている壮麗な風景に効能があるなどと夢想だにしていない。
おそらく、彼らの愛の証はその美しさを理解する能力すら欠如している。
そういう家族の心の荒廃と比して、
園長の有頂天ぶりはどうだ。
助手席にある彼とて、ミラーを視れば、彼らの表情はわかるだろうに、
なんという感受性のなさか。逆にそんなものがあったら、税金対策のためだけにこのような事業を営むことはできないのかもしれない、いかに親の業を受け継いだとはいえ。
これほどまでに豪華な外観になったのは、微粒子にして一個や二個の程度の後ろめたさが原因だろうか?
それでも出来上がった外観に園長はそれほど嬉しい顔をしなかった。
もう少し、費用を減らせなかったものかと秘書に毒吐いたという。
来園者たちに、いかに自分が社会に貢献しているか、弱者に対して真っ白な心で接しているのか、それをアッピールするだけの豪華さが必要だった。
そう説明する部下のひとりに、
「あの白亜の灯台は要らなかったのではないか?」などと、たまに来園してもえんえんと毒づきが続いたものだ。
もちろん、家族の前ではそんな表情はオクビにも出さない。
そのことが運転手はこのうえなく気持ち悪い。
尻の下に腐りかけた生ごみをしいているような気分だ。
家族の目には単なる俗物にしかみえない園長が、
彼の召使の目にはこのうえなく善人に視える。
正しくはそういう皮を被っているように視える。
その偽善がこのうえなく気持ち悪い、のだが、
運転手は、家族たちに主人の本質を見抜く洞察力がないと思っている。
そのことが不思議で、かつ恐ろしいのだ。
運転手からすれば、この両親は愛する子供をこの園に預ける。
そのことで頭がいっぱいだと思っている。頭の中は砂糖が詰まっているにちがいない、脳の代わりに。
けっして、厄介者を体よく、要するに犯罪でない方法で追放できることに対して、
いざそれを実行するという段になって罪悪感に身体を蝕まれているとは、夢想だにしていない。
本当に子供がこの園で幸福になれるのかと、心配がっていると運転手はみなしている。まさに砂糖漬けの脳が為せる思考。
楽天的という辞書の説明に、この運転手の主観を載せればいいだろう、いまいち、七面倒くさいが。
何処に座ってもきっと腐りかけた生ごみがしかれているだろう。覚悟することだ。
子供が回復することのない「病人」だと気付いたのはいつのことだったか。
両親の心の中とは裏腹に空は雲一つない晴天。
ぬけるような空は何処か園長に酷似している。
透明を志向するならば、いっそのこと星々の瞬きを自分たちみ見せてほしい。
宇宙の闇を仰がせろと、空に向かって訴えたい気持ちになった。
車の運転はよどみがない。きっと馴れているのだろう。この世でもっとも不幸な人間を運び馴れると鈍感を極めるようになるのだろうか。それとも単に道がフラットなだけか。
もしくは運転技術が人並み外れて優れているせいか。
いっそのこと事故にでもあって死ねればいいとでも、自分は考えているのか。
こういう状況において子供を置いて死ぬのは、おそらくは大量殺人を犯した独裁者にも匹敵する罪だろう。
夫婦でパンフレットを眺めていたのだが、いつしか父親の方は眠気を催したらしく、妻に渡すと一時的に安楽の世界へと抜け出してしまった。残された妻、つまりは母親は自分がする、少なくともそう信じている、子供が入る施設を改めて見直す。本当にこの車はかの地に到着してしまうのだろうか。叶わぬ夢だが永遠にそうならないでほしい。ぐるぐるとあの山の周囲を回っていればいいだろう。しかしいつかはガソリンが尽きてしまう。想像の中でさえ車は最終目的地への道を辿り始める。
その妄想の中でさえ、母親が安住することをあの園長は許してくれない。彼の声が凶暴な手になって現実に引き戻された。
まだ夫は船を漕いでいる。
「さあ、お母さん、到着しましたよ。息子さんの新しい家です。どうです?立派でしょう?」
すぐに夫を起こすのは酷だと思った。
母親は思わず声のする方向にこう言ってやりたくなった。
(私はあなたのお母さんではない)
外国人がしそうな間違えにも似た、あまりにも低俗な反応。
フロントガラス越しに視えるのは白亜の塔だった。
パンフレットに比較して、その不自然さはいかに誇張に表現しようとも、いまの彼女の感情を表現しきれない。風景に対してあまりにも叛逆しすぎている。まったく溶け込んでいない。ここに息子を押し込めるのか。そう思うと思わずあの休火山に噴火してもらわねばならない。もちろん、息子が入居する以前のことだ。反対のことを想うほど母親は悪魔ではなかった、自分で思うほどには。