『爆炎』カナルガン
ひどく強い瘴気の拍動を感じたのは、まだ馬を駆けさせていた時だった。
間に合わなかった事を冷静に受け止めつつ、最悪の事態ではないと判断する。
砦の外で瘴気が爆ぜる。
多量の瘴気だ。ディフィが上手く砦の外まで運んでくれたようだが、当人が無事だろうか。
まともに受けたのであれば、出てきたモノに対抗する事も難しいだろう。
「頼むぞ、もう一頑張りしてくれ」
フリムの首を軽く叩き、頼む。
心得たもので、フリムは一声嘶くと足を速めてくれた。
砦までの距離はあと僅か。時間との勝負だ。
「…で、どういう状況なんだ?これは」
現地に辿り着いたショウが見たのは、何やらぼんやりと砂地に座り込む男と、それを剣呑な視線で見据えるディフィの姿だった。
取り敢えずフリムから下りて、砦に向かうように促す。明確に言わずとも状況を察して走り去るひと時の愛馬に感謝しつつ、横目で男を観察する。
随分とくたびれた様子の男である。無精ひげにぼさぼさの頭髪、皺だらけの服装もそうなのだが、何より背負う気配が哀愁やら落胆やらを湛えているのがくたびれ具合に拍車をかけている。
「師匠…」
困惑を表情に乗せてこちらに応えるディフィは、どうやら瘴気の影響はほぼないようだった。まずは一安心、だが。
碧色の眼に、紅い瞳。
肌の色は赤みがかっているが、それ程特徴的という事もないが、その眼の色が普通ではない事を何よりも雄弁に示していた。
「この仁が、呼ばれたのか?」
「ええ。あの魔法陣からは間違いなく…」
視線を向けると、男もこちらに目を向けてきていた。
ひどく驚いたように目を見開いて、そして諦めたように息をひとつ。
「ええと、貴方は一体…」
「…ここは死地でしたか」
初めて、ぼそりと呟いた言葉は剣呑で。
何となく事情を感じたショウは、同じようにどかりと砂地に腰を下ろした。
「まずは話を聞こうと思うのだが、どうか」
何より、邪神崇拝者や邪神眷属に感じた禍々しい気配を、この男からは感じないのだ。
「…私はそちらから見て、北の大陸に住む民です」
「という事は、魔人と呼ばれる種族か」
「そちらの基準で言えば、そうなりますか」
「邪神を崇拝している連中と比べると、随分と清廉な印象を受けるのだが」
取り敢えず見た様子では目上のようなので、言葉を選んで聞いてみる。
と、男はひどく嫌そうな顔をすると、首を左右に振ってみせた。
「言うなれば共生関係を強いられているようなものなのですが…。正直私達にしてみれば、あれを崇拝しようなどと考えるこちらの大地の方々の考えが理解できません」
「奇遇だな、俺達もだ」
「…でしょうねえ」
話が通じる相手が敵で、話の通じない―或いは会話を成立させる事すら出来ない―者に呼び出されるというのは、本人達にも愉快ではないだろう。
成程、少なからず話の分かる人物のようだ。
ディフィを襲わなかった事などを考えても、対話で状況を治める事が出来るかもしれない。
「ならば、ここで争う必要はないのでは?」
「そうもいかない、というのが申し訳ないところでしてね」
くたびれた男の溜息とは、何故こうも哀愁を漂わせるのか。
申し訳なさそうな目を向けてくる男には、敵意も抱きにくい。そこまで計算ずくなのであれば空恐ろしいものだが、ショウは自分の勘を信じていた。
この男の様子は、演技の類ではない。
「私達は、あれへの協力者の強制によって召喚された場合、召喚の際に規定された条件を満たさないと戻る事も出来なくて」
「そいつぁ難儀だ」
「ええ。今回の条件は『あれに敵対する強者の殺害』でしてね。そこの御弟子さんは強者と呼ぶには少々未熟なので、待っていたのですが」
あなたは見事に条件に一致しているのですよ、と。
「私はあなたを殺さないと、私の一族の共生関係を断ち切られてしまう事になります。私一人が死ぬのであればそれでも構わないのですが」
「ふむ。共生関係というのがどういうものかは分からないが、妥協点はないという事かな」
「ええ。…では、やりましょうか」
これ以上の問答は無用とばかりに、男は立ち上がり、どこからか手斧を二振り取り出した。
斧からは業剣や鬼気とは違う、何らかの力が感じられる。
手の内を隠すのは愚行だろう。こちらも立ち上がり、業剣『汀』を抜き放つ。
「名乗っておきましょう。あなた方の呼び名で魔人の一人、『爆炎』カナルガンと申します」
「蒼媛一刀流、時雨湘。…ディフィ、砦に退がっていろ」
開始の声などはかからない。構えられた手斧が無造作に叩きつけられる。
一度目は受けずに、二歩ほど下がる。と、空振りした斧の刃身が火を噴いた。
受けていれば噴き出した炎の直撃を受けていたという事だろうか。
その炎を目くらましにして、カナルガンがもう片方の斧を至近距離から投げつけてくる。
危なげなくそちらも避けて、間合いを外して視線で飛んで行った斧の行先を追う。
定番であれば戻ってくるといった所だが―
「師匠!?」
地面に落ちた瞬間、斧は炸裂して凄まじい音を轟かせた。
大量の砂が巻き上げられるが、斧自体も跡形もなく吹き飛んだようだ。
ディフィの悲鳴じみた声が聞こえてくる。まだ砦に入っていなかったのか。
とは言え、使い捨てにするには惜しい威力だったな、と思いながら視線を戻すと。
「―すいませんね。手数は減らないんですわ、これが」
カナルガンの手元には、二振りの手斧が。
形は同じだから、同じ効果のものなのだろう。
どこから取り出しているのかも分からないし、そもそも幾つ同じような物を貯め込んでいるのか。
分からない事だらけだが、為すべきは決まっている。
「なに、どうという事はない」
この得物からも、カナルガンからも瘴気は感じられない。となれば、これを砦に投げつけられた場合、ニリの結界で防げる保証がない。
無尽蔵に使い捨てられるとするなら、ショウにしてみれば砦を人質に取られた形だ。
手斧自体の刃物としての切れ味は未知数だが、刃からも火を噴く以上、受けても炎の反撃を食う訳だ。よく出来ている。
魔人というのは良い武器を使うものだと感心しながら、こちらも業剣を振るう。
必殺の意志を込めて繰り出す斬撃を避ける動きにも無駄がない。
反撃は簡単にはいかないようだが、こちらの隙を窺う眼光は鋭い。
くたびれた様子は相変わらずだが、それだけの男ではないらしい。
「きっ、厳しいッ!」
火を噴く得物であるならば、火を噴く前に斬り抜けてしまえば良い。
カナルガンが間合いを外しながら投げつけてきた手斧を、斬り捨てて更に詰め寄る。
炸裂する爆風を軽く背中に感じながら、今度は喉笛めがけて刺突を繰り出す。
「何と素早い!」
紙一重で避けたカナルガンは、突き出した業剣を狙うようにもう片方の手斧を振り上げてきた。
返す刀で斬ろうとした刀身を、受け止められる。
「しまっ―」
吹き上がる炎に視界が一瞬灼かれる。
自爆覚悟とも取れる至近距離では炎は使えないのではないかと思っていたが、そういうものではないようだ。
周囲を炎が渦巻き、向こうが見えない。
「すいませんねぇ、シグレさん」
ごとごとと、炎の向こうでカナルガン。
「この斧、投げていない方が本体でして」
まるでいくつもの重い金属製の物体が次々と出てきては地面に落ちているような音。
「こちらがあれば、いくらでも複製できるんですよ」
炎が晴れると、目の前には金属の壁が出来ていた。
いや、違う。これは―
「そして常時二つしか用意できない訳でもないのですねえ」
退がろうと後ろに踏み出そうとした所で、気付く。
既にショウの周囲は大量の斧が積み上げられた壁で囲まれている。
「これだけの数を用意したのは初めてですが…何、苦しむ事もありませんや。さようなら」
こちらが対応を取ろうとする前に、向こう側でがつんという音。
炎が生じていた中でも斧は炸裂する事も炎を噴く事もなかった。ならばこの斧が爆裂する条件は―
「衝撃を受けて炎を噴く仕組みか!」
「いいえ?」
カナルガンは何かを言ったのか。
爆音と真っ白い炎がショウの視界と聴覚を支配した―