邪神討滅、終わる(ただし右腕に限る)
あまりにも現実感を感じさせない巨大な右腕と、それを掴んで力を込めている一対の巨大な水の手。
それらを中空に巻き上げ続ける、地から天へと昇る大量の水。
ショウが両手を広げて暫く。右腕がばたばたと悶え始めた。
「ようやっとお目覚めかね」
『鬼神の両手』と繋がっている関係上、ショウの両手にも感触は届いている。
離れようと暴れもがく邪神の右腕が、異音を立てる。
見ると、指先が掛っていた部分が裂け始めていた。
溢れ出す、紫色の体液。どうやら瘴気も濃度が度を超えると緑から紫に変色するらしい。
砂地の汚染も高濃度の瘴気によるものだと判別出来た訳だが。
「開く場所はここで良かったようだな…では改めて!」
今度は遠慮なく、引き裂くように両手を広げる。
しっかりと指先をかけた『鬼神の両手』が、邪神の右腕を引き裂き始める。
痛みはあるのだろうか。肘から先がどうにか逃れようとじたばたもがくが、勢いづいた動きは止まらない。
ゆっくりと、だが着実に傷口が開いていく。
だらだらと流れる紫の体液が右腕を伝い、それを押し上げる水流に触れた。
「…この反応、流石に瘴気の大元というだけの事はありますか」
汀の声も硬い。
弾ける音と共に、接触面で光が散る。同時に湧き立つ煙の色は緑と紫の混じったような酷い色だった。
間違ってもあの煙には触れたくないところだが。
「…こちらももう少し雨に勢いをつけますか」
「煙が濃くなると見づらくなりそうですね。では今のうちに―」
更に力を込めると、とうとう傷口は肘にまで至った。
これ以上の狼藉を阻もうとしてか、邪神の右腕は肘の部分をぐるぐると回してその先への干渉をどうにか押し止めようとしている。
と、掌にあった穴が、こちらを向いたような気がした。更に一回転した所で、唐突に動きが止まる。
「…!?拙いッ!」
間違いなく、邪神の右腕は何らかの手段でこちらを捕捉したようだ。向こうの見えない穴がこちらを向いている。
何故向いているのかは、考えるまでもないだろう。
紫色の瘴気が、瞬く間に掌の先に集まり始めているのだから。
「…旦那様!手を下に!」
「下?…了解です!」
意図を察し、直ぐに言われた通りに両手を下に向ける。引き裂かれた傷口が表に晒され、そこに大量の水が直撃する。
集まった瘴気が霧散し、無数の指が苦しげに蠢く。もうもうと立ち上る煙と相俟って、非常に気色が悪い。
「…上手く行きましたね」
「ええ。…ですが」
「二度はない、でしょう?急ぎます」
ショウは一旦、邪神の右腕から『鬼神の両手』を引き離した。
引き裂いた傷口からは瘴気の流出は止まっている。向こうにしてみれば傷口を焼かれたようなものだっただろうから、それも無理はないか。
一時の安全の為に瘴気の流出を止めてしまったと見る事も出来るが、逆に言えばすぐさまの回復も出来ない筈だ。
次なる工程に移る。
とは言え、する事は変わらない。今度は肘の辺りに『鬼神の両手』を添える。
ついでに、水流を利用して掌の向きをずらしておくことも忘れない。
「まずは真っ二つだ」
肘を抑えてしまえば、最早暴れる事も敵わない。
指が間断なく蠢いているが、それだけだ。
さしたる抵抗もなく傷は手首に達し、ショウは再度『鬼神の両手』を離した。
一つ、息をつく。
地面を掘り進むという目的からすれば、この先が最も丈夫な場所だ。
やっとここまで来た、という思いが強い。
穴はやはり体と繋がりはないようで、引き裂いた傷口にはその跡が見えない。
その奥に何があるのかなど、知りたいとも思わないが。
「ぬうううううっ…!」
『鬼神の両手』も、だいぶ瘴気による浸食を受けている。溢れる瘴気を浴び続けたのだから無理もない。
汀の雨による助力がなければ、今頃ショウの操作を受け付けずに霧散していた事だろう。
引き裂こうと力を込めるも、やはり手の部分は強いらしい。先に手首が千切れ始めた。
「く…」
「旦那様、そのまま押さえていてください。手の方は私が」
「汀どの?」
雨が、止んだ。
汀がどうやら、次なる術を編むらしい。
「少しばかり作業が前倒しになりましたが―」
と、水流の色が変わり始めた。砂を巻き込んで渦を巻いていた水面の部分から、どうやら砂が上っているらしい。
紫色の砂地を取り込みながら、頂点部分の水流が、渦を巻き始める。
「削り尽くして差し上げます」
下の渦、上の渦。
それを繋ぐ、逆向きの滝。
類稀な術式の使い手である汀だからこそ出来る人智を超えた術ではあるが、だがショウには一つだけ懸念があった。
「汀どの」
「何でしょう?」
「あの砂はこの周辺の汚染されていた砂でしょう?…大丈夫なのですか」
「ああ、問題はありません。既に汚染されているのなら、これ以上汚染される事もないでしょう」
成程、道理だ。
上の渦は下と比べてもその回転数が目に見えて多い。
ショウは引き千切ろうとする動きを止め、邪神の右腕が渦から弾かれないように押さえつけに入った。
巻き込まれた砂が何かをしているようだ。水面に触れた部分から光だけではなく、何かが無数にぶつかり合うような音が聞こえてきている。
濁ってしまって、そこで何が起きているかまでは判別出来ないが、押さえつけている邪神の右腕が少しずつ水面に沈んで行くのは見て取れる。
「後はもう、時間をかけるだけですね。お疲れ様でした、旦那様」
「奥様、一体何が―」
と、棒立ちになって推移を見守るだけだったテリウスが、呆然とした様子で声をかけてきた。
「ふむ、では解説致しましょう」
汀はテリウスの方に向き直ると、人差し指を立ててみせた。
「あれは、地面から吸い上げた砂を微塵に砕いて、更に細かくした砂が一緒に回転しています。つまり、渦を巻く事でやすりのようにあれを削ってしまおう、という目的なのです」
「削る、ですか…?」
「あの大きさですからね。旦那様とも相談したのですが、例えば萬里鬼笑閃などで切り刻んで一つひとつ浄化するには手間ですから。そうは言いましても、最初からやるには中に貯まっている瘴気の量が問題です」
ゆっくりと、ゆっくりと作業が続く。
邪神の右腕を削り取りながら沈みゆく中、やすりとなった水面と掌の穴が触れた。
何かを吸い込もうとする音が一瞬だけ響き、そして。
穴が砕け散るように弾けて消えた。
「あの中から瘴気をある程度抜き取る為と、途中で目覚めて暴れるのを抑える為、旦那様にはあれを引き裂いて押さえておいていただいた訳ですね」
「それは分かりますが、今のは…?」
「ああ、あの穴は恐らく術の類だったのでしょう。土を掘って進む時に掘った土を呑み込んでいたのではないでしょうか。とは言え、体内の瘴気をあれだけ喪ってしまえば、私の鬼気と触れれば砕けてしまうのも無理もないこと」
逆に言えば、最初から今の状態に入っていれば水を際限なく呑み込まれてしまっていたかもしれない。
そういう意味でも、この手順は間違っていなかった事になる。
「さ、後は作業が終わるまで待っているだけの退屈な時間です。馬車に戻って何か遊戯でもしましょうか」
「あ、汀どの。一応『鬼神の両手』の汚染をどうにかしておきたいのですが」
「む、それもそうですね。えい」
事もなげに。
汀が気合とも言えない気合の声を上げると、『鬼神の両手』の色が変わった。
「浄化完了、です。旦那様の鬼気と私の鬼気が混じり合って…あら、これってもしかして世に言う『二人の初めての共同作業』でしょうか」
「…そうかもしれませんが、これがそうなのは、嫌だなあ」
むしろ『初めての共同作業』というならばもっと甘い雰囲気の中で為したいものだ。
汀にも伝わったのだろう。顔を真っ赤にした彼女は、逃げるように馬車の中に引っ込んでしまったのである。
どこまでいってもいつも通りの彼女に口許を緩めながら、未だに邪神の右腕に視線を釘付けにされている弟子と友人達に声をかけた。
「ほら、見ているのは勝手だが、直ぐに飽きるぞ。戻って体を休めておこうぜ」
作業が完全に終わるまで、二昼夜を要した。
術の維持の為にその間起きていた汀は、術の維持に力を使い続けていた事もあって流石に眠そうな顔をしていた。
ショウもそういう意味では大差がないのだが、規模が違う。
「終わりましたねえ」
「ええ」
既に邪神の右腕は影も形もない。
微塵の欠片に切り刻まれた邪神の右腕は、回転する砂に巻き込まれて削られながら、汀の浄化の鬼気に晒され続けて溶けて消えた。
欠片となった邪神の右腕を浄化し続けた水は相応に濁っている。
「―なぎが、おとずれる」
だが、汀は委細構わず術を解除した。
突き上げる水流が穏やかになり、渦もゆっくりと納まっていく。
全てが治まった時、青緑色に濁った色の、巨大な湖が視界いっぱいに広がっていた。
「これ、は…」
「さあ、仕上げです」
汀が両手を掲げると、小さな雲が生まれた。
大きくなる事もなく、ふよふよと湖の上を飛んでいく。
「浄めの、虹」
雲から降り注ぐ、虹色。
虹色が触れた水面の色が、美しい蒼に変わる。
「これでよし。私の管理を必要としない大きさとなるとこの程度ですか…私もまだまだです」
汀が満足げに頷く。
「汀どの、これは?」
「降り注ぐことで水質を浄化しているのです。流石に水量が多すぎますから、そこまで私がするとなると、山霞達の方が間に合わなくなるかもしれませんから」
「それでは、これで終わりという事で?」
「はい。この水も濁ってはいますけれど、十分な浄めの力を持っています。でも、邪神が溶けていると思うと嫌でしょう?」
浄めの虹がその邪神の残滓すら消し去るのだと。
果たしてそれが終わるまでに何年かかるかは分からない。
だが、どうやら邪神の右腕は最早何をどうしても復活はしないだろう。
「帰りましょうか」
「ええ。旦那様はあちらに戻ってからが本番ですね」
こんな作業は作業に過ぎないと。
闘っているショウの姿が一番雄々しくて素敵なのだと語る汀は、どこまでもいつも通りで。
「ま、その前に、馬車の中ですがしっかり休んで下さいね、汀どの」
戻る道もまた長い。
ショウは汀の疲れを、そう言って労ったのだった。