邪神討滅という作業
魔獣の砂漠と普通の砂漠とを隔てるものは何か。
砂地の多いムハ・サザム帝国に於いて別物として扱われているその違いは、異国の者には分かりにくい。
しかし現地に来てみると、その違いは一目瞭然だった。
「紫色の砂地…」
踏む事すら躊躇させるような色合い。
少し手前に馬車を停めて普通の砂漠と魔獣の砂漠との境目に立つ。
「魔獣も山ほど居る、か」
魔獣の砂漠と言うだけあって、大型の魔獣が無数にうろついている。
ここから近いのか、遠いのか。遮蔽物も比較できそうな物体もなくて、遠近感が分からなくなる。
「踏み入ると足を焼かれると言われています。馬も十歩も走らせれば倒れてしまうので、ここで停めるように託っておりまして…」
「そのようですね。火群様が『あれを縦に斬って動きを止めるのが精々』と仰っていた意味が分かります」
神性であれ、この地に対策もなしに踏み入れば無事では済まないという事だ。
近付いた事によって、邪神の右腕の大きさは随分とよく分かるようになった。
大き過ぎる。誇張ではなく、山より高い。
サウロン=ニフル連合城砦が絶望する程にと飾られた訳ではあるが、これは比ではない。
人の手には余る。これが肘から上だけだとするならば、下もまた同じ程度の長さがあるという事だ。
「…地面がこのようになっていなければ、天から落ちて来た柱の類だと言われても信じてしまいそうですね、師匠」
「どちらにしても悪趣味だというのは変わらんがな」
「違いない」
冗談を口にしても、笑いは漏れない。元より言葉遊びをしている時でもない。
この大陸の存亡にかかわる危機なのだ。そして何より、ショウと汀にとっては大事な弟子と巫女の無事に関わる。後がつかえているのだから、厄介事は早々に終わらせるに限る。
「どうするのだ?このままこの面子で斬り込むのかね」
「冗談は止めてくれ、ダイン。火群様でさえ匙を投げたんだ、命より先に正気が保たんよ」
「おいおい。ではどうするというのだ?」
ダインの問いに、苦笑して答える。
火群が名代として遣わした以上、汀で手に負えない筈がないのだ。どうにも彼らは事を大仰に捉えたがるようだ。少しは安心して見ていて欲しいものだが。
「なに、大した手間ではないさ。それなりに手順を踏んだ作業をするというだけよ」
「火群様は力押しが得意ですからね。繊細な術が苦手だという事で、私が名代になりました訳で」
「では、始めましょうか」
「ええ、旦那様」
ショウと汀に気負いはなかった。
例えどれほど巨大であろうと、おぞましい瘴気の中心であろうと。
動けないのであれば、何ほどの事もない。
汀が両手を組み、瞳を閉じた。
「嵐を呼びます。旦那様以外の皆様は、私の後ろから動かないように」
馬車を含めた一同の周囲に、薄く輝く幕が出来る。だが、その幕はショウと汀だけは包んでいない。
汀が組んだ手に力を籠め、膨大な量の鬼気を解き放つ。
「天変の儀、為しましょう―」
次代を担う蒼媛たる鬼神が放つ、清浄な鬼気の塊。
瞬く間に鬼気は天に昇り、巨大な雨雲へと姿を変える。
「あめよ、ふれ―」
その言葉に従うかのように、降り出す雨粒。
「かぜよ、ふけ―」
雨足を拡げるように、追い風が吹き抜ける。
「よを、つつめ―」
雲は拡がる。拡がり続ける。
「ふりそそげ―」
ざあざあと。
天から降り注ぐ雨は、徐々に勢いを増していく。
―ぎゃああああああああああああああああっ!
叫び声が響いたのは、果たしてどこだったのか。
浄化の鬼気が籠った雨である。瘴気を持った魔獣にしてみれば毒に等しい。
逃げ場もなく天から降り注ぐ雨に、逃げ惑う巨獣。
巨獣に蹴り飛ばされ踏みつぶされ、或いは大量の雨に打ち据えられ、小型の魔獣は見る間に地に伏してその姿を消した。
雨は地面に際限なく吸い込まれていく。
今まで瘴気に触れた時に起きた、緑色の煙は上がっていない。
いや、所々で力尽きた魔獣達からは立ち上っているようだが、少なくとも数歩先の紫色からは煙は上がっていない。
地面は既に浄化の仕様がないという事か。いや、足りない頭で判断などすまい。この状況は隣で術を駆使している汀が誰より理解している筈なのだから。
と。
雨粒の間を縫って、何かがこちらに飛んでくるのが見えた。
雨の影響を受けていない。巨石だ。考えるまでもない。向こう側から投げられたのだ。そして、狙った先は―
「手前、今誰を狙った―」
ぶちりと。
ショウは自分の頭の中で何かが千切れる音を聞いた。
巨石を投げたのは、巨獣と比べてもまた更に巨大な、イイリヤルエイプを彷彿とさせる巨猿だった。
恐らくは邪神眷属であるのだろう。
こちらが術の発生点であると見切って攻撃をしてきたのだろう、が。
「あら」
誰よりも愛しい女神の手前で、巨石は止まっていた。
当然、止めたのはショウだ。
巨石と汀の間には、同程度の巨大な水球。
いや、球と言うには形が歪つか。
「ひ、媛様。これは…?」
「旦那様とこの旅の最中、密かに修練していた術の一つですね」
隣では汀が話をしているようだが、頭に血の上り切ったショウは、聞こえているものの意味を理解はしていなかった。
瞳は怒りに燃え、巨石を投げた邪神眷属を睨み据える。
「『鬼神之手』の術です。本来は武器の携帯を許されない殿中などで、巫女や神官が守神や鬼神を護る為に使う術なのですが―」
「術?あ、ところで媛様。術の方は…」
「ああ、もう暫くは維持ですね。雨雲は砂漠を覆う程度には拡がり切ったようですので、あとは仕上げにかかるまでは私は待機していれば良いのです」
「はぁ…」
「それで、ですね。この術は本来は自分の拳の周囲にしか纏えないのですが、この度改良しまして、水などの触媒があればその場所に発生出来るように」
「でも、拳の周囲という割には大きくありませんか?」
「良い質問ですわ、イェガ様。もう一つ仕掛けがございまして。それがこの『水鏡』の術です」
左拳に力を込める。
『鬼神の手』が後追いするように力を籠め、巨石を粉砕する。
汀の体の三倍はありそうな巨石だ。もしも当たっていたら、汀の美しさを損なう怪我を負う恐れすらあった。
散った破片は浄化されて消えたから、どうやら瘴気を使った術の類であるようだ。
穢れた瘴気をぶつけようとは、巨石よりも許し難い。
距離を測り、右手を振りかぶる。
なに、天変の儀のお陰で水は潤沢にあるのだ。新たに汀の鬼気を帯びた水を触媒に『鬼神の手』を造り出す。
距離はともかく、大きさがいまいち分からないが、どうやら巨猿は同じような瘴気の塊を巨石と化して投げてくるつもりのようだ。
「『水鏡』三連―」
拳を突き出すと、『鬼神の右手』は邪神眷属をめがけて飛翔していく。
その際、新たに前面に創り出した『水鏡』を突き抜ける。
「見ていただきましたように、『水鏡』の術はそこを通り抜けた自分の術をおよそ倍程の大きさに増幅する力があるのです」
「倍!?」
「『鬼神の手』の場合、単純に大きくなりますね。勿論降り注ぐ雨粒も私の鬼気を使っていますからどんどん大きくなりますよ」
「それを、三つですか」
「私でも五枚くらいが限界ですが、旦那様はもっと行ける筈です。あ、そうそうテリウス様。ところで―」
「はい?」
「私の事を媛様ではなくて、『奥様』と呼んで下さってもよろしいですよ?」
「…」
投げつけてきた巨石を今度は殴りつけて地面に叩き落とす。
感触はまだある。改めて腕を振り抜き、邪神眷属の頭上に『鬼神の右手』が到達した。
拳を握り込むと、『鬼神の右手』もまた拳を握った。
思う様、縦に振り抜く。
「食らえっ!」
巨大な邪神眷属よりも更に巨大になったらしい『鬼神の右手』が怒りのままに叩きつけられ。
叩き潰された邪神眷属は、立ち上がってくる様子はなかった。
「―ふう」
息を吐き出すと、怒りはともかくとして少しだけ気持ちが落ち着いた。
「素晴らしいです、旦那様。これ程見事に『水鏡』と『鬼神の手』を使いこなすなんて!」
汀がこちらに声をかけてきている事に気づく程度には。
「さて、旦那様にあまりご心配をかけないように、少し早めましょうか」
言うや否や、嵐程の豪雨はまるで天に滝が出来たかのようなものに雨量を増やした。
最早この勢いには、邪神眷属であろうとも身動きは取れないだろう。
まるで天から海を流し込んでいるかのようであると言うのに、まだまだ砂地は水を吸い込み続ける。
「ところでひ―奥様、これは一体何をしているのですか?」
「作業ですよ、テリウス様♪」
汀は、どうやら奥様と言う呼ばれ方が余程気に入ったらしい。
踊るように答えるが、それだけでは要領を得ないだろう。
「つまりはまあ、深くまで突き刺さったあれを抜かなくちゃいけないからな」
「結果として、魔獣の砂漠ごとこの大陸から消えてしまう…いえ、消してしまうことになるのですけれど」
「汀どの。そろそろ満ちて来たようですよ」
「ああ、本当ですね」
とうとう砂地が水を吸いきれなくなったのだろう、所々に水たまりができ始めた。
「では、鬼神の齎す水の奇跡をお見せしましょう」
汀が左手を軽く振ると、地面が回転を始めた。
いや、動いているのはどうやら汀の鬼気を帯びた大量の水であるらしい。
軽い砂粒が巻き込まれているようだ。
流砂なのか、渦潮なのか。
判断もつかないまま回転し続ける。
「いしはくだけ、すなとなり、さらにくだけ、ちりとなる―」
今度は右手を振るう。すると、回転している砂が徐々に減っていくのが映った。
何が起きているのか既にテリウスやダインは理解も出来ていないようで、目を白黒させている。
汀の祝詞によると、砂同士をこすり合わせることで瘴気を滲み出させ、それを端から浄化するといったところか。
「あしきものよ、され―」
地響きが起きる。
回転している場所は既に水面となり、邪神の右腕を中心に回転する大渦となっている。
地響きは続く。
心なしか、水面の高さが下がっているように見える。
いや、気のせいではない。徐々に水面が下がり、地響きはその音を更に強くしている。
雨は滝から嵐程度に戻ってはいるが、水面の下がる速度の方が早いとなると異常だ。いや、そもそも最初から後ろの面々には異常か。
「旦那様、準備を」
「ええ」
怒りは納まった筈だが、汀に触発されてか、今ならばなんでも出来るような気がする。
「『水鏡』…さて、出来る限り!」
邪神の右腕に痛撃を与えるには、生半な数では足りないだろう。
無数の水鏡が連なっていく。汀の嵐がなければ絶対に出来ていないだろう数。当然ながら、ショウ一人では出来る訳がない。
「『鬼神の手』!」
今度は両手だ。
創り出して、水鏡めがけて飛ばす。
出来るだけ細くなるように打ち出した貫き手は水鏡を盛大に突き破りながら成長していく。
「行きますよ、旦那様!―ふきいでよ!」
地響きが止まる。
次の瞬間、水面が爆発した。
「流石に重かったですね。思ったより手間取りました」
爆音すらさせて吹き出したのは、圧縮された水だった。
邪神の右腕の真下に大量の水を圧縮し、下から一気に押し上げた訳だ。
「邪神の右腕が…抜けた…?」
呆然とした声は、ミューリのものだった。
テリウス達の反応も気にならないではないが、ここからが重要だ。
「では旦那様。私はこの状態を維持しますので、後は―」
「ええ、任せてもらいましょう」
邪神の右腕の先端は、手と言うにはあまりに許し難い形状をしていた。
掘り進む為に必要だったのだろうが、無数の指が並んでおり、その一つ一つが爪を生やしている。
掌の中央には不気味な空洞がある。掘った土を食うための口のようなものか。
これだけの事をしてもまだ休眠中であったようで、ぴくりとも動かない。
好都合だ。
「火群様の事だから、寸分違わず同じところを斬っていると思うのだけれど」
無数の水鏡と雨粒によって、どうにか邪神の右手と握手出来ない事もない―したいとも思わないが―程度まで成長した鬼神の両手。
どうにも動きが大げさになってしまって動かしにくいが、どうにか邪神の右腕の根本に両手を取りつかせる。
感触はあるような、ないような。
回転するように探ると、爪の先が引っかかるような感触。
「お、捉えた…っと、ずれた…難しいな…よし」
行き過ぎた所で戻し、また行き過ぎて戻し。数回試してやっと、巨大化した割に鋭くなった爪の先をその場所にかける事に成功する。
他の指も同様に掛けて、ずれない事を確認してから、
「上手く行ったらお慰み、と」
一気に横に引いた。
ちょっと長くなってしまったのでここで一旦止めます。
ちなみに水鏡の術は枚数が重なりすぎると水鏡の幅より元の術自体が大きくなってしまう為、途中から増幅率が大幅に低下するという設定です。
一々書くと冗長になりそうなのでカットしてしまいました。
あくまで拙作は神話っぽいファジーな雰囲気を重視しております。




