先を急ぐ
驚いた事に、聖石を持ち込んだ一団を率いていたのはニリだった。
占術の類でこの砦の不穏な影を知ったという。有難くも、サンカに任せた封印の手伝いも請けてくれた。
「ニリ様、心より御礼申しますわ」
「いえ、汀様。これもこの国に住まう者の務め。それにしても惨い…」
ニリもまた、氷にて覆われた外法の魔法陣に強い憤りを見せていた。
奇怪な肉塊にしか見えないそれは、余人には既に性別など判別出来ない代物でしかなかったが、汀とニリはその辺りを女性と看破していた。女神の勘なのか、見切れなかったショウが単純に未熟なのか。
どちらにしろ、この封を維持し続ける必要がある。邪神の右腕の処分を終えて、戻ってくるまで。
「汀様。私が力を貸したとしても、この封印を永く維持する事は出来ません」
「存じております。戻ってきた後に街の外で封印を解いてしまえば、その後は旦那様が」
「成程」
魔法陣にどれ程の瘴気をくべたものかは分からないが、邪神そのものが呼び出されるようなものでもないだろう。
となれば、ショウに斬れない事はない。…といった汀の判断なのだろう。
ニリもそれに異存はないようで、首肯するとサンカの方に向き直った。
「私が使う神気では、あなた方の操る鬼気と完全に同調する事は出来ません。サンカ様ご自身に一時的な加護を与え、鬼気の回復と操る技量を高める事になります。よろしいですね?」
「はい。ニリ様の御力添えに感謝いたします」
頷くサンカに、笑顔で返すニリ。
ショウもまたその様子を見て小さく頷くと、同じく様子を見ていた弟子に声をかけた。
「山霞とニリ様の護衛が要る。ディフィ、お前は残って二人を護れ」
「師匠、しかし…」
「馬車の御者はダインに用意させる。護衛にテリウスを残してみろ、ややこしい事態になるだけだ」
「む…」
テリウスは敵国であるイセリウスの王族だ。
彼自身がそれを吹聴した訳ではないとは言え、彼を害しようとする者は掃いて捨てる程いる。
それでもテリウスは護衛を全うしようとするだろうが、今度はサンカとニリに余計な心労を与えかねない。
「宿の若旦那なんだから、女性への配慮についてもお前の方が向いているだろ。任せる」
「…分かりました」
力不足だから置いて行かれる訳ではないと察したのだろう、ディフィも忌憚なく了解してくれる。
「…そして、もしも俺達が戻るまでに封印が保たなくなると思ったら、砦の外まで抱えて奔れ。それも間に合わないと思ったら、人気のない場所で斬れ。決して正しく術式を発動させるな」
「…はっ」
「俺達は必ず戻る。何が出てくるかは分からん…或いは眷属以上の存在…北方大陸の魔人が現れるかもしれないが、何とか時間を稼いでくれ」
責任重大だ。
むしろただ着いて行くだけのテリウスよりも信任されているかもしれない。
ディフィの表情が締まる。然程特徴のない彼の顔が、中々に精悍に見えてくるから、覚悟の有無は大きいものだ。
「ディフィ様。私の巫女とお友達をよろしくお願いします」
「分かりました。師匠、奥様」
「まぁ」
奥様、と言われた途端、汀の表情が崩れた。
ショウの袖を掴んでもじもじと。余程嬉しかったようだ。
「…さて、準備が出来次第すぐに出る。宴会はここに現れる厄介事を終わらせてからだな」
突貫工事で聖石が城砦に設置されていく。
砦二つを連結した為、必要な聖石の数も多い。そして、最前線であるから帝都のような設置は出来ない。
自然、城壁の中に埋め込む形で設置する事になったのだが、連合城砦などという奇矯な砦を造り上げた職人たちにしてみればむしろ容易かったのか、兵士も含めた総出での工事はさしたる遅れもなく作業を終わらせて行く。
「見事でございましょう、シグレ殿」
「確かに」
汀と共に、現場を歩く。案内するのは城砦の責任者の一人である、ランブルス・サウロン将軍。
最後にもう一度、邪神崇拝者が混じっていないかを確認する為だ。聖石に細工などされては困る。
封印をニリとサンカ、ディフィに任せた以上、ショウ達は早々に作業を終えて出なくてはならない。
その為には、ニリによる祝福が終わる必要がある。
「サウロン将軍」
「はい」
「弟子達を頼みます」
「ええ。我々が願うのは平穏なる帝国の未来。代わりにあの邪神の右腕はシグレ殿達にお任せします」
「必ず。ですが邪神崇拝者はどうやら並々ならぬ組織力を持っている様子」
「獣の絶地との戦を続けている場合ではないのでしょうな」
ショウの言葉に頷くランブルス。
「私の体にも、獣の絶地から移住してきた亜人の血が流れております。本来ならば我々が相争う理由などないのです」
「そうでしたか…」
「…戦が終わるのであれば、それこそ罪過あるサウロン家の当主である我が首を絶地に渡すのも吝かではないのですが…」
「祖の罪を裔が負う必要などありませんわ。そしてそれだけでは最早終わらないでしょう」
「レライにも同じような事を言われました。とは言え、獣の絶地との戦を止めたいのは私だけの願いではありません。…例えそれが、次は邪神崇拝者との戦にすり替わるだけだとしても」
遠からず、獣の絶地との永い戦は終わり、邪神の復活を目論む邪神崇拝者との永い戦が始まる事になるだろう。
それはダイクの様子を見て来たショウもまた確信している。
だが、状況は悪い。
皇族への干渉を受けてしまったという事は、既に連中が秘密裏に大きな組織となって動いている事が察せられる。
邪神の右腕を滅ぼす事は、邪神崇拝者の心の拠り所を叩き潰す事にも繋がるのだ。
「構わぬ。奴らの言う教化が、人の正気を失わせ、ただ命ぜられた事しか出来ぬ木偶にする事であるならば、奴らはあらゆる心ある人の敵だ」
「殿下!」
と、会話に割り込んで来たダインにランブルスが跪く。
隣にはいつも通りミューリと、複雑そうな顔をしたテリウスが立っている。
「良い、ランブルス。信頼の置ける御者の手配は済んだか」
「はっ」
「ショウよ。後の作業はここの者達に任せる事にした。そろそろ出よう」
「準備は整ったか」
「ああ。聖石の設置に際しては済んだ。後はニリ様の御力を注いでいただき、石を埋めるだけだな」
「残るは城壁の更なる強化でございますが、それこそ一日や二日では終わりません。攻め寄せられる合間を縫って、少しずつやって行くしかないでしょう」
だからこそニリが来たとも言える。
万が一聖石が壊れたとしても、彼女が居れば結界を維持する事も改めて聖石を用意する事も出来るからだ。
これ以上ここで待つのは我儘に過ぎず、携わる者達を信じていないと言っているようなものだ。
「分かった。封印の事は山霞とディフィに任せてある。行くとしようか」
御者を任されたのは、イェガと名乗る青年だった。ニフル城砦の将軍であるレライ・ニフルの弟であると言うから、身分から見ても最も信頼出来る人物なのだろう。
「剣の腕はそれなりにありますし、責任のある仕事を持っていない遊び人ですから丁度良いでしょう」
レライの評価は辛口だったが、会ってみると飄然とした所はあるものの確りした人物であった。
出立して二日後の晩、何となくレライの評価が辛い事に触れると、彼はこう言ったものだ。
「我々の体にも獣の絶地の血が流れています。言わば親戚。明確な理由もなく、惰性で争う事が馬鹿馬鹿しくありまして」
「…ふむ、そういうものか」
イェガの言は、ともすれば皇族批判とも取られかねない内容であった。事実ミューリは怒りを露わにしたが、当のダインが平然と言葉を受け止めたので二の句が継げないようだった。
「…お怒りになりませんので?」
「何故怒る必要があるのだ?そなたの言は正しい。と言うよりも、歴代の皇帝がその理屈に思い至らなかったと思うかね」
静かに、だが堂々と言い切るダイン。
その様子を見て、イェガは思わず平伏し、そして何かに気づいたようだった。
「では…ではまさか、相争う理由が、他に?」
「ああ。それも何かを奪ったり、相手を滅ぼしたりする為ではなく、だ」
ムハ・サザム帝国と獣の絶地は気の遠くなるほど永い期間を争っている。
しかし、相手に致命的な打撃を与えた事は互いに一度しかない。
即ち、帝都への獣の王の襲撃と。
その獣の王を討ち果たした事。
後はほぼ膠着状態であり、戦場は連合城砦を始めとした幾つかの戦地に限定されている。
小競り合いはあるとは言え、戦時体制が敷かれているとは言え。帝国に住む市民にしてみれば生まれて死ぬまでその状況に慣れてしまっており、緊張感やぎすぎすした雰囲気はない。
それは連合城砦に住む商人達ですらそうなのだから、どうにも『戦争をしている』という言葉を維持する為にしているようにしか見えない。
「イェガよ。理由を確りと考えておくのだ。その答えが私を満足させるものであれば、そなたを俺の直臣として取り立ててやろう」
「なっ…!」
驚きを示すイェガとミューリ。
後で聞いた事だが、皇族の直臣は砦を差配する将軍よりも立場が上になるのだという。
「その理由に思い至る事が出来れば、そなたにもムハ・サザム万年の計に関わる事が許される。馬車を駆る間は考える事を許す」
向こうに着いたら生き残る事に集中しろよ、と告げるダインに、イェガは改めて頭を下げたのであった。
更に五日後。
一行はとうとう、魔獣の砂漠へと辿り着いたのである。