邪神の右腕に対する闘神の見解
『…俺が生まれた時には、あれはもうあの状態でな』
サンカから借りた交信球で蒼媛国に連絡を入れると、すぐに火群と繋がった。
毎度城まで行くと迷惑がかかると、社に交信球を用意させたという。
こちらとしては有難かったが、貴重な交信球を一つ余計に用意しなくてはならなかったロクショウに心の中で詫びる。
とまれ、こちらの問いに対して火群は鷹揚だった。
『完全に破壊するには条件があるが、それさえ何とかできるならば構わないだろう』
「条件、ですか?」
火群でさえその条件を備える事が出来なかったという点に首を傾げる汀。
『ああ。こればかりは俺も聞いた話なのだが―』
にわかには信じられない事だろうが、と前置きして。火群は語り出した。
『邪神の右腕は、一万五千年前に今の場所に突き刺さったという。その時には手首の辺りまでしか埋まっていなかったそうだ』
「手首、ですと!?」
『うむ。肘を通じて肩までがあの右腕なのだが、今は大体肘の辺りだろう?』
「ええ。活性化を抑える、とはまさか」
『本体諸共、邪神はまだ健在だ。頭は潰し、体と足は海の底に無数の槍で縫い付けた。左腕は戦の最中に浄化して消滅させたそうだ。今奴がある程度自由に出来るのはあそこに突き刺さった右腕だけ』
見た事のないショウと汀には、そもそも邪神の大きさが思い浮かばないのだが。
一つ嘆息して、火群の言は続く。
『話を聞く限り、邪神の奴は大きさとしぶとさとあの瘴気さえなければ大した敵ではなかったようだ。だがまあ、縫い付けた体が今は『北方大陸』と呼ばれているのだそうだから、実際馬鹿げた巨大さだったのだろうさ』
「実際に見た訳ではないのですか?」
『俺が生まれたのはその五千年後だ。船でわざわざ行きたがる物好きも居なかったからなあ』
誰が好き好んで邪神の体に乗りたいなどと思うか、と言われれば頷かざるを得ない。
現在も北方大陸とは国交はない。そこには凶悪な魔人や魔獣が住んでいると言われているのだが、それを確認しに行った者が戻って来た例もないという。
火群が知らない以上、真相を知る者はほぼ居ないと見ていい。
『ただまあ、右腕は何度も見ているからな。確かに山よりでかいが、腕から大きさを換算しても大陸なんて言える程大きなものじゃあなかっただろうと思う』
「では?」
『それでも北方大陸は実在するからな。俺の予想では縫い付けられて倒れ込んだのが北方大陸だったか、あるいは―』
「あるいは?」
『槍の傷口から漏れ出した瘴気が冷えて固まって広がって大陸になったか。こればかりは一々見ている訳でもねえから分からんが』
と、ずれた話の方向を矯正しようとエザニィが口を開いた。
「ホムラ様。それでその、条件とは一体どのような」
『ああ、すまねえ。つまりだ、あれはどうやら地下に向かって掘り進んでいるらしい。瘴気によって周囲を砂漠にしたのもその為だろう。きっちりと片付ける為には埋まっているものを掘り出さなくてはいけないんだが―』
と、火群の言葉を聞いたダイクが頬を引き攣らせた。
「掘り、出す…?」
『つまりまあ、そういう訳だ。地上に出ている部分を真っ二つにすれば、再生を優先して動かなくなる。最初のうちはアズードの連中も手伝ってくれていたんだが、最近は俺だけだな』
「し、神性の方々で力を合わせて引き抜く、とか…」
『長時間触れていると瘴気に浸食されて使い物にならなくなるらしくてな。…そういや俺の偽物はその行き着く先、だったんだろうな』
瘴気そのものを身に取り込まされ続けたあの名も分からぬ神性は、火群の名を名乗った。
長時間触れているとああなってしまうのであれば、確かに手がない。
「つまり、邪神の右腕を掘り出しつつ、爪の先まで浄化して消滅させなくてはならない、と」
『そういう事だ。まあ、浄化については汀なら何とかなるだろうが』
「そんな馬鹿な」
思わずなのだろうが、火群の言を否定したのはロヴェリだった。
と、交信球の向こう側で火群が気を悪くしたのが察せられた。声以外に届くものもない筈なのに、ふと周囲の温度が下がったような錯覚に陥る。
『ほう?』
「あ、いや、も、申し訳ありません。で、ですが山よりも巨大な瘴気の塊なのでしょう?そのような物、たった一柱では」
『おいおい、俺の名代を舐めてもらっちゃ困るぜ。その程度造作もない。問題はな、湘』
「はい?」
『眷属どもは理性はないが知性はあるぞ。萬里鬼笑閃だけで大丈夫か?』
「汀どのと一緒に術の修業を進めていますよ。どちらにしろあの大きさを相手にするには術がないと」
答えて小さく溜息をつくと、どうやら機嫌を直したらしく火群は豪快に笑ってみせた。
『仕方あるめぇ、お前はまだまだ未熟なんだからよ。本番は神性の領域に足を踏み入れてからだ。しっかり勤めな』
「ええ。汀どのには決して怪我のひとつもさせませんよ」
「旦那様…」
ショウの宣言に瞳を潤ませる汀。
火群は慣れたもので、軽い苦笑でそれを流すと今度はダイクに声をかけた。
『ダイク。俺はお前がどちらの道を選んでもそれを支持する。今までにもお前と同じ事を考えた皇帝は居た。そしてお前の考えた事は、いつかはやらなくてはならない事でもある』
「はい」
『邪神の右腕を完全に消滅させる事は俺やアズードの神性には出来なかった。おそらく周辺環境すら激変させる程の術を使う必要があるだろう。そしてそれを使えても成功する見通しはあまりない。失敗すればお前の国は獣の絶地とアズードから確実に責められる事になる。…敢えてお前が背負わなくてはならないものではないだろう』
火群の言は厳しくも優しい。
手遅れになる前に、誰かが決断しなくてはならない。しかし、まだ猶予はある。
今回先延ばしにしても、次回はより良い状況となるかもしれない。
それを選ぶことを責めない、と。
ダイクは瞳を閉じてその言葉を噛み締めているようだった。
そして、厳かに口を開く。
「…どこまで掘り進む事を目的にしているのか分からない以上、先延ばしにする事が上策であるとは断言できないでしょう」
火群もまた、静かにダイクの言葉を聞いている。
「そして、次に決断を迫られるのはきっと私の子孫であるのです」
ショウは息を呑んだ。人に気圧されたのは随分と久しぶりであった。
皇帝ダイク・ジェイ・ムハ・サザムは決断したのだ。その威徳がショウの背中を突き抜けたのである。
「ムハ・サザム帝国は邪神の右腕を破壊します。邪神崇拝者の拠り所を奪い、彼奴等をこの大陸から一掃しなくてはならない」
『その意気や、良し!俺もまた、名代にはそれが出来る者を送った心算よ』
「汀様であれば可能性はある、と考えてよろしいのでしょうか」
『ああ。汀だけでは駄目だが、湘が居るならば可能性はある』
「シグレ殿が居れば…?」
『うむ』
「理由をお伺いしても?」
『実際に見れば分かる、と言った所だ!あまり細かい所まで気にするなよ、禿げるぞ』
「なぁっ!?」
思わず頭を押さえたダイクの頭上に、全員の視線が集う。
「い、いや違う!?私はまだそこまで頭髪に不安は…っ」
『はっは、冗談だ!湘、汀。ダイクは選択した。叶えてやれ』
「ええ、分かりました」
「任せて下さい、火群様」
「ず、随分と軽く請け合うのですわね、ショウ様」
『俺の名代である以上、それぐらいは軽くこなして貰わないとな』
無論、名代だからという訳ではなかった。
本来ならば、火群は邪神の右腕への対応を最優先しなくてはならなかったのだ。世界と島国ひとつ、考慮の余地もなかった筈だ。
だが、蒼媛国の為に火群は残ってくれたのである。
次期守神として、そして何より蒼媛国で生まれた者として、その恩義には応えなくてはならない。
「諦めの悪い上古の神性を引き裂いてみせましょう」
ダイクの決断、火群の負託。
それを背負うショウもまた、強く覚悟を決めたのであった。