今宵の帝都は眠らない。ショウ=シグレは眠れそうにない。
夜も半ばを過ぎたというに、喧騒冷めやらぬ城中ではあるが。
ショウと汀は豪奢な部屋に通され、その喧騒とは隔離されている。
こちらとしても都合は良い。テリウスとディフィの部屋、サンカの部屋はそれぞれ用意されたが右隣、左隣なので特別困る事もない。
軟禁されている訳でもないので出入りは自由だ。今は五名全員がショウと汀の部屋に集まっている。
「そういえばディフィ、ダインの妹を迎えに行っていたんだって?」
「ええ。かの偽物との問答が始まる前に、ミューリ様からご依頼を受けまして」
隠密裏の行動についてはディフィはここにいる誰よりも秀でている。
無事に皇女を連れて戻った彼の手腕は帝国の者達からも評価が高かった。
「…まあ、第二皇子のところまで入り込んでいたんだから、騒がしくもなるよなあ」
永い時間をかけて領土を拡大してきたムハ・サザム帝国は、大陸南方をほぼ掌握している。敵対している国は西の宗教国家アズードと、最早惰性といっても良い程に永い期間を争い続けている獣の絶地の二か所だ。
その極めて微妙な三すくみに、突如邪神崇拝者達に割り込んで来られた形だ。
「実際、邪神の右腕に一番近いのはこの国ですからね」
邪神の右腕を中心とした魔獣の砂漠は、ムハ・サザム帝都より更に北西。元より風土の関係で砂漠地帯や草原地帯の多い国柄なのだが、この砂漠地帯には異様な数の魔獣が跋扈しており、完全な要害となっている。
地図上の領土としてはムハ・サザムに含まれているのは、アズードのある西は山の連なる高地であり、獣の絶地は森の中にあるという事情からだ。
「邪神の右腕が活性化した時だけは、過去の恩讐を忘れて協力しあうのだがな」
扉を叩きながら、ダインが入室してきた。ミューリを連れている。
「おぉ、ダイン。準備は済んだか?」
「ああ。ニリ様にいただいた邪神除けの聖石を帝都の周りに配置した。埋めるのと『一番高い建物の天辺』は明日までかかりそうだな」
城壁の外周、城壁の上、帝都で一番高い建物の天辺、帝都の中心部の地下深く。
ここに設置された聖石で結界を張り、外部からの邪神崇拝者の侵入を防ぐ。
内部に既に入っている者に対しては、結界が張られた後に汀の術とニリの術で確認する事になっているという。
汀はショウが、ニリはテト・ナ・イルチの親族が護っているから、今夜のうちに暗殺等の問題が起きることはないだろう。
帝国の威信と、帝国に住む民の安全がかかっている。彼らに妥協はなかった。
帝都の中心で、一番高い建物はどちらもこの城だ。聖石を設置する為に穴掘りも先程から交替で続けられているし、塔への設置はまだ始まっていないが、程なく職人を交えて設計と工事が始まるという。
「魔獣都市の乗っ取り、邪神の右腕の急な活性化、ムハ・サザム帝都への邪神崇拝者の侵入…か。事が済んでも済まなくても、大陸の勢力事情が変わる事になるだろうな」
「ああ。事によってはアズードと獣の絶地が『邪神に汚染された国を攻め滅ぼす』という目的で手を組むかもしれない。そうなればこの国は終わる」
帝国は大国ではあるが、同じかそれ以上の規模の敵国を二つ抱える立場でもある。
毅然と対応し、早期に邪神崇拝者を排除しなければ、巡り来るのは決定的な破滅だ。
だからこそダイクも一切容赦をしていないのだろう。
「やれやれ、責任重大だ」
邪神崇拝者の組織は規模も浸透の程度も分からない。崇拝対象となっているであろう邪神の右腕への対処が彼らへの依頼なのだから、その重さたるや。
溜息をつくショウに、それではと汀が声を上げた。
「夜も遅いですし、今夜はお開きにしましょう。出立はいつ頃になりますか?」
「さて。媛様のご希望はともかく、帝都内の事柄が上手く運ぶまではご滞在いただくことになるかと存じますよ。何しろ魔獣の砂漠までは二月はかかる道程ですのでね。迂闊に邪神崇拝者が混じっていては目も当てられませんので」
「私は特に構いませんよ。旦那様と帝都の観光でもさせていただきますので」
「それはこま…ああいえ、そうですな。手配しておきます」
頭を掻きながら受け入れるダインに苦笑しつつ、ショウはショウで出来る事をしておく。
「テリウス、ディフィ。ダインを部屋まで送るんだ。ミューリ殿では今のダインは護り切れないだろうからな」
奸計で第一皇子、第二皇子を陥れたのだ。事態を解決した第三皇子を狙ったとしても不思議はない。
ミューリはこの状況で魔獣を使役すれば疑われるだけだから、現状ダインの護衛としてここに居るのではなく、ダインの愛妾としてなのだろう。
この場に同席させる事に意味があるという事だ。
「分かりました、師匠」
頷き、部屋を出て行く五名。
足音が遠ざかり、隣の扉が開く音―サンカだろう―が聞こえたところで、汀はショウに振り返った。
「さて、では旦那様。始めましょうか」
「はい、師匠」
床に座して向かい合う。これから始めるのは、修行だ。
ここまで来る道すがら方針は定めたから、ここに滞在している間にきっかけくらいは掴んでおきたいところだ。
と、汀は珍しく愚痴のような言葉を口にした。
「神性の眷属程度であれば、旦那様なら本気を出せば鎧袖一触の筈ですが」
「ええまあ…確かに」
「大体豪公殿を討ち果たした旦那様があのような神性未満に後れを取ってはなりません」
「すみません」
「豪公殿を百身ごと一刀で斬り払ったのでしょう?萬里鬼笑閃で問題ないではありませんか」
「広さを重視すると距離が稼げないのですよ、あれ」
「む」
「豪公様を斬った時には全ての百身が俺に向かってきておりましたのでね。集中攻撃を避けた直後、本体が地上に居る時を狙いましたから上手く行きましたけれど。そもそも本当に全部斬った訳ではありませんし」
飛び上がっていた百身も居たし、距離はあったが背後にも残っていた筈なのだ。本体を斬り伏せたから何とかなったのであって。
とは言え過半数は斬った自信はある。
「っと、話がずれました。邪神の右腕の至近まで一々眷属を斬り捨てながら進みます?」
「…それもそうですね。遠間から、という事であればやはり方法を考えなくてはなりませんか」
小首を傾げる汀に見惚れながら、ショウも腕を組む。
「どちらかというと最早剣技ではないでしょうな」
「ですねえ。鬼気を使った術となりますね。旦那様はあまり使われませんよね」
「一応、萬里鬼笑閃は術と剣技の複合ですよ。鬼気を打ち出している訳ですから」
「そうなのですか!あの母の事ですので、指導が剣技に偏重していたのではないかと不安だったのですが」
「いやあ…」
実際のところ、術については濤の兄である汐風からの直伝である。
ショウの反応に何となく察しがついたのか、多少の呆れを含んだ吐息を漏らす汀。
「遥か離れた距離に術を送り込むのは然程難しい事ではありません。問題はその効果を維持する事です」
「そうなのですね」
「そうなのです。あとは具体的にどういう術にするか、ですね」
「斬るのは業剣がありますからね。趣を異にしたいとは思いますが」
「なれば私と共に創った妙味を彩りにしたいところです」
ショウの鬼気は量・質共に人の枠を大きく超えており、高位の鬼神にも及ぼうかという域に達している。
だからこその汀の発言だったのだろうが、ショウはその言葉に軽く頬を引き攣らせた。
何しろ、汀の鬼気は鬼神の中でも破格の量と質を誇る。海に愛された蒼媛の一族である彼女は、水と海を操る事にかけては絶対的と言える。
端的に言えば『帝都を囲むこの砂漠を全て海原に変えてしまう』事も汀にとっては容易い御業だ。
その汀の基準での術となると、どれ程の精緻さと威力を求められるというのか。
「…頑張ります」
だが、惚れた弱みとでも言えば良いか。
ショウは汀の願いを跳ね除ける事など決して出来ない。
彼女を悲しませないよう、修行に励むのみだと心に決めたのである。