邪神崇拝者
「汀どの!」
「ええ、分かっております旦那様」
鋭い声を上げるショウに、あくまでも嫋やかに答える汀。二人の所作はいかにもちぐはぐだったが、同時に無駄のないものでもあった。
緑色の流血。即ちこの偽物は『邪神眷属』である。同時にその死体が生み出す汚染がその場所を魔獣の発生点としてしまう『魔獣の苗床』でもあるという事だ。
「貴様ッ!」
ミューリの懐剣を頬に投げ刺された偽物は、怒りを瞳に宿してショウの方に振り返り、そして。
「ど、どこだ!?」
その姿を見失った。
偽物が振り返った時にはショウは既に業剣『汀』を抜刀し、偽物の横をすり抜けていた。
その処理は、既に任せてある。
「貴様、このホムラに何たる無礼!許さん、捻―」
どぼん、と大仰な水音と共に怒声が途絶える。
最早ショウはそちらには注意の一切を払わず、ある人物に切っ先を突き付けた。
「…何の心算かな、シグレ殿?」
「さて、それはそちらが一番よく分かっているものと思うのだが、どうか」
「さあな?」
「ぶっ、無礼な!?」
漸く反応出来たものであるらしい、護衛が悲鳴じみた叫びを上げる。
同時に事態を把握したダインが、焦り切った声を上げた。
「し、ショウ!お前、何を―」
「ああ、済まんなダイン。約定は理解していたんだが」
「そうではない!お前、誰に刃を向けているんだ!?」
相手に動く気配はない。
とはいえ、油断は禁物だ。この場に違和感なく溶け込んでいた事実に、今更ながらに戦慄を覚える。
「この人物は偽物を連れてきたロヴェリ皇子じゃないだろう…と、言いたいのだろう?」
「分かっているならば何故!その人物は第二皇子のエザニィ、間違ってもお前が刃を向けるような相手ではない!」
「そうか、自己紹介をしていなかったな。エザニィ・アル・ムハ・サザムだ。名乗っていなかった無礼は謝罪するから、その物騒な得物を引いては貰えないだろうか」
「その願いは聞けないな」
後ろではごぼがぼという耳障りな音と、水が流れる音。そして緊張が増した空気の中で、ダインを含めた誰もが今、自分に対して敵意を抱いているのが感じ取れた。
視線は決してエザニィから外さずに周囲に注意を払うと、どうやら既に数人が己の佩剣に手をかけているようだった。
あとは皇帝の指示だけ。それだけで彼らはショウ達に牙を剥くだろう。
どうやらこの人物は、ここに居る者達から随分と支持を受けているようだった。
「一体どうしたと言うのだ、シグレ殿。それに、この水柱は一体」
唯一冷静なのは、上から睥睨する形の皇帝ダイクだけだった。
とはいえ先程よりも随分硬い声で、ショウに問うてくる。
こちらが状況については説明しなくては治まらないだろう。目線は決して切らず、答える。
「まずは水柱についてだが、これは汀どのの術だ。詳細の説明は省くが、見た目以上の圧力と対流で抑え込んでいるから、中に閉じ込められた者は決して出る事が出来ない。邪神眷属が相手だ、それくらいはしておかなくてはな」
「うむ。それは分かった。迅速な対応感謝する」
それで、と促してくるのはショウの行動の理由だろう。はぐらかすことは許さない、と刺さる視線が告げている。
「火群様との交信が出来た時に、そこの偽物が見たのはロヴェリ皇子ではなく、このエザニィ皇子だった事が理由の一つ」
「…何?」
「ふ、偶然だろう?兄上はまだ昏倒されている、目が泳いだ時にそう見えただけではないかな」
それだけならばまだ言いがかりで済ませる事が出来る。だがショウの勘は、目の前の人物が黒幕だと確かに告げていた。ショウはこういう勘働きについては、自分の感覚を疑わないようにしている。
それに、もう一つ。
「…俺達の感覚を舐めてもらっては困る」
この距離に来るとしっかりと分かる。
「香水に混じって瘴気の臭いがするんだよ。…貴様一体何者だ?」
「―けかっ!」
皇族とは思えない笑い声を上げて、エザニィの顔をした人物は表情を崩した。
「まさかこの国に傷のひとつも付けられずにばれてしまうとは思わなかった」
「邪神崇拝者、とかいう連中か」
「まあな。これまで積み上げた苦労が水の泡だ。恨むぜ、シグレ殿よう」
だが恨み節でありながらも男の声に苦衷はない。
まるで失敗しても構わなかったかのように。
「悔しくはないのか」
「なに、構わんさ。十分な成果だ」
「…あの神性か」
「ああ。御使い様の肉を長期間摂取させて、じっくりこさえた傑作だ。その血はきっとたくさんの御使い様を顕現せしめるだろうさ!」
エザニィの端正な顔をぐしゃぐしゃに崩して笑う。
ショウはその言葉に戦慄を覚えた。
「神性を眷属に作り替えた、か。…おぞましい真似を」
「人の『浄化』は効かねえぞ」
「…だろうな」
あの巨体の分の瘴気、毒素を体内に詰め込まれたのだ。名も知らぬこの神性の苦痛苦悶はいかばかりだったか。
「見物だったぜ?徐々に壊れていく様を観察するのは。終いには自分の事を闘神ホムラだと言い出し始めやがった。使い道を考えながら飼っていたら、今回の件だ。好機とはこのことよ!」
「随分口が軽いことだな」
「この俺も、ここで死ねば同じことだからよ。分かるか?てめぇらは俺達をここに入らせた時点で既に詰んでいたのさ!」
「そろそろ面を見せてもらおうか」
目にも留まらぬ速さで、ショウは業剣を振るった。
顔に幾つもの傷が出来るが、血は吹き出ない。
「…香水で隠す訳だ。エザニィ皇子の『生皮を剥ぎやがった』な」
「そこまでばれたか」
ばらりと、顔の部分の皮が剥がれ落ち、違う顔が出てくる。
「…殺したのか?」
「いんや。部屋の地下で生きているぜ。こいつは俺達の秘術よ。相手が生きている間は瑞々しい生気を保つ。上手く行ったら聖地に運んで飼う予定だったが、まあ仕方ない。―さ、殺せよ」
死も目的達成の為の手段である彼にとって、現状はまったく動揺に値しないのだろう。
と、それまで傍観に徹していたダイクが口を開いた。
「…賊徒よ、名を名乗れ。我がエザニィに近付いたのだ、この国に潜伏して短くはあるまい」
「何を仰いますか、陛下。私めとはよく顔を合わせておいででしたでしょう」
「エザニィは体が弱い。あの子に近寄れる者は限られておるが…まさか」
「はい、陛下。家庭教師のフェリアッハでございますよ。言っただろう?…そいつの生皮を貼れば、何者にでも化けられるんだよ」
「では、本物のフェリアッハは」
「さあなあ。エザニィ殿下の皮を被ればもう用無しだからなあ。今頃御使い様の腹の中じゃあないかなあ」
皇子の家庭教師を務めるだけの人物だ、それなりに見識の高い貴族だったのだろう。
玉座に深く腰掛け、強く嘆息するダイクを、フェリアッハを名乗る男は愉悦に顔を歪めて見ている。
「そうそう、その顔が見たかった。ところで、そろそろ逃げた方がいいぜ?ここは程なく御使い様の宮殿になる。ほら、どうしたシグレ殿?それともこのまま俺を逃がしてくれるかい?」
「まさか」
話を聞いてダインが動いたのが目に入っている。恐らくエザニィの部屋に私兵を送り込んだのだろう。
となれば、ショウがする事は決まっている。
「テリウス!山霞!」
「はい、師匠!」
「ダインの手伝いをしてやれ。エザニィ皇子の救出に向かった筈だ」
「分かりました!」
「…こういう輩の事だ、恐らく罠がある。気をつけろよ」
頷いて走り出すテリウス。初めて来た建物なのだから、案内くらいつけろと思うのだが。
要らない問題を起こしてくれるなよと脳裏で少しだけ心配する。
と、サンカはそれについていかず、逡巡した表情で口を開いた。
「湘様。ですが…」
「何だ、山霞。早く行け。もしも眷属に近しい者が居たら浄化を使える者は一人でも居た方が良いだろう」
「わ、私は媛様の。…この状態で媛様から離れるのは」
その言葉に、ショウは思わず怒りに視界が赤くなるのを抑えきれなかった。
「山霞。…お前、俺を舐めているのか」
「ヒッ!?」
殺気交じりの鬼気を叩きつけられ、サンカが悲鳴を上げる。
恐怖を抱いたのはサンカだけではないようだった。がたがたとあちこちで何かがぶつかり合う音が響く。
後ずさろうとして出来なかったものだろう。
「俺がこの場に居て、汀どのに傷の一つでも負わせると思うのか。そして汀どのがこの程度の連中に害される恐れとてあると思うか。呆けている暇があったらテリウスを援けろ!あいつはここでは敵国の王族なんだぞ!」
「は、はい!」
慌ててテリウスを追うサンカ。
やれやれと溜息をつくと、フェリアッハを名乗る男に小さく笑みを浮かべてみせる。
「なんだ?怖かったか」
「そ、そんな事はないがね」
「まあいいさ。それでだな」
「何だよ?」
と、ショウは汀と偽物ホムラの方を顎でしゃくった。
男の視線がそちらに向き、その目がこれ以上ない程に見開かれる。
「何だあれは!?」
「汀どのは次期蒼媛であらせられる。その術は歴代の鬼神と比しても群を抜いて素晴らしいと、火群様のお墨付きでな」
目を奪われているのを確認して、ショウも視線をそちらに向けた。
無論、動く気配をさせただけでも斬る心算だが。
「旦那様、そろそろ終わります」
水柱の中には、変わり果てた姿の偽物の姿があった。余程の水圧なのだろう、全身がひしゃげ、圧し折れた様子が見て取れる。
干からびたようになっているのは、漏れ出た緑色の血の所為か。
「な、何故だ。何故水の色が変わらない!?」
「わたくしの鬼気にて浄化しておりますので。東方の田舎者と侮らないで下さいまし」
血はもう殆ど流れ出ていない。にも関わらず、水柱の透明度はまったく変わらない。
と、水柱が徐々に細くなっていく。それに伴い、まるで圧縮されるように偽物の体も細く小さくなっていく。
ぷつりと、水柱が消えた。ぱしゃりと一握りの水が地面に落ちて、後には何も残らなかった。
「なんてこった」
汚染の色などまったくない、清浄な水が床に浸みていくのを呆然と見送るその横顔に、告げる。
「と、言う訳だ」
「う、うう…!」
こちらを見たその顔からは一切の余裕が消えていた。
「汀どの」
「あら、良いのです?」
「十分な時間を稼げたと思いますよ」
「そうではなく。わたくし、旦那様の恰好良いところも見たいのですが…」
どんな所でも、どんな時も、まったく汀はいつも通りだ。
微笑ましく口許を緩め、ショウは希う。
「では汀どの。俺がこの男を斬っても汚染が出ないように」
「承りました♪」
「く、くそっ!忘れるな、我々はここまで来た!皇帝の眼前に、皇帝の首に手が届く場所に!」
逃げようとした男が、愕然とした顔をした。
足が動かないのだ。がくがくと震えて、一歩をも踏み出してくれそうにない。
「何故だ!?何故体が震える!?俺はお前らを恐れてなどはいないのにっ!」
突如、男の体が浮いた。
その身が今度は水柱ではなく、水珠に包まれる。
「旦那様!」
「…名代を名乗る以上、火群様の技を借りるとしましょうか」
まだ交信球は繋がっているだろうか。
「火群様直伝―」
業剣を持つ手からだらりと力を抜き、あの日に見た光景を思い出す。
頭で考えることなく、体が動く。
「微塵剣!」
水球に向けて放たれた無数の斬撃は、目にも留まらぬ速さで男を斬り刻み。
「…やはりまだまだ冴えが足りないなあ」
「いいえ旦那様、とても恰好良かったです!」
火群の時とは違い、緑色の血漿が水球の中に溢れ、すぐ透明に戻った。