邪神の伝承と魔獣都市の過去
齎される破滅があった。
どこから現れたかは不明。
全ての大陸に生きるあらゆる存在の敵として、その存在は突如活動を開始した。
大陸を砕き、己の眷属を生み出し、今在る全てを滅ぼそうと。
三つの大陸を失い、七種の亜人が死に絶え、百八十三の生き物が滅んだ。
邪神と呼ばれたその巨大な何かがその最期、海面に倒れ臥して出来たのが北方大陸であるらしい。
邪神から切り離された体の一部は、今もなお本体を蘇らせようと、あらゆる奸計を練り続けているという―
「つまりまあ、これが一万五千年前の出来事だそうですよ」
「火群様も生まれる前と。何ともまあ、伝説的な」
汀が語ったのは、上古の時代に分類される神話だ。
この世界に生きる神性の中で、この時代を直接知る者は最早殆ど居ないという。
「御先祖様…初代鬼神様も一応上古の時代の方ではあるのですが…」
「取り敢えず実在していた事だけは分かりました。『邪神の右腕』とはつまりその…本物と」
「火群様が仰るには、そうらしいですよ?」
ムハ・サザム帝都に向かう馬車の中。
ショウの隣に寄り添う汀が語る話は、どう反応すべきか分かりにくい類のものではあった。
同乗しているのは捕虜だった三名とテリウス、サンカの二人。ディフィは御者である。
「ショウ、汀様。協力を感謝する」
「構わない。火群様の代役を務められるのはむしろ光栄な事だと思っている」
普段は威厳の欠片もない火群であるが、彼を知る者、とりわけ武を志す者にとっては憧れの存在である。
それは幼い時分からそれなりに付き合いの深いショウにとっても同様で、一時的には言え汀と旅が出来る事と合わせて、何とも幸運なことと現状を噛み締めていた。
ともあれ、事態は進行しているのだ。幸せに浸っているだけでは良くない。
ショウはダインに分かっている範囲の事を確認しておくことにした。
「それにしても、ダイン。邪神の右腕はいつから活性化しているんだ?」
「いや、まだ兆候だけだが?」
「という事は、邪神眷属というのは活性化していない状態でも現れるのか」
「ああ、イイリヤの事か。あれはちょっと違う」
「どういう事です?」
「俺が先般斃した魔獣なのですがね。その邪神眷属だった筈なので」
事情をしっかりと理解できていない汀にも説明をすると、同じようにダインの方に視線を向けた。
ダインは順を追って話す心算のようで、両手を挙げて隠す心算はないという姿勢を見せた。
「まず理解しておいてほしいのは、邪神もまた『神性』として扱われているという事なんだ」
「一般には区別がつかない、といったところか?」
「それもある」
言葉を切ったダインの視線がミューリに向けられ、彼女の目が伏せられる。
「世の中には、邪神を崇拝している連中も存在する」
「…聞いてもいいのか?」
「ミューリを始めとしたキュルクェインの当主一族には居ないから安心してくれ。だが―」
「…キュルクェインは都市に潜伏する邪神崇拝者が増えすぎた結果、帝国に庇護を求めざるを得ませんでしたので」
「それは…魔獣を操作する術を持っていたからか」
「はい。邪神崇拝者達はどこで捕えたか、イイリヤを都市に運び込んで祭壇を作り、御神体と称して生贄を与え始めたのです」
「衣服らしきものを身に着けていたのはその所為か」
一度何らかの方法で人の手を介していたようだ。
それがダイン達の手元にあったということは、邪神崇拝者達ごと組織を取り込んだのか。
「して、その邪神崇拝者の者達はどのようにされたのです?」
「全員討伐しました。本来はイイリヤもどうにか討伐する心算であったのですが、何しろあの大きさでしょう?結果として接収という事になりました。操るのではなく意識を奪うだけなら然程の負担ではありませんでしたので」
「邪神を崇拝する者の気持ちというのは私には分かりませんが…。邪神の伝承が明確に伝わっていないのも理由なのかもしれません」
世界中のあらゆる神性をしのぐ力を持ち、大陸を食らい、破壊しながら魔獣という新たなる命を生み出す神性。
それだけを聞けば、閉塞している現在に対して不満を持っている者が拠り所にしてもおかしくはないか。
「オレの知る限り、邪神眷属は邪神の右腕が活性化している時でないと現れない。前に活性化した時の生き残りだろうと思う。右腕以外がどこかに存在しているのかもしれないから、断言はできないがね」
「そうか」
安堵しつつも、軽く残念に思ってしまうショウである。
ギュストォという軛のない邪神眷属は果たしてどれ程のものか、知りたい自分が居たのだ。
とは言え、だ。ショウの今の技量では邪神眷属を真っ向から打倒するには足りないものがある。
イイリヤでさえ、今のままでは勝てる見込みは少ないかな、と思っている。
不用意に傷つけたら流血で土壌や水源を汚染するので、前回の闘い方が間違っていたとは思わない。だが、それは結果論に過ぎない。
自分よりも遥かに巨大な相手と闘う時の手が少ないのは確かなのだ。
そして、ここには情報を共有できる相手が居た。
「ともあれ、邪神眷属が発生した時の事を考えないといけないな」
「考えなくてはいけないことか?」
ダインはショウが巨猿を斃した事のみを見てそう言うのだろうが、事はそう簡単でもない。
「ギュストォ殿の干渉がなかったらあのように勝てたかは分からないのだが、どうか」
「そうなのか!?」
「言い方は悪いが、闘い方が幼稚だったように思う。好き勝手に走り回られたらどうしたって消耗戦になる。流血したら周囲を汚染するんだろう?」
「…むう」
否定しがたいものがあったのか、ダインも押し黙る。
と、存外明るい声でミューリが声を上げた。
「流血させるのは構わないと思います。邪神の右腕の周辺は既に汚染され尽くしていますから、今更少しくらい地面に血が染み込んでも大差はないかと」
「そうか、それは有難い。…だが問題は、イイリヤと同じくらいの巨体相手だと、俺達の得物では長さが足りない事の方だ」
「あら、萬里鬼笑閃では駄目なのですか」
驚いた様子の汀に首肯して、業剣を抜き放つ。
「萬里鬼笑閃では、およそ刀身の倍程度の範囲が限度ですから。件の猿相手だと足首くらいは斬り落とせるかもしれませんが、それも動き回られていると狙いがつかなくて」
「そうだったのですか」
「こればかりは俺だけではなくテリウスとディフィも同じですからね。方針を定めた上で新しい技を創始しないといけないかなと」
「ではまた一緒に知恵を絞りましょうね、旦那様」
頷いてみせると、汀は嬉しそうにショウの肩に頭を載せた。
その様子に何とも微妙な顔つきを見せるダインが、だが聞かずにはおれなかったのだろう、問いを向ける。
「ショウ…その、この二人も闘わせる心算か?」
「ああ。一人前として扱えるだけの腕はあるからな」
「業剣…と言ったか?その技術は誰でも扱えるのだろうか」
「扱えるが、刃を折られると死ぬからな。止めておいた方がいいぞ」
「なに?」
怪訝な顔をしたダインが視線を反らし、そちらに座っていたテリウスが頷いてみせる。
「皇子殿下。業剣は習得は容易ですが、活用するには命がけになります。継承権の定まらない内は習得すべきではないと存じますよ」
「いやだが…貴公とて」
「僕や陛下は事情が違います。僕は継承権などあってないようなものですし、陛下は先王を業剣士に暗殺された経緯がありましたから」
むしろショウが虚言を弄している方を懸念していた様子のダインだったが、テリウスの言に虚言ではない事を察したらしい。
最後にちらりと汀を見ると、
「世界は広いな」
としみじみと漏らしたのであった。
馬車は街道を走る。
最寄りであった砦は陥落してしまったので、このまま馬車で帝都まで向かう事になる。
そのまま強行軍で行けば十日はかかるという事だが、今回は十五日ほどかけて街を幾つか経由する予定だ。
一日二日で邪神の右腕が活性化する訳ではないというし、帝都到着前には新しい技の一つも作っておきたいものである。
ともあれ、まずは。
「ディフィ、御者を代わろう」
働きづめの弟子を休ませるのも、師の役目だろう。