イセリウス王国業剣士の初陣~魔獣狩り
腹が減ったら飯を食う。
これは獣に限らず生物の本能だ。
巨猿が解き放たれて最初にしたのは、眼下にてもがく四足の獣を貪り食らう事だった。
ショウの萬里鬼笑閃で斬り殺されたものも、あるいは辛くも難を逃れたものも。生死の別なく猿は餌を握り潰すと、血塗れの肉を口に放り込む。
遠目に眺めたところで腹が減っていたのかは分からないが、どうにも操られているようには見えない。
猿は目の前に居る餌を好き勝手に摘まんでいる。生きている四足は逃げようとしているが、ショウは車輪を壊す事を優先したので台車を引くための綱はほぼ切れていない。結果活きの良い餌として猿に握り殺され、優先してその腹に放り込まれている訳だ。
「さて、斬るとは言っても…」
流石に巨大すぎて、どうしたものか迷う。まだそれなりに距離があるのだが、天を衝く程の巨体の前には距離感が麻痺してしまって相手の間合いが測り辛いのも問題だ。
どちらにしろ、一刀両断するにはショウの得物は長さが短すぎた。
「萬里鬼笑閃を最大限に大振りしても無理だよなぁ」
そもそも大きすぎてどこを狙ったものか。定石ならば首か手か足首だろうが、自由に動き回れる巨獣の急所など、先程斬った車輪とは訳が違う。
とはいえ普通に振るだけでは刃の長さの問題で致命傷にはなりにくい。今回は貫通力よりも一撃の幅広さが問われているのだ。
足を止めていないから距離は縮まっている。このままだと完全に無策で相手の間合いに入ってしまう事になるが、立ち止まって考えた所で良い方法が思い浮かぶとも思えない。
「下手の考え休むに似たり、か」
ショウは駆けながら溜息をつくという器用な事をしつつ、雑念を振り払った。
先程決めたではないか。『斬ってから考える』と。
ならばまず斬ってみれば良いのだ。
初志を貫けていない時点で、既に相手に呑まれている。
「強敵確認、先ずは示すか」
大きさに気圧された事を自分の心の内で認め、相手がある一点に於いて自分より格上であると定める。
久方振りに訪れた、『挑む』という感覚。
獰猛なまでの闘志を鬼気に乗せて、解き放つ。
食事を続けていた猿が、びくりと手を止めた。こちらに気を向けつつも食事の手は止めていなかったのだが、今度はしっかりとその目でこちらを見ている。
毛が逆立ち、瞳が警戒色に染まる。血塗れの歯を剥き出しにし、唸り声を上げている。
「行くぞ、大畜生!」
おそらく名前はあるのだろうが、知らない以上『大畜生』と勝手に呼ぶ事にする。
互いに『己を殺し得る存在だ』と認識した両者が視線を交錯させた。
ショウは鬼気を。巨猿『大畜生』は殺気を相手に叩き付ける。
そして、先手は大畜生の方だった。
大きく息を吸い込むと、全て吐き出すように前のめりになりながら叫ぶ。
―キィィィィァァァァアァ!
最早、声などという生易しいものではない。耳を強打する衝撃に軽く顔を顰める。
その圧力はまず、まだわずかに残っていた四足の生き残りを襲った。
吹き飛ばされるものはまだ幸運だっただろう。何匹かはその圧力によってまるで内部から弾け飛ぶかのように粉砕され、あるいは襲い掛かった圧力と地面に挟まれて誇張ではなく『叩き潰された』。
ショウは流石に足を止めた。
人の域を越え始めている自分の肉体であれば、あの声で為す術もなく潰されるなどといった事にはならないとは思う。しかし、だからと言ってそのまま突っ込んで良いという程無謀でもない。
耳の奥が鳴っているが、この程度で済んでいる事が幸運だろう。
―ァァァ…ッ…
響く声が途絶えたのを確認して、今度は全力で駆ける。
考える必要はない。体が動くに任せれば良い。そう決めているショウに、逡巡はない。
と、大畜生がこちらを睨みつけた。
ぐっ、と後脚に力を込めたのが見えた。まさか。
―キシィッ!
咆哮と言うよりは、歯を食いしばっても音が漏れたような。だがそれもすぐに響いた音と震動にかき消された。
地面が割れたのではないかというような爆音を立てて、山と見紛う巨体が宙を舞う。
桁外れの巨獣にとって、その質量こそが最大の武器である。
「うおおっ!」
一瞬で夜が訪れた。陽光が遮られたのだ。
ショウは尚も足を速めた。言うまでもなく、このまま下敷きになれば死ぬ。
巨体に似合わず大分高い位置まで跳ね上がった大畜生は、その後脚で着地してのけた。
ショウが最前まで居た位置を踏み抜いている。
驚くべきことに、地面に足が突き刺さっている。しかし更に驚くべきはそれ程の威力、重さを引き受けてなお圧し折れていない足の頑丈さだろう。
ともあれ、両足が突き刺さったのは好機だ。地面の揺れに構わずショウは軽い動きで反転した。
一度では引き抜けなかったのだろう、後脚を引き抜こうと大畜生は前脚を押し付けて力を込めている。
その一点に狙いを定める。
「昂怒鬼神!」
更に速度が増す。鬼気そのものを全身に纏ったショウは間合いに入るや舞うように踏み込んで一閃、業剣『汀』を振り抜いた。
―ヒキィィャァアアアアアッ!?
斬り払うというよりは、圧し斬るように。
度外れた速度と業剣の斬れ味が可能とした一撃は、大畜生の右前脚首付近、人で言う所の右手首を半ばまで断ち斬っていた。
斬り抜けた所で止まらず、そのまま間合いを外れる程まで駆け抜ける。
「骨まで斬れたか…?」
妙な手ごたえだった。
ショウが振り返ると、大畜生は裂かれた前脚を押さえて悲鳴を上げていた。
零れる血液は毒々しい緑色だ。大きいだけの普通の獣でなかった事に軽く安堵しつつ、だがショウは止まらなかった。
そのまま足を止めず、振り返る勢いのままに再度反転。
大畜生にこちらを気にする余裕があるかどうか。
見ると、零れ出していた血は既に止まっている。傷口が塞がったのか血が固まっただけかは分からないが、呆れる早さだ。
―シュウウウウウ…!
追撃を加えようとしたショウの耳に聞こえる異音。同時に周囲の空気が薄くなるのを感じる。
脚を抜くよりもこちらの排除を優先したということか。畜生にしては賢しい事だ。
だが、最前の破壊力を見ればそんな悠長な事を言っている場合ではない。
あちらが空気を吐き出す前にこちらの刃が届かなければ終わる。
昂怒鬼神はまだ持続している。
「間に合え!」
最後の一足で、跳ねる。
目の前には大畜生の開いた口。
喉の奥が見えた。
―キャァッ!
「ちぃっ!」
業剣『汀』を突き出すのと、咆哮と、どちらが速かったか。
圧力に撥ね飛ばされ、ショウの体が宙を舞う。
木の葉のようにくるくると回りながら、ショウは自分がどう飛ばされているのか既に分からなくなっていた。
重力に引かれて体が地面に激突する、その瞬間にやっと天地と自分の体勢を把握する。
「ちっ!くっ!うおっ!」
そこから更に三回ほど地面を跳ねてから、ショウはやっと勢いを殺す事に成功した。
そこかしこをぶつけた所為で全身が痛むが、特に怪我などはなさそうだ。昂怒鬼神の効果は切れてしまったが、その肉体強化の恩恵に感謝だ。
ともあれ、危なかった。
のろのろと起き上がり、大畜生の方を見る。
大分吹き飛ばされてしまったが、その巨体のお陰でその状態がよく分かる。
「拡げたのはお前さん自身だ」
喉を押さえて苦しげに悶絶している。足が地面に刺さっている分、転げ回る事が出来ないのが周囲にとっても僥倖か。
今回ショウが狙ったのは喉。丁寧に萬里鬼笑閃の要領で鬼気の刃を突き出したので、しっかりと気管を突き通したようだ。
その直後、大量の空気を吐き出す事でその穴を大きく拡げたのは大畜生自身だ。ショウの体が吹き飛ばされただけで済んだのも、空気を十分に吐き出しきれなかったからだろう。
悶絶しながらも声は響いてこない。苦しみ方から見て、喉の穴に対する痛みではないように思えた。
「血が詰まったか」
ショウの一撃は同時に放った鬼気の刃が喉を突き通している。傷つけられた首の血管から溢れた血液が喉を塞いで固まれば、最早呼吸は出来るまい。
頸の骨まで貫いていたのであれば、最早大畜生は死を待つだけだ。
「さて、介錯仕る」
こちらが立ち上がったのを見た大畜生の目が、こちらに何かを請うているように見えた。
意図を正しく理解したショウは、大畜生に歩み寄る。まだ節々が痛いのだ。
ある程度の距離まで詰めた所で刃先を向ければ、大畜生は両前脚を下ろし、頭を垂れた。
ショウは大きく右腕を引き、先程と同様に鬼気を乗せて業剣『汀』を突き出した。
今度は眉間。正確に貫いた鬼気の刃は大畜生の生命を寸断した。
ずしん、と。
最期まで一々巨体らしさを忘れない地響きを立てて、大畜生は斃れた。
「…世界は広いな」
神性と当たらずとも、自分を苦戦させる生物が存在する。
ショウは勝利の高揚と共に、武神への途を着実に進んでいる実感に身を震わせるのだった。