鬼神と国主と鬼神討ちになれなかった男
緋師国への道行きは当然のように安全だった。
蒼媛の加護を受けた船に乗り、火群が同乗しているのである。魔獣の類に囲まれても一切恐れる必要はないと言えた。
船が緋師国の港に着く直前。ショウは船縁に立つリゼの横に並んだ。
「…ここが半慈さんの国だ」
「蒼媛国と、そう変わらないわね」
「…そうだな」
以後、船を降りるまで二人の間に言葉はなかった。
「火群様!ご無沙汰を致しております。時雨殿、よく来てくれた」
緋師城国主の間。
特に訪問の連絡もなく訪れた四名は、だが誰に何かを言われるでもなく国主の間へと通された。
城内の者は半数以上が国主寄りだ。
にこやかな顔で挨拶をする緋師国国主、日比埜赤月(アカホシ=ヒビノ)は六十代の年齢を感じさせない身軽さで火群の手を取り、次いでショウの手を取った。
「久しいな、赤月」
「はい!三十年ぶりでございます」
「赤月。まずは皆様に席を」
「ああ済まない熱烙。では皆さん、こちらへ」
そのままテリウス、リゼと行きそうなアカホシを遮ったのは室内にもう一人居た女性であった。
照れたようなアカホシが着席を促す。席を与えられたショウ達はそこに座り、それを見届けたアカホシが女性の隣に座る。
「改めてようこそお客人。私が緋師国国主である日比埜赤月だ。そしてこちらが―」
「赤月の家内で熱烙と申します。当代緋師も努めております。以後お見知りおきを、テリウス・ヴォルハート様」
「え?…あ、こちらこそ。テリウス・ヴォルハートです」
明確にリゼを無視した熱烙の言葉に、困惑しながらも返答するテリウス。
ショウは眉間を指で押さえながら、少々低い声を上げた。
「…緋師様。半慈さんを斬ったのは俺です。こちらはその半慈さんが伴侶と認めた方。そのご対応はどうかと思いますが」
「湘様。話は色々と聞き及んでおりますよ。…その娘が居なければ、半慈は死ぬ事はなかったという事でしょう」
「どうでしょうかな。俺が討手となった以上、どのような事であれ討つ羽目になってしまっていたのでは」
「…うん、私が大人げなかったようですね」
小さく息を吐いて、緋師は今度はしっかりとリゼを見据えた。
「リゼさん。半慈に山査子の姓を与えたのは私です」
「!」
「そして緋師流の手解きをしたのも私です」
「…はい」
「貴女が私の息子の忘れ形見を宿してくれた事、母として嬉しく思います」
当代緋師は業剣士の才能のある子どもを見つけると、母のようにして慈しみ、しっかりと育て上げる事で知られている。
ハンジの出自は孤児だった筈だ。衒いなく息子と言い切れる彼女の強い母性を理解したのだろう、リゼも緋師をしっかりと見つめ返した。
「半慈の妻で、リゼです。…彼は私を護ってくれました。本当に、心から嬉しく思っています」
そして頭を下げたリゼからは、確かにムハ・サザムの皇族としての威厳が放たれていた。
「そうですか、ありがとう」
緋師もまた、やっとリゼに笑顔を見せた。
「…テリウス殿、どうやら私と熱烙の関係が気になるようだな?」
「え!いえ、その…はい」
雰囲気を変えようとしたのか、突如アカホシがテリウスに話を振った。
テリウスもやはり気になったのだろう、存外素直に頷いてみせた。
「当たり前だよな。知らない人にしてみれば、熱烙と赤月は孫娘と祖父くらいにしか見えん」
「火群様、仰る通りですがもう少し言い方に…」
「事実だろうが」
「気にしているんですよう」
情けない声を上げて溜息をつくアカホシに、くすりとリゼが笑みを漏らした。
「あ、ごめんなさい」
「いいさいいさ。…成程、別嬪さんだとは思っていたが、笑うと更に別嬪さんだ。半慈が惚れたのも頷けるってもんです」
「あの…」
「赤月。困らせてどうするのです」
「最初に困らせたのはお前だろう」
にやにやと笑うアカホシに、どう答えて良いものか。
ともあれ疑問に答えようという心算はあったのだろう、アカホシは改めてテリウスの方を見た。
「私と熱烙の年齢は一緒でしてな。所帯を持ったのは五十年前の事なのですよ」
「つまりあれだ、テリウス。湘と汀の関係を五十年経たせたのがこの状態、って事だな」
「ああ、そういう事なのですね」
「当時はまだ緋師を継いで居なかったのですよ。守神の娘と国主の息子の婚姻という意味では、然程珍しい事ではありませんので」
「実際国主と守神の娘が結ばれる事は多いんだよ。例外は蒼媛国くらいでなあ」
「そうなのですか」
「圧倒的に女系に偏る家系だからな。しかも守神の子で鬼神に目覚めないのは本当に稀だ。その辺りがあるから国主一族が嫌がるのさ」
ショウとしては、ロクショウが汀にどういう想いを抱いていたのかを知っている立場だけに、その辺りに口を挟む事はしにくいのだが。
火群はにやりと口許を歪め、アカホシに向けて告げた。
「三十年前はまだ娘と父親くらいだったんだがな。流石にそろそろ老いが優ってきたか」
「そうですね。そろそろ次の国主を指名しなくてはならない頃」
と、赤月は首を傾げた。
赤月と熱烙との間の子は二人、どちらも鬼神だ。鬼神は国主にはなれないのが定めだから、親戚筋から次の国主を選ぶ事になる。それに対しての要件かと思ったのだろう。
「火群様のご用件はそれですか?」
「いや、そちらではねえ。今回の槐主の件に熱烙、お前の兄が関わっているのは聞いたな?」
「人づてには。自分が緋師に選ばれなかった事を随分と恨んでいたようでしたからね。…私が守神である事より赤月の妻である方を重要と見ていた事も理由でしょうか」
「それもないとは言わねえが…。棄童が干渉してきたようだ」
「…何ですって?」
「あれで暇な奴だからな、守神に不信やら不満を持っている連中に声をかける事がある」
「暇って…」
相変わらず万年も生きていると言い方が独特だ。
頭を抱えるショウには構わず、火群は言葉を重ねた。
「奴の声がかりが排斥派を率いていたとなると色々ややこしい。お前の兄の存在は列島国家群の歴史から抹消される事になる」
「…そういう事情でしたか。馬鹿な兄ではありましたが、そこまで堕落していたとは」
「まあ、その程度ならわざわざ顔を出したりはしねえよ。俺が気にしているのは、お前ではなくお前の兄を推していた連中だよ」
「求道斎の事ですか」
「そうだ。どちらかというと孫の方だな。排斥派に関与しているとなれば、問題がこちらに飛び火するぜ」
あるいは棄童とまで繋がっていた場合は、問答無用で排除対象だ。
この国は槐主国以上に厄介な立場になってしまう事になる。
「お気遣いありがとうございます。ですが」
「別に今日すぐ取り締まろうとかいう心算はねえよ。困った事があったら頼って来い。これだけを伝えておきたくてな」
「…ありがとうございます」
緋師も赤月もこの件については他国に関わられるのは困ると思っているようだ。
火群の言にある程度の謝意を示しながらも、その顔つきは少し固い。
と、表からどすどすと荒い足音が聞こえてきた。
「入ります!」
神経質な甲高い声と共に入室してきたのは、癇の強そうな顔をした老人だった。
声の高さの割に、体つきはでっぷりと緩い。白髪と皺が相俟って、異相となっている。
険しい目で赤月を一瞥し、次いでショウ達を睨めつける。
「これはこれは『蒼媛国の鬼神討ち』殿。お見えになると伺って居れば国を挙げて歓待致しましたものを」
「守神様と国主殿から既にお受けしておりますよ。それとも御国の歓待では『これ以上』が何かあると?」
「むぐ、それは…」
「胡叢。控えなさい」
「これは異なことを。緋師国筆頭家老として、『蒼媛国の鬼神討ち』殿にご挨拶をしただけの事です」
「順番が間違っている、ということさ。『緋師国の鬼神討ち』のお孫殿」
口を挟んだのは今度も火群だ。今の発言で目の前の男が自分を知らない事を理解したらしい。
普段は自分への挨拶の順番など歯牙にもかけないのだが、今回は悪戯っ子のようににやにやと笑いながらコムラを見ている。
「貴様は何者か。蒼媛殿の縁者の鬼神様ででもあると申すか」
「いや、鬼神ではねえな」
「ならば―」
「控えなさい、胡叢!」
緋師が声を荒げた。驚いた顔をするのはコムラだけで、アカホシも平然としている。
彼女の顔色が悪いのは無理もない。ショウは自分の発言の結果をそちらに振ってしまった事に少々の申し訳なさを感じつつ、成り行きを見守る事にした。
「こちらは私などよりも高みにあられる御方です。これ以上の無礼は許しません」
「だ、誰だというのですか」
「火群様。闘神火群様と言えば、浅学のお前にも分かりますか」
「闘…神…?」
「お前が俺を知らねえ事の方が驚きだ。求道斎から聞いてねえか」
次に真っ青になったのはコムラの方だった。
あわあわと言葉にならない言葉を吐き出しながら平伏し、がたがたと震えだす。
「鬼神討ちの孫よ」
「は、はひ」
「ここでの俺の要件はもう済んだ。求道斎に会いたい」
「そ、祖父は今鍛錬中です。一晩!一晩だけお待ちください!」
「いいだろう。泊まる場所は赤月の方から連絡させよう」
「わ、分かりました!では私めはこれで!」
「頼むぞ」
巨体をぶるんぶるんと揺らしながら音を立てて去っていくコムラ。
一応戸を閉めるくらいの気遣いは出来たのは年の功か。
「悪戯が過ぎますよ、火群様、湘様」
「申し訳ない」
二人して頭を下げると、緋師は苦笑を漏らした。
「本当にもう…。こういう所ばかり濤によく似ているのだから」
「いや、本当にすまねえな。取り敢えず泊まる事になっちまったが…」
「元々その心算ですよ。それはそうと、リゼさん」
「はい」
「今のここの国情はご存知と思います」
これは断定だった。
頷くリゼに、
「蒼媛様からお話は伺っています。今の者の組織が幅を利かせている現在、貴女がこの国に住まうのは色々難しい事になるでしょう」
だから、と。
「蒼媛国でしっかりと修行をお積みなさい。そしてたまにで良い、私の所に顔を見せに来て」
「はい、分かりました…!」
リゼが涙を流して平伏する。
「あとね、一つだけお願いがあるの」
「なんでしょうか」
「半慈の遺髪か形見のようなものはあるかしら。あの子の墓に入れてあげたいのよ」
「両方、お持ちしています」
これはショウの指摘でリゼが持っていたものだ。
緋師はそれを聞いて相好を崩した。
「良かった。お預かりして良いかしら」
「はい。…良ければ私もあの人の墓に」
「勿論よ。…あ、でもテリウス様には複雑かもしれませんね…」
「いえ、僕も行きます」
護衛の任に徹すると顔で示すテリウス。
思った以上に気骨のあるその様子に、やはりショウが弟子にするだけあると頷いてみせるアカホシ達であった。