修行と言えば滝
緋師国への出立は少し日を置く事に決まった。
特に打診をした訳でもないし、いい加減ショウも少しくらい殺伐としていない日を過ごしたかったのだ。
ここ暫くの間にイセリウス王国と蒼媛国を往復したり、行った先戻った所で揉め事に首を突っ込む羽目になっている。
特にオオトチの件は、ショウが大導らに話した事が直接の契機だった事は想像に難くない。
元々の原因がオオトチにあったからと言って、彼の暴挙に対して何の責任もないという訳でもない。もう少し上手くやれたのではないかとも思うが、元々頭の足りない部分があると自認しているショウである。
思い悩んでも良い結果には繋がらないと割り切り、心を鎮める為の修練を行う事にした。
当初は折角居るのだから火群に相手を願おうと思ったのだが、
「お前とやると本気にならざるを得ないから嫌だ」
と言われてしまっては是非もなく。
セシウスとテリウスを連れて、社殿とは違う山にある修行場へと足を運んだのである。
「し…し…時雨様!」
修行場に入ると、若手の業剣士達がざわめいた。緊張感は高まったものの、それ以上に尊敬と憧憬の視線が集まってくるのがこそばゆい。
取り敢えず修行の手を止めてこちらに声をかけてくる者がいない事に安心しつつ、受付に顔を出す。
事務仕事をしていた女性が、引き戸が空いた音にこちらを向いて納得したような顔をした。
「外が騒がしくなったと思ったら、時雨様でしたか」
「おう、暫くだな」
「お帰りとは伺っておりました。社殿に賊があったとの事ですね」
「若手で血気に逸ったのがいただろう。よく抑えてくれた。火群様が鎮圧して下さったから、今回は特に俺の出る幕はなかったよ」
「左様ですか。氷雨の渓殿が亡くなられたとかで。思えば不憫な」
「…そうだな。今日は禊をしたいのだが」
「出来ましたら若手に稽古の一つもつけていただきたいのですが」
「それは後で請け合おう。向こうで賊を斬ったりしたのでな。先にそちらを済ませたい」
「了解ですよ」
「でだ。この二人に修行場を案内してくれないか」
「こちらは?」
ショウが示したセシウスとテリウスに目線を向け、怪訝な表情をする女性。
確かに、異国の者を修行場に連れてくる事は普通ない。
「弟子だ」
「ああ、こちらが」
「何だ、有名になっていたのか?」
「それはもう。時雨様が異国で弟子を取った、と憤慨する者も居ましたから」
「そんな事を言われてもなあ」
ともあれ、互いに紹介しなくてはならない。
二人の方に向き直り、彼女の方を示す。
「セシウス、テリウス。この女性はスズナ=カワノベ。ここの師範で、先代蒼媛様の三高弟の一人だ」
「当代蒼媛様の弟子、川延涼南と申します。時雨様と緑青様と比べては非才に過ぎる身ですが」
「謙遜も過ぎると嫌味ぜ」
「事実ですよ。それではお二方、修行場をご案内しますね」
「あ、はい。師匠―」
「行ってきな。ここに居る連中は一流を目指す業剣士の卵だ。学ぶことも多いだろう」
二人は頷くと、スズナに着いて行った。
それを見送り、掲示してある予定表に目を遣る。
禊を行っている者の届け出はない。道場を使うのは夕刻だ。
時間はたっぷりある。
質の高い修練が出来そうだ。
「業剣、抜刀」
修行場の端にある泉。歴代の蒼媛が一人ひとり加護を与えているこの泉の中央には、空間から突如水が湧いて出ており、それが滝を為して泉に注ぎ込んでいる。
業剣蒼媛を抜き放ち、そっと滝に差し伸べる。業剣は支えもないのに滝に突き刺さるように固定され、ショウはその場に静かに胡坐を組んだ。
歴代蒼媛の鬼気が循環するこの泉は静謐な気配を湛え、ショウはその中に溶けるように意識を解放する。
先代豪公が―
半慈が―
渓が―
そして、彼が関わって来た全ての者達が―
彼自身の魂を通り抜け、何かを残して拡散していく感覚。
水の流れの向こう側に、感じられるものがあった。
この空間を覆う数多の鬼気の中に存在する、誰よりも大事な女性。
「汀どの―」
―ぼくはみぎわさまに、ぜったいにこどくをあじわわせたりしません!
それはとても幼い約束で、彼と彼女の魂にしっかりと刻まれた誓い。
時雨湘の業剣士としての、武神を目指す者としての原風景である。
―せんねんのこどくも、あなたがいてくれるなら―
どれ程そうして居ただろうか。
「…ふう」
呼吸すら忘れていたかのような意識が、溜息と共に覚醒する。
瞳を開くと、既に夕日が射していた。そろそろ道場に行く刻限か。
心がとても清浄な物になったような感覚がある。良い時間を過ごしたものだ。
もう一度充実感に満ちた息をつき、口を開く。
「―汀どの。そんなところに隠れていなくてもいいですよ」
「あら、ばれてしまいましたか」
ショウは瞳を閉じていたが、それでも目につかないよう死角に座っていたらしい。汀が、驚いたような嬉しいような声を上げた。
いつからそこに居たかは分からないが、だが心からの安心感を感じるのは間違いなく彼女がここに居てくれたからだ。
「俺が汀どのの気配に気づかない訳がないでしょう?」
「そうですね。私が旦那様の気配に気づかない訳がないように」
顔を合わせず、二人笑い合う。
「この後道場で若手に指導をするとか」
「そうですよ。ご覧になりますか?」
「恰好良い旦那様のより恰好良い所が見られますからね。もちろんです」
「そう言われてしまっては、気合を入れない訳にはいきませんね」
ざばりと立ち上がり、業剣を滝から抜く。
元々美しく蒼い刀身が、今は透き通って向こうが見えるような透明感を感じさせる。
「業剣『汀』。あの母様がこれだけは良い事をしてくれたと思うのですが」
「汀どのの髪や瞳のように美しい蒼ですよね。とは言え人前ではその銘を言えないのも確かですが」
「呼び捨てになってしまうからですか?」
からかうような汀の言葉に頷き、振り返ると。
「それもあります。それに」
「それに?」
「この銘を示すのは、あの日の誓いを果たしてからと決めていますので」
真摯な顔で、瞳をしっかりと見据えて告げた。
汀の顔が真っ赤になるのを楽しみながら、そちらに歩み寄る。
照れているやら喜ばしいやら、ふにゃりと崩れた笑顔を浮かべる彼女の頬に冷たくなった手を当て、
「…ご先達の皆様に怒られてしまいますかね?」
「しりません、もう」
ショウは汀と唇を重ねた。
ちなみに。
この後、汀を連れて道場に赴いたショウは、木刀を手に手加減なしの稽古を宣言した。
戦慄するスズナと若手だったが、自分達が頼んだ手前今更引っ込める訳にも行かず。
セシウスとテリウスも含めた三十人を相手取ったショウは、結局誰一人として刀を掠らせる事もなく稽古を完遂してのけた。
「…媛様が一緒だとこうなるのは重々分かっていましたが」
ショウと見ていた汀以外ではただ一人立っているスズナは、それでも肩で息をしながら恨めしそうな目で汀を見ると。
「取り敢えず、今後媛様は時雨様との稽古の時は見学禁止で」
「ええ!?」
「時雨様も。媛様が居るからって毎度毎度張り切りすぎです」
「そうだな、面目ない」
きゃんきゃんと不平を言い募る汀だが、スズナも頑として譲らない。
ショウは疲労で倒れ込んでいる若手達を見回して、流石に少しやりすぎたかと反省するのだった。