残されなかった伝承・弐節 蜂起前日の大栃華清の記憶
守神という存在への憎悪を確かに自覚したのは一体いつの事だっただろうか。
オオトチは自問する。
槐主に対する敬愛の念は確かにある。しかし、それは自国の守神に対してのものというよりも、常に自分を信じ導いてくれた師へのものであった。
結局のところ、彼は槐主を敬愛し、同時に憎悪していたのである。
国主として、各国の守神と関わらなくてはならない立場。
責任感とは裏腹に、憎悪はいや増していく。
密かに心身の平衡を欠いていた彼が、その鬼神と出会い、魅入られてしまったのも無理からぬ事だったのかもしれない。
槐主国の名もなき離島。北東に位置する槐主国の最北東に存在し、本島からは山島を挟んで逆側にある為、探さなくては見当たらない無人島。ここに一軒の屋敷があった。
オオトチはこの日、政務の全てを終わらせると秘密裏にこの島を訪れていた。
「灼彪様。最後の準備とは」
「ええ、華清さん。槐主殿はまだこちらに戻っていないのですね?」
「今朝の時点でまだ戻って来ていませんね。どうも泳がされているようです」
「ほぼ確信を持っているからでしょうね。ですがこちらの出方を待つというその余裕が、我々に最大の好機を与えてくれるでしょう」
自信に満ちた瞳が特徴的な鬼神である。当代緋師の座を賭けて最後まで現緋師と争ったというその姿は、守神にとてもよく似ている。先代緋師の子である事を示すように、その瞳も髪も燃えるような真紅であるところは流石に守神の血筋だと思う。
守神の血族である彼が守神排斥の立場にある事が、オオトチに覚悟を決めさせる契機となったのは確かだ。
「既に必要な人員は揃っています。後は仕上げをするだけですね」
「仕上げ…この大量の酒ですか?」
「ええ。流石華清さん、これだけの質と量をよく集めて下さいましたね」
にこやかに微笑みながら賞賛を惜しまない灼彪に、照れたような顔を見せるオオトチ。
丁寧な言葉の奥にある、自身が誰よりも高みに立っているというその自負。傲慢とも取られかねないその自尊心こそが、俗人には『この方に身を委ねれば道を誤る筈がない』と思わせるだけの威厳を感じさせている。
「各国の同志は?」
「既に来ていますよ。別室待機という事でしたが、よろしいので?」
「ええ。彼らには彼らの役割がありますからね」
にこやかに微笑むその姿に、何とはなしに背筋に怖気を感じる。
何か嫌な予感を禁じ得ないが、最早後戻りする事は出来ないのだ。
守神など不要。絶対的な力を持つ、初代鬼神のようなたった一柱の絶対的な存在が居れば良い。
そしてオオトチは、灼彪こそがその力を持っていると信じていた。
信じようとしていた。
「諸君、時が来ました」
夜半の宴席。
用意されている席には、全て鬼神が座っている。
守神が尊重され、有為の鬼神が疎まれているとして立ち上がった、志ある鬼神達だ。
その数、実に七十。七つの列島国家群の鬼神の総数のおよそ半数を数える。
だが、実際に列島国家群に居るうちの四割ではなかった。少なくとも、オオトチが見た事も聞いた事もない鬼神が半数は居た。灼彪によれば、記録に残されていない鬼神が含まれているのだという。
また、中には記録上では天上に昇ったとされている者も居た。
オオトチも、既に地上に居ない筈の自国の鬼神と顔を合わせた時には面食らったものだ。
「明日、我々は守神によって不当に扱われている鬼神の立場の解放と、ただ一柱による絶対なる鬼神による列島国家群の統一の為に立ちます」
応、と。
鬼神達が声を揃えて鬼気を高めた。
吹き荒れる鬼気は凄まじい。だがオオトチにはそれ程強いものとは思えなかった。
自国の守神、槐主が激怒した時に放った鬼気の方が強い。そう思えてならなかった。
「朋輩よ。我々は新たなる歴史の礎となりましょう。その為の宴です。では乾杯」
「乾杯!」
皆が唱和し、宴が始まる。
だがオオトチは、各々が盃を空けた時にふと灼彪が浮かべた、底冷えするような笑みを見てしまった。
その笑みの意味は、程なく知れた。
「華清さん、こちらへ」
「?」
ある程度宴の空気が高まったところで、オオトチは灼彪に連れられて別の部屋を訪れた。
そこに居たのは、灼彪が手ずから業剣を引き出した、七十名の業剣士。
中には他国の重臣や、その子弟の顔が見える。
物音ひとつ立てずにそこに座し、灼彪が姿を見せると一斉に黙礼して見せた。
「皆さんが集まるのを待っていましたよ」
一際厳かに、灼彪が告げた。
「遅くなりました、師匠」
最後に現れた、蒼媛国の家老の末子―確か氷雨とか言ったか―が頭を下げる。
「良いのです。もう暫く静かにしていてください。もうすぐ準備が整うでしょう」
「はい」
業剣士七十名に、鬼神七十柱。
これが彼らの陣容だ。
業剣士の数自体は先の豪公の変事で大きくその数を減らしている。全ての国の数を合わせて二百程。
見習いや鬼神とは戦えない程度の者を含めてそれなので、きっちりと鍛え上げた業剣士が七十名居れば、物の数ではないとは思うが。
守神級の鬼神と斬り結ぶにはまだまだ実力不足であろうし、それ以下でも数人の鬼神が固まれば軽く吹き飛ばされてしまうのが業剣士の残酷な真実だ。
時雨湘のような超一流はおろか、山査子半慈と同等のいわゆる一流どころすら満足に居ない。
明らかに準備不足だった。
そして、その原因は―
「お許し下さい、灼彪様」
「いきなり何です?華清さん」
「私が排斥派だと見透かされなければ、もっと準備に時間がかけられましたでしょうに」
「…ああ、その事ですか」
最初首を傾げ、次に得心したかのようにぽんと手を打つ灼彪。
にこやかに笑みを浮かべ、首を横に振る。
「華清さんが豪公に繋がる家臣を斬った。それが発覚するのは遅かれ早かれあり得た事。問題ありませんよ」
「しかし…」
「元々、それは私にも責のある事。貴方だけが責任を感じる事はありません。それにね」
笑みを深くして。
「百身の豪公が居ない。これは我々にとって大きな有利に働きます。貴方のしてくれた事の結果が一柱の守神を一時的にとは言え地上から排除してくれました。私は感謝こそすれ、責めようとは思いません」
「痛み入ります…」
「ふふ。…さて、そろそろ良いでしょう。皆さん、今頃彼らはしっかりと酔いつぶれている事でしょう。さあ、修行の最後の仕上げです。あくまで静かに、全員気を絶している事を確認してから動きなさい」
「…?」
一瞬、意味が理解出来なかった。
「では…そうですね。渓。静かに様子を窺って来なさい」
「は」
頷いて立ち上がり、足音を立てずに廊下の向こうに消える。
追うように二人が立ち上がり、部屋から出て行く。
うち一人は出入り口の所に立ち、程なくこちらに向かって手を振ってみせた。
六十余人が同時に動いたにして異様な程に静かに、一斉に立ち上がり、三人を追う。
一体なんだというのか。音を潜めて、まるで誰かを暗殺でもしに行くかのようではないか。
まさか。
「灼彪…様?」
「華清さん。貴方の危惧は理解していましたとも。守神に不満を持つ鬼神というのは、どうしても力が弱い非才の愚図ばかり。無駄飯ばかり食らい、鬼神としての栄達も望めないくせに無限に生家に居座るような、一族郎党に何の益ももたらさない疫病神のようなもの」
役立たずと断じた鬼神達の顔ぶれを思い出したのだろうか、溜息をつく灼彪。
「そして一方、蒼媛国の鬼神討ちのような業剣士など簡単に転がっているものではありません。鬼神の数柱が集まればまさに吹かれて飛んでしまうでしょう」
「…それでは、今の者達は」
漸く状況を理解したオオトチ。
「居なければ、鬼神討ちを作れば良いのですよ」
どちらにしろ、鬼神同士が戦う事が禁忌とかいう以前に、気位ばかり高い七十もの鬼神など居ても大した役には立たないのだ。
だが、並の業剣士でも鬼神を討てれば鬼神討ちだ。
多数の相手を殺し尽くして消耗した鬼神が、並以下の業剣士に斬られて死んだ例も永い歴史にはいくつかある。結果その業剣士は、何かの冗談のように無敵の鬼神討ちに成り上がった。
業剣が鬼神の魂を斬る事でその一部を食らい、一つ神性に近付くのではないか、と言われては居るが。
「その状況を、敢えて作ったと仰るので…?」
「酔い潰れて眠っている鬼神の首くらいは、彼らでも斬り落とせる事でしょう」
罪悪感など欠片もなく、灼彪は微笑んだ。
血塗れの業剣士―いや、鬼神討ちか―が七十名、そこには揃っていた。
恐らく向こう側では首と胴の分かたれた鬼神の屍が積み重なっている事だろう。
「ご苦労でした」
と鷹揚に頷く灼彪に、だが一人が申し訳なさそうに口を開いた。
「それが師匠」
「どうしました?」
「あちらには六十九柱しか居られませんで」
「…何ですって?」
「お蔭で私一人、鬼神討ちにはなれませんでした」
「誰かが気付いて逃れたという事ですか、まずいですね…」
何かを考える素振りの灼彪。
問題点の大きさは、オオトチも理解していた。
逃れた鬼神にしてみれば、自身が捨て駒にされた事は理解出来るだろう。
そうなればこの場所は守神に伝達され―この島の位置からすれば槐主が現実的だろうか―自分達は時機を失う。
待っている間に定めていた予定としては、まず数日かけて鬼神討ちとしての力を馴染ませる心算だったのだ。その間にオオトチが国主として国内の兵力を調整し、その後に上陸してきた鬼神討ちと合流させる。最後には人・鬼神を問わず、槐主に味方をする者ごと槐主を討ち取る。
そして槐主国を足掛かりに、灼彪を新たな、そして唯一の守神として盛り立てて偽の守神である残り五柱を討つべく戦を始める。
七十名の鬼神討ちと槐主国の兵力。これがあれば確かに勝算はあった筈だ。
その計画が根底から覆された事になる。
思索に耽っていた灼彪は、だが然程時間をかけずに顔を上げた。
「…目標を変えましょう」
「槐主国を拠点とする策を変えるという事ですね?」
「ええ。渓、ここから蒼媛国へ急いだらどれくらいかかりますか」
「普通の船であれば七日。我が船であれば三日もありますれば」
何しろ蒼媛の加護を受けた船である。
「自らの加護を与えた船で最初に命を散らすとは、蒼媛もついていませんね。いや、あの破天荒が代を継いだ事が既に衰運を暗示していましたか」
「では?」
「華清さんは通信術を用いてまずは声明を出してください。その間に我々は蒼媛国を目指し、社殿を強襲します」
「いや、しかし蒼媛国には」
「豪公討ちは私が抑えますよ。その間に七十名で一気に蒼媛を葬れば、最小限の被害で済むでしょう」
「…確かに」
灼彪の力を疑ってはいない。少なくとも次期守神候補だっただけはあり、守神に準じるだけの力は備えているのだ。
対して時雨湘も守神を討った凄腕である。どちらが勝つとは一概に言える事ではなかったが、その間に無防備の次期蒼媛を討つ事くらいは出来ると思えた。
「当代蒼媛は居ないようですが」
「どちらにしろあの破天荒は一日二日では戻らないでしょう。そして蒼媛国は男の鬼神が目覚めにくい分元々鬼神の数も少ない」
そして蒼媛が居なくなれば海の加護もなくなる、と言う訳だ。列島国家群の覇権を握るには、蒼媛国を最優先で陥とすのは上策ではある。
「そして華清さん。通信術は城でないと使えないのでしたね?」
「ええ」
「ならば事を為したならば迂回しつつ蒼媛国を目指しなさい。貴方の今回の役割は囮ですが、事成った後に人々を統べるのは貴方なのです。私の加護を与えますから、必ず生きて蒼媛国へ来るのですよ」
合流した頃には事は終わっている。
そして蒼媛国は灼彪国として生まれ変わる。程なく列島国家群は全て灼彪の旗を掲げ、唯一絶対の鬼神と一人の国主―いや、王と言っていいだろう―の下に統一されるのだ。
鬼気の塊を宝石として手渡してくる灼彪に頷き返しながら、オオトチはその未来を夢想していた。
握り締めた真紅の鬼眼石。熱など発していない筈なのに、この石は魂を湧き立たせる熱さを与えてくれているようだった。