奥義応酬
業剣士にとって、武の道とは時として師の血縁や、あるいは自らの師すらを斬る為の技術である。
そして彼らは幼い頃から、多くの鬼神と触れる環境で育つ。あるいは稽古をつけてもらい、あるいは遊んでもらい。
狂れた鬼神の中には、幼い時分に遊んでやった弟子の命を絶った者もあれば、あるいはそういう弟子が現れた故に自ら首を差し出した者もある。
鬼神にもまた、人の内に生きる故の業がある。故に、どのような経緯で狂れた鬼神であれど、人々は畏敬の念を持ってその命に挑むのだ。
業剣士にとって、鬼神を斬る事は自らの家族を手にかける事に近しい。
より苦しみなく鬼神を討つ為に。烏滸がましいと知りつつも、彼らは技量を高め、最速・最強・最巧の奥義を追求し、いつか開眼する。
時雨湘の奥義はその為に振るわれ、そして鬼神豪公を討ち果たした。
山査子半慈の奥義もまた、その為に追求された筈だった。
緋師二刀流の要諦は、左右の刀の独立した挙動にある。
必ず左右非対称でなくてはならず、それでいて最高速度や鋭さに差があってはならない。
無論敢えて速度や拍子に差をつける事も出来なくてはならないし、それらが出来てやっと並の腕とされる。
ハンジの剣は、それらを極めた上で、間合いの中では常に六振りの軌跡が見えると称された。
緋師二刀流皆伝の証『羅生の剣』である。
ハンジは鬼神豪公を討つ為に組織された六十人、そのうちで豪公を討つに足る腕を持つとされた六人の一人であり、当時ショウが唯一『自分よりも巧い』と断定した業剣士である。
「まさかここまで差がついているとは思いませんでしたよ」
「鬼神を討つというのはそういう事のようです」
ハンジは大きく数度深呼吸をすると、左の刀を地面すれすれに、右の刀を天に向けて構えた。
「…未だ完成したとは言い難いのですが。山査子半慈の奥義をお受けいただく」
その構えのまま駆けてくるハンジを、ショウは踏み込んで迎え撃つ。
「奥義ッ」
間合いに踏み込んだハンジが、同時に二刀を振り抜いた。
「大天大死、大地大葬!」
その瞬間、ショウは確かに見た。
驚異的な速度で天から振り下ろされる七本の刃と。
地から振り上げられる七本の刃を。
その全てを打ち払ったショウの背筋に走る寒気。
左右のどちらの刀であったかは、その瞬間には判別できなかった。
最短距離を貫き徹す、十五本目の一直線の刺突。
「見事だ、半慈さん」
『蒼媛』でその刺突を防いだショウ。
十四回の斬撃の最後が左からの斬り上げ。そこからの喉笛狙いの『最速の』右の刺突が、必殺を期した一撃であったのだろう。
「…今までで、最も納得のいった、動きだったのですが、ね」
「確かに寒気が走りました。…防げたのが不思議です」
完全に本心である。
確かに一瞬、間違いなく死を覚悟していた。
ハンジも少なからず消耗している様子だ。一瞬で十五回も打ち払われているのだから、無理もない。
ショウはすっ、と間合いを外した。
「蒼媛一刀流、時雨湘。今度は俺が豪公討ちの奥義を披露しましょう」
見事受けてみせる覚悟はありや、なしやと。
問うたショウは、鬼気を更に大きく吹き上げた。
豪公は武器を持たず、その握り締めた拳を得物とした。
彼自身の異名である百身は、得物である拳ではなく、その独特な戦術にあった。
鬼気そのものを以て己が分身を作り出す。その技法は年々練り上げられ、ショウ達が挑んだ折には百三十七の分身を生み出してみせた。
その一つ一つは本体の二分程度の力しかないと当の豪公は嘯いていたが、ショウが奥義を決意した時、まだ七十からの分身が健在であった。
五十八人が力尽きて尚、半数の分身と本人が残っていたのである。
「半数の、豪公の分身と、豪公ご自身を、一撃で葬ったと、いう…?」
「ええ。まずはご覧に入れるとしましょうか」
大きく体を捻り、薙ぎ払う姿勢をあからさまに示す。
「奥義」
吹き上げた鬼気の全てを『蒼媛』に収束し、振り抜く。
「萬里鬼笑閃」
ただし、横一文字にではなく、左下からの逆袈裟に。
鬼気の刃は、ハンジのすぐ脇を飛び去って行った。
「三日月…いや、笑う口許の形、という意味ですか?」
「そんなようなものです」
「萬里…まさか!?」
ハンジは慌てた様子で振り返ったが、その刃は確かに最前列の兵士の頭辺りを掠める軌跡で浮き上がっていた。
だが。その向こうに居たのは。いや、居た筈なのは。
刃が飛んで行った先で、一瞬、血飛沫が舞ったのが見えた。
「逆賊フォンクォード・ノスレモス、討ち取ったり、と言ったところです」
「成程…。これで豪公を薙ぎ払ったと」
「豪公の時には本気を出しました。今のは見せただけですから、三分といったところ」
鬼気を散らすと念じない限り、飛べる限り飛び続けるのがこの奥義の神髄だ。
見ると、ハンジの呼吸も整ったようだ。
「では、改めて。豪公を討ったこの奥義、受ける覚悟はありや、なしや」、
「受けましょう」
ならば、と構えるショウに、ハンジも受ける構えを取った。
「時雨殿。この期に及んで虫の好い話ではあるのだが」
「何です?」
「フォンクォード殿の傍に女が一人、侍って居る」
「ほう」
「己の妻です。勝敗にかかわらず、どうか彼女の命は安堵してはもらえないだろうか」
「…分かりました。では、受け切ればあなたの勝ちとしよう。その方を連れて、どこへなりと去られるとよいでしょう」
「…良いので?」
「構いませんよ。逆賊を討った訳ですし、それくらいの融通は通せるでしょう」
「感謝します」
いや、感謝するのはまだ早い。
「ですが、豪公討ちの萬里鬼笑閃、軽々に受け切れるものではない。そのお心算で」
負けてもいい心算で振う心算など、一切ないのだから。
リゼ・エスクランゼは、戦慄していた。
戦場だというのに車に乗って、遠眼鏡を手に物見遊山気分だった王兄。
暗示で正常な判断力を奪っていたとは言え、どうにもその嗜好は理解出来なかったのだが。
その男の命は既に亡い。本当に一瞬だった。本人すら自分の死に気づいてはいないだろう。
「アンタ…」
最初の危機はヴィント・ウルケの騎馬が突撃してきた折だ。
王国屈指の騎兵だと聞いてはいたが、規格外の突破力だった。
ハンジが事態を理解して戻って来なければ、いかに暗示で強化された兵士でも突破されていただろう。
だが、王子暗殺に出向いた筈のハンジが戻って来てしまったという事は、彼女の策が破れてしまったとも言えた。
結果、捉えられてしまった彼は、討手の東国人と相対してしまったのだから。
リゼにとって、ハンジ=サンザシは最強の剣士である。それより強いという事実は彼女には到底認められないものであった、が。
蒼い光が空中を飛んできたと思ったら、フォンクォードの首が飛んだ。
速すぎて魔術での防御も間に合わず、そもそもフォンクォードの車には障壁が張ってあった筈だが、それも紙のように裂かれて。
遠眼鏡を使って様子を見ていたリゼは、事ここに至りハンジの言に一切の誇張がなかった事を理解した。
「アンタ…!死ぬなら、一緒に―」
自らも自覚のないまま、リゼは走り出した。
ハンジの下へ。愛した男の、一かけらの確率しかないという勝利をそれでも信じて。
「萬里鬼笑閃」
範囲が広がらないよう、だが全力で振り抜かれた奥義は、一直線にハンジを襲った。
「ぬうああああっ!」
受け止めると言うより、刃ごと斬り捨てようと自らも二刀を振り抜いたハンジは、しかし果たせずに受け止めるのが精々だった。
萬里鬼笑閃の推進力は元々ショウが振った勢いだけだが、その勢いを完全に止めようとするならば鬼気で出来た刃を破壊するしかない。
振り抜いた姿勢のまま、ショウもまたハンジの様子をじっと見つめた。
このままハンジが押し負ければ、ハンジ自身は元より、その軌跡上に居る者たちも無事では済まない。
つまり、ハンジの妻とやらも、だ。
ハンジは完全に全てを出し切ろうとしていた。
みしみし、とどちらかの刃が軋む音が聞こえてきた。
「がっ、があああ、うぐぁぁぁぁっ!」
眉間に血管を浮かべ、顔色を真っ赤に染め、ハンジが絞り出したその全力は。
萬里鬼笑閃を、粉微塵に粉砕してのけた。
「…つくづく、見事です。半慈さん」
だが、ハンジは答えなかった。刀を振り抜いたままの姿勢で、荒い息をついている。
どれ程経っただろうか。ハンジは何事もなかったかのように立ち上がると、ショウの方に顔を向けた。
やり遂げたような、清々しい顔つきだった。
「あなたは今この瞬間、豪公が止められなかった刃を止めた。…素晴らしい」
だが、ハンジはこの言葉にも答えなかった。
「時雨殿。…約定を」
いや、もう聞こえてすら居なかったのかもしれない。
「ええ、必ず」
頷いて見せると、ハンジはにこやかな笑みを浮かべた。
そして同時に。
橙色の二振りの刀が、無数に砕けて空に舞った。
まるで花びらのような、美しい景色だった。