残されなかった伝承・壱節 山査子半慈の記憶
「リゼ!リゼはどこか!」
癇の強い男の声が城内に響く。
どたばたという足音も。猜疑心の強い瞳で辺りを見回し、目についた部屋を荒々しく開いては中を探っている。
それが城に住まう誰かの私室であってもお構いなしだ。
「…どうなされましたか、フォンクォード陛下」
と、廊下を二人の伴を連れて、一人の女性が廊下の向こう側から現れる。
「おお、リゼ!」
男のそれが途端に猫なで声に変わる。
だが、要件を思い出したのだろう。首を数度振って、きつい顔を見せた。
「リゼよ。セシウスがジェックの元に逃げ延びたそうだな」
「そのようです。ジェック将軍の暗殺にも失敗した様子。このままでは将軍を後ろ盾に王子が勢力を得てしまいますわ」
「拙いではないか!このままでは奴が即位してしまう!余が逆賊の汚名を着せられてしまうぞ」
昔は精悍だったろう顔も、永くの不摂生が祟って青黒くたるんでいる。焦りに囚われた顔は更に色を失くし、王族には見えないほどひどいものだ。
「心配には及びませんわ。ジェック将軍は背後にムハ・サザムの軍を、前面に陛下の軍を迎えての挟撃戦には打って出ないでしょう」
「うむ。では奴らはどう出るか」
「おそらく川沿いを北上してウルケ領に出兵の伝令を向かわせるかと。街道に兵を伏せておかれませ。伝令が届く前に討ち果たしてしまえば、今度は二人揃って暗殺の手筈を整えてみせましょう」
「そ、そう上手く行くものかのう」
リゼはその美貌に余裕の笑顔を見せて、そっとフォンクォードの顎を撫で上げた。
「心配には及びませんわ。こちらには最強の剣があるではありませんか」
「おお、そうであったな!して、奴はどこに」
「自室に籠っておりますわ。精神の集中が必要だと言って」
「良く存じておるな…」
あからさまな猜疑の目がリゼを捉える。
「陛下の剣の場所くらい、弁えております。それ以外の理由はございませんわよ?」
「リゼは聡く、そして美しいからのう。心配にもなるわ」
にこりと微笑むリゼに、フォンクォードの目が釘づけになった。呼吸が荒くなり、ごくりと唾を飲むのがひどく生々しい。
「心配には及びませんわ。『私の心はいつでも陛下のもの』…」
「お、おお。そうかそうか」
そっと、『リゼの隣の連れ』を抱き寄せるフォンクォード。その目尻は厭らしく垂れ下がり、既に思考を放棄しているのがあからさまに見て取れた。
瞬間、リゼはその連れに向かって、まったく違う声音で告げた。
「『お嬢様』。私は剣の様子を見て参ります」
「お願い。さ、陛下。私達は寝室に参りましょう」
「うむ、今日も猛るとしようかのう!」
ノスレモス城。
ハウンツ王の愚兄と呼ばれ、王位継承権すら満足に与えられなかったフォンクォード・ノスレモスの居城である。
その最上階、本来ならばフォンクォードの部屋である筈の部屋に入ると、リゼは心底嫌そうに吐き捨てた。
「なんだあの脂ぎった顎は!あぁ、まだ指先がじっとりしてる」
「…手袋をしていかなかったからだろう」
「ああ、それね!ああもう、次からは忘れないようにしないと…」
窓際に座っていたのは、黒髪を後ろに束ねた三十男だ。然程美男でもないし、そもそもこの部屋に似つかわしくない恰好をしている。
東国人である。
「ハンジ。アンタ、あたしがあの好色貴族の顎を撫でてもなんとも思わないの?」
「それが仕事なのだろう?…己は君が組み伏せられでもしない限りは心配しないさ」
それに、君はそれ程鈍くもあるまい?と振り返ると、リゼは褐色の頬を桃色に染めた。
「そ、そりゃあたしは催眠には自信があるけどさ…」
「ならば心配する事はないだろう。この国を混乱させる策は上手く動いているようだ」
ハンジの顔は常に穏やかだ。この男が感情を露わにした所をリゼは見たことがなかった。
「そうだね。あたしが上手くやったら、協力者としてアンタを国に連れていくよ。仕官は間違いないだろう。アンタの腕ならすぐにも昇進できるに違いないし、そしたらあたしと結婚して―」
子どもは何人、などと言い出したリゼに、だがハンジは静かに告げた。
「…いや、己は恐らく君とは一緒に行けないだろう」
「な、何でよ!?確かにアンタの追手が東国から来たらしいって報告は受けてるけど!」
数日前、王子の追手を名目に見張らせていた東の港で、交易船から降りた東国人が居た報告は上がっている。
時系列から考えると、どうやら王子を無事に逃がすのにその人物が力を貸したらしい。
火事で王子が身罷ったなどの情報も伝わってきていたが、同行していた東国人の目撃情報がそれ以後にもあった事から、何やら上手いことをやって逃げたのだろうとリゼは分析していた。
だから追手として騎士を出したし、ヴォルハート領に彼らが迎え入れられた報告を受けて分析が確かだった事を理解した。
そしてハンジは、ノスレモスまで戻る途中に懐かしい鬼気を感じたという。報告を優先してそちらに向かわなかったのは、僥倖だったと見るべきか、どうか。
「己に取って最良とも、最悪とも言える御仁が討手のようだからね」
「な、何よそれ」
「いつか挑んでみたいと思った方で、いつでも目標としている方さ」
懐かしさをかみしめるように、目を閉じる。
「時雨湘。共に同じ鬼神を相手に戦った…いや、己は軽く一蹴されたのだったな。…最強と呼ばれた鬼神を相手に戦い抜き、終には打ち倒してしまった当代最強の剣士だ」
思い返す。
十は年下の筈だった。
最初に出会ったのはいつだったか。
豪公を討つべく編成された業剣士のうちの一人として再会し、その威容に痺れた。
島に着くや否や、『百身』の異名を持つ豪公に真っ先に立ち向かう後姿を見た。
遅れてはならぬと駆け出し、豪公の『百身』の一つと打ち合ったのは覚えている。
全力で挑んだものの、その拳に得物の片方を粉砕されて、意識を完全に持って行かれた。
しかし最後に見た彼の背の、圧倒的な鬼気と凄絶な剣術に、勝利を確信したものだった。
次に目が覚めた時には、一年が経過していた。
どうやら豪公は思った通り、彼の手で討ち果たされていたらしい。
生き残ったのは彼を含めて十指に満たなかったという。いずれも、運良く得物が欠けた程度で済んだ者や、当たり所が良くて死なずに済んだ者だと聞かされた。
ショウ以外に、ショウが豪公を討った時まで意識を保っていられたのは六十人のうち一人しか居なかったというから、その凄まじさも解ろうというものだ。
そして何より、結局殆ど役に立たなかった彼らより更に高みで豪公と争い、打ち勝ったショウの魂の輝きは更に増していたという。
半年も過ぎた頃、豪公との戦で死なずに済んだ自分を蔑む声が聞こえてくるようになった。
我が子を喪った親の声もある事だし、と黙していたものであったが、それが悪かったのか。
豪公への討手に選ばれなかった者たちが、図に乗ったのか、事もあろうにショウをも言葉で貶めたのである。
憧れは、既に崇拝の域に達していた。
激昂し、感情のままに八人を斬り捨てて我に返った。
これでは乙女ではないか。
急に気恥ずかしくなり、遁走した。
斬った時には、潔く裁きを受ける心算であった。遁走してしまったが為に、それが叶わなくなった事を理解した時。
山査子半慈の命運は、今の形に決まったのだと思った。
もしも討手が時雨湘でないならば、決して負ける心算はなかった。
だが、どうやら相手はその時雨殿であるらしい。
出来れば、もう少し時間が欲しかったのだ。
いつか自身も修行の果てに、あの高みに昇りたいと願っていたからに他ならない。
汚名も悪名も受け入れて、ただ流れのままに魂を高めようと決めて大陸に渡った。
そしていつか、時雨湘と剣を交えてみたい。願いはそれだけだった。
宛所のない旅の最中、命を懸けるに値する女性を得た。
理由が二つに増えた。
彼女の為に、出来る限りをしようと力を尽くした結果が、今なのである。
「アンタは…あたしに心からの安心をくれたじゃない。アンタの強さでも、勝つのは難しいの?」
その問いに、だがハンジは静かに首を横に振った。
「あの方が討手であれば、万に一つも勝てる見込はないだろう」
「そ、そんな!」
焦るリゼに対して、ハンジはあくまで平静であった。
「じゃあ、逃げればいい!逃げて…逃げて、どこへ…」
「君を連れて逃げれば、君の国からの追手がかかろう。連れて逃げねば時雨殿と早晩相見える事になる。それに、君は逃げる訳にはいかない筈だ」
「アンタとなら、どこでも生きていけると思う…あたしは」
だが、そう言いながらもリゼの表情は優れなかった。彼女の聡明な頭脳は、理解していたのだ。
「もう一つ言えば、君を連れて逃げれば、君への追手と時雨殿の両方に追われる。どちらにしろ、こうなったらもう、やるしかないのさ」
「…戦って死んでも、逃げて死んでも、変わりはない、か」
「十万に一つ、時雨殿に勝てたら生きる道も出来るさ。そうすれば君の国から追手が出る理由もなくなる」
見えるのは何時だろうか。それまでに出来る限り研ぎ澄ませておかなくては。
この程度だったかと、幻滅されないように。
所詮は悪道に堕した羅生の因業。まともな評価は得られないだろうが。
自分以外の彼女の為に、勝ちたいと願う。
ふと気づくと、リゼがベッドに横たわっていた。
「来てよ、アンタ。死ぬまででいい、安心をおくれよ」
ハンジは無言でベッドに乗ると、リゼの美しい形をした唇に貪りついた。
国許の固い布団が、ふと懐かしくなった。