語られなかった伝承・六 一方その頃の影武者
「…以上ですね?それでは本日の朝議は終わりとしましょう」
小さく溜息をついて、彼は会議の終了を宣言した。思った以上に胃が痛い。
現在は長砦での執務を長男アイエスに任せたジェックが、大将軍として彼の執務を補佐してくれている。
「陛下。本日の謁見については」
「ここ数日体調が優れません。早急に必要なものだけを行います」
「承りました。何かあった時に備えて、侍医を待機させておきましょう」
「頼みます」
テリウスは、玉座に座ってからここのところの日課となったやり取りを父であるジェックと済ませ、心持ち体をずり下げるようにして天井を見上げた。
隣に座るアイが責めるような目つきでこちらを見てくる。
下がろうとする貴族達には、言葉通り調子の悪い様子を見せるセシウス王とそれを心配そうな目で見る愛妻に映っているのだろう。
この後また『滋養のある食材』が手配されて届く事になる。
だが、天上を見上げたテリウスは実際調子が悪かったのだ。
何しろ。
「…いつ帰って来るんですか、師匠…」
声にならない声とは言え、この場で迂闊にセシウスの名を出すほど、テリウスもうっかりしてはいなかった。
テリウスが影武者をしている事は、セシウスの妻であるアイにジェックとランド、ザフィオといったごく近しい人物しか知らない。
謁見の数を絞っているのもこの為で、極力疑われないようにするのが目的である。
今頃師匠達は獣の絶地に居るのだろうか。
影武者になる道を捨て、一廉の剣士となるべく師匠について歩いていくと決めた筈なのに。
もしもセシウスがショウに出会えずに志半ばでその命を失っていたなら、場合によってはこの生活をずっと続ける羽目になっていたのだろうか。
そうなったらきっと心が荒んでいたのだろうなあ、と考えながら、謁見に臨む。
「陛下に於かれましては、先王陛下の崩御にご心痛の中、賊徒を自ら征伐されてのご即位。初代様に優るとも劣らぬ王の器と存じ上げます」
「祝いの言葉に感謝を。しかし、武運拙く討たれた父も刺客の刃を剣で受けようとしました。父の器が私に劣るとは思いません」
「こ、これは失礼を申しました。本日は陛下に即位の御祝をお持ち致しました。お納め下さい」
「感謝します。良い統治をされていると報告を受けています。より一層の働きに期待します」
「はっ」
老貴族の言に頷き、笑みを見せる。
頭の中に名前と話した内容を叩き込み、反芻する。
何しろセシウスが戻ってきたらこれらすべてを報告しなくてはならないのだ。
全部は覚えきれないので日記を残す事は許可されているが、書き入れる暇も朝昼晩の食事と、睡眠までの寝室での時間だけだ。
残りはあと何人だろうか。
次に謁見を希望している人物の話を聞き流しながら、テリウスは何よりも食事の時間を待ち遠しく思っていた。
「その姿だけは似ているのね」
夕食を終え、本日の役割を終えたテリウスは寝室でアイにそんな言葉をかけられた。
テリウスの寝具は二つ並べた長椅子の上に誂えられている。アイは怪しまれるから同じ寝台でも等と言っていたが、それは丁重にかつ頑なに固辞した。
後々ややこしい事になるのは御免だ。
声を掛けられたのは、報告用の日記も書き終え―日を追うごとに刺々しい書き口になっているのを自覚していたので、段々書き直しが増えている―寝台に座って日課の瞑想をしている時だった。
「セシウスにかい?」
「違うわ、湘様によ」
「師匠に?」
「ええ。何故湘様がセシウス様じゃなくてあなたを直弟子に取ったのか、分かった気がするわ」
セシウスがショウ達一行に同行してから今日まで、夜半は散々にセシウスとの違いを叱責してきたアイだったが、どういう心境の変化なのだろうか。
瞑想を止めてアイの方を見ると、アイもこちらを柔らかな視線で捉えていた。
「今日は中々上出来だったわ。セシウス様は体調不良という事で通しているし、疲れた様子にも説得力があった」
「それはありがとう。…今日は随分と柔らかいね?」
「そうね。ここ数日苛々していたのは認めるわ。悪かったわね」
随分と素直だ。はにかむアイは確かに愛らしく、セシウスが心奪われたのも分かる気がする。
そこまで考えて、慌ててテリウスは頭を振った。自分が彼女に惹かれてどうする。
「苛々の理由は分かったのかな?」
「ええ。あなたがセシウス様に似ている顔立ちで湘様に似ている空気を醸し出しているからよ」
「師匠に?」
「そうよ。目的の為ならば、それ以外の一切の全てを捨てても悔いはないという種類のね」
「…」
言われてみれば、思い当たる節はあった。
ショウは汀と添い遂げる為に、人で在る事すら捨てようとしている。
それは、人であった時の家族や、定められた寿命しかないテリウス達を見送る立場になるという事だ。
「湘様は漸様以外の『人の家族』とは最早関わりのない立場。いえ、元はご両親が双子の片割れである湘様を業剣士となるべく預けた事が発端ですから、湘様にしてみれば捨てられたのと変わらないのかもしれないわ」
「師匠はその中で、媛様と生きる道を定められた…」
「緑青兄様の側仕えという道もあったのでしょうに、媛様に取られてしまったわ」
言外に、アイがずっと持っていた―或いは今も捨て切れていない―ショウへの慕情を感じて、テリウスは視線を逸らした。
小さく笑うアイ。
「心配しなくても、今の私はセシウス様の妻よ。湘様への憧れは、あの方もご存知のこと」
「そうかい」
憂いを帯びた表情に見惚れそうになった、とは流石に口に出せず、テリウスは一言だけで答える。
「あなたはどうして、湘様に似ているのかしらね…?」
「テリウス・ヴォルハートとしての自分が必要とされていなかったという意味では、僕は師匠に似ているのかもしれないね」
そしてショウと同様に、家族を、国を、従兄弟をすら捨てても剣の道を取った事も。
「湘様に似ているあなたは、きっとそういう所を見抜かれたのね。…さて、そろそろ休みましょう」
テリウスは頷くと、近くにある燭台の火を吹き消した。
アイも寝台の近くの火を吹き消し、最後にもう一度からかいを含めた声をテリウスにかけた。
「どう?今日くらいは一緒に寝てみる?」
「御免被るよ。その寝台にはセシウスの気配が色濃く残っている」
「あら、じゃあ私がそちらに行きましょうか?」
「勘弁してくれ。セシウスと決闘する羽目になるのはもっと御免だ」
負けることはないだろうと思うテリウスだったが、万が一にも彼を斬ってしまったり業剣を折ってしまえば、今度こそテリウスという個人は消え、二人目のセシウスが立つ事になってしまう。
「なんだか魅力がないと言われているみたいで複雑だわ」
「従兄弟の奥方に誘われる僕も複雑だよ」
「…冗談よ。あなたがそういう事をする人じゃないと信じていなければ言わないわ」
「…冗談きついよ」
ぼふ、と柔らかい寝具に体を横たえて、大きく息をつく。
この寝具の出来だけは、旅の空では中々味わえないものでもある。
意識が眠気に呑まれる前に、ふと。
テリウスは冗談交じりにこんな一言を呟いた。
「ああ、アイさん。セシウスが戻ってきても、半年は夫婦の営みをしないでくれよ?本当に万が一にもあいつに疑われるのは嫌だからね」
「あら。そんな下世話な冗談も言うのね?」
「そりゃ、さっきまでからかわれていたらね」
ころころと笑うアイに、背を向ける形で体勢を変える。
「大丈夫よ、もう居るから」
「…え?」
思わず体を起こす。暗がりで互いの顔は見えないが、アイが微笑んでいるのは分かる。
「セシウス様が経たれたすぐ後に分かったのですよ」
「そりゃめでたい。セシウスが戻ってきたら喜ぶね」
何の事はない。気を回したつもりが、それも含めて彼女の掌の上だったというだけだ。
今度こそ不貞腐れて体を横たえる。
アイはそれ以上何も言わず、同じように寝台に潜ったのが気配で伝わってきた。
それにしても、とテリウスは思う。
(あいつも父親か…)
本当の兄弟よりも兄弟らしく育ったセシウス。
自分自身が彼の立場を継ぐ事もあり得たかもしれない未来である。
何となく自分の半身であるかのように思っていたのに。
この時、テリウス・ヴォルハートは本当の意味で、セシウスと精神的に決別したのかもしれなかった。




