対峙するに能わず
この話で登場人物紹介3話と『残されてなかった伝承』5話を除いて100話目となりました。
ひとえに読んでいただける皆さまのお陰です。拙い作品ではありますが、今後ともぼちぼち進めてまいりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
「さて、話は通したな。族長殿、遺漏なく頼む」
「いや…その…」
族長の目が怯えている。
どうやら湖の主と崇めていたこの海大蛇の怒りを恐れているようだ。
海大蛇は怒り心頭といった様子でこちらを見ている。角の生えた蛇を見れば東国の龍と思われても仕方のない事だが。
「汀どの。あの蛇をどう見ます?」
「父か母が海大蛇であるのは間違いないでしょう。海龍様の御一族は龍の中でも特にその影響力を強く維持されているのですが、どうしても夫婦の営みは海中で行われますので…」
顔を赤らめてこちらをもじもじと見てくる汀に、こちらの頬も熱くなるのを自覚する。
思わず抱き締めてしまいそうになるが、流石にここでは場と雰囲気が悪すぎる。
自分はどう思われても良いが、汀の風評が悪くなるのは避けたい。
ひとつ咳払いをして話を戻す。
「つまり、あれは海龍殿のいずれかの御方に近付いた不埒な海大蛇の胎に宿ったと見るのがよろしいか」
「ええ。海大蛇を伴侶として受け入れる海龍様は居られないでしょう。龍に近い姿をしているとは言え、海大蛇は所詮海龍様がたの餌に過ぎません。そのような判断をすれば乱心したとしてその御方は一族に粛清されるが精々です」
「海大蛇と海龍の混血か。海に棲む事が出来なくて川を上ったか」
図星だったのか、湖の主は目を怒らせながらもそれを否定しようとはしなかった。
海龍に似た姿をした海大蛇など、海龍の怒りを買うだけの厄介な個体に過ぎない。
―餌だの不埒だのと、言うも言ったものだな…!
「だが、事実だ。お前のような海大蛇を見たら、海龍殿達は決して他所に知られぬよう、寄って集って食い殺すだろうさ」
―ぐぅ…ッ!
事実追われたのだろう。湖の主の目に隠しきれない動揺の色が見えた。
「海大蛇からも海龍からも厭われる、その出自に同情は禁じ得ません。ですが私達は特に貴方を狩ろうとか、そういう事を考えている訳ではないのです。それは分かっていただけますね?」
―ならば何故、我を愚弄するかっ!
「ただの事実だろう。確認して何が悪い」
―何を!
「国許付近の海龍殿とは航路の関係で縁があってな。お前が縁者であるかどうかを確認する必要があった、それだけの事だ」
海龍は海上から海底までを自らの縄張りとする。海の神性の殆どが邪神との争いなどで喪われた現在では、神性に成り代わって海を治めている。龍の仲間は所謂『神性並』と呼ばれる『神獣』の一種であり、その中でも最も繁栄している種族の一つだと言える。
さて、海龍は母系社会であり、最も巨大な雌龍を頭とした群れの社会を形成している。
その縄張りに棲む多くの魚は、海龍に一定の数の仲間を餌として捕食される代わりにそこに生きる事を許されており、そうやって種を保全しているのだ。
海龍は縄張りを侵すものを許さない。人の船であっても同様で、永い間東方列島国家群とアルガンディア大陸との国交がなかったのはその辺りが主な原因だ。
それでいて叡智が深く情の深いのも特徴で、意思の疎通を図る者を無碍にはしない。
火群は古くに海龍の長と仲良くなり、その頭に乗って大陸へと渡ったと言う。
その故事を下地に、何代か前の蒼媛が蒼媛国付近の長と交渉を行い、海上の安全を保障してもらって漸く航路が定められたという事情がある。
海龍の群れは海のあちらこちらに無数に存在するが、その縁者に関わりがあれば確認を取らねばならない。
「三東龍母様と関わりがありますか?」
―ないな。あったとしても分からぬ。海龍には追われた記憶しかないわ。
「そうですか」
汀が瞑目する。海龍が追うという事は、蒼媛国としても仇筋と言えない事もない。
だが、ここに棲む亜人にとって、この海大蛇は崇拝の対象なのだ。恐れを以て縋っているとは言え、族長の不安そうな顔つきはこちらの動きも気になっているからなのだろう。
「…旦那様、どうなさいますか?」
「ふむ。…一つ聞きたい」
―何だ。
「先程ルケ殿が贄と言っていたが、何故それを必要とする」
海大蛇は魔獣だが、海の魔獣は単独では食性が細い。繁殖力が強く、数が一気に殖える傾向にあるので単独の食糧が多くてはすぐに枯渇する為だ。
海龍との繋がりの深い蒼媛国では知られた事だが、海龍は魔獣にも比較的寛容で共存しているものも多い中、唯一自らの姿に似ているものだけは嫌悪する。
そういった魔獣は海龍の縄張りに入る事は許されておらず、縄張りと縄張りの間で細々と生きるしか出来ない筈だ。
この湖は広い。腹が減れば亜人が採ってきた魚だけで足りるだろう。
湖の主が自らの民を生贄として必要とする理由が見えない。
ショウとの問いに、湖の主は逡巡した。或いは虚言でも弄する心算なのかもしれない。
視線に怒気を込めて睨んでやると、ひどく狼狽したようだ。一度開きかけた口を閉じて、今度は諦めたように口を開いた。
―…海龍に成る為だ。
「何?」
―生物としての格を上げて、海龍へと転じるのだ。そうすれば我は海に還り、我を捨てた海大蛇を悉く滅ぼしてやる。
「ほう」
―我を追いかけた海龍も、我が海龍になれば追いはしない筈だ。
「…そうか、それが存念か」
ショウは小さく溜息をついた。同時に、この海大蛇を主として崇める亜人達の憐れをも思う。
そして生物の格を上げるという事は、目的はその先にこそある。
「…今までに神性を喰らった事は?」
―…ない。
「事実か?俺に対して偽りはないな?」
―あ、ああ。…神性を喰っていれば我は今頃…。
どうにも怪しいが、今ここでそれを確認する術はない。
神性にも穏やかなものから武断派まで多数居るから、穏やかな者が騙されて捕食される危険性は確かにあった。
ともあれ、今は信じるしかない。
「ならば俺にお前を斬る心算はないよ。龍にもなれず、縋る民を恐れさせ、強者に対してはそうやって虚勢を張るのが精々なのだから」
―な、何をッ!?
「…ただし、今の言葉に嘘があった時、湖上を渡っている時に汀どのや俺の弟子達に襲い掛かった時。その時こそお前を斬るとするさ」
今度は怒気ではなく、強い殺気を込めて告げる。激昂しかけた湖の主は、それだけで言葉を封じられてしまった。
―ぐ、う…うむ…。いいだろう。ここを渡って行くが良い。
「許可が出たな。…族長殿、これでよろしいか」
「わ、分かりました。それでは乗り物を用意しますので―」
「その必要はありません」
申し出を断った汀は、まるで何でもないかのように湖面に足を乗せた。
沈む事もなく、歩を進める。
「さ、参りましょう」
「え、媛様、その―」
「ほら、行くぞ。汀どのが術をかけてくれている」
躊躇しているルケやダイン達を促し、ショウも後に続く。
汀と共に水面を歩いた事が初めてではない彼には躊躇する理由がない。
同じくサンカも続き、水面をまるで陸を歩くように進んで汀の後ろにつく。
「し、師匠!?…大丈夫なのです…ね」
セシウスが。
「み、水の上を歩くとは…媛様の術とは凄まじいのですな」
ヴィントが。
「ほら、ルケ殿。怖いならば俺の手を取ると良い」
ダインが。
「だ、ダイン・ディは気安い!」
そして最後にルケが続く。
―これほどの…力が…!
一時的な湖面の変質を理解したのだろう、湖の主は呆然として一同を見送るのみであった。
こうして一同は恙なくルンカラを越える事に成功したのである。




