残されなかった伝承・五節 忘れられた悪鬼羅生の最期
―赤黒く曇っていた視界が明るくなった。
久しく感じることのなかった凄烈な鬼気を身に浴びて、靄のかかっていた意識がはっきりとする。
斬られて落とされるよりはと、自ら海に飛び込んで以後の記憶がはっきりとしない。
だが、目の前に立つ男の姿にひどい既視感を覚えて、たじろぐ。
「その手甲から血の穢れが取れなくなって、一体どれくらい経つかね?」
一体何年の間、自分は意識を淀ませていたのか。
男は、時雨湘は、自らの記憶にある頃よりも、だいぶ成長しているように思われた。
―自分こそが次代の鬼神討ちになるのだという、驕りにも似た自負があった。
最初にそう思ったのは、師から才能のある事を褒められた時だった筈だ。
生み出した業剣が手甲だった為に、異国に預けられた事への不安もあった。
己の才のみを信じ、修行に明け暮れた。
大恩ある鬼神に狂れて欲しいと思う業剣士などいない。しかし仮にそんな日が来たら、と矛盾から目を背けながらもその思いを原動力に力を蓄える日々。
―そうだ。己に胸を張れなくなったのは、あの日からだ。
他国の道場との交流を兼ねた試合。実際に業剣を打ち合わせる訳ではないのだが、その試み自体は数年に一度の割合で行われていた。
今回はその相手が故国であった、それだけの事でしかなかった。
皆伝を受けていない身である自分は、故国に戻る事は出来ない。やってきた故国の業剣士達には、見覚えのある者も居れば、見覚えのない者も居た。
その中に二人、まだ幼い子供の姿。
一定の実力がなくば、他流との交流は許されない。聞けば片方は国主の次子であるといい、もう一人は家老筋である氷雨家の傍流の出だという。
だが同行しているのは家格からではなく、その才と実力が故だと言うではないか。
それは誰もが、まだ勝てないだろうと目指していた先達ですら述べるのを聞いて、穏やかでは居れなかった。
業剣を打ち合わせる訳にはいかない為に、防具と竹材で編んだ武具を使って行われる試合。
完膚なきまでに打ち据えられた訳ではなかった。二人ともまだ幼さゆえの未熟さを確かに持っていたからだ。
しかし、空恐ろしい片鱗を理解出来てしまう程には、二人の才能は隔絶していた。
あしらう内、打ち据える内に瞬く間に対応してくる反応が。
段々とこちらの意識の死角を把握し、衝いてこようとする動きが。
そして何より、その二人によって自分自身が前日よりも明らかに強くなったと。言い切れてしまうその自覚自体が。
―鬼神討ちになれないのであれば、鬼神討ち程の力を手に入れるにはどうすれば良いのか。
許し難い手段である事は理解していた。
しかし、もし生きている内に鬼神が狂れたとしても、それを討つのはあの二人のどちらかになるだろうと思い知らされた。
早くても三番手。そして一人の業剣士が現役である間に、鬼神が三柱も狂れる事などまずない。
目標への道は断たれた訳だ。
だからこそ人倫に悖るその手段は、教えられてからもずっと、頭の片隅にこびりついて離れなかった。
皆伝を与えられたのは二年後、念願の故国に戻り。
上手くやっていたと思ったのだが。
―随分と長い間、正気を失っていたようだ。
目の前に立つのが湘であるのは間違いないだろう。随分と研鑽を重ねたようで、昔と比べて鬼気の量も質も別物だ。取り戻した冷静な部分が、彼我の差を痛感させてくる。
いや、今の自分が冷静どころか、正気である保障すらどこにもないのだが。
ぼんやりとしていた間にも、どうやらそれなりに何人もの命を奪っていたようだ。どこで手に入れたのやら、仮面などを顔につけて。
浴びせられる周囲からの憎悪の所為か、自分の内から湧き立つ鬼気の猛りが徐々に抑えられなくなってくる。
「イヘン…?」
湘の言葉も断片的にしか理解出来ないし、実際ろくに喋っても居なかったのだろう。言葉を出すにも難儀する。
「ワタシヲ…キルカ」
馬鹿げた問いを口走ったものだ。
湘が追手なのであれば当然、追手でないにしても自分は咎人、生かしておく理由などない。
どうやら自分は死ぬらしい。
諦め、受け入れる部分があると同時に、それを受け入れていない部分が猛り狂う。
押さえつけていた鬼気が、死への忌避を伴って弾ける。
―今から教えるのは、鬼神に近付く為の法である。
道場から破門された、先達の言葉が頭を過ぎる。
業剣が、変質するのが分かった。
鬼気が、粘りを伴って全身を覆い尽くすのが分かった。
額の辺りにむずむずとした痒みが生じ、掻き毟る前に内側からそれを押し破って何かが突き出したのが分かった。
何という開放感か。
先達の教えが正しかったのだと理解する。歓喜が口を衝いて叫びとなって迸る。
―さて、では精々生き汚く抗うとするか。
業剣は既に肉の一部であるようだった。
包まれているような感じはしない。握り締めて、振り下ろす。
湘は油断なくそれを避けてみせた。かつてよりも間合いの取り方が上手い。
そして振り抜かれる刀の動きは尋常ではない速さだ。こちらも直撃は避けているが、軽く斬られた傷が焼けるように熱い。込められている鬼気が桁外れに強い所為だろう。
息を吐き出して落ち着こうとするも、出てくる音は自分でもひどく耳障りだった。
「何ともひどい音を出す」
辟易したような顔の湘、そしてその向こう側に見覚えのある鮮やかな色。
蒼媛。業剣士の忠義の対象、鬼神の支配者。守神様。
何故こんな所に。いや、そんな筈は。だが―
「?…おっと、それは許されないな」
湘の放つ鬼気に、強い殺意が灯る。
成程、視線の先が蒼媛かそれに準ずる鬼神である事は確かなようだった。
湘の剣が鋭さを増す。
粘液質の鬼気をも駆使して、何とか急所だけは避けていく。
熱を至る所に感じながら、訪れるであろう勝機を待つ。
それはいつだって唐突ではある。突き出された湘の剣先が、左の手甲の中央に突き立ったのだ。
強い痛みに目も眩む程だが、しかし抜かれる前に業剣の腹を右の拳で渾身の力で叩く。
業剣が折れれば魂を砕かれたとして使い手は死ぬ。
このまま折ってしまえば、こちらの勝ちだ。
衝撃は刃を通じて刺さっている左手にも伝わってくる。あちらの鬼気も重なってその度に激痛が走る。
だがこれを逃せば二度と同じような機会を得られる筈もない。
打つ。打つ。とにかく打つ。
その度に脳天までを激痛が突き抜ける。意識を持って行かれそうな程の痛みに耐えつつ、ひたすら殴りつける。
湘の表情に苦悶はない。埒が明かないので、右手で湘の業剣を握る。
叩き折れないならば、圧し折るまで―
「ああ、やろうとしている事は分かるが、その程度では曲がりもしないぞ」
と、湘が訳の分からない事を言った。
次の瞬間、痛みの質が変わる。ぼとぼとと、音を立てて落ちたのは握り締めていた指であるらしい。
刃を引き抜かれたのだ。
同じ業剣であるにも関わらず、業剣の質ですら彼我の差は大きいらしい。
だがこちらにも収穫はあった。指を斬られたという事は、業剣を破損したという事と同義だ。
しかし、魂を砕かれたような衝撃はない。どうやらこの姿になると、業剣を壊されても死ぬ事はないらしい。これは大きな価値だ。
―湘と、あそこに立つ蒼媛のような鬼神を討ってしまえば、名実ともに鬼神討ちになれるだろう。
湘を討つ必要はない筈だが、このままあの鬼神を討つまで待つ訳がない。
先に進む為には、そうしなくてはならない。
「…これで終わりとするとしよう」
湘が構えを取った。刀身に収束する鬼気。
これを防ぎきれれば、再び勝機もめぐってくるか。
こちらも前面に鬼気を集中して壁を作り出し、腰溜めに拳を構える。
「蒼媛一刀流奥義、萬里鬼笑閃」
湘が思い切り業剣を振り抜いた。
突風が顔を打ち、それを追い越すように何かが通り抜けて行った。
僅かに痛みを感じたような気がした。