因業の行き着く先(即ち何事にも安易な近道はないということ)
ビゼフの街の闘技場の歴史は古い。
獣の絶地では亜人同士の大きな揉め事は禁じられている。だが往々にして血の気の多い亜人同士の揉め事は生じる。中には互いの誇りが傷つく事態になる事もあった。
しかし、掟は掟。感情の赴くままに動けば追放の憂き目に遭い、だが退いてしまえば魂が傷つく。
掟を変える事は出来ない。しかし泣き寝入りも出来ない。亜人達にとっての暗黒の時代である。
徐々に積もる獣の王への不満。
獣の王の弟までもがこの掟に反発して獣の絶地を去り、ムハ・サザム帝国に亡命するに至り。
当時の獣の王は、対策に大きく頭を悩ませる事になった(実際の所、彼らはこの事実を利用してムハ・サザム帝国に獣の王の血を入れる事に成功した。実は兄弟で共謀していたのではないかと思われる)。
実際に闘技場が完成するに当たり、イセリウス王国の存在は欠かせない。国境地点である都市ビゼフに闘技場を作る事を提案したのだ。
当時は折しもイセリウス王国は建国当初。大河ルンカラに砦はなく、ムハ・サザム帝国は獣の絶地を相手取った戦と乱立し続ける旧王国の後嗣を討伐する為に、大陸南方を主戦場としていた。大河の向こうに突然生まれた小国に目を向ける暇などなかった。
イセリウス王国はルンカラ以東の草原地帯を平定するに当たり、獣の絶地より兵力を借り受けている。
まずこれで獣の絶地は内部の不穏分子を一時的に国外に派遣する事に成功する。
草原地帯の平定に合わせて、友好国であるイセリウス王国を護る為に、獣の絶地は多くの魔術師達を更に派遣。大河ルンカラに巨大な砦を築き始める。自然、中継点であるビゼフの街に物資が集まる事になる。
砦が出来上がった後も物資は直ぐには止まらず、返却する宛てもない。
そこでイセリウス王は述べた。
「ここは獣の絶地ではない。ここに君達の誇りを護る為の場所を作るといい。そこで憂さを晴らして、帰る時には誇り高き獣の王の民であってくれ」
その言葉は、あるいは屁理屈にすぎなかった訳だが、獣の絶地の民はイセリウス王に感謝した。
そして多くの者がイセリウス王の器に感服し、王国の国民となる道を選んだという。
ビゼフの闘技場とは、獣の絶地とイセリウス王国の友情の象徴なのである。
「…そんな場所で争う事になるとはね」
ショウは予め抜いておいた業剣を手に、闘技場の入り口を潜った。
相手は既に中央付近に立っている。ぼんやりとした様子で、果たしてショウの事も知覚しているのだろうか。
観客の数は多い。ユンは出来るだけ客の数を減らしたかったようではあるのだが、どこで聞き及んだものか、ビゼフの住人の耳は思った以上に早かったようだ。
「…」
無造作に歩み寄る。闘技場の闘いに確たる決まり事は二つしかない。
一つ、二人の闘士が入った瞬間からが始まりで、開始の合図はない。
一つ、どちらかが降参の意志を示さない限り終わらない。
そして、相手の命を故意に奪った場合は『賭けに応じた賞金が得られない』以外の罰則はなく、目の前の男は今までに多くの闘士の命を奪っている。
ショウはこちらを注視しているかどうかも分からない男に近付き、挨拶のように声をかけた。
「その手甲から血の穢れが取れなくなって、一体どれくらい経つかね?」
「!」
劇的な反応があった。
こちらを見るその瞳は、しかし仮面に隠されて窺い知れない。
「成程、俺の事も覚えていないか。随分と浸食が進んだようだな」
「…!?」
「穢れを祓う事が出来なくなれば、あとは悪鬼羅生に一直線だ。人の道理を超えた力を振るう業剣士が何故に人と人の戦に組み込まれなかったと思うね?」
こちらの言葉を理解出来ているのかは分からないが、こちらに襲い掛かる心算はまだないようだ。
周囲からは早く始めろなどの声が聞こえてくるが、向こうもそれどころではないだろう。
「鬼神を斬れば鬼神討ちになる。ならば人や獣を数斬れば、鬼神討ちと同じだけの力が得られると思った者がかつて在った」
今更蒸し返すまでもない事ではあるが、男が自らの現在すら把握できなくなっているのであれば、伝えてやるのも慈悲だろう。
何故、今から自分がショウによって斬られるのか、理解させてやらなくては。
「折しもある国で戦があった。その考えを確かめようと、その者は戦に参列した。業剣士の力を奮って百人斬った辺りで、異変が起きた」
「…イヘン?」
「ああ、まだ言葉は残っていたか。業剣は魂の塊だ。本来は斬る時に自らの鬼気で刃を覆い、不純なものが混じるのを防ぐ訳だが、それを外す事で人の命から力を得ようとした訳だな」
鬼神を斬った時に業剣が力を得るのは、鬼神の命の力強さに直接触れることで鬼気と魂が変性するからだと言われている。元々の性質が違うのだ。
だが、それは事件が起きてから検証された事実であって。
「結果、その者は自分を見失った。怨嗟と憎悪に満ちた人間の命が自分の魂に混じるのだ。人間らしさを失い、言葉も失い。他者を見ればその命を啜らんが為に殺してしまうだけの怪物に変じた」
それでも鬼神討ち程の力は得られなかったという。戦どころではなくなるほどの被害を出したようだが、両国から派遣された業剣士数人によって斬り伏せられたというから、徒労以外に言い様がない。
「悪鬼羅生。後にそう呼ばれたその者は、ただ故事としてその名を残していた筈だった」
しかしそれも、安易な道を選ぼうとする者にとっては大きな魅力を持っていたようで、形を変えひっそりと伝わっていた。しかも、人間性を失うという事実だけは隠された形で。
「火群様曰く、数百年に一人くらいは実際に行動に移す馬鹿が居るそうだ。つまりまあ、あんたのようにな」
「ウウ…」
「業剣から血の穢れが取れなくなったら手遅れだ。あと何人撲り殺したら悪鬼羅生に成り果てるかは知らないが、それを待ってやる義理もない」
「ワタシヲ…キルカ」
「豪公流をある程度修めたあんたは、生国である蒼媛国に戻った後、ある島の住人百人近くを殺している。丁寧にも海賊であるという偽装を施した上でな」
調査の結果、偽装された海賊はまったく別の場所を根城としていた事が判明しているし、それはロクショウの兄であるグンジョウの頃に討伐されている。
「無辜の民の命を己の為に奪った罪は重い。生き延びた幸運に感謝しつつどこか山中で隠棲でもしていれば良かったものを」
両手を後ろ手に縛られ、海上で斬られた上で海に棄てられる筈だった所を、斬られる前に海に飛び込んだと言うから、生き延びる可能性は語られていた。
しかし、腕を縛られた状態で沖に投げ出されては、幾らなんでもと捨て置かれたのだ。
業剣士の生命力を軽く見ていたと言うべきか、その執念に驚くべきか。
「当たり前だが、見逃す心算はない」
頷き、無言で手甲を構える。こちらも構えを取り、鬼気を解き放つ。
と、仮面の様子が更に変わった。
淀んでいた鬼気が、増大していく。こちらの放つ鬼気に対するように、仮面の体を覆っていく。
「ちぃ、丁度成り果てる所だったかよ」
紫色の昂怒鬼神のようなものか。
だが、大きな違いは額の部分だ。二本の角が、仮面を割り砕いて内側から実際に突き出している。
昂怒鬼神では鬼気が額から一本、角のように収束しているものだから、同じものではない。
「やれやれ、こんな所で鬼退治とはね」
果たしてそれは鬼気であるのか、実際の肉体になっているのか。
妙に生々しさを伴った鬼気の所為で、一回り以上体が大きくなったような錯覚を覚える。
魂と鬼気の塊である手甲が、まるで本物の爪であるかのような姿となっている。
「アアアアアァアアアアアッ!」
どうにも苦悶や苦痛には聞こえない叫びを上げて、悪鬼はショウに向かって腕を振り上げたのである。