prologue
街の大人たちは口々に言う。
『魔女もニンフもエルフも狼男も…あいつらは皆、ヒトを脅かす』
『いいかい、間違ってもあいつらに会おうだなんて考えちゃいけないよ。腕や脚を千切られるだけならまだマシさ、魂を奪われるんだ』
この世の中には、ヒトとそうではない者とに大別されている。
そうではないもの、つまりヒトの姿をしてはいるが、何かしらの魔力のようなものを持つ者はこの世の中にはたくさん存在している。
彼らのことを魔女や魔術師、あるいは狼男やエルフ…というように様々な呼び方をする。
だからといって彼らが差別化されることはない。
少なくとも、この街の外ではだが。
ササラの街では、ヒトは力を持つ者を恐れている。
その力に脅かされることのないようにと彼らを遠ざけ、ありもしない話をする。
それもこの街の周囲が水堀に囲まれているのにも関係しているのかもしれない。
現に、少年もその言葉を信じていた。
そして少年とその妹は、自分たちの両親が彼らの力によって命を落としたのだとも言い聞かされていた。
もちろん、その言葉は真実ではない。
しかしこの街では真実を信じようとする者はほとんどいない。
それどころか、真実を口に出そうとすれば罰されかねなかった。
*****
「君は、あの事を知らないのかい?」
いかにもみすぼらしい格好をした、中年かも老人かも区別がつかない男がボソリと言った。
声はその身なりに見合わず、凛とした雰囲気を纏っていた。
気付かないふりをして通り過ぎようかとも考えたが、やはり気になって少年は振り返った。
「……あ、れ?」
しかし、そこには確かにいたはずのあの男の姿はない。
ただの勘違いなのだろうか。
考え事をしながら歩いていたからだ。
――いや、違う。彼は確かにそこにいた。
少年はキョロキョロと辺りを見回す。
しかしあの男の姿はどこにもない。
少年には見えた、声が聞こえたはずなのに。
まさかとは思う。
この街の中に彼らが入ってきているだなんて。
そう考えるだけで恐ろしかった。
彼ら――力を持つ者たちは、この街では異端でしかないのだ。
街へ侵入してきた者たちがただでは済まないというのは、よく耳にする話だった。
少年も生まれてからずっとこの街に住んでいるヒトである。
生まれて間も無く両親を亡くしたが、その原因となったのも彼らの力だと言い聞かされて育った。
もちろん、だからこそ彼らに対する憎しみも恐怖も持っている。
大人たちが言うように、力とは忌むべきものだとも思っている。
彼らの存在さえなければ、今頃は少年も妹も両親と幸せに暮らせていたのだから。
それが、あの男の声を耳にしてからどうもおかしい。
もしかすると呪いでもかけられてしまったのだろうか。
あの姿に不似合いな声が頭から離れない。
『君は、あの事を知らないのかい?』
どうしてなのだろうか。
一体、彼は何者なのだろうか。
そしてあの言葉は…あの事とは、何なのだろうか。
それまでにしていた考え事など既にどうでもよくなっていた。
「……ク!…エリクってば!」
聞いてるの?と金色に縁取られた二つの深海色が釣り上がる。
むっと頬を膨らませるその顔は、記憶の中にはない母と瓜二つであるのだろうか。
そんなことを悠長に考えていた少年に、少女は拗ねた声を上げた。
「ご、ごめんって!レイラ!」
慌てて少年が詫びると、レイラと呼ばれた少女は別にいいわよ、とまだ少し機嫌が悪いままで言った。
レイラは少年の唯一の肉親と呼べるヒトだった。
双子である少年とレイラは両親を亡くしてから共に同じ時を生きてきたが、いつの間に少女はこんなにも美しく育ったのだろうか。
背中にかかる程の緩く癖のある金の髪、そして透き通るような白い肌。
そのどちらもが深海色の瞳をより際立たせている。
「怪しい奴が街に入ってきたんだって。さっき神父さまが言っていたの」
レイラの言葉に少年はすぐに先ほどのことを思い出す。
怪しい奴、その表現がピッタリであるあの男だ。
「でね、神父さまがわたしとエリクにお護りをくれたの」
少年の思考に気付くはずもなく、レイラはその首にかけた月と星を模した首飾りを見せる。
「お護り?」
「そう。わたしとエリクは狙われやすいだろうからって。夜の女神がわたしたちを力から護ってくれるように…」
この街には独自の信仰がある。
教会も他の街とは違い、この街を創ったと古くからの言い伝えである夜の女神を祀っていた。
夜の女神、セレーネが街を穏やかな闇で包み、恐ろしい力から護ってくれるとも言われていた。
「…わたしたちは、生きなきゃ」
いつしか口癖のようになっているそれを口にしたレイラは、もう一つの首飾りを少年に手渡す。
透き通った石からできている月と星の飾りがキラキラと陽の光を受けて輝いた。
*****
「……来ると思ったよ、少年」
ゆっくりと顔を上げた男は僅かに笑みをたたえ、目の前の少年にそう言った。
なぜだか酷く緊張して、喉がカラカラだ。
緩く弧を描いていたその唇が開いた。
「君は本当は分かっているはずだ。だから、ここへ来た」
舗装もされていない、土と石ばかりの道に座ったまま、やはり男は例の声で言った。
その意味が少年には理解できず、首を捻る。
胸元で揺れた月と星に気付いたらしい男は、今度は苦笑した。
「私は君に真実を知らせたいだけだ。――もっとも、私が君たちとは違う人種だというのは正解だが。君をどうにかしようとしている訳ではない」
やっぱり、と少年は男の顔を凝視する。
これが力を持つ者、両親の命を奪う原因となった力を持つ者か。
無意識の内にギュッと強く拳を握っていた。
少年の身体が何とも言えない感情で震える。
「私たちが憎いか…。ならば少年、なぜ君はここへ来た?自ら危険を冒してまで、私を探しに来た?」
男は相変わらず穏やかな声音で尋ねた。
少年はそのくたびれた顔をキッと睨む。
「…僕は…っ!」
声を上げたものの、なぜかと問われればその答えは出てこない。
そのまま少年は下を向き、唇を噛んだ。
男の言う通り、少年にはわかっているのかもしれない。
どうしてあの時この男から意識を逸らすことができなかったのか。
ここへ来て男に何を聞きたかったのか、それとも言いたかったのだろうか。
「私は力を持つ者。…予言者とも呼ばれている」
少年は顔を上げた。
噛んでいた唇には薄っすらと血が滲んでいる。
やはりこの男は力を持つ者だったのだ。
「…君の、君たちの両親が亡くなったのは力のせいではない」
男の声が響いた。
そう思えるほどに辺りがしんと静まり返っていた。
「ウソだ」
少年の声は震えていた。
男は緩やかに首を横に振った。
そんなことがあるわけない、街の誰もがそうだと言っているのだから。
どこの誰かもわからないこの男が言っていることなんて信じられるはずがない。
「彼らは生きている。ここからずっと西へ行った街で二人で暮らしている」
「……そんな…」
「彼らは…私たちを受け入れてしまったんだ」
*****
――時は十数年を遡る。
「お願いします!どうかこの子を…助けてやって下さい!」
夜も更けた頃、ドンドンと強く扉を叩く音と若い女の声が響く。
しかし分厚い木製の扉はピクリとも動かない。
今になって始めて、女は後悔した。
こんなことが起こるなら自分だけでもせめて、彼女を…。
――いや、それではまるで何も起こらないのであれば見て見ぬふりを通していればいいということになる。
女はその腕の中にいる、今にも力尽きてしまいそうな赤子の頬をそっと撫でた。
先ほどまではもっと声を上げて泣いていたというのに。
このままではこの子は命を落としてしまう。
森までもが二人をまるで無視しているかのようにしんと静まり返り、白い雪が体温を奪っていく。
「……どうか…お願いです…」
かじかんだ手にはもう力が入らなかったが、女はもう一度扉を叩いた。
しかし中から誰かが返事をする様子も、扉が開く気配も一向にない。
諦めなければならないのだろうか。
冷たい悔し涙が頬を伝い、ポタポタと赤子に落ちる。
「…そんなところで何してるのかな」
雪のように冷んやりとした声だった。
慌ててその声の方向へ振り返ると、一人のうら若い女が一人立っている。
初めて目にした彼女は、街で言われているような姿とは全く違っていた。
真っ黒なローブを着てもいなければ腰の曲がった老婆でもない。
目の前に現れた彼女は、まるで神話に出てくる女神のように美しく、そしてあどけない少女のようでもあった。
「あの…」
「なるほど。君はササラから来た。息子さんの病気をわたしに治してもらうつもりで」
彼女は笑っていた。
しかしその言葉には相変わらず温もりなど感じられない。
女は息を飲む。
これが力を持つ者なのか、まるで思考を読み取られているようだった。
「もちろん、わたしにならその病気を治してあげられる。だけどそれには一つだけ条件がある…」
「条件?」
「そう、条件」
女は躊躇した。
魔女と呼ばれているくらいなのだから、きっとそれは容易なものではないだろう。
しかしこの幼い息子の命が助かるのであれば、自分自身の命と引き換えであってもいい。
――そう、覚悟を決めたときだった。
「君たちがあの街を出ていくなら、いいよ」
彼女はただ笑ったままでそう言った。
*****
「そのときの赤ん坊が…まさか、僕?」
「そうだ」
俄かには信じられない話だった。
しかし、少年にはなぜかそれが真実だと思えた。
産まれたばかりの頃に大病に罹ったことがあるというのも事実である。
「そして君の命を救ったのが、あのフォミアに住む魔女だ」
男の指がすっと街の外を示す。
それは大人たちが決して行ってはならないと口々に言っている恐ろしい森。
一つ足を踏み入れれば春の麗らかなせせらぎ、更に奥へ向かえば新緑の香る夏、紅葉の彩る秋、そして白銀の冬の森。
「…彼女は、君が訪れるのを待っているよ」
少年はただぼんやりと森のある方向を眺めていた。