再会 ~ A tender Deathscythe.(中編)
3
逢魔が刻はとうに過ぎ去り、月が闇夜を照らす頃。
紅魔館に降りた夜は、さながら閉ざされた百年の氷室がごとく、怜悧な凍気に包まれていた。
しかし夜は夜とて初夏の候、このような冷気が満ちることは稀だ。ならば実際に、現実に気温が下がっているのではなく、これは錯覚あるいは催眠現象的な精神上の寒冷感覚であり、有り体に言ってしまえば、場に満ちる空気こそが幻覚作用としての寒気を催しているのだった。
紫がかった霧がうっすらと立ち込める格子の門構えに、番をする少女の姿はない。いっそ寒々しいほどに、人影は皆無だった。
現在、紅魔館に勤め、住まう諸々の住人は、主を除いた全員がこぞってある一箇所に殺到している。
残された主とて、元より廃人のような態とくれば、紅魔館という一種のコミュニティはほとんど活動を停止したと言ってもよかった。
いずこからか巻き起こった風が、一枚の黒いボロ布を館の時計台に引っ掛け、吹き抜ける。
赤レンガの墓標にはためく、物悲しげな一枚の弔旗。
まるで死んだように。
あたかも息をしていないかのように、ひっそりと。
館の存在を覆う冷気は、死した紅魔館の冷たさを形容する感覚としては、およそうってつけだと言えた。
と。
そんな、死んだ紅魔館の数少ない窓のひとつに、線の細い影が一筋、揺らめいた。
一見して少女の姿を形取った黒のシルエットは、しかし人智を超えた有翼の影。紛うことなき人外の貌。
煌々たる月明かりに照らされ夜を嘯く姿を、伝承に乗せて遍く地の果てまで轟かせる吸血鬼の末裔は、しかしどこまでも頼りなげに揺らいでいた。
闇の色濃い一室は、館の外観と同様か、あるいはそれ以上に底冷えのする空間だった。少女の影を舐め回すように踊るランプの火さえ、今にも消え入らんばかりに燻っている。
レミリアが立ち上がる。
心棒を抜かれた泥人形のように、意識の行き渡らない身体をぐらつかせながら。
本当は動きたくなどなかったが、不死身の吸血鬼とてその存在は不動ではない。唯一にして最大の栄養源である血液を絶たれてしまえば、その存在はあまりにもあっけなく渇き、枯れ果て、消え失せる。
命の倫理に背を向けた吸血鬼にさえ逃れ得ぬ理。
即ち、飢え。
普段なら血を献上に来る使用人——もとい使用妖精も、今宵は一向に現れる気配がない。
どんな理由にしろ、供給がなければ自分でどうにかしなければならないのだ。
生きるためには。
たかだか弱り切った吸血鬼の露命を繋ぐために地下まで足を伸ばす自分が、可笑しかった。滑稽だった。
それでも、その顔に表情は皆無だった。
それ程に衰弱していた。
肉体的にも、精神的にも。
衰え、弱り、朽ちていた。
しかしそれでも、弱り果てたとは言え。
咲夜を失ってしまったとは言え。
食事をするために行動する——その一点において、レミリアの「生きる意思」は、確かに存在していた。
現存し、介在していた。
何もかも、いっそ世界が終わってもいいとさえ思うほどに絶望していながら、しかし部屋のドアノブを握る手には迷いがない。
何と、生き汚いのか。
生きていて厭になる程に、汚い。
さりとて、早々にドロップアウトする意思の不在もまた、事実だった。
厭になる程生き。
生きる程に厭になった。
だからといって、死ぬ気などさらさらないのだ。
己の生を肯定してよいのか、あるいは否か、その答えをレミリアは持たない。
ただそう在るべくをして、そこに在り続けるのだと己を定義付けて。
掴んだノブを回し、ゆっくりと引く。
扉一枚隔てた先に、誰が待っているとも知らずに。
何とも不用心なことに、紅魔館の正面に配置された鋼鉄の門扉は、まるで凱旋する王軍を迎え入れる城門のように大きく開け放たれていた。これでは誰も彼も入り放題、空き巣の到来を全力で待ち兼ねているようなものだ。
最も、幻想郷において盗みを働こうなどという者はごく少数であり、その中でも難攻不落と称される紅魔館に正面から突撃を仕掛けようなどという輩は皆無に等しい。言わばスカーレット家一門の旗印そのものが、この屋敷に堅牢な防護壁を築いているのだった。
あまりに無防備なその様相を見るともなく確かめ、パチュリーは門の内側に、さながら天命を受けた使徒のごとく降り立った。
着地の瞬間、身に纏う薄紫色の着衣が僅かに翻るも、衝撃はほとんどないようだった。
「レミィ……」
パチュリーの目前に聳える赤レンガの壁は、夜の闇に溶け込むようにその存在感を希釈させている。極端な窓の少なさは、館の主が吸血鬼であるがゆえの配慮だった。
正面玄関に続く石畳の道を、パチュリーは確かな足取りで踏みしめ歩いてゆく。
しかしながら、門から館に続く長い道を半分ほど歩いたところで、彼女は唐突に足を止めた。
「……えっ」
両の眼を驚愕に見開き、パチュリーは目の前の扉を見つめる。
けして開くことのないはずのその扉が、今しがた内側から開き、中から人影をひとつ、吐き出していた。
「……レミィ? レミィなの?」
何か大きな荷物のようなものを肩に担いだ影に向けて、パチュリーが呼びかける。
しかしてその正体は、レミリアに限りなく近くとも、レミリアではなかった。
特徴的なナイトキャップ。
背部から左右に向けて伸びる、宝石を幾つも吊るした枯れ枝のような異形の翼。
太陽を染料に染め上げたかのごとく鮮やかな金色の髪は、夜目にもそれと知れるほどの確かな存在感を放っていた。
果たしてその名は。
「フラン……あなた……」
「……あれあれ、何でパチュリーはそんなにびっくりしてるの? フランがここにいるのがそんなにおかしいのかなぁ?」
いたずらっぽい笑みには、どこかパチュリーを小馬鹿にした嘲笑も含まれていた。
フランドール・スカーレット。
紅魔館に住まう——より正確には、幽閉された——レミリア・スカーレットの実妹。
血を分けた、もう一人の吸血鬼。
そのフランがこの場所にいるという事実も、確かにパチュリーを驚かせてはいたが——それよりも、彼女の視線はフランの担ぐそれ一点に注がれていた。
「そんなことを言っているんじゃないのよ。フラン……どうしてあなたが、レミィを……」
「ふふ、だってそっちの方が簡単でしょ?」
言って、フランは肩の荷を殊更強調するように抱え直して見せる。肩口から稲穂のように垂れ下がった二本の足が、力なく揺れた。
レミリア・スカーレットは、気を失った状態で、なす術なく妹の肩にその体躯を背負われていた。
「簡単……? 一体どういうつもりなの」
その行動や言動に少なからぬ狂気の嫌いがあるために、長い時を地下で幽閉されて過ごしてきたフランドールである。ざっくばらんに言ってしまえば、何をしでかすか分からない。現に今も、何をしでかしたのか分からない。自然、詰問するパチュリーの声も険のあるものとなる。
「レミィに、何をしたの」
「そんな怖い顔しないでよ。お姉様はただ眠ってるだけ。別に殺したりはしてないから、安心してね」
仮にも肉親に対して殺すなどという表現を、加えて躊躇なく向ける辺り、やはり尋常ではない。
「どうして」
「だから言ったよね、こっちの方が簡単だって。お姉様を三途の川まで連れて行くんでしょ。時間をかけて説得するより、こっちの方がずっと手っ取り早いと思うよ」
のらりくらりと、へらへらと。
先ほどから、フランはパチュリーに対し、小馬鹿にするような、正面からの対応を避けるような飄々とした態度を貫いている。しかしながら、ふたりにとっての最終的な目標は、今の話を聞く限りでは——一致しているようだった。
ただ、その過程に大きな齟齬が生じているだけ。
そして、パチュリーにとってはその過程こそが重要であり、譲ることのできない部分なのだった。
「そんな……荒っぽいこと、認められるわけがないでしょう」
「あはは、薄っぺらいことを言うね、パチュリーは」
「な——何ですって」
「だって、説得したって眠らせたって、要はお姉様と咲夜を会わせられればいいんでしょう? だったら結果は同じだと思うんだけどなあ。フランには、どうしてパチュリーがそこまで話し合いに執着するのか分からないよ」
「そ、それは」
パチュリー自身、その執着に明確な理由を見出すことはできなかった。
ただ、何かが違う気がするのだ。
まるで、難攻不落の迷宮において、壁を破壊しながら直進するかのように。
まとまらない心の内を正直に吐露するならば、ずるい、とでも言うのか。
何がずるいのか。例えそうだとして、どこがどう狡猾なのか。そんなこと、全然まったく、分からなかった。
「それで、パチュリーはフランの邪魔をするの? フランは何も間違ったことはしてないと思うんだけど」
それを受けたパチュリーは、ただ唇を噛んで俯くばかりで、場を満たす重い沈黙が、返事と言えば返事だった。
「邪魔するなら、別にフランは止めないけどさ。フランの気に障るようなことをすれば、パチュリーのこと、もしかしたら殺しちゃうかもよ? あはは」
最後こそ軽く笑い飛ばしていたが、フランの言はけして冗談や出任せではなかった。
——まかり間違ってパチュリーを殺しちゃっても、その時は恨まないでね?
と、フランはそう言ったのだ。
パチュリーの背を、冷たい何かが狂躁的に駆け抜ける。
湧き上がる恐怖感。
巻き起こる絶望感。
この吸血鬼はこれで本当にレミリア・スカーレットの妹なのかと、かけがえのない親友の血縁者なのかと疑わせるに、それは十分な威圧だった。
それでも懸命に、震える声でパチュリーは言い張った。
「レミィは私の親友よ。乱暴な真似はやめて頂戴」
情けなかった。
同じ館に住む身内相手に、このざまである。
しかしパチュリーは、何とか毅然とした態度であるように努めて、その台詞を言い放ったのだった。
それでも、フランはしばしの間嘲笑を収めなかったが、やがて呆れたように眉を下げると、
「あーあ、何か飽きちゃったなあ。——いいよ、分かった。お姉様はパチュリーに預けるよ。フランは久しぶりに外で遊んでくるね。夜明けまでには帰るから」
そう言って、フランは気絶したレミリアの身体を、パチュリーに向かって無造作に放った。
まるで遊び飽きたおもちゃを打ち捨てる子供のように——その動作は粗雑だった。
しかしながら、粗雑なのは動作だけに留まらなかった。
フランの指先を離れたレミリアの身体は、その瞬間に砲弾のごとき速度を獲得し、直進してパチュリーの小柄な肢体をかっ攫った。
叫び声をあげる暇もなくパチュリーは吹き飛ばされ、直撃したレミリアの身体とひとつになって、庭の石畳の上を二回、三回と転がった。それでも何とかレミリアを庇おうと、必死で自分が下になる体勢を試みるが、無駄な努力だった。
ようやく勢いの止まったところで、身を起こそうとするパチュリーの全身に、痺れるような痛みが走った。歯を食いしばり、湧き起こる痛みを押し殺して、レミリアの影を夜の視界に探す。
友の姿はすぐに見つかった。ここからほど近い石畳の上で、仰向けに浅く息をしている。未だ目は覚めていないようだが、その首があらぬ方向に折れ曲がっていることを除けば、特にこれと言って憂慮すべき事態はなかった。
その首にしたところで、極端に言えば問題はない。今こうしている間にもレミリアの傷は回復に向かっている。吸血鬼の不死身性がゆえに、なせる荒業だった。
フランの姿は、既に影も形もなかった。宣言通り、何処かに遊びに行ってしまったのだろう。しかしそちらの方が好都合だ。何しろ、厄介ごとの種が文字通り羽根を生やして飛んで行ったのだから。
「……っ」
痛みの色濃く残る身体を無理矢理に起こし、パチュリーはレミリアを——不器用ながら、その背に負った。
こうなれば是非もない。
三途の川に至る道行きはけして近いとは言えなかったが——しかし、こうするより他にパチュリーは方法を知らなかった。
頬の擦り傷を気にする暇などなかった。
挫いた脚を庇う余裕などなかった。
ただレミリアを——最愛の人に会わせる、それだけのために。
使い物にならない片足を引きずりながら、パチュリーは紅魔館の鉄門をくぐる。
途中、何度も転びそうになりながら——それでも立ち止まることだけはしない。そこだけは、譲れなかった。
4
そこに空間が開けていれば、どんな場所であれ手にした箒一本で翔破することのできる魔理沙である。
大盾の並ぶ川の中州を飛び越えることなど、本来の彼女にとっては手間ですらない。あるいは呼吸をするより自然に、その芸当をこなすことができるだろう。
しかし、その魔理沙をして死神の防御壁を攻めあぐねる理由は、盾のバリケードと共に展開された結界であり、これが何より厄介だった。
魔力を持つ者、ないし魔法攻撃に対して無条件で作用する結界の防備は、魔理沙を初めとする魔法使いの面々にとっては天敵以上に最大の壁だった。結界の張られた空間を通過することはおろか、触れることさえかなわないのである。
重ねて煩わしいのは、例え魔法使いでなくとも、何らかの方法で飛行をしようと思えば、そこに生じ行使される僅かな魔力を結界に感知され、弾かれてしまうことだった。
それでも魔法による力押しに挑むのであれば、そこにかかる莫大な魔力の消費と徒労とを覚悟しなければならない。始まる前から分が悪いと見える戦いに、進んで名乗りを挙げようという猛者——あるいは愚者——などどこにもいなかった。どちらにせよ、命知らずなことに変わりはないからである。
かと言って、物理攻撃による正面突破は結界のそれに輪をかけて困難だった。
それこそ、年端の行かない子供が空想する「絶対に破れない防御」をそのまま具現化し、三次元的な脚色を加えたかのような、もはや相手にするのが馬鹿らしいと思わせるほどの堅牢ぶりを、その盾は誇っていた。
それに対して、こちらの陣営には隠し玉と呼べるギミックも奥の手も存在しない。最強の盾に対抗し得る最強の矛は、この場においてその存在を欠いていた。
いよいよもって手詰まりか。
八方塞がりか。
否、けしてそんなことはない——と、飽くまでも言い張り、現状の形勢に追い風を呼び込もうとしていたのは他でもない、霧雨魔理沙だった。
「魔力の供給には私の八卦炉を使うとして、後は——」
「違うわ魔理沙。炉の配置は戌亥を頂点に水平、よ」
「ん——ああ、そうか。ここをこうして——そうだな。助かったぜ、アリス」
戦火の中心から大きく離れた川岸で、魔理沙とアリスのふたりはとある作業をしていた。
「もう、こんなのは基本中の基本よ。その位は覚えておいてほしいわね。仮にも魔法使いを名乗る同業者として、恥ずかしい限りよ」
「基本だとか定石だとか、そんなのは私にとってみればくだらない代物なんだぜ。教科書がなくても魔法は使えるんだからな」
己の経験と、そこから得た知識のみを頼りに魔法を習得した魔理沙らしい——それは持論だった。
「まあ、それで何とかなってる以上は——私もあまり強くは言えないのだけれど」
軽くため息をつき、作業を続けるアリス。先人の残した知識と法則を一から十まで頭に叩き込み、最も安全とされた正道を歩いてここまで来た自称都会派魔法使いとしても、魔理沙の言葉には傾聴に値するものがあった。
そこはかとなく己を否定されているような気はしたが、常に結果をもって示す魔理沙の生き方には、論理を超越した絶対的な正しさが見え隠れする。
魔理沙ならば、大局において仕損じることはまずない。
そう思うのは自分だけなのか。アリスの問いに答える者は、他ならぬ自分を含めてさえどこにもいなかった。
「ここに石を置く形で——よし、完成だな」
「ええ。これで恐らくは、あの結界を破れるはずよ」
完成した魔法陣を見て、ふたりは共に満足げな面持ちで頷く。
中央に置かれた八卦炉から、蜘蛛の巣状に広がる形で配置された大小様々な石と、花の部分を切り取られた彼岸花の茎。一見して魔法陣に見えなくとも、それは立派に魔法を撃ち出すことのできる砲台として——完成していた。
「例の結界の綻びだけど、どうやら一箇所には留まらないようね。向こうが察しているのかどうかは分からないけれど、ともかく、ほつれ目は結界のあちこちにランダムで出現するみたい」
「発動体制で待機したまま、チャンスを待つか?」
「駄目よ、それでは魔力の消費が馬鹿にならないわ。効率が悪すぎる」
「でも、他にやり方があるのか?」
「あるわ」
真っ直ぐに、彼方の中州を見つめるアリスの眼には、揺らぐことのない自信が宿っていた。
「さっきの魔法攻撃で分かったことなんだけれど——外部からの攻撃を受けるその間だけ、結界の綻びは一箇所に出現したまま座標が固定されるの。そこを狙い撃ちよ」
「なーるほど。となると、私たちの他にもうひとり、結界への攻撃担当が必要になってくるわけだな——」
その時だった。
「魔理沙、後ろっ!」
「!」
咄嗟に振り返り、魔理沙の眼は月の光に煌めく白刃を認めた。
頭上に迫る大鎌が魔理沙を縦に両断する寸前、紙一枚の反応で突き出した箒が刃にかち合い、散った火花と共に、激突はそのまま鍔迫り合いへともつれ込む。
「くっ……後ろからとは、卑怯だぜ……死神」
「あたいとしてもこんなやり方は好かないんだけどさ……状況が状況ってわけだよ。流儀には反するが、それもやむなしってトコだね。四季様に怒られちまう」
間違っても死んだことのない魔理沙にとって、死神という種族は縁遠いものだったが、唯一、彼女だけは違った。
「小野塚、小町……だったかな。これが挨拶のつもりなら、随分と荒っぽいぜ」
「おや、覚えててくれたのかい。こいつは驚きだね。てっきり忘れたモンだとばかり思ってたよ」
「魔理沙! ……きゃっ!」
魔理沙に助太刀する形で駆け寄ろうと地面を蹴ったアリスだったが、不意に現れた人影に激しく腹を打ち据えられ、背後の川面まで後退。結果として、魔理沙のもとには辿り着けなかった。
派手な水飛沫が上がり、周囲の川原に仮初めの雨が降る。
「アリスっ!」
今度は、魔理沙が叫ぶ番だった。
「さすがのあたいでも、二対一で戦うとなるとちと不利だからね。さっきの不意打ちはともかく、頭数ではイーブンだろ?」
ギリギリと、小町の鎌に力がこもる。
「何を今さら、自分を正当化しようとしてん……だっ!」
「おおっと」
それを何とか、下になっていた体勢から押し返し、小町を後退させ、魔理沙は戦局の立て直しを図る。
ある程度の余裕ができたところで後ろを窺うと、アリスもアリスで、髪先から雫を滴らせつつ、もうひとりの死神と刃を交えていた——実戦を担うのは、専ら彼女の人形だが。
「よそ見してる暇があるのかい?」
「!」
視線を戻す。
この時点で、投げ放たれた小町の大鎌は魔理沙の鼻先にまで迫っていた。
防御は間に合わない——そう判断するが早いか、魔理沙は後ろに倒れ込むようにして、回転する刃を回避。地面に背を打たないよう、突き出した両手で大胆なブリッジを決めて見せた。
「……うおう」
とんだ曲芸だった。
一瞬遅れて、愛用のとんがり帽子が脱げ落ちる。
「……間抜けな魔法使いもいたもんだね」
呆れる死神の声が聞こえたが、元はと言えばこんな体勢を取らなければならなかったのは小町のせいであり、魔理沙としてはその点についてどうあっても彼女を問い詰めたい気分だった。
ブリッジの姿勢から、全身のバネを使って勢いよく起き上がろうとする——その寸前で、魔理沙は思い留まり、停止に専念した。
次の瞬間、無防備な魔理沙の腹の上を、ブーメランの要領で戻ってきた大鎌が通過して行った。
冷や汗が目に入る。非常に痛い。
「……殺す気かよ」
「殺す気だよ」
それが死神の職務である以上、当然の返答だった。
魔理沙は今度こそ起き上がると、先ほどの流れで崩れた体裁を取り繕うように、近くに転がっていた箒を拾い、構えた。八卦炉の回収は、どうやらできそうにない。
「しかし、咄嗟の判断でそこまでできるなんて、大したもんだね」
「ちっとも嬉しくないぜ。さっきは私のことを間抜けだとか何とか宣ってた癖に」
「何だい、根に持ってんのかい」
「そんな陰湿な感情には生憎持ち合わせがないんでね。地底の橋姫でも当たってくれ。——ああ、あいつの専門は嫉妬だったっけ」
「考えとくよ。この戦いが終わったら、四季様に休みを貰ってのんびり地底ツアーと洒落込もうかね」
「案内役なら買って出るぜ」
「結構」
その言葉を契機に、小町が彼岸花の地面を蹴る。ものの一瞬で魔理沙との距離を詰め、先ほどと寸分違わぬ動きで大鎌を振り下ろす。
それに合わせるように、下から打ち上げるような軌道で魔理沙も箒を振るう。
ふたつの得物が再度激突し、しかし今度は鍔迫り合いになることなく——魔理沙の箒が小町の鎌を弾き飛ばした。仰け反り、大きくがら空きになった死神の胴に二度三度と、魔理沙の蹴りが炸裂する。
極めつけに、拾い上げた八卦炉を仰向けに倒れた小町の喉元に突きつけたところで、勝負は決着した。
アリスの方の戦闘も、滞りなく終了しているようだった。
あっけないと言えば、あまりにあっけない結末だった。
「いやー、身体が鈍ってたのかね」
生も死も、魔理沙の胸ひとつに委ねられた身の上で、それでも小町は暢気なものだった。
「それをおいてもあんた、かなり腕が立つんだね。さっきの馬鹿力、あたいだって全力だったのに、ああも簡単に弾かれちゃあ自信を失っちまうよ」
「魔法だよ。強化系のな。私を筋肉馬鹿みたいに言わないでくれ」
「ああそうか……魔法か。厄介なもんを持ってるね。——あーあ、帰ったらまた説教だよ」
「弁護人ならやってやるぜ」
「遠慮しとくよ。それにやめておいた方がいい。四季様の説教は何しろ長いからね。あたいみたいな死神ならまだしも、あんたのような人間の魔法使いだったら、寿命を無駄にすることになる」
「そうかい」
「…………」
「…………」
小町に敵意がないことを見て取り、魔理沙は突きつけていた八卦炉を魔法陣の中央に置き直し、小町に対面する形で胡座をかいた。
すでに起き上がっていた小町は、誰に求められるでもなく、訥々と語り出した。
「ここまで派手に戦火を広げておいて言うのも何だけどさ——あたいたち死神としても、吸血鬼の嬢ちゃんと使用人——咲夜、だったっけ? を会わせることに関しちゃあ、けしてやぶさかじゃないのさ」
「——だったら、どうして」
当初、魔理沙たち幻想郷の面々は、三途の川の死神たちに話をつけるため、正面から交渉を望んだのだった。
飽くまでも話し合いをしに来たのであって、元から危険思想に手を染めていたわけではない。
丸く収まるのならそれが一番であることは、だれにとっても等しく同じ。共通認識だった。
しかしながら、魔理沙たちの懇願に対し、死神の意見は『到底認められない』の一言に終始していた。
それがために起きてしまった、戦争ともつかぬ戦争。
しかしここに来て、小町の心中吐露は思わぬ方向へと向かっていた。
「それが死神の務めだからだよ。吸血鬼の嬢ちゃんのことを思えば、何でこんな阿漕なことをやってるんだろうってやるせない気持ちにもなるけどさ。仕方ないんだよ。例え一時的でも、死者を此岸に帰すなんてことをすれば、あたいらは全員即刻首切り。無間地獄で永遠の苦しみを味わうことになっちまう」
「……」
魔理沙にとって、その話は初耳だった。
「だけどね」
僅かに面持ちを明るくして、小町は続ける。
「この罰には情状酌量の余地があんのさ。何らかの理由によって、やむなく死者を返してしまった場合、この罰は適用されないんだよ」
何らかの理由。
幻想郷の者たちが大挙して攻め寄せて来た場合などは、その『何らかの理由』に十分当てはまるのではないのか。
「だからね。あたいらも考えたわけだよ。どうにかして嬢ちゃんを救えないかってさ。それで浮かんだ案が、この戦況さ」
小町は——いよいよ混乱の様相を呈してきた戦場を指差し、説明する。
「あそこで戦ってる死神は皆、必ずどっか一箇所で手を抜いてる。敗けるためにね」
「敗ける……ため……」
「そ。あたいらが無間地獄に落ちることなく、なおかつ嬢ちゃんを救うためには、『激戦の結果、やむなく死者を顕界へ逃がしてしまった』というシチュエーションが必要なのさ。これがあたいらにできる、唯一にして最大限の譲歩だね」
「……!」
今までずっと、心のどこかで敵だと認識し続けていた小町の顔が、急にその偏見から解放されたように見えた。
死神たちも、死神たちでさえも、レミリアを救うために葛藤の狭間で戦ってくれていたのだ。
どこか冷徹だと思っていた死神たちだったが、しかし。
何のことはない。普通の人間や妖怪と同じように、愛すべき良心を持っているではないか。
「心配はいらないよ。頃合いを見て、死神たちは徐々に撤退するからね。直に戦局はあんたらの方へと傾くさ。——まあそれでも、四季様のありがたいお説教は避けられないだろうけどね」
「……ありがとう」
「へ? 何だい、いきなり」
パチュリーのことなど、言えなかった。
「ありがとう……本当に、本当に、ぐすっ……ありがとう……」
地面に手をつき、溢れ出る感謝の気持ちを余すことなく言葉にしようと、涙さえ零しながら——謝るように、魔理沙は言葉を贈り続けた。
そんなことはおくびにも出さない、
心優しき——死神に。
「やめておくれよ。あたいたちはあんたらを傷つけたんだ。礼を言われることなんてひとつもない。それより早く、死神連中をやっつけてやってくれるかい? それが一番、手っ取り早いのさ」
背後の地面に刺さった大鎌を引き抜きながら、軽い調子で小町は言うのだった。
「……ぐすっ……ああ……そう、だな……」
涙を拭き拭き、魔理沙も立ち上がる。
飄々とした様子の小町だったが、おそらく、感謝の気持ちは十二分に伝わっているはずだ。ならば、それでよかった。
そうして、ふたり、どちらともなく戦場を眺めたところで。
背後の藪に、重い土嚢を投げ落としたような音が鳴り響いた。