三章 ~ 逆行する月影
咲夜を救うことが出来るかも知れない——と、パチュリーは言った。
彼女が示した方策は、反魂の術で咲夜を生き返らせるといったものではなく、過去への干渉だった。
「既に過ぎ去ってしまった時間を、咲夜の能力で強引に引き戻す。言ってしまえば、それだけのことなのだけれど」
「それは……どういうことなの……?」
話を聞いていたレミリアだけでなく、説明をしたパチュリー本人にも消化不良な部分があるようで、両者は共に複雑な表情で向かい合っている。
慎重に、言葉を区切りながらパチュリーが続ける。
「まず、咲夜に出来るのは時間の『停止』と『加速進行』のみで、戻すことは不可能。これが大前提よ」
「じゃあ、そこからどうやって咲夜を助けるところまで話を飛躍させるのよ? その大前提からして、咲夜を救えないことの証明になってしまっているわ」
レミリアの表情が、剣呑なものへと変わる。私をからかっているの? 莫迦にするのも大概にして、と言わんばかりに。
「そうね。確かに単純に時間を戻すという作業は行えない。……けれど、複雑に——結果として、時間を戻すことが出来るかもしれない」
「……何を、言っているの?」
知識人のパチュリーにしては、多分に馬鹿な物言いだと思った。要領という要領を得ないばかりか、説明を重ねる程に分からない部分が混ざり合ってぐちゃぐちゃになっている。
「数直線を考えてみて欲しいのだけれど。これは、書いた方が分かり易いかも知れないわね」
頭痛に悩まされているような顔で、パチュリーは机に掛ける。手近な羊皮紙を手繰り、インク壺に入った羽根ペンを抜いて、さらさらと簡単な図を記していく。
まず手始めに、紙に示した小さな点を中心として、そこから左右へ伸びる直線を描き。
次に、直線の左右両端へそれぞれ『未来』『過去』、中心点の下に『現在』と書き添えたところで、パチュリーは筆を置いた。
「時の流れを簡略化した図よ。私たちが今いる座標がここ、『現在』」
中心点を指差しながら、パチュリーが説明する。
「本来私たちは、ここから未来に向かって、一定の速度で進んでいる。時間的にね」
中心から『未来』方向に、矢印を引く。
「そして咲夜は、この座標にいる私たちに干渉して、その流れを止めたり、あるいは加速させたりしていたというわけね。ここまではいいかしら?」
「……まあ、何となくは分かるけれど……。よくまあそんな考え方が出来るわね、パチェ」
「前に読んだ本の内容を復唱しているだけよ。咲夜の能力を紐解くというのは、中々どうして興味深いものだったし」
でもまさか、こんなことで役に立てるとは思わなかったわと続けて、パチュリーは中心点を円で囲む。
「説明を続けるわね。咲夜が干渉していたのは、ここ。『現在』の座標。私たちの体感している、今まさにこの時間ね。でも、これでは時間を戻すことは出来ない」
「他にやりようがあるのね?」
「そう。ここからは私の持論だから、確証は持てないけれど——その、能力を行使する対象を、現在時の座標ではなく、過去に指定すれば、あるいは——と考えているの」
「過去に……指定?」
「そう」パチュリーは過去側の直線上にもうひとつ点を打ち、直下に『七年前』と書き加えながら、 「この七年前の座標に干渉して、その時間を進めることが出来れば、そして、今私たちのいる空間までずらすことが出来れば、当事者の主観にとってそれは、『時間を戻した』ことと同義にならないかしら?」
「……私たちを動かすのではなく、この数直線そのものを、未来側にずらすということ?」
「そういうこと。それが私の……仮説」
今を巻き戻すのではなく、過去を進める。
果たして仮説と呼べる程、筋の通った論なのか。何とも荒唐無稽なパチュリーの言い分だった。確かな実験結果に基いた法則には程遠い、多分に概念的な考えの混じった机上の空論。そうとしか思えなかった。パチュリーもそう思っているはずだ。だからこそ、言った自分を後悔するような苦い顔をしているのだ。矛盾点、曖昧な部分、掘り下げれば幾らでも出てくるだろう。
それでも。
試していないのならば、そこにゼロパーセントは生まれないのも事実。
「咲夜の能力は、彼女の理論に則った特別なものだけれど——エネルギーの流れ、発動までの経緯が、魔法に酷似しているの。そうでなくとも、その時計に込められた能力は、レミィ——あなたでも使えるように加工が施してあるはずよ。上手く活用すれば、手の着けられない能力ではない」
「……具体的な、過去に戻るプロセスを教えて」
神妙なレミリアの双眸は、既に過去へ戻る決意で紅く、しかし静かに燃えていた。
もちろんのこと、覚悟を固めるより他になかったという状況も、その早計には関与していたが。
「あらかじめ言っておくけれど、とても危険よ。この考え方が正しいという保証はどこにもないし、実験による真偽は確かめられない。能力の暴走、暴発。あるいは何も起こらないままに能力を使い切ってしまうかもしれない。そういった危機と隣り合わせで、それでも咲夜を救いたければ、結果を出すしかない」
そんなつもりはなかったのに、最後の言い草は、まるでレミリアに発破をかけるようだった。警告するつもりが、一番頭に血が上っているのは他でもない、パチュリー本人なのかも知れなかった。
「大丈夫よ」
見え隠れするパチュリーの本音をしかと受け取り、レミリアは笑う。
「そうね。確かにパチェの言っていることは、はっきり言って穴だらけだと思うわ。何となくは分かっても、それで何とかなるとは思えない。作家にだって、もう少しマシなハッタリを考えつく輩はいると思うわよ」
耳の痛い言葉だった。聞こえのよさなどまるで気にしていない。ただ真っ直ぐに、パチュリーの心へとそれは刺さる。
「でも、それしか手段はないんでしょう?」
確かめるように、問う。
「ええ、おそらくは」
「だったら、やるしかないじゃない」
当たり前のことを、当たり前に。
ただそうであるように、こなす。時空を越えた生死を前に、レミリアはあくまで超然とした態度を貫いていた。
「咲夜が死ぬその瞬間まで、私は——運命というのはこの手の中にあるものだと思っていたわ。私の気分次第で、賽の目も転がり方も自由自在なんだってね。だけど実際、そうじゃなかった。結局は、大切なもの、大切な人ひとり、守れなかった。あの日、咲夜と一緒に私もまた、運命に殺されているのよ」
自嘲の笑みは、嘲りを通り越して、むしろ清々しかった。
「不死身の吸血鬼が、運命なんて不可視なものに殺されたのよ。お笑いよね。喜劇よ喜劇。ここにいる私は、死者なんだもの」
「レミィ……」
誰とも接点を持とうとしなかった、あの頃のレミリアを、パチュリーは思い出す。
そう、あれはさながら——死人のようだった、と。
「でもね」達観したような薄笑みを浮かべていたレミリアの表情が、その一言を契機に、硬質なそれへと移ろう。
「だからこそ、出来ることもある。どうせ一度死んだ身よ。面倒な生者のプライドはいらないわ。生き返る方法があるなら手段は選ばない。みっともなくすがって、泥臭く足掻いて、全力よ」
——今のあなたは、死者じゃない。
そう言おうとして、言葉にならなかった。パチュリーはただ、呆然とレミリアの顔を見つめていた。
「だからね、パチェ。どれだけ危険でも、私はやるわよ。運命なんてくだらないもの、この足で踏みつけて、見下して、支配して、靴を舐めさせてあげるわ」
嗜虐的な笑みが、レミリアを満たす。まさに傲岸不遜。これぞ紅魔館の主、レミリア・スカーレットの姿だった。
「……そう」
そんなレミリアの姿に、親友のパチュリーは、むしろ安心した。彼女なら、きっと失敗などしない。ここにある全てが、この吸血鬼に味方している。否、ひれ伏している。確証はなくとも、確信は堅固だった。
「分かったわ」
端的に、呆れたように告げて。
魔法使いは、吸血鬼の少女に協力することを決めた。
不意に目が覚めた。
初めに視界を満たしたのは、緩やかな風に葉をそよがせる枝だった。そこで、自分が倒れていたことに気づく。
起き上がり、軽く周囲を見渡す。藪の中であるため、幾らか視界が遮られている。しかしながら、左手に見えた赤レンガの壁で、ここが紅魔館の裏庭なのだと知れた。
自分は七年前に飛んでくることができたのだろうか。単に外へ移動しただけで、時を越えられていないのではないだろうか。
現在の自分が置かれている状況が不明である以上、あまり派手に動くことはできない。慎重に周囲を窺いながら、レミリアは草叢から顔を出す。
そこで、気づいた。
壁際に、誰かが立ち尽くしている。
両腕は力なくだらりと垂れ下がり、両足は僅かに地面から浮き上がり、虚ろな両眼だけがひたすら真っ直ぐに前を向いていた。
そして、
「……!」
額から角のように突き出した、
大振りなナイフの柄。
かつて見た同一の光景が、レミリアの脳裏に甦る。
そこで、彼女は全てを悟った。
またも、救えなかったのだと。
その時、見開かれた咲夜の目から、一筋の滴がこぼれた。
目の覚めるほど鮮やかな赤色の、それは血涙。どうして自分は死ななければならなかったのか。そう訴えているように、レミリアには感じられた。
不意に足音が聞こえると、美鈴が姿を現した。事態を前に、凍りついたように立ち止まり、そのまま動かない。程なくして、幼き自分も現れることだろう。惨劇は、繰り返されてしまったのだ。
成功ではない。どこまでも失敗だった。
紙一枚の遅れは、余りにも残酷に、少女の二度目の死を、その魂に深く刻みつける。