表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Scarlet Tears  作者: ミカミ
5/12

二章 ~ 時を操る程度の能力

    1


 柔らかな日の光が降り注ぐ、ある日の幻想郷。

 昼下がりの緩やかな空気に満ちた小道に、妙齢の女性がひとり、しとやかな挙措で歩を進めていた。

 白魚のようなその手に軽く握られているのは、外縁にレースをあしらった薄紫色の日傘。梅雨の時期を一月ほど先に控えた幻想郷に、早くも一輪の紫陽花あじさいが花開いていた。

 くるりくるりと傘の柄を回しながら歩いていた女性は、ある場所に辿り着くと、そこで唐突に歩みを止め、天を仰ぐような素ぶりを見せた。

 見上げた先に続いていたのは、小道に張り出すようにして丘の頂上まで続いている、古い造りの石段。所々苔は生えていたが、あるいはそれも風景の一部として、いささか味気ないその場所に一抹の風情を与えていた。

 一歩一歩、注意を払いながら女性は石段を登っていく。確実に段を踏みしめながらも、踵まで届く長いレースのスカートを器用にあしらう様は、彼女に流れる貴族の血がそうさせるものであろうか。

 石段はそれなりの距離を誇っていたが、女性は特に疲れた様子も見せず、そのまま頂までを登り切った。登ってすぐのところにそびえる真っ赤な鳥居をくぐり、そのまま奥へと歩を進める。そこにはまたも妙齢の女性がひとり、忙しなく箒を動かしていた。

 掃除に集中するあまり、こちらまで気が回らないのか、巫女服の女性は日傘の女性の接近に全く気づく素ぶりを見せない。ほんの数年前ならばここで背中にでも抱きついて驚かせていたところだが、今となってはそんな遊びはあり得ない。

「ごきげんよう」

 そっと、日傘の女性は声をかける。ようやく気づいた様子で、巫女の女性は後ろを振り返った。

「ん。……あら、誰かと思えばレミリアじゃない。今日はどういう風の吹き回し?」

 年の頃にして二十代そこそこといったところか。艶のある黒髪に結ばれた大きな赤いリボンが特徴の女性は、色恋に興味のない妖怪でさえ思わず振り返らせてしまうほどに美しい顔立ちをしていた。

 ここ博麗神社に住む巫女は、その名を霊夢といった。

「まあ、特に用があるわけでもないけれど……強いて言うなら、いずれスカーレット家のものになる予定の建物を下見に来た、といったところかしら?」

 冗談めかした風で答えたのは、現紅魔館当主、吸血鬼レミリア・スカーレット。彼女もまた、月夜にその身体をなびかせる花のような、儚げな美しさを醸していた。

「あいにくと、あなたのところに引き払ってもらわなきゃならないほど、うちも落ちぶれてはいないわよ」

 落ち着いた微笑を口元に浮かべながら、霊夢は止めていた手を再び動かし始める。石畳を撫でる竹箒の音だけが、しばしは初夏の青空に響いていた。

「でも、その割に参拝客は全然いないみたいだけれど?」

 わざとらしく辺りを見回してから、レミリアは小さく小首を傾げる。そこにかつてのようないたずらっぽい笑みはなかったが、より皮肉さが増しているかと言われれば、それもまた事実だった。掃除なんて意味がないんじゃなくて? と言外に告げているようでさえある程に。

「そんなこともないわよ。……あ、ほら来た」

 丁度いいところに、と言いたげな様子でレミリアの背後を見やる霊夢につられて彼女が振り返ると、そこには先ほど彼女自身がそうしたように、一歩一歩、談笑などしながら石段を登って来る若い男女の姿があった。

「やあ霊夢ちゃん。また来たよ」

「今日はお掃除ですか? 霊夢さん、マメなんですね」

「別に、毎週来なくてもバチなんて当たらないのよ。でもまあ、いつもありがとね」

 気さくな調子で話しかけて来た男女に、霊夢もにこやかな笑みで応じる。おそらくは——いや確実に——夫婦だろう。レミリアもこのふたりには見覚えがあった。前に気まぐれで人里まで下りたとき、顔を合わせたことがある。それを向こうも覚えていたようで、「お、誰かと思えばレミリアお嬢ちゃんじゃないか。今日はお参りかい?」「相変わらず綺麗ですね。いつ見ても見惚れちゃいます」などと、特に吸血鬼相手に恐れる様子もなく、霊夢に見せた人好きのする笑みを自分にも向けてくれた。

「ごきげんよう。今日はお参りに来たわけじゃないの。吸血鬼が神様にお祈りなんていうのも、おかしな話だしね。散歩がてら、偶然ここを通りがかったから寄っただけよ」

「うちを買収しに来たんじゃなかったっけ?」

「まだ言っていたの? あなた、割と根に持つタイプね?」

「冗談よ、冗談」霊夢が笑う。

「よくわからないが、ふたりとも元気そうでなによりだね。それじゃ、僕たちはお賽銭をあげさせてもらうよ」

「気が向いたら、またうちに遊びに来て下さいね」

 賽銭箱に小銭を投げ入れ、二礼二拍手一礼。今では知る人も少なくなった神前の作法に正しく則って参拝を済ませると、若い夫婦は元来た参道をやはり談笑しながら帰って行った。

 その後ろ姿を見送りながら、霊夢はぽつりとこぼす。

「さっきも話してたけど、あの人たち週に一度、ここにお賽銭入れに来てくれるのよ。別にたくさんのお客さんがいなくても、ああいう信心深い人が一人でもいてくれれば、私も、ここの神様も満足よ」

「……丸くなったのね。少し前までは、お金だ銭だと騒いでいたっていうのに」

「あら。丸くなったといえばあなたも相当丸くなったじゃない。やたらに人を見下していたあの頃が嘘みたい」

「……時間の仕業よ」

 そううそぶいたレミリアは、寂しそうに微笑みながら、どこか遠くを見るように目を細めていた。

「…………」

 ふたりの間に降りた沈黙はけして居心地の悪いものではなく——むしろ、放っておけば小鳥でも寄って来そうな、そんな穏やかな静寂だった。

「さて、と。散歩にも飽きちゃったし、時間も時間だから、私、そろそろ帰るわね」

 誰が言うかによっては白々しくも聞こえてしまうその台詞は、この場合、そのような性格を持ち合わせてはいなかった。おもむろに懐中時計を取り出すレミリアの振る舞いが、あまりに堂に入っていたということも、理由のひとつだろう。

「その時計……」

「え? ……ああこれ? ……プレゼント、みたいなものね。うちの従者メイドからよ」

「…………そう」

「それではまたね」

 霊夢も、それ以上聞き出そうとはしなかった。ただ黙って、日傘に隠れたレミリアの後ろ姿を見送っていた。

「なにかあったら、いつでも頼りなさいよ」

 後ろからかけられた言葉に。

「…………」

 背中越しの微笑で答え、ただ右手を軽く上げたのみで。霊夢に対する感謝の意思表示には、それで充分だった。


    2


 朝から夜にかけて活動し、夜に眠るか。夜に目覚め、朝日が顔を出すまで動き回り、昼間を睡眠時間に当てるか。ようは太陽を仰ぐか月を仰ぐかの違いが、そのまま人間とそうでない者とを分ける一種の指標になる。そこにはもちろん例外もあるが、幻想郷に暮らす者たちの多くはこの住み分けに属していた。

 レミリア・スカーレットは吸血鬼であり、もっと大きな括りで総称するならば妖怪だ。およそ人間ではない彼女は、先程のセオリーに従った上で日照時間帯に眠るのが常であり、夜を統べるその種族性も手伝って、月の登る夜間にこそ本領を発揮する。

 しかし今日のような、気まぐれで散歩に出てしまった日の夜などは、どんなに月が美しく輝いていようとも、彼女は人間と同じような生活サイクルに身を委ねなければならないのだった。

 全身をレースで飾り立てた華美な服装から簡素なネグリジェへと着替えたレミリアだったが、目どころかそれこそ全身が冴えてしまっている。己に流れる吸血鬼の血を、この時ばかりはレミリアも恨んだ。しかし実際、普段あまり動かない時間帯に歩き回ってしまった以上、色々とこたえるものがあることは明白なのだ。今宵ばかりは、夜を徹することは避けるべきだった。だからと言って、すぐに眠れるものでもなかったが。

 寝室のベッドに、レミリアは軽く腰を落ち着けていた。その手には、今は亡き十六夜咲夜からのプレゼント、及び彼女の遺品である小さな懐中時計が収まっている。幼い子供の手のひらに合わせて特注したのであろうそれは、今の彼女にはいささか小さ過ぎる感が拭えなかった。

 全体に施された配色は、持ち主であるレミリアの瞳に同じ、即ち深い赤色。一体どういう造りをしているのか、月の明かりに照らすと、様々な色に移ろいながら照り輝くのだった。といっても、さしたる特徴といえばそれくらいのもので、ローマ数字の刻まれた文字盤も、一定のリズムに合わせて動く秒針も——もちろんのこと長針も短針も——レミリアの目を驚かせるような機構や装飾は持ち合わせていないようだった。

 目に見える部分では、やはりどこまでも普遍的な懐中時計だ。ならば目に見えない部分では? それを確かめるのに、精密な工具や腕のいい時計屋は必要ない。レミリアが知りたいのは、そのような、「遮られたせいで目に見えなくなっている部分」ではなく、文字通り不可視な、なにかしらの力の類であるところの「目に見えない部分」だ。

『時を操る能力を込めた、特別性の時計です』

 レミリアの持つ懐中時計と共に咲夜の部屋の引き出しで眠っていた、黒い小箱。どんな仕掛けを用いたのか、それには生前の咲夜の声が残されていた。そして、雑音に濁された言葉の中から、確かにレミリアはそれを聞いた。この時計には、能力が込められていると。

「そうね……仮にそれが本当だとして」

 色々と合点がいく部分もある。

 まずひとつ。七年もの間放置されていたにもかかわらず、この時計は止まることなく時を刻み続けていたということ。だれにもそれと気づかせないままにぜんまいを巻き続ける謎の人物の存在を考えるより、咲夜の能力によってその稼働が支えられていたと考えた方が、余程合理的だ。

 さらにもうひとつ。咲夜亡き今、それでも紅魔館内の拡張空間が維持されているということ。

「時を操る能力は、即ち空間を操る能力と同義である」という理論に則り、咲夜は紅魔館の内部空間を半ば強引に押し広げ、外観以上の広さを確保していた。これも先程と同様に、咲夜不在の現状で、それでも屋敷の内側が口を開いた風船よろしく急激にしぼんでしまわないということは、畢竟、それに見合った理由があるはずなのだ。この時計が大部分であれ一部分であれその何らかに関わっている可能性は少なくない。そして、仮にそうだとした場合、おそらくそれは偶然の産物だ。そんな繊細なバランスの上に今の紅魔館が成り立っているのだとすれば、下手に時計をいじくり回すことは避けるべきことなのかもしれない。

 しかしそのいずれにせよ、この時計を使う方法は今のところわからない。

「そうね……パチェはまだ起きているかしら?」

 どれだけ時計のことに考えを巡らせたところで、いつまで経っても答えは出ないだろう。それはピースの欠けたジグソーパズルのようなもので、しかるべき情報が出揃わない限りは、ここで拘泥していても真実は浮かび上がって来ないのだ。それはいたずらな時間の浪費に他ならない。

 知識人にはアテがある。

 既に夜も遅いが、あの読書好きはまだ起きていることだろう。なにせ吸血鬼の親友だ。



 案の定、彼女はランプの灯りを頼りに書物を読みふけっていた。

「相変わらず勉強熱心ね、パチェ」

「本の虫にそんなご大層な文句は不釣り合いよ。元来、読書という行為はそれ程褒められたことではないもの」

 話しかけられる寸前までレミリアの来訪に気づかなかったパチュリーだったが、それでも彼女は特に驚く素ぶりを見せず、軽快に応じた。長い時を親友として共有してきたふたりの、それはある種独特の「間」だった。

「それで、こんな夜中になにか用かしら?」

『こんな夜中』の部分に殊更わざとらしくアクセントを置いて、パチュリーは尋ねる。閉じた本の影が、ランプの火に淡く揺らいでいた。

「あら、夜は吸血鬼の闊歩する時間帯よ。それを踏まえた上で、然るべき常識には留意しているつもりだけど?」

「私が魔法使いだから見逃せる常識よ、それは」

 一連の会話に深い意味はなかった。ただ挨拶の代用品として、ふたりは取り留めのない言葉の応酬を楽しんでいるだけだった。

 これもまた、ひとつの「間」。

 言い換えるならば、テンポ。

 この一風変わった波長こそが、幻想郷に変わり者の多いとされる所以なのかもしれない。

「で、改めて訊くけど、私に何の用かしら? と言っても、おそらくは魔法関連よね」

「ええ」

 頷きながら、レミリアはやおら自分の胸元に手を差し入れると、

「少し見て欲しいものがあってね」

 中から鎖付きの赤い懐中時計を取り出した。

「……」

 その一連の動作を、訝るような目つきで眺める魔法使いがいた。

 誰あろう、パチュリー・ノーレッジである。

「……無粋な質問をするけれど。そこにしまっておく意味はあるの?」

 レミリアの方もその質問が来ることを予想していたらしく、口元に笑みを浮かべながら、

「ほら、ネグリジェだとしまうところがないのよね。それにこっちの方が色っぽいと思わない?」

 おそらく目的の本命は後者だろう。実際、レミリアの動作は堂に入っていたし、有り体に言って、とても色っぽかった。七年前以降ならいざ知らず、そんなレミリアの所作を『子供の背伸びだ』と一概に否定出来ないところが、パチュリーにとっては悔しい部分でもあった。

 いつの間に成長したのか、紅魔館当主の肩書きが板に付くまでに大人の階段を登ってしまったレミリアを——より正確にはその胸元を——パチュリーは見やる。

 薄手のネグリジェを内側から押し上げる、自己主張の強いふたつの膨らみ。

 続けて、魔法使いの少女は自分のそれに目線を落とす。

 レミリアの誇る双丘に対して、パチュリーの眼下にそそり立っていたのは、ともすれば自殺者が出かねない程に急激な断崖絶壁だった。

 視界良好。

 ここから机に置いてある本のタイトル一文字一文字に至るまで、正確に読み取れる。

 壮観だった。あまりの絶景に涙が出そうだった。

 もっとも、パチュリーの胸から胴にかけてがかくも平面状になっている原因の一部は、彼女の着るゆったりとした魔導服が担っている。よって、本来のパチュリーならば——ようは『脱げば』人並みに膨らみも上乗せされるのだが……。

 パチュリーはもう一度、レミリアの丘陵と自分の原野とを交互に見比べる。

 脱ぐだとか脱がないだとか——そういった子供騙しの悪あがきではどうにもならないことは、もはや誰の目にも明らかだった。

「…………」

「…………ふ」

「ちょっと……パチェ?」

 レミリアが異変に気づいた時には、既に遅かった。

「くふっ……ふふふ、あはは、あはあははは、あーっはっはっはっは‼」

「えっ、ちょ……どうしたのパチェ⁉」

 突如として、前触れもなく。

 パチュリーは狂ったように笑い出した。

 天をも恐れぬ吸血鬼であるレミリア・スカーレットをしてたじろがせる程に、その行動は奇妙で奇抜で、そして奇怪だった。

「あははははははは‼ あっはっはっはっはっ‼ く、ふふふ、ははは…………はあ」

 ただひたすらに、それこそ恥も外聞もなく笑い、笑い、笑い転げると、ようやくパチュリーは常の落ち着きを取り戻した。

「……パ、チュリー……?」

 そんな親友の様子を、レミリアはただ呆然と見守ることしかできなかった。

 しかし、パチュリーの奇行はそれだけに止まらなかった。

「魔法使いだってねえ……万能じゃないのよ。……何もないところから火を起こしたり、水を自由自在に操ることが出来ても、やっぱり出来ることより出来ないことの方が多いの」

 誰に言い聞かせているのか、あるいは自分に言い聞かせているのか、要領を得ない言葉をボロボロと口の端からこぼすパチュリー。

(……あ、思い出した)

 この状態のパチュリーを、レミリアはかつて一度目にしたことがあった。

 そう、確かあの時は……。


『パチェ、最近太った?』


 この言葉が引き金だった。

 つい弾みで言っちゃった、という言い訳が最も通用しない言葉を、当時のレミリアは軽々しくも口に出してしまったのだった。

 そしてその軽弾みな言動は当然のごとくパチュリーのよからぬ導火線に火を点けてしまい、今のようなトランス状態へと陥らせてしまった。

 以来、『パチュリーのコンプレックスを刺激するな』という暗黙のルールが、レミリアの中に生まれたのだった。

 実体験を以て胸に刻みつけたはずのその禁忌を、まさか他ならぬ自分が犯してしまうことになろうとは。

「ええ私にはどうにも出来ないわよ。そもそも出来たとして、身体のことを魔法なんかでいじくりまわしてはいけないと思うし。けどね、それをわざわざこの私に見せつけるのはどうかと思うわよ……。いくら親友と言っても踏み込んではいけない領域というものがあってね。そう不可侵領域よ不可侵領域。ちょっと聞いているのレミィ——」

「え、ええ」

 ついでに言えば、こうなってしまったパチュリーはこの上なくねちっこい。虚ろな瞳でレミリアを射止めて離さないその様は、余人を震えがらせる程に陰惨なオーラを噴出している。

(これじゃ燻った活火山よね。急に爆発したかと思えば、煮え切らない言葉を火山灰みたいに延々と……まあ、実際に火山を見たことはないけれど)

 依然として、パチュリーは止まらない。

「まあどっちでもいいわ……。とにかくね、最近の幻想郷の——レミィもそうだけど——礼儀がなってないのよ礼儀が。顔を合わせてもみんなまともな挨拶ひとつ出来ないし」

「それはあなたじゃないかしら。パチェ、もしかして酔ってる?」

「……話の腰を折らないで」

「ごめんなさい」

 ドス黒い声色で凄まれれば、返す言葉もなかった。今のパチュリーには、常の理知的な言動とは打って変わって、支離滅裂な言葉をろくに吟味せずに叩きつけている感さえある。

「……それでね、結局、私の言いたいことはひとつなのよ」

「な、何かしら……?」

 どこか達観したような笑みを浮かべて、パチュリーは呟く。

「ないかなあ……豊胸魔法」

「ないわね」

 間髪入れずにレミリアは断言した。

 そんなレミリアの顔を見、パチュリーは安心したような笑みに表情をシフトすると、

「最後に、その言葉を聞けて……嬉しかったわ」

 ゆっくりと目を閉じながら、カクンとその首を椅子の背もたれに預けた。

「え、ちょっと、パチュリー……? 対応策も善後策も分からないわよ、パチュリー、パチュリー⁉」

 これからはあまりパチュリーを弄らないようにしようと、レミリアは固く心に誓った。



「……その……ごめん、なさい」

「い、いいのよ、別に。私としても少し配慮が足りなかったと言うか……」

 あの後、程なくして目を覚ましたパチュリーだったが、例え意識が回復しても、ふたりの間に流れる空気までもが全て一様に元通りとはならなかった。

「あれは、その……何て言うか、私の悪い癖と言うか……」

「うん、分かってる。前にも一度、こんなことあったものね」

 つい先程まで円滑に進んでいた会話も、今は油の切れたブリキ人形のようにギクシャクとしてしまっている。だが、そう凝り固まってもいられない。レミリアは目的もなしにここに来たのではない。きちんと済ませなければならないことが、まだ残っている。

「それで、この時計なのだけれど……」

「ええ……」

「「あっ」」

 懐中時計を手渡す、その一瞬に軽く手が触れただけのこと。普段ならばそのようなこと、蚊ほども気にしないふたりが、この時ばかりは反射的に手を引っ込めてしまう。レミリアの手を離れた懐中時計が収まるはずのパチュリーの手はそこになく、よって拠り所を失った時計はそのままテーブルに落下し、鈍い金属質の音を地下の大図書館に響かせた。

「あっ」

 いち早く反応したのはレミリアだった。すぐさま落下した時計を拾い上げ、傷がついていないか——特に、木のテーブルと直接かち合った部分の塗装は剥げていないか——を確認する。

 幸い、時計のどこにも傷はついていなかった。救われた様子で、レミリアはほっと安堵の息をつく。

「あの……ごめんなさい」

 気まずさと申し訳のなさを半々に混ぜ合わせた表情で、パチュリーが謝意を述べる。その瞳は、やはり気まずそうに逸らされていた。

「謝らなくていいわ。……今のは、私も悪いから」

「でも……」

「そんなことより、今はこの時計を鑑定して欲しいわね。謝るくらいなら、なるべく迅速にお願い」

 ようやく普段の調子を取り戻したレミリアの態度は、多少素っ気なくはあったものの、パチュリーとしてもこちらの方がやり易かった。気を遣うレミリアなど、やはり柄じゃないのだ。

 今度こそ、確実に懐中時計の受け渡しを遂行し、パチュリーは調査に入る。心なしか、目つきが鋭いものへと変わる。

「これは……確かにすごい力が込められているわね」

「それくらいは私にも分かるわ。私が聞きたいのはもっと専門的な、魔法のオーソリティであるあなたの忌憚なき意見よ」

 魔法よりは、専らその超人的な膂力でもって相手を圧倒するレミリアには、漠然とした力の流れや種類は分かっても、そこから更に深く掘り下げた感覚が掴めない。知識に至っては言わずもがな。感覚、知識、その両方を兼ね備えたパチュリーだからこそ、今回のような仕事は彼女の舞台なのだ。

 パチュリーは、時として時計を穴が空く程に見つめたり、あるいは目を閉じて何かを口中に呟きながら、その中に秘められた力を解析していく。

 砂時計の砂が二回程落ち切る頃になって、ようやくパチュリーは手にした懐中時計から視線を外し、緊張をほぐすように深々と息をついた。どうやら解析が終了した様子だ。

「……何か分かった?」

「ええ」一仕事終えた後の充足の笑みで、パチュリーは軽く頷く。

「間違いないわ。この時計には咲夜の能力が込められているわよ。それも、かなり強力なものがね」

 果たして、それはレミリアの期待していた答えそのものだった。

「となると、今の紅魔館の拡張空間を支えているのもやっぱり……」

「それは違うわ」パチュリーはきっぱりと首を横に振る。

「この図書館を出てすぐの廊下に、少し変わった柱状のオブジェがあるでしょう。アレにもこれと同じ、咲夜の能力が込められているのだけれど、この屋敷の空間に作用しているのは完全にオブジェの方ね。咲夜が生きていた時には別段気にしなかったけれど、今となっては、自分がいなくなった時のことまで考えていた彼女の配慮に驚くばかりね」

 一息に、パチュリーは告げた。

「それで、そのオブジェの効力はいつまで持つのかしら?」努めて冷静に、事務的な口調でレミリアが尋ねる。

「半永久的に続くわ。少なくとも、あのオブジェが壊れない限りはね。永久磁石の要領よ。既にあの大理石のオブジェ自体が、延々と能力を放つ磁石と化しているの。ただし、その理屈は能力を現状の維持に割く場合に於いてのみ有効みたいね。いたずらに時を止めたりして能力を行使すれば、オブジェもただの石になってしまうわ」

 それでは、この時計が屋敷の根幹に関わっているわけではないのか、と、レミリアは再び安堵の息を漏らす。

「じゃあ……この時計も」

「ええ、そうね。何回か能力を使えばただの時計に戻るわ」

 パチュリーから返された時計を、レミリアは今一度見つめる。

「それで、具体的には何回まで使えるのよ」

「恐らく、三回が限度といったところかしら。勿論、本当はそれ以上かもしれないし、それ以下かもしれない。あくまでも目安程度に考えてね」

 時を操る程度の能力。

 咲夜がレミリアの為に遺した、人の域を超えた秘術。それをいたずらに消費することは勿論、例え正当な理由があっても使うことは躊躇われる。一体どこで、何の為に使うべきなのか。それとも、然るべき時が、その用途が分かるようになる時が来るまで、待ち続けるべきなのか。仮にそうだとして、然るべき時とはいつなのか。尽きることのない疑念が、打ち消しても打ち消しても心の隙間から湧き出して来る。

「せめて、時間を戻すことさえ出来れば、咲夜を救えるかもしれないのにね」

「それは……」

 それは無理よ、と言い切ることが、パチュリーにはどうしても出来なかった。実際に出来るか出来ないかの問題以前に、その事実を無節操に叩きつけることが、パチュリーには不可能だった。

「……進むか止めるか……その二択に選択肢が絞られるのは事実ね」

 遠回しに、お茶を濁すようにパチュリーは言う。

「進める……今この時間を早くするってことよね」

「ええ、そうね……一定方向にしか時は流れない。これを大原則に据えて、その流れを急かすってことね。あるいは、流れを止めるか。どちらにせよ、戻すということは……出来ない」

 言いたくなかったが、言うしかなかった。それが即ち、現実に向き合うということなのだろうから。

「そのふたつを組み合わせる、というのは?」

「それは、どういうこと?」

「いえ、特に深い意味はないけれど。同時に発動するとどうなるのかって」

 レミリアの疑問を、パチュリーは慎重に吟味する。

「————————ちょっと待って」

 それまで思考に耽っていたパチュリーが、急速に顔を上げた。

「もしかしたら、もしかしたらなのだけれど——」

「どうしたの、パチュリー?」

 逸る心を抑えんとする様子で、けれどそれに負けてしまったように頬を紅潮させ、パチュリーは一息にまくし立てた。


「もしかしたら、過去に戻れる——咲夜を、救えるかもしれないわ」


 この時、幻想郷は既に朝を迎えていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ