希望 ~ Six years ago.
過去を振り返ってはいけないと、そんなことは分かっていても、実行することは口先の百倍難しい。
感情を理屈で統制するなんてそんなこと、土台無理な話なのだ。
私はただ、咲夜に会いたかった。
1
闇の降りた部屋の中央に、うずくまる少女はひとりだった。
両膝の間に美麗な、しかし幼い顔を埋め、ただ動かない。
閉塞に黒く塗りつぶされた寝室は、あたかも少女の心象を表しているかのようだった。重苦しい静謐を演出するのは果たして夜か。それともとうの昔に枯れ果ててしまった悲哀の涙か。
いつからこうしていたのだろう。いつまでこうしているのだろう。なにもわからない。別にいい、と思った。こうしていたってなにも始まらないのはわかっている。けれどなにかしたところで、やはりなにも変わらないのだ。
咲夜は、帰って来ないのだ。
血と悲しみに包まれたあの日から、すでに半年もの時が経つ。それはまるで昨日のことのように思えて、反面、遥か昔に起きた出来事であったようにも感じられた。
なにも変わらないのなら、なにもしなくていい。
そうして、今に至るまでの半年を過ごして来た。そしてこれからも、そうなのだろう。
最近はろくに血も吸っていない。紅茶も飲んでいない。寝室から出ることはあっても、屋敷の者とろくに会話も出来ない。話を聞く方からすれば、生返事ばかりで、話を理解しているのかさえ危ういのだろうと思う。日増しに身体が、なにより心が弱ってきているのがわかった。しかしそこから脱しようにも、精神が衰弱してゆくほどに発起は難しくなる。歯痒いジレンマだった。
いつになれば、この夢は覚めるのだろう。
(夢じゃない)
いつになれば、救いは訪れるのだろう。
(そんなものはない)
思いを、思いが否定する。
少女の、どうしようもない葛藤の表れだった。
どれだけ待てば、私は救われる? ——いつまで待っても、どれだけ待っても、私は救われない。
咲夜は、いつ帰って来る? ——咲夜は帰って来ない。そんなことはわかっているはず。
私は、どうすればいい? ——いっそ死んでしまえば?
終わりのない自問自答が、螺旋階段のようにどこまでもどこまでも渦巻いてゆく。
ドアの開く音がして、誰かが部屋に入って来た気がした。
誰かが、耳もとで囁いた気がした。けれど、なにを言っているのかまでは聞き取れなかった。
自分を気遣ってくれる健気な従者か。あるいは親友のパチュリーか。門番の美鈴か。
いずれにせよ。
咲夜でないことだけは、確かだった。
その事実を殊更突きつけられ、少女は更なる深淵の底へと心を沈めてしまう。
わかっていた。
こんなことでは、死んだ咲夜も浮かばれないと。
『紅魔館の主たるもの、どんな苦境に立たされても強く、しなやかに生きること』咲夜がよく言っていたことだった。
『当たり前よ。そんなこと、咲夜に言われなくてもわかっているわ』
わかっていなかった。
虚勢を張ったつもりなんてなかったのに、いざとなればこれだ。結局は、失う悲しみを知った気でいた自分の放った大言壮語であったことを、自分自身の行動が裏付けてしまっただけだった。情けない。なんて情けないのだろう。繰り返された自責の念が積層し、岩のように凝り固まって、少女の心に重たくのしかかる。
そう。吸血鬼である以前に、彼女はか弱くも幼い少女なのだ。家族同様に愛していた咲夜を失って、早々に立ち直れるわけもないのだった。
そうして、時の止まった少女は今日もまた、涙もないままにさめざめと泣き続ける。
終わりのない悪夢に苛まれ、
己の境遇を呪いながら。
2
「そう。レミリアは相変わらずなのね。わかったわ、もう下がって頂戴。……悪かったわね、嫌な役回りを押しつけて」
この台詞も、既に何度口にしたことか知れない。淡雪のような白さをもつ少女の顔に、うっすらと影が差す。複雑な表情だった。怒っているのか、悲しんでいるのか。いずれにせよ、心中穏やかでないことだけは確かだった。
太陽の光が届かない関係上、例え昼であっても地下の大図書館はしっとりと薄暗い。辺り一帯に立ち込める埃っぽい空気も相まって、ここに長く留まることはあまり健康的とは言えない。
余程の本好きでなければ近寄りもしない場所。
それがこの大図書館だった。
事実、ランプの灯りに顔の輪郭を揺らめかせながら、分厚い本の山積する卓に着く少女は、余程の本好きに他ならない。
パチュリー・ノーレッジ。
レミリア・スカーレットの親友にして、この図書館を間借りして暮らす魔法使いである。
「せめて部屋から出てくるようになれば、もう少し先行きも見えてくるのだけれどね」
口にして、届かぬ希望だと思い直し、パチュリーは深い深い溜め息をつく。
今より半年前。
幻想郷を遍く悲しみで包み込んだ血みどろの惨劇は、あるひとりの従者に死を与えると共に、その主たる少女の心をも固く閉ざしてしまった。
咲夜の葬儀は、降りしきる大雨の中執り行われた。粛々とした雰囲気の中で、空はまるでその悲しみを吸い込んだかのように薄暗かった。
その日からだった。レミリアが自室に閉じこもるようになったのは。
暗く閉ざされた部屋の中で、朝晩の区別もなく、時に膝を抱え、時に眠り、時に涙を零し。レミリアはそんな閉塞的な生活を送るようになってしまった。
促されなければ食事も摂らない。なんとか彼女を元気づけようとする仲間の声を聞こうともしない。時たま部屋から出てくることはあっても、光彩の消えた虚ろな目で当て所もなく館内を彷徨っているようでは、その行動にさしたる意味などなかった。
そうして、半年の月日が流れた。
幼いながらも威厳に満ちていた紅魔館の主の姿は、今やどこを探してもない。屋敷に活気を与えていた張りのある声は、誰の耳にも届かなくなって久しい。
忘れろとは言わない。
されど、主があのようでは、いつまで経っても紅魔館の喪は明けないのだった。幻想郷中がからりと晴れ渡った日にも、この屋敷にだけは今も冷たい雨が降り注いでいる。
我が主を、あるいは無二の親友をどうにかしなければと、紅魔館に住む誰もがそう思っていた。当のレミリアにさえ、打ちひしがれてばかりではという危機感は存在するだろう。
例に洩れず、パチュリーもまた紅魔館に住むひとりとして、レミリアが悲しみから立ち直ることを切に祈っているのだった。
もちろん、祈るだけには留まらない。どうせ無駄足だろう、という己の気持ちを叱咤して、何度も何度もレミリアのもとへ足を運び、声をかけ続けた。返事はなかったが、それでも、パチュリーはレミリアの元へ向かうことをやめなかった。親友を、放棄しなかった。
『もう、放っておいて』
それが、パチュリーの半年間におけるたったひとつの成果だった。唯一の返事だった。見返りを求めていたわけではないにしろ、このように冷たく突き放されてしまっては、パチュリーもいたたまれなかった。同時に、自分にはどうしようもないのだと悟った。
治療法のわからぬ流行り病に立ち向かう医者はこんな気持ちなのだろうと、パチュリーは漠然とそう思った。
どれだけ周囲からの励ましがあろうと、それはあくまでもきっかけにすぎない。結局、最後に変わるのは自分なのだ。外野がなにを言おうが、本人にその気がなければ、激励の言葉も虚しく路傍の石と化す。きっかけさえ突っぱねたレミリアに、非力なパチュリーは為す術を知らなかった。
そうして、パチュリーは親友を諦めざるを得なかった。そんな自分が悔しくて、力になれない自分が歯痒くてどうしようもなかった。代わりに従者を向かわせ、確認せずともわかる様子を確認するなどということは、ただの自己満足の気休めにすぎない。
「どうすればいいの……? 私は、どうすれば? 教えて……咲夜」
言葉に出してから、己の過ちを悔いた。
その名前だけは口にするまいと、頑なに誓っていたはずなのに。彼女はもうここにはいない。それを受け入れて、強くなってもらうためにレミリアを励まして来たというのに。自分さえここまで弱いのだ。いわんや、他の誰かを変えようなどと。
「これだけの本に囲まれておきながら……友達ひとりまともに救う方法すら知らないのね、私は」
本当にだめね……と吐き捨てる。
「そ、そんなことありません!」
ひたすらに内罰的な思考を繰り返していたパチュリーのもとへ、割り込むように話しかけた少女の声があった。
「小悪魔……」
図書館の管理を任された名もない低級悪魔は、屋敷の者からそのように呼ばれている。腰まで伸びる艶やかな赤い長髪に、あどけなさの残る整った顔立ち。完成された人形のようなその容貌は、どこか人間離れした、あるいは非常に『悪魔的な』雰囲気を醸していた。
「たっ、確かに、パチュリー様ひとりではどうにもならなかったかもですけどっ! でもそれだけで諦めちゃうのは、早すぎると思いますっ!」
満を持して話しかけてきた、といった印象だった。その一挙手一投足に、ぎこちない緊張が感じられる。やや力み過ぎた様子でまくし立てる彼女の口調は、生来の生真面目さもあるのだろう。悪魔にしておくにはあまりにももったいない、勤勉な小悪魔だった。
対してパチュリーの表情は、お世辞にも明るいとは言えない。
「でも……私にどうしろと言うの? 私ひとりではだめだったと言うけれど、屋敷のみんなだってレミリアを励まそうとしていたのよ。美鈴もそう。フランだってそう。他の皆もそうよ。……そうして頑張って、なんとかしようとして、けれどなにも変えられなかった。あなたもそのひとりじゃないの?」
かつての努力は無駄だった。その事実は諦観となって、暗澹たる表情をパチュリーに与える。その経験は棘となって、希望を捨てられぬ小悪魔へと容赦なく突き刺さる。
しかし、彼女はたじろがない。
「……それで、いいんですか? 確かにレミリアお嬢様は立ち直れてないかもですけど……でも、まだ完全に立ち直れないと決まったわけではないじゃないですか。そんな簡単に諦めてしまって、パチュリー様はそれで……」
「簡単じゃ……ない」
「えっ?」
「簡単じゃない‼」
思わず、机を叩いて立ち上がっていた。振動に負け、積まれていた本が何冊か崩れる。
「散々悩んだわ……どうすればレミィを悲しみから救い出せるのかって。考えつく言葉は全てかけたけれど、思いつく方法は全て試したけれど……レミィは顔も上げてくれなかったわ……。私が簡単に諦めた……? 莫迦を言わないで頂戴。……私だって……納得出来ていないわ。諦めるなんてしたくなかった。でも、どうしたところでどうにもならないのであれば、なにもする意味はないじゃない……」
「多分…………多分ですけど、お嬢様も同じことを考えていると思います」
「‼」
その言葉に、パチュリーの全身が震えた。
「本当は変わりたい。このままでは咲夜さんにも合わせる顔がない。だから立ち直らなきゃって思って。でも、咲夜さんを失った悲しみは、どうしても消えてくれない。拭っても拭っても、涙はこみ上げてくる。だったら、いっそこのままでいい、って。お嬢様はそう考えているのではないでしょうか。そうだとしたら、今のパチュリー様は、とてもお嬢様に似ています」
「…………」
それはパチュリーにとって、額面以上に重圧を伴った言葉だった。
悲しみに打ちひしがれている者を、涙に打ちのめされている者を救おうと思うのならば、その当人が諦めていてなんになる。確かに上手くはいかなかった。しかしそれは泣き寝入りしていい理由にはならない。自分が大切だと思う者を棄てて、慰められる側へと逃げていい理由にはならない。
救えないことの定義とは。
あるいは、救わないことなのかもしれない。
「……お嬢様が目を背けたことから、私たちまで目を背けてしまったら、可能性は見えなくなってしまいます」
「…………そう……よね……でも、どうすれば……?」
単なる精神論でどうにかなれば、ここで悩む必要性はない。
レミリアを鼓舞する為の具体案を。
考える、必要があった。
「私にひとつの考えがあります」
衒いも誇張もなく、それでも確かな自信をもって、小悪魔は言い放った。
「頼るべき仲間は、まだいるんですよ。亡くなった咲夜さんもよく言っていたじゃないですか————」
そうして提示された小悪魔の案を、パチュリーは一も二もなく受け入れた。
頼るべくは内だけにあらず。
小悪魔の指摘があるまで、紅魔館にいる誰もが失念していたことだった。
3
「それで私の所に相談に来たってわけ? いやよ、そんなの。面倒くさい」
そう言われてしまっては、返す言葉もなかった。
慣れない畳敷きの床に、パチュリーの身体はそろそろ限界を迎えようとしていた。礼儀正しく折り畳んだ両脚には、尋常ならざる痺れが休みなく駆け巡っている。これぞ雷撃。まさに雷撃。
正直な話、一刻も早くこの姿勢を崩したいのだが、人と接する際の礼節作法というものは、例え異文化であっても先方の意向に沿うべきだ。それがものを頼む場合であるなら、尚更に。
それ程の苦痛を押してパチュリーが博麗神社にやって来たことには、やはりそれなりの理由がある。
「そう……言われることは、なんとなく予想出来ていたわ。でも、ここで諦めるわけにはいかないの。お願い。協力してもらえないかしら」
「とは言ってもね。確かにあんたんとこの吸血鬼の気持ちもわかるわよ。でも、かと言って、私がなんとかしようったってどうなるものでもないでしょうが」
湯呑みの緑茶をすすりながら、博麗の巫女はにべもなく答える。
身内で解決出来ないことを、身内以外の第三者に相談し、事態の解決を図る。
いわば、これは最終手段だった。パチュリーとしては、出来ればそのようなことはしたくなかったし、だからこそ内輪で丸く収めることに精一杯の努力を傾けてきた。
レミリアに、再び立ち上がってもらうために。
親友に、笑顔を取り戻してもらうために。
しかしながら、そのやり方では芳しい結果を得ることが出来なかった。そして、そこで停滞してしまった。それが間違いであると、まだ手だては残されていると、そう主張したのが小悪魔だった。
なにも、紅魔館の内だけには留まらない。その外にだって、頼れる仲間はたくさんいる、と。彼女の言い分は至極単純であり、だからこそ実行が難しかった。
そして、それを信じたからこそパチュリーはこの博麗神社に赴いたのだった。
病弱な身体を押して。
喘息に咳き込むのも構わず。
かつては手合わせをしたこともある博麗の巫女、幻想郷内でも特に顔の利く相談役、霊夢のもとへ、助けを請いに来たのだった。
しかして、得られた回答は、希望とは大きく外れたものとなってしまった。
この巫女がものぐさであることは、パチュリーも噂には聞いていた。曰く、異変というキーワードさえ絡めば即座に行動するが、それ以外に気乗りのすることがなければ、絶対に重い腰を上げないのだと。
「あんたんとこのメイドが亡くなったことに関しては、悲しいとは思うわ。同情もする。けどね、なんで私が遺族のアフターケアまでやってあげなければならないのかしら? そんなことで相談に来られてもね」
おそらくはその悲しみも同情も建前ではないのだろうが、霊夢の拒否する理由も正論だった。
しかし正直、ここまで冷たくあしらわれてしまうとは、パチュリーにも想像が出来なかった。せめてもう少し協力的であってくれるだろうと、それはただの希望的観測に過ぎなかったのかもしれない。
「……私たちだけでは、どうにも出来なかったのよ。せめて、なにか考えてくれるだけでもいいの。それ以降のことは、私たちでなんとかするから」
「だから、いやだって言っているじゃない。引きこもりのお守りだなんて、退屈な上に骨が折れそうで、ちっとも割に合わないわ」
どれだけ懇願しても、霊夢は首を縦に振らなかった。
しかし、それがなんだとばかりにパチュリーは引き下がらない。既に一度挫け、立ち直っていた彼女の心根は、多少の困難を弾き返せるほどに強かった。
畳に両手をついて、何度も何度も頭を下げた。口下手ながらに、友を救いたいという思いを、必死で訴えた。そうするしか、なかった。
ここまで来ると、霊夢も強情だった。自分のやりたくないことはやらない。それはある意味で、一本気であるとも言えた。
「もう帰ってもらえるかしら? どれだけ頼まれようと、答えは変わらないわよ」
親友の為だなんて、そんな厚かましい口上はもう聞きたくないわ——とは、流石に口に出さなかったが。
そこでパチュリーは、ようやく畳に伏せていた顔を上げた。
ようやく諦めたかと思った霊夢だったが、そうではなかった。
パチュリーは、真摯な目つきで告げる。
「……これは、私のワガママよ」
「!」
まるで心情を先読みしたかのようなパチュリーの物言いに、さしもの霊夢も面喰らった。
「レミィの為だとか、このままでは紅魔館が衰退してしまうとか、確かにそういう気持ちもあるわ。でも、私の行動理由は、そういう大義名分とは別にあるの。レミィからすれば迷惑かもしれなくたって、私がそうしたいからそうする。レミィを立ち直らせるのは、やるべきこと。それと同時に、私がやりたいことでもあるのよ。あなたには、それに付き合って欲しい。だから————」
もう一度、パチュリーは深々と頭を下げる。
「お願い。私の親友を救うのに、協力して」
「…………」
しばしは、呆れてものも言えないといった風情の霊夢だったが、やがて、
「お賽銭」
手短かに口走った。
「え?」
「お賽銭よ。ことが上手くいった暁には、うちのお賽銭箱に入り切らないぐらい、お金入れてもらうから」
「……じゃあ」
「行くわよほら。あんたんとこの吸血鬼、元気づけてやるんでしょ?」
「…………ありがとう」
「勘違いしないで欲しいわね。私はあんたのワガママに付き合うのが面白そうだからやってるだけよ。どうせ神社にいても暇だったから」
照れ隠しでもなんでもなく、本当にそう思っているような、快晴の空のようにからりとした霊夢の口ぶりだった。
「あっ……ちょっと待って」
「? どうしたのよ?」
「足が……」
パチュリーが両脚の痺れと共に獲得した、それは確かな進展だった。