一章 ~ セピア色の懐中時計
1
ノブを回し、簡素な木の扉を開けると、そこには様々な家具や生活雑貨が整然と並んでいた。
すっかり夜も更けていたが、窓から差し込む月光のおかげで、ランプの必要はなさそうだった。
室内へと歩を刻みながら、ゆっくりとその中を見渡していく。飾り気のないベッドに、同じ給仕服が何着もかかったクローゼット。年代物の机の上には、羽根ペンの刺さったインク壺が置かれていた。
全てがあの頃のままで。
時の止まった部屋は、ただ超然と待ち続けていた。部屋の主は七年前にここを出た切り、未だ帰って来る気配がない。それでも室内は清潔に保たれ、部屋のどこを見回しても、塵ひとつ埃ひとつ見受けられない。
いつ彼女が帰って来てもいいようにと、この部屋は毎日欠かさず使用人たちに掃除させている。拠り所のない幻想に裏打ちされたレミリアの意向には、しかし誰も口を出すことなどできない。屋敷の者は皆一様に、彼女と同じ悲しみを今なお共有し続けている。『いつまでも過去に囚われるな』などと、誰のどの口からそのようなことが言えようか。
「もうあなたは帰って来ないってわかってるのに、それでもここに来る足は止められないわ。っふ……だめだめね、私」
自らを嘲るように、レミリアは呟く。
別れを予期していなかったわけではない。レミリアは吸血鬼であり、咲夜は人間である以上、両者の間には如何ともしがたい寿命の差が存在してしまう。それでもレミリアは受け容れようと思っていた。いつかその時がやって来れば、最期はこの自分が看取ってやろう、と。咲夜を従者として召し抱えた時から、その決意は片時も揺らぐことはなかった。
しかし、現実に訪れた別れは唐突すぎるものだった。『訓練中の事故』と片付けてしまうにはあまりに惨たらしい死に様を以って、十六夜咲夜の短い生涯は幕を降ろされた。しかしながらそれは、事故として処理された。レミリアには未だにその結論が信じられなかったし、まして納得などもってのほかだった。
現場に誰かが訪れた痕跡はなかった。それよりもなによりも、レミリアや地下に幽閉されたフランドールを除けば、咲夜はこの屋敷の誰より強いのだ。故意に殺されたというのは有り得ないだろうし、考えたくもなかった。そのように思考していけば、自ずと残された可能性は絞られ、結論へと至る。
即ち事故死。
しかし、到底受け容れることは不可能。
消去法の末に辿り着いた帰結に意味などないようにレミリアは感じていた。彼女からすれば、あの惨劇の真実は永遠に闇の中なのだ。
できるのなら、ただ本当のことを知りたい。
しかしそれも、今となってはかなわない。
すっきりと割り切ることのできない死は、レミリアの心の内にわだかまって、今後永遠に彼女を苛み続けるだろう。そうして決別できない悔恨が、今日もまたこうして彼女をこの場所へと誘うのだった。
「少し借りるわね、咲夜」
そう言って、レミリアは窓際の机から椅子を引き、浅く腰掛ける。
四角い窓に切り取られた紅魔館の夜が、レミリアの眼前に広がっていた。夜風のゆりかごに抱かれ眠る草木たちが無常な芸術作品として額縁の中を彩る。
咲夜もこれと同じ景色を見ていたのだろうか。庭の緑が、月が、門が、様々に夜を演出するこの風景を。
「あなたが急に遠くへ行ってしまって、とても大変だったのよ。他のメイドたちだけでは仕事を切り回せなくてね。あなたがどれだけ人間離れしていたのかということを思い知らされたわ」
沈黙さえも、レミリアの言葉には応じない。それでよかった。これはあくまで独り言なのだから。
「ここからなら、門の様子もはっきり見えるわね。美鈴はあなたがいなくなってとても……あら?」
不自然にレミリアの言葉が途切れる。
窓の外、紅魔館を囲う鋼鉄の柵、及び門。そこにいるはずの美鈴が、なぜか今宵に限ってはいなかった。
「あら、噂をすれば美鈴がいないじゃない。仕事すっぽかしてどこに行っちゃったのかしらね」
「ここですよ」
声は背後から。振り向けば、部屋の入り口に立っていたのは他でもない、特徴的な赤毛を長く伸ばしたチャイナドレスの少女、紅美鈴だった。一瞬、驚きを見せるレミリアだったが、二回ほど瞬きをする内にその表情はやれやれといった風に緩んだ。「いつからいたのかしら?」と問いかける。
「今さっきですよ。門番サボって烏龍茶でも飲もうと思ったら、偶然ここを通りかかっただけです」
にっ、と元気印の快活な笑みを浮かべながら、美鈴は応える。
「嘘ばっかり」
苦笑混じりにレミリアが呟く。その指摘を、美鈴はあくまで否定しなかった。
「あはは、バレました? 実を言えばお嬢様がこの部屋に入った時から、ずっと見てましたよ。まあサボったってのは本当ですけど」
微笑みながら、美鈴もまた部屋の中へと足を踏み入れる。
「二人して勝手に入っちゃって……咲夜に怒られちゃうわね」
「あはは……ほんとですね」
綺麗に整えられたベッドにすとんと腰掛け、美鈴は枕元の時計を見やる。文字盤は午前三時を示していた。
「……咲夜が初めて紅魔館に来た時のこと、覚えてるかしら?」
「……お嬢様がいきなりあいつを連れてきた時は、驚きました。まだお嬢様と同じくらいの背丈で、こーんなにちっこくって、メイドというよりはお嬢様のお友達って感じでしたよね」
腕を胸の高さに示しながら、美鈴は懐かしむように目を細める。
「最初のうちこそよたよたしてて頼りなかったけど、それは本当に初めの内だけで、気がついたら家事全般は完璧にこなせるようになってましたよね」
「ええ、私の目に狂いはなかったわ」
窓の月を見上げながら、レミリアは誇らしげに語った。
「咲夜はあまり自分のことを話したがらなかったけれど、これだけは教えてくれたわ——」
一瞬の間をおいて、
「——彼女、小さい頃に両親を亡くした……正確には、殺されたらしいのよ」
「……!」
初耳だった。少なくとも美鈴にとっては、聞いたこともない情報だった。
「それも咲夜の目の前でね。誰に殺されたのか、なぜ殺されたのか。そういったことは遂に教えてくれなかったけれど、大変だったそうよ。肉親を同時に失って、それこそ泥水をすするような生活を送って、この幻想郷に流れ着いたんだって、咲夜はそうも言っていたわ」
「そう……だったんですか」
「そうよ。そして、だからこそ、咲夜は紅魔館にいる誰よりも優しかったの」
俯けていた顔を、はたと上げる美鈴。
「両親を失い、頼れる身寄りもなくて、そうして這いずるように生きていれば、辛いこと、苦しいこと、悲しいことなどそれこそ数えきれないほどにあったと思うわ。だからこそ咲夜は、人に優しくできた。心を抉られるような、ともすれば死んでしまいそうな悲しみを知っていたから、他人の為を思い、行動することができたのよ」
失う痛みを誰よりも理解していた咲夜。そしてその彼女は、別れの一言さえ告げずにこの世を去ってしまった。皮肉にしても、あまりに残酷な結末だった。
「そんな……ことって」
「言っても詮ないことだとはわかっていても、やはり私にはあの日のことが悔やまれてならないわ。なぜ咲夜は死ななければならなかったのか。それは必然だったのか。なにもわからない。わからない自分が歯痒くて、あれから七年経った今でも、こうして咲夜との思い出から離れることができないでいる」
「お嬢様……」
「……私はもう少しここにいるわ。美鈴、あなたはもう寝なさいな。たまにはゆっくり休むことも大切よ」
優しく門番を労わるその背中に、子供らしさや幼さといったものは全く存在しなかった。そこにはただ、悲しみを経て、大きく大人へと近づいた紅魔館の主の姿があった。
かける言葉は見つからなかった。あるいは咲夜なら……と思うも、すぐにその考えを振り払う。
「それでは、失礼します」
「おやすみなさい」
「あれほど休めと言ったのに。本当、あの実直さは誰に似たのかしら。……ねえ、咲夜」
窓枠の絵画には、赤毛の少女の姿が小さく描き足されていた。
2
どうやら咲夜の机に突っ伏したまま寝てしまっていたらしい。
重たい瞼を擦りながら窓の外を覗くと、既に彼方の空が白みかけていた。
レミリアは微笑んでいた。咲夜の夢を見た気がしたのだ。もうその記憶も曖昧だが、幸せに満たされた心がなによりの証明だった。それだけで充分だった。長い銀髪をかきあげ、一度大きく伸びをして、咲夜の部屋を後にしようと椅子から立ち上がる。
そこで、レミリアはふとあるものに目を留めた。
彼女の視線は、今まで自分が安らかな寝息を立てていた机に注がれている。厳密に言えば、ある一点に。仰々しい飾りもなければ、特筆するべき特徴もない木製家具。それでも、レミリアはなにとなくそれを引いた。
咲夜が亡くなって以来、レミリアは何度もここを訪れていたが、ついぞ机の引き出しを開けたことはなかった。もしかしたらそこになにか思い出の品があるのでは、とレミリアは踏んだのだった。
果たしてそこにあったのは、
「懐中時計……? これ、咲夜が持ち歩いていたものではないわね」
型は似ていたが、色と大きさが違った。咲夜の愛用していたものより一回りほど小さく、全体に真紅の塗装が施されている。流石にここまでは掃除の手も及んでいないのか、埃こそ被っていたものの、傷もなく、殆ど新品同様だった。
「新しいものに換えるつもりだった……?」
上蓋を開け、レミリアはその推測が間違いであったことを悟った。
蓋の裏には、美麗な字句でこう彫刻されていた。
『To Remillia
From Sakuya』
呆然としたまま、レミリアはしばし言葉も発せなかった。
「私の……ために……?」
引き出しの奥に仕舞われたまま遂に渡されることのなかった、咲夜からレミリアへの贈り物。
自然、時計を持つ手が震えた。取り落としそうになるのを、なんとか押し留める。
「でも、なぜ……?」
考えて、思い至った。
咲夜が死を遂げた三日後が、彼女の誕生日であることに。
そして同時に、レミリアの誕生日でもあることに。
『お嬢様の誕生日は、いつなのですか?』
生前の咲夜との会話を、レミリアは思い出していた。
『誕生日……? 興味ないわね。そんなのとっくの昔に忘れちゃったわ』
あの時機嫌が悪かった自分は、咲夜に対し素っ気ない言葉で返してしまったのを覚えている。
『それでは、お嬢様はいつお生まれになったのかわからないのですか?』
『そうね』
それでも、咲夜は明るい言葉で自分を喜ばせようとしてくれた。
『それなら、新しく決めましょう、誕生日を!』
『……新しく決める? 咲夜あなたなにを言って』
『わからないのなら、自分の好きなように決めてしまえばいいのです。そうですね……私と同じ誕生日なんてどうでしょうか? 二人でお揃いですわ』
『なにを言い出すかと思えば……はぁ、もう勝手にして頂戴』
「……こんなもの貰って、私が喜ぶとでも思ったのかしら?」
憤懣やる方ないといった風に、レミリアは短く息を吐く。
「吸血鬼は時間なんて気にしない。こんなものを持っていても邪魔なだけ。だから————」
きっと、咲夜にも届いている。
そう信じて、少女は言葉を紡ぐ。
「ありがとう、咲夜。ずっと、いつまでも、大切にするわ」
悲しくて。そしてそれ以上に、嬉しくて。
それでもレミリアは、涙を零さなかった。
真紅の時計を両手に包み、しっかりと抱きしめる。
咲夜の想いは、確かにここにあるのだから。
「ありがとう」
もう一度、小さく口中に呟く。両手にしかと握った咲夜の忘れ形見を見つめ……
そこで、発見した。
「……あら?」
時計を見つけた時には気づかなかった、黒い小箱のようなものが、引き出しの奥に収まっていた。
「これは……?」
傍らに時計を置き、小箱を手に取る。見たこともない怪しげな直方体の表面には、幾つかボタンのような突起がついていた。
「……?」
訝りながらも、そのうちのひとつを押してみる。途端、その小箱はノイズ混じりの不鮮明な声で喋り出した。
『……お嬢様……聞こえますか…………?』
「咲夜⁉」
間違いなかった。実に七年越しの咲夜の声に、レミリアの心臓が大きく波打つ。
「咲夜、どこから話しているの⁉ 聞こえたら返事をして! 咲夜‼」
『うふふ、驚きましたか? ……これは……声を残しておくことの出来る道具、だそうで……八雲紫様に……無理を言って……譲っていただきました』
ようやく、レミリアは状況を理解した。
おそらくは誕生日パーティーの余興として、自分を驚かせるために咲夜が仕込んだものなのだろう、と。
『まずはお嬢様……お誕生日おめでとうございます。……お嬢様がこの声を聞いていらっしゃる時は……多分私は席を外しているか……ともかく、そこにいないでしょう。……何回も、録り直し? ている内に気づいたのですが……残した自分の声を聞くというのは存外恥ずかしいもので……とても聞いていられるものではありませんから』
咲夜の言う通り、確かにここに彼女はいなかった。
しかしその『いない』は、あまりにも無情な『いない』だった。
『私の方からは……懐中時計を贈らせていただきますわ。時を操る能力を込めた……特別製の時計です……お気に召されたのなら、幸いですわ……』
「ええ、とても、とても気に入ったわ。咲夜」
やがて咲夜は、秘められた自分の過去から今に至るまでの思い出を、訥々と語り出した。
唯一の肉親であった両親を同時に亡くし、悲しみに打ちひしがれ、抜け殻のようになって、それでも死ぬことが出来ずに生きながらえながら、気づけば幻想入りしていたこと。そのままでいれば妖怪に食べられていたであろう自分を、レミリアが拾ってくれたこと。初めてレミリアに会った時、吸血鬼という存在に最初はとても恐怖していたこと。しかし紅魔館で家事を覚えながら暮らすうちに、それは勘違いだったと気づいたこと。皆と共に過ごす、笑顔の絶えなかった日々に、自分がこの上なく満たされていたこと。そして。
『絶望……していました……この世界に、希望などないのだと……思い続けていました……それでも…………紅魔館に暮らす方々の笑顔に触れて…………生きていれば…………こんなに楽しいこともあるんだと……自分は……生きていていいのだと……そう思うことが……出来ました…………』
話しているうちに感極まってしまったのか、咲夜の声は涙まじりだった。
なんだこれは。
これではまるで、別れの言葉ではないか。
「さく、や……」
思いながら、レミリアは涙を堪えるのに必死だった。
そして、言葉は紡がれてゆく。
『お嬢様、それに皆に出会うことが出来て、……思えば咲夜は、幻想郷の誰より幸せ者でした。……これからも……ずっといつまでも……末長く……よろしくお願いしますわ』
熱い滴が、溢れんばかりに視界を満たす。嗚咽が込み上げる。
堪えなければ。
堪えなければ。
もう、泣かないと決めたのだから。
『最後に……お嬢様。お嬢様はとてもわがままなように見えて……実は、とても堪え性なのを…………咲夜は知っていますわ。……我慢することなど、なにもないのですよ。悲しい時には泣いてもいいし、理不尽を感じれば……世間の目など気にせずに怒っていいのです』
まるで見透かされているかのように、諭されてしまった。
咲夜はなんでもお見通し。
「……咲夜。あなた、少し出来すぎよ」
レミリアの目から、一筋の涙が零れる。込み上げる想いは幾筋も幾筋も頬を伝い、ぱたぱたと床を濡らした。
『例え私が遠くに行ってしまっても……咲夜はいつだってお嬢様の幸せを祈っていますわ』
メッセージは、ここで締めくくられていた。後には、おしのように黙り込んだ黒い小箱がそこにあるのみ。
「う……ぅぅ……咲夜ぁ……」
涙は後から後から溢れてくる。どんなに背伸びしても、やはりこの従者の前では、自分は身も蓋もない子供を晒してしまうのだった。
昇る朝日が幻想郷を照らしても、レミリアはしばしその場を動くことが出来なかった。