惨劇 ~ Seven years ago.
何かが救われることに、理屈なんてないのかもしれない。
けれどそれと同じ位に、何かが失われるということは、理不尽だった。
1
冬場の幻想郷には、今日もまた、冷たい木枯らしが吹いていた。
厚い銀灰色の雲が蓋をするように空全体を包む様は、吹きつける冷たい北風も手伝って、冬将軍の到来を言外に告げていた。この分だと初雪も近いだろう。巨大な格子状の門脇にある椅子へ腰掛け、巻き直した毛糸のマフラーに顔を埋めながら、紅美鈴はそんなことを考えていた。
普段ならここから正面に見えるはずの湖も、今日は濃い霧に覆われて岸辺さえ拝めない。時折霧の中から飛んでくる氷塊は、遊び好きの妖精のものだろう。
こんな寒い日には誰も彼もが部屋の中で暖まっていたいだろうが、例えそんな日であっても門番の仕事に休息はない。美鈴の背後には赤レンガ造りの豪奢な屋敷が、周囲の針葉樹を従えるようにそびえている。紅魔館の安全を最前線で守るのは他でもない、自分の役割だ。館の住人、家族に等しい仲間たちに心安らかな宵を。明日の命運はこの手に委ねられている。それが紅美鈴の矜恃であり、また信頼を預けてくれた仲間たちへの誠意だった。
志を固め直し、美鈴は己の克己心に再び喝を入れる。
と、こうしていても、怠慢の波はあらゆる方向から美鈴を誘惑する。
あるいは、平和すぎるのかもしれない。こと最近の幻想郷においては、特に。
日頃の鍛錬は今も昔も欠かさないが、ごくまれに、そんな自分の在り方に疑問を抱いてしまうことがある。近頃の門番業務もけして忙しいとは言えず、たまにいたずらをする妖精を追い払うくらい。これではいくら鍛えたところで意味がない。積極的に事件の発生を望んでいるわけではないが、どうにも肩すかしのような感を覚えてしまうことは否めない。
「戦いたいなぁ……」
濃い霧にも似た曖昧な思考の海を美鈴はひとしきり彷徨うが、最終的にはその結論に逢着する。もとよりパチュリーのような知性派とは対極に位置する格闘少女、美鈴である。平和を慈しむことはできても、じっとしているより他にない自分は許せなかった。
「……だからって、いわれのない喧嘩を売るわけにもいかないし」
自分を存分に出し切って戦える、正当な理由が欲しかった。
粗暴な殴り合いに興じるのは、武術家の美鈴としては最も忌むべきことだ。まして自分の気晴らしの為に相手を痛めつけるなどということは、自分の良心が全力で抑止する。
解決策は浮かばなかった。ゆえに美鈴は、一向に解決の糸口が見つからない方法の模索を一時留保することにした。
考えても始まらない、とばかりに、美鈴は腰掛けていた椅子から立ち上がる。ついでに巻いていたマフラーもそこに放って、門を背に仁王立ちの姿勢を取る。こんな時には、修行だ。身体を動かせば、頭上に重く垂れ込める曇り空のような心も晴れてくれるだろう、と、美鈴はそう思ったのだった。
見えざる敵にこれでもかと拳を叩き込み、蹴りを見舞っていると、自然に汗が噴き出してきた。深いところで停滞していた心も、爽やかな運動に幾らか高揚してきたようだ。心なしか、空に晴れ間も覗いてきたような気がする。いよいよ波に乗った美鈴が拳の勢いに拍車を掛けて突き出したところで、
不意に、目の前の空間を人影が占有した。
「え? えっ⁉」
戸惑いの声は美鈴のものだ。突然の乱入者に、彼女は拳の勢いを殺せない。渾身の正拳突きが、突如として現れた人影の鳩尾に迫る。しかしながら正体不明の人影は、美鈴の右手を同じ右手で、いとも簡単に掴み取って見せた。
そこに立っていたのは誰あろう、
「会って早々攻撃なんて。荒っぽいわね、美鈴」
「さ、咲夜⁉」
万事に如才なき紅魔館のメイド長、十六夜咲夜だった。
「お嬢様がお呼びよ。庭で余興を行います」
端的に告げて、彼女は消えた。
「……あ~、心臓が止まるかと思った」
急に現れて、言うだけ言って消える。隙がないとはまさにこういうことを指すのだろう。
「でも余興って……もしかして、武術とか⁉」
思い至り、急速に元気を取り戻す美鈴。
門をくぐり、チャイナドレスを翻らせて、少女は主のもとへ急ぐのだった。
2
後ろ手にドアを閉め、部屋の中央に置かれた大きめのソファに身を沈めると、退屈な心は少しだけこのソファが肩代わりしてくれるような気がした。
「うー……」
だらしなくソファに顔を埋め、吸血鬼の少女は呻き声を洩らす。
気晴らしになるかと思って開いた余興だったが、ああも簡単に終わってしまってはむしろ興ざめだ。せっかく永遠亭から珍しい屏風を借り受け、虎を呼び出したというのに、美鈴はただの一撃で猛獣を元の屏風へとんぼ返りさせてしまった。これでは時間の無駄とさえ言える。
いつもなら絶えず側に控えている咲夜も、「投げナイフの訓練がありますので」と言ってどこかへ行ってしまった。時折屋敷の外から金属音のようなものが聞こえてくる。代わりのメイドもちゃんと部屋の外に控えているので、問題はない。自分が大いに暇であるということを除けば、懸念はどこにも存在しないのだった。
「うー、たいくつー……。咲夜にスコーン焼いて貰って、紅茶にでもしようかしら……? でももうすぐ食事だって言って、」
多分咲夜は許してくれないだろうし……。
吸血鬼であるレミリアにさえ、咲夜は人間の生活習慣を守らせようとするのだった。レミリアからすれば、それは邪魔っ気で仕方がない。
「うーん、咲夜……咲夜? あ、そういえば咲夜の部屋って」
紅魔館の主でありながら、レミリアは未だに咲夜の部屋に入ったことがなかった。
レミリアの口元に、邪悪な笑みが広がる。
幸いにも、現在咲夜は投げナイフの鍛錬に勤しんでいる。この隙を突いて彼女の部屋にこっそり侵入。さぞかし面白そうな計画だった。
「ふふ、そうと決まれば」
子供のような好奇心で、レミリアは私室を後にする。ドアを開けたところでメイドとかち合ったが、「ついてくるな」とだけ言い置いて、絨毯張りの廊下をずんずんと歩いていく。
目的の部屋はすぐに見つかった。装飾の施されていない簡素な木のドアは、まさに従者の部屋といった風情だ。
「さ、さすがに緊張するわね」
期待と緊張に薄い胸を高鳴らせながら、汗ばんだ手でドアノブを握り……
一気に押し開け————
生々しい音が聞こえた。
おそらくは外から。
熟れたトマトを踏み潰せば、こんな音が出るだろうか。
なぜだろう、心が落ち着かない。今までに覚えたことのない感覚。それが胸騒ぎなのだと、今のレミリアには分からない。
「裏庭……?」
確かにそちらから聞こえた。ついと背後の窓際を振り返り、そこでレミリアは気付く。
金属音が止んでいる。
おそらくは杞憂だ。思い過ごしだ。心配症だ。そう思いながらも、レミリアは急ぐ足を止められない。いつしか彼女は、自身がそうと気付かぬままに、走り出していた。
音が聞こえなくなったのは、咲夜が訓練を終わらせただけ。さっきのおかしな音はただの空耳か、咲夜が偶然トマトを踏んじゃった音。そうに違いない。
「咲夜ぁ‼」
叫んでいた。すれ違うメイドに奇異の目を向けられているとも知らず、レミリアはひた走る。半ば転げ落ちるようにホールの階段を駆け降り、その先にある大扉を開いて外へ。雲間に見え隠れする太陽が肌を焼くのも構わずに、レミリアは綺麗に刈り揃えられた植え込みの間を、館に沿って裏手へ回る。
裏庭に面した角を曲がり、果たして十六夜咲夜は、数メートル向こうの壁際に立っていた。いち早く異変を察知した美鈴が、側に居合わせているようだが、どうやら二人揃って同じ勘違いをしていたようだ。レミリアはほっと胸を撫で下ろす。咲夜との距離を縮めていく。
「…………よかった、さく」
や、と言いかけ、立ち止まる。
足下に。
足下に、血が流れている理由を説明できなかった。それも水溜まりのように、まだ固まってすらいない鮮血が、裏庭の芝生にどろりと広がっている。
「え、さく、や……?」
流れを辿った先に在るものはなんなのか。レミリアは血痕を目で辿る。
その先には。
「……?」
咄嗟にその顔を美鈴が右手で覆うが、遅すぎた。むしろその動作によって、今目にしたものが見間違いではないことを証明されてしまった気さえ、レミリアにはしていた。
「嘘……うそ、ウソ、嘘でしょう……?」
そっと、美鈴の手をどけ、レミリアは壁にもたれるように立つ咲夜と正面から相対する。その瞬間、レミリアは全てを目にした。
主に向けられたのは、光彩を失った虚ろな両の瞳。
額には、彼女自身が愛用していた大振りの銀ナイフが深々と突き刺さり、貫通してそのまま彼女の身体を壁に縫い止めていた。力なく胴体にぶら下がる手足が、木枯らしに吹かれて濡れ雑巾のように弱々しくなびく。
「……そ…………ぅ……そ………」
立ち尽くしたまま、レミリアは小刻みに震える人形のように、しばらくは人事不省に陥っていた。時折紡がれる言葉ともつかない声が、わずかに彼女の生を認識させる。
「冗談……よね……?」
ようやく、絞り出すように言葉を放つレミリア。
「それに、したって……タチが悪すぎるけれど…………ねえ、咲夜……? 私はもう充分驚いたわ。……もうよいのではなくて?」
虚ろな従者は答えない。
と、その身体が前屈みに動いた。
壁のナイフが抜けたのだ。
そのまま自重に任せ、咲夜の身体が血溜まりに崩れ落ちてゆく。美鈴がこれを抱きとめようとするも、やはり遅かった。
為す術なく咲夜の頭が、身体が水溜まりに沈む。その際に額を地面に打ちつけ、突き出たナイフの柄が無理矢理に押し込まれた。
ぶじゅり、という音と共に、元々飛び出ていた後頭部の切っ先が、押し込まれさらに飛び出す。
「いやああああああああ‼‼」
レミリアが叫ぶ。そのあまりな有り様に、美鈴も目を背けた。
死を孕んで広がり続ける血溜まりに、ひとひらの雪が舞い落ちる。清らかなその結晶は、鮮やかな紅と交わって、消えた。
確認の必要はない。それほどに、凄絶な最期だったから。
——十六夜咲夜は、絶命していた。