5. “かのじょ”
あれから竜之介は和泉の家に入り浸っている。
初めて泊まった次の日、2LDKの狭い家に服と必要最低限のものを持ち込んでしっかりと自分の居場所を作り上げた。
すぐに飽きて出て行くだろうと踏んでいた和泉は、買い物についてきた竜之介が自分用の箸と茶碗を持っていた買い物籠に突っ込んできた時にはさすがに驚いてしまった。
旦那になってやると言った言葉通り、陽向に暴力を奮うことは全くない。
チビだのガキだの、少し口の悪いところでさえどこか柔らかい。自分から陽向を抱き上げてやったりもするし、怒るときは怒る。
和泉に対しても、陽向の見ているときには絶対に暴力を奮わなくなった。陽向が見ていなくても、殴ってくる手は以前と比べて格段に手加減しているのがわかるほどだ。
一応大学生であるらしい竜之介は、真面目に大学へ通っている。どうやら和泉の家から近いらしい。
大学が終われば、和泉よりも先に陽向を迎えに行ってくれることもある。
家でもたまに、陽向を膝に乗せながら教本らしきものを読んでいた。
眠るときは、ダブルベッドに三人で眠る。
川の字ではないけれど、陽向、和泉、竜之介の順番で横になり、陽向が眠りに落ちれば竜之介は和泉を腕に抱きこんで眠りについた。
そのたびに痩せすぎだの髪がうざいだの文句を言う。しかし和泉を抱いた腕は離そうとしなかった。
和泉も最初は困惑していたが気まぐれな奴だしと諦めて、今では自分から腕の中へ潜り込んだりしている。
竜之介は何も言わないし聞いてこない。
陽向の父親は誰なのか、なぜ和泉が一人で育てているのか、あの夜の涙の理由は。
聞かれるだろうと構えていたので少し拍子抜けしているくらいだ。
竜之介の存在は、和泉にとってすごく有難かった。
このまま三人で、ずっと一緒にいられればいいと思うくらいに。
そんなこと、できるはずがなかったのに。
ある日の夕方。和泉がせっせとブーケを作っている傍らで大学が早く終わったのか竜之介が気怠げに教本に目を落としていると来客があった。
「あれ竜之介? 何でここにいるの?」
そう言って店に入ってきた、穏やかな表情が印象的な青年。柔らかい薄茶の猫っ毛が歩く度にふわふわ上下する。
和泉の元同級生であり。
「……兄貴」
竜之介の兄、しいなだった。
和泉が手を止めるとにっこりと優しく微笑んだしいなは持っていた小さな袋を和泉に差し出した。
「久しぶり佐野くん。元気?」
「久しぶりっちゅーほど日開いてないやろ、前会ったときから」
楽しそうにくすくす笑いながら袋を受けとる。中身を確認して、ほっとしたように息をついた。
入っているのは睡眠薬。この間も見た夢を何度も何度も見てしまい、寝付きが悪く眠りも浅い、そのため睡眠時間が短くなってしまう和泉のために、薬剤師の卵であり同級生だったよしみでしいなに格安で処方してもらっていた。
「ねえ竜之介、何でここにいるの?」
不思議そうに首を傾げるしいなを竜之介は無言で睨みつける。威圧感のある視線にたじろぐこともなく、しいなは肩をすくめた。
「兄さんがすっごい探してたよ。こんなところにいたのは気づかなかったなあ。二人とも知り合いだったんだね」
「テメーこそ何でここにいる」
「僕は佐野くんの元同級生だし。それにしても、どうして家出なんかしたのさ?」
しいなの言葉に、竜之介は舌打ちをし、和泉はぽかんと竜之介を見つめた。二人の様子に、何かおかしなことでも言ったかとしいなが首を傾げる。
「どーゆー事? アンタ家出しとったん? 行くとこあらへんからうちにおったわけ?」
「テメーは黙ってろ」
「何やねんその言い方!!」
「まあまあ。とりあえず竜之介、美希ちゃんには連絡しといてあげなよ。彼女なんだしさ」
ね、と幼い子どもに言い聞かすようにしいなは苦笑する。人の話を全く聞かない竜之介に文句を言っていた和泉がふいに口を閉じた。
ああ、やはり竜之介には付き合っている女の子がいるのか。
そう思いながら和泉は二人に背を向けて、近くに置いてあったじょうろを手に取り、店の外へ出る。じょうろに水を入れて、店の外に並べている花たちにのんびりと水をかけていく。
じくじくと胸が痛い。
胸を力任せに押さえ込まれているかのように呼吸が苦しい。
じょうろを持つ手が震えた。
体はこんなにも動揺しているのに、頭は狂っているのかと思うほど冷静だった。
少しの間側にいただけなのに、昔に戻ったように竜之介への思いがぶり返していた。
三人一緒にいることがすごく幸せだと思った。
けれどそれはもう終わりだ。
竜之介がこの店に来て和泉と再会したのも、きっと彼女へ花でも贈ろうと思ったから。そこにたまたま和泉がいて、その後二人が喧嘩だか何だかをして、家を出た竜之介は行く宛がなかったから昔の女と遊んだ。きっとそんなところだろう。
それをわかっていながらも、竜之介が昔と違って優しかったから。
期待してしまった和泉が悪いのだ。
「ごめんね佐野くん、弟がお邪魔してたみたいで」
帰るのか、店から出てきたしいなが声をかけてくる。和泉は一瞬歯を噛みしめ、にっこりと営業で培った笑顔で顔を上げた。
「ほんまやで。彼女がおるんならうちんとこ来たら誤解されるのになあ」
「……そうだね。ねえ佐野くん、」
ふいにしいなが言葉をきる。心の中まで覗くような真摯な瞳に見つめられて、和泉は思わず笑顔を消した。
きゅっと唇を噛んで、しいなの視線から逃れる。
その先にいたのは竜之介。いつもの怠そうな顔で和泉を見ていた。
鋭いエメラルドと視線が重なる。
しかしそれは一瞬で。
言葉もなく隣を通り過ぎ人混みへ消える竜之介を、和泉はただ黙って見つめることしかできなかった。