4. 夢の頃をすぎても
気がつくと、周囲は闇に包まれていた。
どこを見ても、闇。
腕を持ち上げて視線を落としても、自分の腕の形すらわからない。それほどの闇。
『いずみちゃん』
微かな、けれど決して忘れることのない声が響く。
ああまたか、と頭の片隅では、この声が今まで何度も頭に響いていた事や、これが夢である事に気いていたけれど、心はまるでついていけず、胸がじわじわと不安で押しつぶされそうになる。
『いずみちゃん。わたし、すごく幸せよ』
その声は心から溢れ出る幸福感に包まれていて、和泉を一層不安にさせた。
どくどくと、心臓がいやに早く鼓動を刻む。
『わたしは消えてしまうけど、この子にはわたしの話、たくさん聞かせてあげてね。いずみちゃんと……あの人のそばにはいられないけど、それでもわたしは幸せ』
ありがとう、そう呟いて微笑んだ彼女は泣いていた。
いやだ、これ以上見たくない。
そう思うけれど、脳裏に焼きついた悲劇が今回もまた繰り返される。
『今あいつ呼んだから! もうちょっと頑張り陽菜【ひな】!!』
そう叫んだ自分の声が遠い。
縋るように握りしめた白い手がまだ温かいことに、涙を堪えられなかった。
『会えなくてもいいの。だってずっと一緒にいてくれたんだから。最後にいずみちゃんの顔が見れてよかった』
だいすきよ、目を閉じ微かに微笑んだ彼女は――。
「…………っ!!」
勢いよく体を起こすとこちらも闇に包まれていた。
一瞬先ほどの続きかと体を強張らせたが、窓から漏れる月の光に、目覚めたのだと気づく。
全力疾走をしたときのように息は荒く鼓動も早い。
ぼろぼろと溢れる涙。胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感に全身が震える。
両腕で自分を抱き締めて、強く目を閉じた。怖くて怖くてたまらなかった。
きい。扉の開く小さな音にびくりと体がはねた。
怯えた目で扉に視線をうつせば、リビングで寝ていたはずの竜之介が気怠そうに開けた扉にもたれ掛かっていた。
こくりと息を飲んで視線を外す。
ああ、そういえば泊まっているんだった。ぼんやりそう考えながら俯いてとまらない涙をそのままに目を閉じれば、ぎしりとベッドがきしんだ。
「……おい」
近い声に、竜之介がこちらにやってきたのだと気づく。
突然乱暴にぐいっと腕を後ろへ引かれ、勢いよくベッドに倒れ込んだ。ばふんと頭を枕に埋められてきょとんと目を瞬くと、なぜか竜之介が和泉の左側に寝転ぶ。
「ちょ、アンタはあっちで寝てや!」
さっさと布団をかぶって目を閉じる竜之介に、慌てて小声で抗議する。
旦那になると宣言した竜之介が自分の家に帰ろうとしないので仕方なくリビングへ布団を敷いてやったのに。その時彼も特に文句も言わず、大人しく横になっていたというのに、なぜいきなり。
ちらりと右側を見ると陽向が心地よさそうに寝息をたてていた。
起こしていないことに安心して竜之介を睨むと、開けられた片目のエメラルドに捕らえられる。無言で見つめられて、思わず和泉も口を閉ざした。
竜之介の真意がわからないまま見つめていると、ふいに肩を引き寄せられる。
「あんな固え布団で寝れるか」
こつんと額がぶつかったのは、竜之介の胸。
腰にまわった腕がくびれを辿るように撫で、体が小さくはねた。そういうつもりなのか、隣で陽向が眠っているのに!
抗議しようと慌てて顔をあげるけれど、耳元で小さく舌打ちをされた。
「細えな。ちゃんとメシ食ってんのか」
言いながらぐっと腰を引き寄せられて竜之介の体にぴったりとくっついた。先ほど腰を撫でた腕は大人しくそこに納まっている。とくとくと鼓動が伝わってきて、知らず深いため息をつく。
強く、けれど落ち着いた鼓動に、じわじわと体の力が抜けていく。
すん、と鼻を鳴らせば、竜之介の指がぶっきらぼうに和泉の髪に絡まった。会わない間に伸びた髪を、まるで確かめるかのように梳いていくごつい指。
さらさらと微かに届く髪の音を聞きながら、どうして竜之介は和泉達が眠っているこっちの寝室へ来たのだろうとぼんやり思う。
布団が固かった、というのが理由なら、竜之介の性格上、和泉をベッドから叩き落してベッドを我が物とするはずだ。さすがに陽向はベッドで寝かせてくれると思うが。
けれど竜之介はそれをせず、なぜか和泉を抱いて三人でベッドで横になっている。こんなこと、高校のときの最初の一度だけしかしてもらったことはなかった。竜之介に抱きしめられたことなんて、一番最初にベッドを共にしたときだけだった。
和泉の気持ちなんて考えようとしない、体だけの関係。一人で盛って一人で満足していた。行為が終わると和泉を放ってさっさと部屋を後にしていたのに、一体どうしたのだろう。五年経って、やはり竜之介も大人になったのだろうか。
ぼんやりと考えながらも、和泉は身動きせず竜之介の腕に抱かれていた。抱かれる腕の強さと心地良い体温に、泣き疲れた体はゆっくりと夢の中へ誘われる。
そっと目を閉じると髪を梳いていた指が頭を撫でるような動きになる。促されるように、一気に睡魔が押し寄せる。
意識が落ちる寸前、額に柔らかいものが触れた気がした。
涙がいつ止まっていたのか、和泉にはわからなかった。