3. 家族ごっこ
勢い良く殴られた頭を抱えて蹲る。
(今がつんっつったで、がつんって)
声も出せず、痛みで潤んだ瞳を細めて睨むように見上げると、怒りに染まったエメラルドに射抜かれた。怒りの空気を纏い、けれどこれ以上手を出す様子のない竜之介に、和泉は軽く目を見開く。
以前ならば、気に入らないことがあれば彼の気が済むまで暴力を奮っていたというのに。彼も大人になったということだろうか。
「俺から逃げたっつー事は相手は俺じゃねえな。ハッ、消えたと思ったら孕まされたか。このあばずれがッ!」
確信を持って吐き捨てたれた言葉にむっと顔を歪める。
あばずれとは何だ。そこまで侮辱される覚えはない。
和泉はゆっくりと立ち上がり、服についた埃を払う。鋭く竜之介を睨みつけて口を開いた。
「黙って聞いとったら好き勝手言うてくれるやん。うちがあばずれやったらアンタは何や、盛りのついた猿か? 毎度毎度違う女連れてよろしくやっといて、うちがあばずれやて? 自分の事棚に上げすぎやろ。ちゅーかそもそも、うちはアソビの内の一人やろ? 彼氏でもあらへんのに口出しせんといて」
和泉は竜之介にとって、ただの遊び相手にすぎない。体しか求められなかったのだから当然だ。けれど和泉は、そんな男を好きになってしまった。
苦しかった日々を思い出して、和泉は小さく息をつく。この想いを告げるつもりはさらさらないけれど、どうせ去るなら早く和泉の元から去ってほしい。想いがぶり返さないように。
言うだけ言って背を向ければ、ふいに腕をとられて立ち止まる。
殴られる、と思って歯を食いしばって構えるけれど、手が飛んでくる様子はない。
そっと目を開けると、面白そうに口元を引き上げた竜之介が和泉を覗き込んでいた。
「何だ、テメー俺の女になりたかったのか?」
「……っ、はぁあ!!? ちょ、さっきの流れでそう受けとるか普通!?」
「俺が相手にしねえから他の奴んとこ行ったんだろ? そこまで俺を好きだったとはな。ハッ、そんなテメーに免じて仕方ねえから俺の女にしてやる」
「ちょお待てやあああ! 誰が、誰に、んな事言うた!!? アンタ、人とコミュニケーション取れんのかいな!?」
「あーあーそんな嬉しがるんじゃねえよ、言っとくが仕方なくだからな。仕方なく」
「ちょお、…………ああせや、もし仮に、万が一、億が一、うちがアンタを好きやったとしても、アンタはうちの事なんか好きやないやろ? せやったらアンタに悪いし、この話は無かったことに、」
「愛してるぜ」
「せやろ、愛……。あい…………? ちょ、今何て言うた?」
「るせえ、もう二度と言うか。つー事だ、今から俺はテメーの旦那だ。仕方ねえからテメーのガキも一緒に育ててやる。仕方なくな」
「……もう好きにしたらええわ…………」
がっくりと項垂れて諦める和泉。竜之介はこうと決めたら絶対に引かない。
放っておこう。和泉は深いため息をついた。
久しぶりに見つけたアソビの女をからかっているだけなのだ、気にするだけ無駄だ。とりあえず怒りが治まった事だけに安堵した。
「ねえママ。この人だあれ?」
自称旦那は家にまで上がり込むつもりらしく、幼稚園にまでついてきた。
がたいが良く悪人顔で、いかにも悪さをしていますといった風貌の竜之介は、言わずもがな周囲から浮いていた。
帰り支度をした陽向が和泉を見つけて走り寄り、和泉の隣へ当たり前のように寄り添う竜之介を見て不思議そうに首を傾げた。
竜之介は子どもの前であるのににこりともせず憮然とした顔で一言、お前の父親だと呟く。
陽向が確認するように和泉を見上げると、和泉は諦めたように笑っていた。けれど少しだけ嬉しそうにしているのを敏感に感じ取って、陽向も嬉しそうに笑う。
「ひなのパパ、すてきね!」
小さな手が竜之介の大きな手をきゅっと握って陽向が微笑むと、竜之介は一瞬驚いたように目を見張り、それから微かに口元を緩ませた。それを視界にとらえた和泉も驚き、つられたように小さく笑う。
二人が笑ったのを見て、陽向も幸せそうに微笑んだ。
「今日の夕飯何にしよーか?」
「肉」
「アンタに聞いてへん。陽向、何がええ?」
「お肉!」
「ほんなら今日は肉やね。野菜も食べなあかんよー?」
「野菜はいらねえ。肉買え肉」
「アンタは子どもか!!」
三人で手を繋いで、家まで帰る。娘ができてから今までで一番楽しい時間だと、和泉は束の間の“家族ごっこ”を幸せだと感じた。
きっとすぐに飽きて消えてしまうだろう竜之介が、気まぐれだとしても隣に立っているだけで心が少しだけ温かくなった気がした。