別れは溜め息混じりの紫煙と共に……
「ふぅ~……」
吐き出された煙草の煙には幾分かの疲れも含まれている。
隣でスヤスヤ寝ている男を見る。
自分より7つも若いその顔は可愛らしくもあり、そしてちょっと憎らしい。
新人に仕事を教えるため、一緒に外回りをした後、軽く酒を飲み……そのまま……
「何やってんだろ私……」
髪をかきあげる左手の薬指には銀色のリングが光っていた。
彼と出会ったのは12年前。
お互いまだまだ初々しい高校生だった頃だ。
同じ美術部員だったのが出会い。
私は絵を描くのは好きだったけど、それほど上手くはなかった。
彼は、私よりもちょっぴり上手かった。
そして私は彼の絵がなんとなく好きだった。
優しくて……どこかぼんやりしていて……暖かい。
好きになるのにそんなに時間はかからなかった。
私から告白して、付き合い始めた。
彼はおっとりしていて、のんびりしていて、ゆっくりしている。
私はそんな彼の生きるペースが好きだ。
彼と居るのはとても居心地がよくて、ずっと甘えて、わがまま言って、彼の肩に乗っかってきた。
大学を卒業すると同時に結婚した。
でも、共働きを選んだ。私は営業の仕事。彼はデザイン関係の仕事。
子供もまだいなかったし、家庭に入って専業主婦するのがなんとなく嫌だったからだ。
3年経って子供が生まれた。
でも私は家庭に入るつもりはなかった。
仕事が楽しかったし、やりがいがあったからだ。
成績も良くて、任される仕事も増えた。
「仕事を辞めたくない」
私は正直に彼に打ち明けた。
彼は笑って
「なら僕が辞めるさ。この子のことは僕に任せて」
罪悪感はあった。
だけどそれ以上に安堵感があった。
「ありがと」
「君がノビノビ生きているのを見ているのが、僕は好きだから」
幸せだった。
いつからだろう……煙草を吸い始めたのは
いつからだろう……彼の歩く速度に時折イラついてしまうようになったのは……
いつからだろう、彼の笑顔に責められているような感覚を覚えるようになったのは……
たゆたう煙を見つめながら、ぼんやりそんなことを考えていると……
「んあ?」
と間抜けな声が横から聞こえた。
モゾモゾと身体を動かせた後、私に気づく
「あ……先輩、もう起きてたんですか?」
そろそろ始発が動き出す時間だ。
私もいつもは二度寝を決め込む時間だけど、今日はなんだか眠れなかった。
「おはよう。私はシャワーを浴びたら会社に行くけど、あなたはどうする?」
眠気まなこでこちらをジーッと見ていた後輩は、突然「はぁ~」と溜め息を吐き
「俺もそうします。シャワーお先にどうぞ」
今の溜め息の意味を考えないようにし
「んじゃお先に」
そう言い残し私はベッドから抜け出した。
お互い無言で準備を済ませ、あとは出るだけとなった。
ただ、出る前に済ませなきゃならないことがある。
「清水君……昨日のことは……」
申し訳なさを視線に織り込み、そう切り出す。
「はい、わかってます」
口を引き結び、何かを無理矢理飲み込むような……そんな表情で答える後輩。
罪悪感が沸き上がる……
「ごめん……」
そう言うしかなかった。
このことで家庭を壊す覚悟なんて私にはなかった。
一回限りの過ち。なるべく早く忘れよう。
今日は必ずウチに帰る。
何かおみあげを買って帰ろう。そして彼にいつもありがとうって伝えよう。
そうして日常に戻ろう。
そんな風に心で決めて、ホテルの出口から一歩踏み出した。
「あれ、綾さん?」
いつもの優しい声音に驚きが混じっていた。
それはそうだろう。自分の妻が知らない男とホテルから出てきているのだ。
頭のどこかでそんな声がしたが、すぐに消え去り。
代わりに混乱の嵐が吹き荒れる。
ゆっくりと声のした方に身体を向けると……
「わ、わたる?」
声が震えて、掠れた。
目の前の彼は呆然としてそこに立っていた。
私は何をどう言おうか全然定まらず、それでも何か言わなくてはと思い、口を開いた……が
彼は首を横に振り、それを遮った。
そして困ったような、諦めたような、そんな儚い笑顔を私に向け、クルリと踵を反してそのまま歩き始めた。
「呼び止めなきゃ」
そう思っても喉がひりつき声が出ない。
頭では追いかけなきゃならないのがわかっていた。でも足が動かなかった。
あんな笑顔は初めてだった。
あんなに哀しそうな彼は……初めてだった。
彼を……失うかもしれない……
恐怖が胸に渦巻いた。
彼がいなくなる?私の前から?
そんなこと……考えもしなかった。
そんな風景に耐えられる自分を想像できなかった。
どうしよう……どうしよう……
「先輩!」
後ろから肩を掴まれる
「えっ?」
振り向くとそこには心配そうな後輩の顔があった。
「追いかけなくていいんですか?今の旦那さんですよね?僕も一緒に謝ります」
こんがらがる思考に少しの冷静さが戻る。
「え……いや……ううん。大丈夫。ごめん、今日は会社休むから。あとお願い。本当にごめん」
そう言って走り始める。彼の背中に追い付くために
「はぁ……はぁ……はぁ……」
転びそうに何度かなりながら全力で走る。
街は閑散としていて、歩く彼を見つけるのは簡単だった。
「わたる!!」
ビクッと背中を揺らし、こちらに振り返る彼はとても驚いた表情でこちらを見た。
彼のとこまで息を整えながら歩いて行く。
すぐ前まで着き、目を見つめながら
「ごめんなさい」
そう告げるしかなかった。
「自分でも、なんでああいうことになったのか正直わからないの……でも……あなたを裏切るつもりなんてなかった……本当に……ごめんなさい」
彼を失いたくない……
その想いをどうにか伝えたいのに……どう言葉にしていいのかがわからない。
私は俯き、滲む涙を手で拭う。
「あなたを失いたくない。勝手なこと言ってるのはわかってる……でももう、絶対にあなたを裏切るようなことはしない……だから許して……」
拭っても拭っても涙が溢れてくる。
私は……なんで……
「わかってるよ」
「……え?」
いつもの優しい声音に思わず顔を上げる。
「綾さんが最近とても疲れていたことも、何かに行き詰まっているようだったのも……僕に後ろめたさを感じていることも」
「……」
「ごめんね」
「え?」
「僕は綾さんの隣を歩くには少し役不足なのかもしれない。今日だって、何か出来ないか考えてようやく考えついたのがコレ」
彼が持っていた紙袋を胸の辺りまで持ち上げる。
「お弁当と着替え。僕にはこれぐらいが精一杯だった」
胸が締め付けられるように痛み……涙が再び溢れてくる。
「ごめん……ホントにごめん」
「ううん、確かに驚いたけどね。でも仕方がないかなともちょっと思うんだ」
「そんなことないよ……私がホントにバカだった……役不足なんかじゃないよ……私にはあなたが必要なの……」
「別れないよ」
「……え?」
傷ついた心で彼はなお、優しく微笑み言葉を紡ぐ。
「約束したじゃないか。どんなことがあっても、最後まで一緒に居るって。良い時も悪い時も……僕達はもう家族なんだから」
私は彼の胸で泣き。そして会社を辞めた。
辞める時に後輩にもう一度謝った時、向けられた笑顔が彼のソレに少し似ていて……自分の最低さに目を背けそうになった。
だけど……許されるはずがないから。
目だけは逸らさず「さよなら」と伝えた。
そして、彼は約束してくれたとおり“最後まで”私と一緒に歩んでくれた。
「ありがとう。僕と出逢ってくれて」
少し小さいが、いつもの優しい声音で、微笑みながらそう言う彼。
“その時”がゆるやかに近づいてきている。
彼の左手を握る力が強くなる。
でも決して泣かないと決めている。
「私こそ、ありがとう。ずっとあなたを愛しているわ」
「ふふ……ありがとう。あぁ……でも少し心配だな……君は、とても寂しがりやだから……。僕のことなんか気にせず、愛する人が出来たら、その人と添い遂げてね?」
はぁ……この人は……全く……
込み上げる涙と少しの怒りを必死で抑える。
「バカ……こんなおばあちゃんに何言ってんのよ。娘も孫もいるんだから、全然寂しくなんかないわよ。それに……すぐに私もそっちに行くわ。それまで待ってて?」
「そうかなぁ……ふふ……そうかもねぇ……」
微笑みながら静かそう言い……瞼を閉じる彼
「ゆっくりおいで?ゆっくり……待ってるから……」
そうして彼は眠った。
彼を送りだし、色々とバタバタしたが、やっと落ち着いて座ることができた。
そしてなんとなく買ってきてしまった煙草に50年ぶりに火を着ける。
「スゥ……ふぅ~~」
彼と歩んだ幸せな日々が一綴りの詩歌のように私の中で蘇る。
視界が揺らめき……ずっと我慢していた涙が零れる。
「あなたが居ないと……やっぱり寂しいよ……」
別れの寂しさを言葉に乗せて、煙と一緒に吐き出す。
漂う紫煙が言葉と共に上っていく。
彼に届かないかな。
そんなくだらないことを考えて少しだけ口元が緩んだ。
恋愛モノを書いてみたくて……
これからも日々精進しかないことを嫌というほど思いしらされました。