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喫茶ダイ

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/06

第一章 温かいスープのある場所

「いらっしゃいませ」


 俺──吉岡理人は、できるだけ平坦な声でそう言った。感情を込めすぎると、かえって不自然になる。五年働いて、ようやくそれが分かった。


 雨に濡れた女性が、傘も畳まずに店内に入ってきた。三十代だろうか。スーツは高級そうだが、シワだらけで、左肩のあたりに変な折り目がついている。まるで、何日も同じ服を着ているかのようだった。


「お一人様ですか?」


 女性は頷きもせず、ただ俺を見た。その目は焦点が合っていなかった。


「では、こちらへどうぞ」


 俺は女性を窓際の席に案内した。ここは店長のこだわりで、全席が窓際になっている。「外が見える方が、心が落ち着く」と店長は言う。確かに、小さな庭に植えられた紫陽花や、道行く人々の姿は、ここが世界から完全に切り離された場所ではないことを思い出させてくれる。


 おしぼりと水を出す。女性は、おしぼりを手に取ることもなく、ただテーブルを見つめていた。


「ご注文は、お決まりになりましたら」


 俺はメニューを置いて、カウンターに戻った。


「理人くん」


 店長の大さんが、エスプレッソマシンの向こうから声をかけてくた。白髪混じりの髪は、今日も少し乱れている。店長は几帳面なようでいて、自分の身だしなみには無頓着だ。


「あの方、昨日も来られた方だね」


「……そうでしたか」


 俺は客の顔をあまり覚えない。いや、覚えようとしない。踏み込まないことが、俺なりの優しさだと思っているからだ。


「三日連続だ。一度も注文せずに、一時間ほど座って帰られる」


「それは……」


「構わないよ。ここはそういう場所だから」


 店長はそう言って、微笑んだ。その笑顔には、諦めとも悟りともつかない、不思議な温かさがあった。


 ──喫茶ダイ。


 この店の労働条件は「自殺未遂の経験があること」もしくは「死にたいと思っていること」。


 初めてこの条件を見たとき、俺は笑った。声を出さない、乾いた笑いだった。なんて馬鹿げた条件だろう。だが同時に、俺はこの条件に救われた。ここでなら、俺でも働けるかもしれない、と思えたからだ。


 店名の「ダイ」は英語の「DIE」──「死」から来ているのだろうと思っていた。縁起でもない、と。


 だが、実際は店長の名前が「(だい)」だった。初めて知ったとき、俺は少しだけ、この世界がまだ捨てたものじゃないと思った。


 大店長は六十過ぎの初老で、定年後にこの喫茶店を始めたという。なぜそんな労働条件にしたのか聞いたとき、店長はポツリポツリと話してくれた。


「私もね、昔はいろいろあったんだよ。仕事で失敗して、家族にも見放されて。何度も死のうと思った。実際、何度か試したこともある」


 店長は淡々と語った。まるで他人事のように。


「でも、ある喫茶店に救われたんだ。マスターは何も聞かなかった。ただ温かいスープを出してくれた。『また来てくださいね』と言ってくれた。それだけで、もう少し生きてみようと思えたんだ」


「そのマスターは……」


「もういない。十年前に亡くなった。だから私が、あのマスターと同じことをしようと思ったんだ」


 その話を聞いて、俺は初めて「ここで働きたい」と心から思った。


 何度目かも分からない自殺未遂をした後、俺は生きる意味を見失っていた。十年以上引きこもり、社会との接点を失い、ただ息をしているだけの存在になっていた。


 一度は就職した。だが、上司からの叱責に耐えられなかった。


「何度言ったら分かるんだ!」


「お前、本当に大卒か?」


「使えない奴だな」


 言葉の暴力は、じわじわと俺の心を削っていった。朝起きることができなくなり、電車に乗ることが恐怖になり、やがて部屋から一歩も出られなくなった。


 俺は社会から逃げた。自分の心を守るために。


 だが、逃げた先には何もなかった。ただ、終わりのない灰色の日々があるだけだった。

 そんな俺を、大店長は拾ってくれた。


「君は大丈夫。社会は、少なくとも僕は、君を拒まない」


 面接と称して店に呼ばれた日、店長は俺に温かいスープを出してくれた。野菜がたっぷり入った、コンソメスープだった。


 それを飲んだとき、俺は泣いた。五年ぶりに、声を出して泣いた。


 あれから五年。俺はここで働いている。


 正社員ではなくアルバイトだが、一応社会復帰できた。時給はそんなに高くはない。だが、贅沢をしなければなんとか暮らしていける。


 何より、ここには俺の居場所がある。




第二章 それぞれの「死にたい」

 午後三時。店内には四組の客がいた。

 窓際の女性は、相変わらず何も注文せず、ただ座っている。


 奥の席には、大学生らしき男が一人。分厚い哲学書を開いているが、一ページも進んでいない様子だった。


 カウンター席には、スーツ姿の中年男性。コーヒーを三杯おかわりして、ノートパソコンを睨んでいる。


 そして入口近くのテーブルには、老夫婦。二人とも何も話さず、ただサンドイッチを少しずつ食べていた。


 店のドアが開いた。


「いらっしゃいませ」


 入ってきたのは、高校生くらいの少女だった。制服姿で、大きなリュックを背負っている。顔は幼いが、目の下には深いクマがあった。


 「あの……」少女は俺を見上げた。「ここ、本当に誰でも入っていいんですか?」


「はい」


「お金、あんまり持ってないんですけど……」


「メニューは全て五百円以内です。コーヒーは二百円、スープは三百円、サンドイッチは五百円です」


 少女はほっとしたように息を吐いた。


「じゃあ、スープください」


「承知しました。こちらへどうぞ」


 俺は少女を席に案内した。彼女は大きなリュックを下ろすと、テーブルに突っ伏した。

 カウンターに戻り、店長に注文を伝える。


「スープ一つ」


「了解。……あの子、まだ高校生だね」


「そのようです」


「最近、若い子が増えた」店長は鍋を火にかけながら言った。「SNSの影響かな。『死にたい人が集まる喫茶店』って、少しロマンチックに聞こえるのかもしれない」


「ロマンチック……ですか」


「そう。死を美化するつもりはないんだが、若い子にとって『死』は、時に逃避先として美しく見えることがある」


 店長の言葉に、俺は何も答えられなかった。俺自身、十代の頃から「死にたい」と思っていたからだ。


 スープができあがった。湯気が立ち上る白い皿を持って、俺は少女のテーブルに向かった。


「お待たせしました」


 少女は顔を上げた。目が赤い。泣いていたのだろう。


「ありがとうございます」


 彼女はスプーンを手に取ったが、すぐには口をつけなかった。ただ湯気を見つめている。


 「あの……」少女が俺を呼び止めた。「ここって、本当に死にたい人が来る店なんですか?」

俺は少し考えてから答えた。


「死にたい人が集まる、というよりは、死にたいと思ったことがある人が、ふらりと立ち寄る店、でしょうか」


「……店員さんも、死にたいと思ったことあるんですか?」


「あります」


 俺は嘘をつかなかった。ここでは、嘘をつく必要がない。


「今も?」


「……時々」


 少女は初めて、小さく笑った。


「私も、時々です」


 それだけ言うと、彼女はスープを一口飲んだ。そして、目を閉じた。

 俺はカウンターに戻った。


 「理人くん」店長が声をかけてきた。「君は良い店員だよ」


「……そうでしょうか」


「ああ。君は踏み込まない。それが、ここでは一番大切なことなんだ」


 踏み込まないこと。

 それは俺の弱さでもあり、同時にこの店における唯一の強みでもあった。


 俺は人に興味が持てない。関わることが怖い。だからこそ、適度な距離を保てる。


 ここに来る人たちは、踏み込まれたくないのだ。ただ、そこに在ることを許されたいだけなのだ。


 夕方五時。店内の客は入れ替わっていた。


 窓際の女性は、四時間ほど座った後、何も言わずに帰っていった。店長は会計を求めなかった。


 大学生も、哲学書を閉じて出ていった。彼はコーヒー一杯だけ注文し、千円札を置いていった。


「おつりは……」


 「いいです」と彼は言った。「ありがとうございました」


 その声には、少しだけ力があった。


 中年男性は、結局何も食べずにコーヒーだけを飲み続け、七時頃に帰っていった。「また来ます」と、初めて笑顔を見せて。


 老夫婦は最後まで無言だったが、店を出る際、老婦人が店長に言った。


「あのスープ、亡くなった息子が好きだった味に似ています」


 店長は深く頭を下げた。


「それは……何よりです」


 老夫婦が去った後、店長は少しだけ涙を拭った。


 高校生の少女は、スープを飲み終えた後、二時間ほど席に座っていた。宿題をするでもなく、スマホを見るでもなく、ただ窓の外を眺めていた。

 六時を過ぎた頃、彼女は席を立った。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました。三百円です」


 少女は財布から三百円を取り出し、そこに百円玉を一つ追加した。


「これ、チップです。美味しかったから」


「……ありがとうございます」


 彼女が出ていく際、店長が声をかけた。


「また来てくださいね」


 少女は振り返り、初めて本当の笑顔を見せた。


「はい。また来ます」




第三章 続く物語

 その日の営業を終え、俺と店長は後片付けをしていた。


「今日も、いろんな人が来たね」店長が呟いた。


「ええ」


「理人くん、あの高校生の子のこと、どう思う?」


「……どう、とは?」


「助けられると思うか?」


 俺は手を止めた。


「俺には、分かりません。助けるなんて、おこがましいことは」


 「そうだね」店長は頷いた。「私たちにできるのは、ただ温かいスープを出すことだけだ。それで十分なのかもしれないし、足りないのかもしれない。でも、それしかできない」


「……それでいいんでしょうか」


「分からない。でもね、理人くん。私たちは完璧じゃない。神様でもない。ただの、死にかけた人間だ。そんな私たちにできることは、同じように苦しんでいる人の隣に座ることくらいだよ」


 店長の言葉に、俺は何も答えられなかった。


 その夜、アパートに帰った俺は、久しぶりに昔の日記を読み返した。


 引きこもっていた頃、毎日書いていた日記。 そこには「死にたい」という言葉が、何度も何度も書かれていた。


 でも今、俺は生きている。

 完全に幸せになったわけじゃない。今でも時々、消えてしまいたいと思う。朝起きるのが辛い日もある。


 でも、喫茶ダイがある。店長がいる。そして、俺を必要としてくれる場所がある。

 それだけで、もう少し生きてみようと思える。


 翌日。

 店を開けると、すぐに客が来た。昨日の高校生の少女だった。


「おはようございます」


「いらっしゃいませ」


 「……今日は、学校、休みました」少女は小さな声で言った。「ここに来たくて」


 俺は何も言わず、彼女を席に案内した。


「スープ、お願いします」


「承知しました」


 店長がスープを作っている間、俺はカウンターで皿を拭いていた。すると、ドアが開いた。

入ってきたのは、昨日の窓際の女性だった。


「いらっしゃいませ」


 女性は俺を見て、初めて言葉を発した。


「あの……すみません。昨日、何も注文しなくて」


「いえ、構いません」


「今日は、ちゃんと注文します。スープを、ください」


「承知しました」


 女性を席に案内すると、彼女は昨日と同じ窓際の席に座った。


 やがて店内には、様々な「死にたい」を抱えた人たちが集まってきた。


 そして今日も、喫茶ダイは静かに営業を続ける。


 完璧な答えなんてない。


 でも、温かいスープがある。

 隣に座ってくれる誰かがいる。


 それだけで、人はもう一日、生きることができるのかもしれない。




第四章 変化の予兆

 高校生の少女──後に名前が「美月」だと知った──は、それから毎日のように店に来るようになった。


 学校には行っていないようだった。だが、店長も俺も、それについて何も聞かなかった。


 彼女は毎回スープを注文し、二時間ほど座ってから帰っていく。時々、宿題らしきものをしていることもあったが、大抵はただぼんやりと窓の外を見ていた。


 ある日、彼女が俺に話しかけてきた。


「店員さん、名前なんて言うんですか?」


「……理人です。吉岡理人」


「私、美月って言います。高校二年生です」


「そうですか」


「理人さんは、何歳ですか?」


「三十二です」


「若く見えますね。二十代かと思ってました」


 俺は何と答えていいか分からず、黙っていた。


 「あの……」美月は躊躇いながら言った。「理人さんも、昔死のうとしたことあるんですよね?」


「ええ」


「どうして、やめたんですか?」


 俺は少し考えた。


「やめた、というより……タイミングを逃し続けた、という感じです」


「タイミング?」


「死ぬのにも、勇気が要るんです。その勇気が出ないまま、ずるずると生き続けて、気がついたらここにいました」


 美月は真剣な顔で俺の話を聞いていた。


「今は、死にたくないんですか?」


「……時々、まだ思います。でも、ここがあるから。もう少し生きてみようと思えます」


 「私も」美月は小さく笑った。「ここがあるから、学校に行けなくても、なんとか生きていけてます」


 その会話の後、美月はいつものように窓の外を眺め始めた。

 だが、彼女の横顔は、少しだけ穏やかに見えた。


 数日後、変化が起きた。

 美月の母親らしき女性が、店に現れたのだ。


「すみません、ここに高校生くらいの女の子、来てませんか? 制服着た……」


 俺が答える前に、美月が席から立ち上がった。


「お母さん……」


「美月!あんた、毎日ここに!? 学校はどうしたの!?」


 母親の声は大きく、店内の他の客たちが一斉にこちらを見た。


 「お客様」店長が割って入った。「申し訳ございませんが、少しお静かに願えますか」


「でも、この子……!」


「落ち着いてお話しください。よろしければ、奥の席へどうぞ」


 店長の穏やかな声に、母親は少し気圧された様子だった。


 美月と母親は奥の席に座り、俺はカウンターから見守った。


 二人の会話は聞こえなかったが、最初は一方的に母親が話し、美月はうつむいていた。


 だが、やがて美月も何かを話し始めた。

 そして、母親が泣き出した。

 美月も泣いた。


 二人は抱き合い、しばらくそのままだった。

 三十分ほど経って、二人は席を立った。


 「すみませんでした」母親が店長に頭を下げた。「お騒がせして」


「いえ。お嬢さんは、良い子ですよ」


「……ありがとうございます」


 美月は俺の方を見て、小さく手を振った。


「理人さん、ありがとうございました」


「……いえ」


 二人が店を出た後、店長が言った。


「良かったね」


「……ええ」


「でも、きっとまた来るよ。あの子は」


「そうですね」


 そして店長の言う通り、翌日、美月は再び店に現れた。

 だが今日は、母親と一緒だった。


「すみません。娘がどうしてもここに来たいと言うので」


「いらっしゃいませ。どうぞ」


 二人はテーブルに座り、それぞれスープを注文した。

 美月は母親に、この店のことを話していた。


「ここはね、死にたい人が集まる店なんだよ」


「……そうなの?」


「でも、本当は『生きたい人』が集まる店なんだと思う」


 その言葉を聞いて、俺は少し驚いた。


 美月は、俺たちよりも、この店の本質を理解していたのかもしれない。


 ここは死にたい人が集まる店じゃない。


 生きることに疲れた人が、少しだけ休憩できる場所。


 そして、もう一度歩き出すための、小さな力をもらえる場所。


 喫茶ダイは、今日も静かに営業を続けている。

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