迷惑をかけない部屋
◆清掃員 轟 雅哉◆
『日向荘』は、駅から徒歩二十分のところにある、木造二階建、築四十年のアパートである。全室六畳1K。築は古いが全室リフォーム済みで、フローリングでユニットバス、室内洗濯機置き場があり、全室南向きで名前通り日当たりが良い。
最寄り駅は再開発が進み、新しいマンションが立ち並んで、人口の流入が進んでいる。駅から少し離れた日向荘の周りも、区画整理が進み、真新しい新築一戸建てが立ち並んでいる。そんな街の風景の中で、日向荘は昔の風情を残した佇まいが印象的だ。
周辺物件に比べても家賃は安く、単身者にはおすすめできる物件だと思う――けれど。
僕は木造の古い外観を眺めて、ため息を吐いた。
「――一年ぶりか……」
僕は今日、このアパートの一室の“清掃”のために、仕事でやってきた。
僕の仕事は『特殊清掃』――人が死んだあとの部屋を、住める状態に戻す作業をしている。
僕が日向荘に来るのは、三回目だ。
一回目は二年半前。二回目は一年前。今回は三回目。
……一回目は、僕にとって、初めての“現場”でもあったので、このアパートは印象深い建物なのだ。
「“今回”は、そんなに大変じゃなさそうだよ。冬で良かった」
同行の先輩が肩を持ち上げて、笑った。
この先輩とは、僕の一回目の現場の時から一緒に作業をしている。
「……一回目は、壮絶でしたもんね……」
一回目の清掃は、一〇二号室だった。亡くなったのは六十代中ごろの男性。
ゴミ屋敷と化した部屋は、異臭がすさまじく、初めての現場だった僕は部屋に入るなり、吐き気をもよおし、外に飛び出て嘔吐してしまったのだ。
男性は持病でゴミの中で倒れて亡くなっていたそうで、発見されるまで数週間かかったことと、真夏だったため腐敗し、ゴミをどけると黒い人型の染みが床に染みついていた。
「二回目はゴミは大変だったけど、発見が早かったからな……」
先輩のつぶやきにうなずく。一年前――二回目は二〇三号室。三十代後半の女性だった。
死因は薬の過剰摂取――オーバードーズによる心不全とのことだった。確かに、部屋の片隅にはたくさんの薬の空き箱が積まれていた。死後数日でご遺体が発見されたため、死体の腐敗はそれほどしておらず、異臭はそれほどなかった。薬の他には、洋服やぬいぐるみが山ほど部屋にあったのが印象的だった。
「今回は……若い男性でしたっけ?」
「ああ。お前と同い年くらいだと思うよ。お前、いくつだっけ?」
「僕は今年、二十八です」
「……じゃあ、ちょうど同い年くらいだ。二十代中ごろだったそうだよ」
僕たちは階段を上って行った。
今回の部屋は、二〇一号室。二階の一番端だ。
「……二十代でも亡くなるんですね。自殺ですか?」
「いや、病気だと思われるってさ……」
僕たちは鍵を使って部屋に入った。
部屋を開けると、むわっとした空気がマスク越しでも感じられた。
閉め切った部屋、独特の空気だ。
玄関から部屋に入ると、整理整頓された室内は小綺麗だった。
玄関から続くキッチンの奥、六畳のフローリングの部屋は端にベッドが置かれ、その正面にはPCデスクが置かれていた。プリンターまで置かれている。デスクの上には『やればできる』と格言が書かれた卓上カレンダー。筋肉で有名なタレントがガッツポーズをして歯を見せて笑っている。そして、クリアファイルに入った書きかけの履歴書が机の端に置かれていた。……転職活動をしていたのだろうか?
デスクの隣には本棚。本棚には『宅建』『簿記』と事務系の資格の参考書が並んでいた。
――テレビはない。亡くなった住人は食事もデスクで食べていたのだろうか?
「綺麗ですね」
思わずつぶやくと、先輩もうなずく。
「早く終わりそうだな」
そして先輩はベッドへ視線を向けた。めくれた布団の中に、黒い人型の染みがある。
「ベッドで、亡くなってたんですか……」
先輩が手を合掌したので、僕も隣で合掌した。
それから、二人で協力してマットレスをどかす。――体液が床まで染みてないかの確認だ。
……ベッドの横には、飲みかけのペットボトルがあった。残量は半分ほど。蓋はきっちり締まっている。僕はそのペットボトルをどけると、マットレスをずらした。
「良かった……マットレス、染みてない」
僕は思わずつぶやいた。マットレスの裏面は真っ白できれいだった。
「これなら、消毒と脱臭だけで済みそうだな」
先輩もうなずいた。僕らは作業の邪魔になる大型の家具を家の外に運び出すことにした。
ベッド、デスク、本棚――冷蔵庫。
小型の冷蔵庫を開けると、そこにはペットボトルの水が1本、それからゼリー飲料のパックが数本入っているだけだった。
「……家で食事、してなかったんですかね」
つぶやくと、先輩は首を振った。
「――仕事を数か月、休職してたんだとさ。あんまり食べてなかったんだろうな。ご遺体は軽かったみたいだよ」
「……そうですか」
うなずいたものの、『休職』がこの空っぽの冷蔵庫の原因なのか、結果なのかはわからなかった。
僕は運びやすいよう、棚から出して段ボールに入れた資格の参考書類を見た。
どれも付箋がびっしりとつけられている。
……勉強が好きな人だったのだろうか。僕と違って。
僕はどうにも勉強が苦手で、仕事も長く続かなかった。
前の職場は『本当に使えねぇな』と上司に怒鳴られ、会社に行けなくなり、やめた。
その時に、地元の友人が伝手で紹介してくれたのが、今のこの特殊清掃の仕事だ。
社長が地元の友人の父親の友人なのだ。
体を動かすのは嫌いではなかったので、最初はできるか不安だったが二年半も仕事を続けられている。――身分は、アルバイトだけれど。
荷物はまとめてトラックに乗せた。
捨てるものはほとんどなかった。遺品として、参考書なども大家に渡すことになる。
僕たちはすっきりした部屋に戻ると、消毒と除菌・脱臭作業を行った。
最後に玄関で手を合わせ、部屋を出る。
「……この部屋、すぐ決まるだろうな」
先輩がつぶやいた。
「――『自然死』だから……告知対象にはならない……んですかね」
先輩はうなずいた。
「ガイドライン上は、なあ」
ガイドラインでは、自然死は原則として告知対象にはならない。
今回は消毒だけで済んだため、その範囲に収まるはずだ。
「でも……」
僕はアパートを見上げて、つぶやいた。
「二年半で、三人……多いですよね」
夕暮れに浮かぶアパートから目を離せなくなって、その黒い影を見つめて僕はつぶやいた。
「多いっちゃ、多いけど……、重なっただけといえば、重なっただけだろう。みんな、自殺とかってわけじゃないんだし」
先輩は肩をすくめた。
「若くたって、死ぬときゃ死ぬんだから」
その時「ただいまあ!」と子どもの元気な声がして、僕は後ろを振り返った。
野球帽を被った小学校中学年くらいの男の子が、アパートの前の綺麗な一戸建て住宅のチャイムを押した。遊んだ帰りなのだろうか、サッカーボールを抱えてる。扉が開き、「おかえりなさい」と母親が出迎える。「ワン!」と元気にかわいらしい小型犬が母親の脇で吠えた。――扉が閉まる。
家の庭には、キラキラと輝くイルミネーション装飾が点滅していた。
――今は、十二月。このあたりの家は、庭にイルミネーションを飾っているようだ。
この光景は――夜に輝く庭のイルミネーションは、あの二〇一号室から見えたのだろうか。帰宅する子どもたちの声は聞こえたのだろうか。
あの部屋で、僕と同じくらいの青年は、咳き込みながら水を飲み、そのままベッドに倒れこんで、動けなくなってしまった――。律儀に、きちんとペットボトルの蓋を閉めて。
僕はそんな光景を想像して、アパートに向かってまた手を合わせると、車に乗り込んだ。
◆不動産管理会社従業員 仁科 信弘◆
「消毒と脱臭だけで済みましたか、良かった……」
最近住人の青年が部屋で死んでいた日向荘の二〇一号室の清掃処理の連絡を受けた仁科は、安堵のため息を吐いた。仁科は日向荘の管理を行う管理会社『新日和不動産』で働いている。
「――では、遺品はいったん倉庫へ。はい。毎回ありがとうございます」
仁科は受話器を手に頭を下げた。
「日向荘の清掃、どうだった?」
電話を切ってから同僚に聞かれ、仁科は頭を掻いた。
「床剥がしたりとかしなくて済んだみたいだ。良かった。告知不要で大丈夫そうだ」
「それは良かったな。――事故物件増えるの、嫌だもんなあ」
同僚の返事に、仁科はしばらく沈黙してつぶやいた。
「本当に。もう二部屋事故物件だからさあ」
「一件目は大変だったな。床板を剥がして、全部やり直しだったから」
思い出すように同僚が言った。
一件目、二年半前に一〇二号室の入居者はゴミ山の中で死んで、発見が遅く、腐敗してしまった。死因は病死だったが、もともと部屋にあったゴミと死体から虫がわき、部屋は悲惨な状態だった。
「……二件目は、自殺扱いだしなあ……」
仁科もつぶやく。
二件目、一年前の二〇三号室はオーバードーズだった。
発見は早く、清掃は簡易で済んだが、警察の判断で自殺扱いになった。
「続くな……」
同僚の相槌に、仁科は眉間に皺を寄せた。
「ちょっと多いよなあ……、大家さん、壁紙張り替えはしたいだろうな」
「壁紙は張り替えた方がいいだろうな。――お前が倉庫に行っている間、業者に見積とっとくよ」
仁科は「助かるよ」と頭を下げると、上着を羽織って会社を出た。
◇
会社で借りているレンタル倉庫の前で、仁科は清掃業者の軽トラックと合流した。
「保管荷物はこちらです」
作業着姿の青年――轟から段ボールに仕分けされた二〇一号室の住人の遺品を受け取る。
冷蔵庫や洗濯機などの大型家電などは、こちらで処分してほしいと住人の遺族に頼まれていたので、小さなものだけ遺品として一時預かりすることになっていた。
ちらりと見ると資格試験の参考書のような書籍など、事務的に感じられる物が多かった。
「――すっきりしてますね」
そうつぶやくと、轟はうなずいた。
「……綺麗な部屋でしたよ」
仁科は轟を見つめた。二〇一号室の住人だった松崎 悠輝と同い年くらいだろうか。
(松崎さんも、部屋を借りた時は、こんな感じで元気そうだったのにな……)
四年前、松崎の賃貸契約の手続きをしたのは仁科だった。
当時の松崎は大学を卒業したばかり。新卒で就職が決まり、春から一人暮らしをすると言って、家を探しに来たのだ。
入社説明会の帰りに訪れたという内見時、リクルートスーツ姿で物珍しそうに室内を見回していた松崎の姿を思い出す。
(――骸骨みたいになっちゃって……)
松崎の死に顔を思い出し、仁科は鳥肌が立つのを感じた。
遺体を発見したのも、仁科だった。
松崎の母親から『息子と連絡が取れない』と電話があり、大家とともに合鍵で中に入ると、重たい空気が満ちた部屋の中、ベッドがこんもりと盛り上がっていた。
部屋に漂う臭い、気配。それだけでもう、この部屋の借主の青年が生きていないことがわかった。重い足取りで布団をめくると、骸骨のようにこけた頬の松崎が、青白い顔で上を向いたまま目を閉じて動かなくなっていた。
仁科は手を合わせると、救急車と警察を呼んだ。
神様は信じていないと思っているが、どうしてああいう時、自分は手を合わせるのだろうかと仁科は考えた。――入居者の死体に出くわした時、海外の不動産屋なら、十字を切るのだろうか――?
「どうかしました?」
轟に聞かれて、仁科ははっと意識を現実に戻して、首を振った。
「……なんでもないです。お疲れ様でした」
◇
二〇一号室の住人、松崎の遺品を段ボールから収納ケースに1つずつ移していく。
スマートフォン、ノートパソコン、付箋が大量に貼られた資格試験の参考書、『やればできる』と格言が書かれた筋肉自慢芸人の卓上カレンダー……
最後に収納ケースにあらかじめ用意した名前ラベルを貼った。
【松崎 悠輝】
収納ケースに貼られたテプララベルが、まるで墓標のように見えた。
(松崎さんのご遺族は、すぐに引き取りにきてくれそうだな……)
状況を伝えたところ、電話口で泣き崩れた松崎の母親を思い出し、仁科はため息を吐いて視線をずらした。
倉庫の奥に、埃をかぶった収納ケースがあり、松崎と同じように名前のラベルが貼ってある。
【明石 隆晴】
二年半前に亡くなった、一〇二号室の住人の遺品だ。
年齢は六十五歳、死因は心臓発作による突然死だった。
(明石さんの家族はなあ、引き取りに来てくれなかったからなぁ……)
明石は一人暮らしだったが、離婚した妻と子どもがいた。
妻は軽度の認知症で、現在は長女と住んでいるとのことだった。
遺体の引き取りや、事後手続きは長女がやってくれた。
長女は明石の所有物のうち、単身向けのアパートの駐車場には不釣り合いな、威圧感のある大きな黒いミニバンのみ『中古車として売る』と引き取り、部屋にあった遺品の受け取りは拒否された。
『そちらで処分してください』
長女は吐き捨てるように言った。
その言葉だけで、明石のことをどれだけ嫌っているのかが、はっきりと伝わってきた。
仁科は明石の収納ケースの埃を手で払うと、透明な箱に入った中身を見つめた。
(明石さんも、荷物は少なかったよな……)
眼鏡、眼鏡ケース、腕時計、革製の手帳――そして、写真立てに入った、二つの写真。
一つは一軒家の前の家族写真のようだ。駐車場にあの娘が引き取った黒いミニバンが映っている。四十代くらいの父親と母親、大学生くらいの年頃の娘と息子。父親が満面の笑顔なのが印象的だ。……他の家族は、どこかひきつったような表情をしているのに。
(この男性は明石さんなのかね……)
普通に考えればそうであろうが、活力に満ちた笑顔の男性は仁科の覚えている明石の印象とは一致しなかった。仁科の記憶している住人の明石は、いつも眉間に皺を寄せていた。何もかもに不満を持っているような顔だった。
六十を超えてもまだ会社で働いており、黒いピカピカのミニバンに乗って毎朝会社へ車で通勤していたのが印象的だ。毎週末、部屋からバケツに水を汲んできて、丁寧に車を拭いていた。――その際に、通りがかる人を睨みつけるようにしてしまうので、他の部屋の住人の女性から『一〇二号室の男性が睨んできて怖い』という連絡が入り、その女性は引っ越してしまったこともあった。
――そんなこともあり、仁科は明石のことを几帳面な男性だと思っていた。
(まさか、部屋の中があんなにゴミばかりとは……。いや、ある意味几帳面だったんだけど……)
明石の部屋の中は異様だった。
食べカスの付着したプラスチック容器が、なぜかそのまま積み上げられている。洗われた形跡はなく、捨てられることもなく、同じ状態のまま、律儀に重ねられていた。
ゴキブリにとっては、まるでタワーマンションのようだった。
容器はいずれも、駅前のモール『ヒヨリモール』のフードコートで使われている持ち帰り用のものだ。
モールのキャラクターである、双子のヒヨコ――『ぴよすけ』と『ぴより』が、楽しそうに容器の縁を走り回っている。
その積み上がったヒヨコの容器の中央で、明石は胸を押さえるようにして倒れていた。
うずくまるような姿勢のまま、すでに腐敗が進んでいた。
「この写真は、何なんだろうな」
仁科はもう1枚の写真立てに入った写真を見つめた。
公園の写真だ。遠目に1組の家族が映っているのがわかる。
老婆、母親、帽子をかぶったやんちゃそうな未就学児の男の子。
彼らはカメラの方を見ていない。ベンチに座って、楽しそうにお菓子を食べている。
「いつまで置いておくか……判断してもらわないとな……」
いつまでもこの倉庫に置いておくべきではないと、仁科は思った。
(遺族が引き取ってくれないと、困るよな。森谷さんのは、早く引き取られてよかったよな)
一年前に亡くなった、二〇三号室の住人、森谷 奈美のことを思い出した。
「森谷さんは、遺品が多かったけど……」
ブランドものの服やバッグ、そしてたくさんのぬいぐるみ。森谷の遺品は、明石や松崎のようにケース1つに収まらず、ケースが四つも必要だった。
仁科は明石の収納ケースを棚に戻そうと動かした。――その時、倉庫の端に、何かカードのような物が落ちているのを見つけて、動きを止めた。腰をかがめ、そのカードを拾い上げ、そして硬直した。
【新陽和駅前産婦人科 診察券 森谷 奈美】
駅前の産婦人科の診察券だった。
「森谷さんの荷物から、落ちてしまったのか……?」
命が生まれる場所である産婦人科の診察券。それは、死者の遺品置き場であるこの倉庫にあってはいけないもののような気がして、仁科の心臓はどくんと鳴った。
(森谷さんは、妊娠はされていなかったはずだ……)
目の前に森谷の遺体発見現場がちらつく。
勤め先の会社の上司の男性から、森谷が出勤していないので確認してほしいと電話があったのだ。――通常、1日出勤しないくらいで、住人の安否を確認するなどということはしない。――けれど、森谷には“前科”があった。
森谷は死亡する前の半年間に三回、オーバードーズをし、自ら一一〇番通報をし救急車を呼んでいたのだ。その際は、自ら鍵を開け、救急隊員に肩を借りながら救急車に乗っていたと聞いている。
そんなことがあったので、森谷は要注意人物であった。――案の定、部屋に入ってみれば、大量に開けた銀色の薬の包装シートの横で、泡を吹いて倒れていた。……手には、スマートフォンを握りしめて。
(あんな人が妊娠していたわけが……いや、昔の診察券かもしれないし、産婦人科は、別に妊娠だけで行く場所ではないし……)
仁科は首を振って診察券を見つめ直した。
「とにかく、ご遺族に送付しよう……」
この診察券をこの倉庫に置きっぱなしにすることはできない。
仁科は診察券を手に持ったまま倉庫を出て、鍵を閉めた。
◆二〇二号室住人・橿原 香苗◆
ガサッ、ガサッ……。
――ですよね……。……確かに……。
いつものスマートフォンの目覚ましアラームではなく、何かを動かすような物音と足音、低い男性の話声で私は目を覚ました。
時計を見ると、午前九時。
住まいから徒歩十五分のヒヨリモールで働いている私は、今日は遅番で十三時に出勤だ。
――だから、目覚ましは十時にかけていたのに。
眠たい目を擦りながら、起き上がる。物音はベッドの横の壁の向こう――隣の部屋からしていた。一気に眠気が去って行った。――【清掃】業者だ。はっきりとそう、わかった。
私は『日向荘』というアパートの二〇二号室に住んでいる。
隣の二〇一号室に住んでいた若い男の子が、最近死んでしまったようだ。――ようだというのは、実際に誰かに聞いたわけではないけれど。しばらく前に、救急車や警察がアパートの前に来ていたことがあったので、なんとなくわかっていた。
五十四歳の私からすれば、息子のような年頃の男の子だった。
どうして死んでしまったのだろう。
――そういえば、と思い当たることがあった。
先月末くらいだろうか、壁の向こうから、咳き込むような声が一定期間、聞こえていたのだ。それが、いつからか聞こえなくなっていた。――咳が治ったのか、良かったと思っていたけれど――。
隣の部屋の彼は、静かな青年だった。
彼の前に住んでいた若い女の子は、深夜に大音量で音楽をかけるなどうるさかったので、四年前に彼が越してきてからは、私は快適に生活できていた。――だから、私は彼の部屋の側へベッドを移動したのだ。最近、もう片方の隣の二〇三号室に越して来た人は『配信者』をしているとかで、時折声がしてうるさかったから。
しばらくベッドに座ったまま壁を見つめていると。「よいしょ」という声と、何か大きなものを動かすような音がした。――気になって壁に耳をつけてみると、こんな声が聞こえた。
『良かった……マットレス、染みてない』
私は思わず、ベッドから飛び降りた。
壁のすぐ向こうに、隣人のベッドもあった?
……私が毎日眠っているベッドの隣で、壁一枚を隔ててあの青年は冷たくなっていたのだろうか?
ぞわぞわとした感覚になり、私は反射的に、壁に向かって手を合わせていた。
それから、立ち上がり、顔を洗い、化粧をし、朝の準備をする。
――隣が清掃をしていようと、私にとっては普通の一日の始まりだからだ。
トーストの朝ごはんを食べ、食後のコーヒーを飲みながら、スマホで動画サイトを開いた。
隣の二〇三号室の動画配信者のチャンネル。
……興味本位で一度見たきり、見ていなかったけれど。
ふと思い立って開いて見た。
『事故物件に住んでみた』というシリーズに、新しい投稿が加わっていた。
【ウチの物件……また人が死んだっぽい!?】
というタイトル。
狐のお面を被った隣の部屋の男の子が実況を始める。
『どぉも! 心霊大好き系配信者、“きつねどん”です! なんか、ウチの物件、また人が死んだっぽい? めっちゃ警察、来てます! 隣の隣の――たぶん、二〇一号室かな?』
この前、アパートの前に救急車や警察が来ていたのをちゃっかり撮影していた。
……映像にモザイクもなにもかかっていない。救急隊員の顔がそのまま映っている。
「――リテラシー、どうなってるのかしら……」
思わずため息を吐いて、『通報』ボタンを押して、「プライバシー侵害」で問題を報告した。再生数は百くらいだが、自分の住んでいるアパ―トがこのように配信されるのは気分が良いものではない。
ちなみに、何故私が隣人のチャンネルを知っているかというと、『心霊大好き系配信者、きつねどんです!』と名乗っているのが聞こえたからだ。そのまま検索したら、チャンネルが引っかかった。
――確かに、この二年半で、この『日向荘』は人が隣の青年を含めて三人亡くなっている。……でも、みんな普通の人で、不幸なことが続いただけだと私は思っている。
私はこの『日向荘』に住んで十年になる。
十年前、駅前に『ヒヨリモール』が開店し、人生のやり直しを図っていた私は、そこの食品売り場のオープニングスタッフとしてアルバイト入社した。そして家賃が手ごろなこのアパートに入居。――私は今ではフードコートのテナント管理を任される正社員だ。このアパ―トは、私にとって、人生の再出発を支えてくれた大事な場所で……いまだに住み続けている。
十一時半になったので、私は出勤のために部屋を出た。
少し早めにモールに行って、お店をぶらっと一回りしてから勤務に入るのが私のルーティンだ。
階段を降りると、アパート前の駐車場に、軽トラックが止まっていた。清掃会社のトラックだろう。そして、その軽トラックの隣に軽自動車がこじんまりとかわいらしく停まっているのを見て「あら?」と首を傾げた。
――一〇二号室の住人の車だ。いつもはこの時間にはないので、通勤に使っていると思っていたけれど。今日はお休みなのかしら。
私がなぜその車に注目してしまうかというと、以前住んでいた人の車が印象的だったからだ。――前に一〇二号室に住んでいた男性は、黒い大きなミニバンを駐車場に停めていた。
単身者向けの木造アパートに不釣り合いな、ミニバンは、駐車場の枠を埋め尽くし、いつもピカピカと光り存在感を放っていた。それに比べると、今の住人の軽自動車は、白い枠の中に行儀よく収まっており、風景に馴染んでいる。
前の通りに出ると、ランドセルを背負った小学生の男の子が体操袋やらの荷物を抱えて帰ってきた。アパート前の一軒家の息子さんだ。まだお昼前なのに……。
私はその子に「こんにちは」と笑いかけて、話しかけた。
「今日は早いわね」
「こんにちは! 今日は終業式だったんです!」
息子さんは元気にそう言った。
私はカレンダーを思い出した。そうだ。もう年の瀬。そんな時期だった。
クリスマスに年末年始の売り出し準備と、これからモールは繁忙期だ。
男の子に手を振り、別れる。
私はあの子を赤ちゃんの時から知っている。
赤ちゃんだった時、ベビーカーに乗せてお散歩しているお母さんと世間話をしたことがあるからだ。
あの子に挨拶をすると、一〇二号室に住んでいた男性を思い出す。
……あの日も、私は、あの男の子に挨拶をした。
すると、後ろでバン! と何かをたたく音がした。振り返ると、黒いミニバンの横で、一〇二の人が拳を握って私と男の子を見つめていた。
男の子はビクっとすると、逃げるように家に入って行った。
一〇二の人が独り言のように言った。
『あのクソガキ、俺には挨拶返さんのに……』
私に話しかけたのではなかったのかもしれないけれど、私は曖昧に笑って小声で返した。
『最近は、知らない人に挨拶をしないようにって、教えたりするそうですから……』
一〇二の男性は「そうか」とだけつぶやいて、車に乗り、発車して行った。
それがあの男性と私が交わした、唯一の会話だ。
◇
十二時に職場である駅前モールについた私は、勤務時間が始まるまで、中を気の向くまま歩き回った。平日の昼間ではあるけれど、学校が休みに入ったためか、中高生くらいの年頃の子や、家族連れなど、普段とは違う客層で年末のモールは賑わっていた。
イベント広場には大きなツリーが飾られていて、店舗の装飾も華やかだ。
勤務先である二階のフードコート近くのゲームコーナーのUFOキャッチャー前でも、中学生か高校生くらいの私服の男女――カップルかしら?――が一緒にゲームにチャレンジしていた。
「あとちょっと! がんばって!」
「ぜってー、取るぞ!」
男の子が貼り切った様子でダウンを腕まくりをしたのを見て、微笑ましくなり、様子を見る。キャッチャーは大きめのぬいぐるみを、見事にキャッチしていた。
「わ! 取れたぁ! ありがとう!」
取り出し口からぬいぐるみを取り出して、女の子は文字通り飛び跳ねた。
その光景に、私はふと、今朝見た『事故物件に住んでみた』配信者の二〇三号室に以前住んでいた女性を思い出した。
三十代中頃の綺麗なOLさん、という雰囲気の女性だった。すれ違えば「おはようございます」ときちんと声をかけてくれる人だった。
――彼女を、このモールのゲームコーナーで見かけたことがあった。背の高い、スーツ姿の男性――彼女より、一回り上くらいの年齢の男性と、UFOキャッチャーをしていた。男性は、先ほどの学生の男の子のように、器用にぬいぐるみを取っていた。彼女はそのぬいぐるみを受け取り、先ほどの女の子のように嬉しそうに笑っていた。普段の様子とは違う、本当に学生のような、飾り気のない笑顔だった。
その日の夜、帰宅すると、アパートの駐車場に普段見かけない、白いミニバンを見つけた。一〇二の男性の黒いミニバンではなかったので、私は首を傾げた。そして、なんとなく察した――。この白いミニバンは、あの二〇三の彼女が一緒にいた男性の車ではないかと。
その車が停まっているところは、普段は空いている場所だった。――駅からも近いこのアパートでは、車を持っていない居住者も多い。部屋数分の駐車場はあるが、埋まっているわけではなかった。私も車は持っていない。
その白いミニバンは、今までももしかしたら、何度か停まっていたのかもしれない。――私が気づかなかっただけで。それからも、同じ車が時折、同じところに停まっているのを見かけた。いつも夜だけそこにあって、朝になるといなくなっていた。
彼女は、一年前に亡くなった。自殺だったとどこかで聞いても、別に驚かなかった。
今までも彼女の部屋からは時折泣き声を聞くことがあったし、亡くなる半年ほど前には数回、彼女の部屋に救急車が来たことがあった。……どうやら、自分で呼んだ様子だったので、亡くなったときは、――成功してしまったのだろう。
私は思い立つと、スマホを開き、管理会社に電話を入れた。
あの配信者が、プライバシー漏洩をしていると、報告を入れたい気持ちになったからだ。
「あ、すいません。私、『日向荘』の二〇二号室の橿原と申します。……二〇三号室の方について、少しご相談したいことがございまして……」
要件を伝えて電話を切ってから、私は勤務場所であるフードコートへ向かった。
◇
着替えを済ませ、テナントの見回りをしていると――、先ほどUFOキャッチャーのところにいた学生カップルがハンバーガーを食べているのが目に入った。女の子は戦利品の大きなうさぎのぬいぐるみを膝に乗せている。
彼女はポテトを頬張りながら、男の子に聞いた。
「――ねえ、こういうとこにさ、ああいうふうに一人で来てる人って、なんで来てんの? ……空しくならないのかな」
視線の先を見ると、家着のようなスウェット姿の白髪交じりの女性が、所在なさそうに宙を見つめながらタピオカミルクティーを飲んでいた。
つぶやきにしては大きな声だったので、私は少しひやりとした。
その女性も、女の子の視線に気がついたようで、彼女を見た。
女の子は驚いたように視線をずらすと、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、話題を変えた。
「この後さあ……」
私は苦笑した。あの子にとっては、揶揄するつもりだったというよりは、素朴なつぶやきだったのかもしれない。
頭にモールのフードコートのテイクアウトの容器を入れた袋を持った一〇二の男性の姿が浮かぶ。あの人は、たまにここでテイクアウトメニューを購入していた。どうせなら、ここで食べて行けば、ゴミも出ないのにと思ったことがある。
私は白髪交じりの女性の席に近づいた。彼女はここの常連さんだ。たぶん近所に住んでいるのだろう。よく日中、この席に座って、タピオカミルクティーを飲んでいる。
「こんにちは……今日も来てますね」
そう言って微笑みかけると、女性は少し笑った。
◆不動産管理会社従業員 仁科 信弘◆
倉庫での作業を終え、仁科は会社に戻った。
「お疲れさん。壁紙張り替えの合い見積もり取っておいたよ」
同僚がそう言って、資料を渡してくれる。
「ありがとう。これで大家さんに相談してみるよ」
「そうだ。コールセンターから、『日向荘』の相談が来たって連絡があったよ」
「こんどは、なんだ!?」
思わず声が大きくなってしまう。
仁科の会社では、居住者からの相談や問い合わせはまず一括してコールセンターで受けることになっているので、何かしらかの対応が必要な案件だけ担当者に問い合わせが回ってくる。
「――二〇三の人、配信者だってさ。モザイクなしで、近所映してるって」
「……マジかあ」
仁科は頭を抱えると、コールセンターから来た問い合わせ記録を見た。
「これこれ。……めっちゃ映ってる」
同僚が動画サイトを送ってくれた。救急車や警察が到着する様子が画面上に映っているのを見て、仁科は拳を握った。あの日の光景が思い出された。こもった部屋の臭い、布団を開けた下にいた、骸骨のような青年の身体。
「……事故物件の二〇三に住んでくれて、ありがたいとは思うけど……、これは、本人連絡だな……」
「はぁ」と頭を抱える。
「一〇二の人は静かで助かるのにな……」
一〇二も事故物件ではあるが、居住者は家を紹介した時には、『病死ですよね? じゃあ構いません』と気にしない様子だった。
「実際の部屋は、一〇二のがひどかったのになぁ。床に人型の染みができてたしさ」
「……二〇三は自殺だったからな」
「自然死」と「自殺」では、やはり人の感じ方は違うようだ。
「『怨霊アパート』だってさ」
同僚が仁科に配信者の動画を見せた。ひどい言われようだ、と思う。
しかし、
「二年半で三人だもんなぁ。やっぱり多いよなぁ。――お祓いとか、した方がいいのかな」
試しに『賃貸 お祓い 依頼』と検索してみると、『全国から予約OK』というような業者のサイトが出てきた。
「怪しくないか?」
同僚に突っ込まれ、苦笑する。
「……まあ、大家さんがやりたいなら、神社か寺に頼む感じになるのか……」
その時、コールセンターから、内線があった。
『……すいません、クレームで……、とても怒ってらして……』
「わかりました。代わります」
日向荘ではない、別の物件の居住者からの電話だった。
電話を切り替えると、怒鳴り声が聞こえて、思わず受話器を耳から離した。
「――臭くて、臭くて、仕方ないんですよ! 隣の部屋の人が、ゴミを溜めてるんです!!! 鼻がもげそうです!!!」
一瞬ひやりとして、唾を飲み込み、聞き返す。
「隣の方――姿は見られています?」
あまりに声のトーンが重たかったのか、電話の主はいったん黙ってから、少し冷静になった口調で言った。
「……はい。姿は、見ましたよ……」
仁科の口から、言葉が漏れた。
「良かった……」
自分の声が、思った以上に掠れているのに気づいて、仁科は一瞬、受話器を強く握り直した。
「……どうしたんですか?」
電話の主は、少し困惑したようにつぶやいた。
仁科は姿勢を正すと、「いいえ」とつぶやいて、「対応を検討いたします」と回答し、電話を切った。
受話器を置いた仁科は、ふと、窓の外を見つめた。
すっかり日は落ちて、外が暗くなっている。
息を吐くと、仁科は、問い合わせのあった物件のある市役所の番号をプッシュした。




