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歳神シリーズ

【急募】歳神様から逃げる方法

作者: 遠野さつき
掲載日:2026/01/12

※この作品は別作『【拡散希望】歳神様を探しています。(https://ncode.syosetu.com/n9493jx/)』と話が繋がっていますが単独でもお読みいただけます。もし今作をお気に召していただけましたら、前作もお読みいただけると幸いです。

『新年あけましておめでとうございます。本日は蒼馬磐座(そうまいわくら)神社にご参拝いただき、誠にありがとうございます。雪で滑りやすくなっておりますため、お足元にご注意を……』

「何もおめでたくないっつーの!」


 賑わう境内の中、大きな絵馬掛けの影に隠れながら流れる放送に毒づく。


 右手には何とか持ち出したスマホ。ダウンコートのポケットには中身がほぼ入っていない財布。裾から覗く緑色のジャージは晴れ着姿の参拝客からはかなり浮いているが致し方がない。流鏑馬(やぶさめ)神事の衣装に着替える前にトイレに行きたいと言って逃げ出せただけでも御の字だ。


「これから共通テストがあるのに、何で寒い中を馬で駆け回らないといけないのよ。いくら神社の娘だからってあんまりでしょ」


 目指すは境内からの脱出だ。とはいえ、ここは広大な大地を誇る北海道。都会ならいざ知らず、車がないとどこにも行けない。駐輪場には兄のマウンテンバイクがあるが、雪道を爆走するのは無謀なので、できれば乗りたくはなかった。


「こんなことなら、受験を優先せずにさっさと免許取ればよかった……!」


 怒りまじりにSNSに『【急募】歳神様から逃げる方法』と打ち込む。暇を持て余しているものが多いのか、すぐに『新年早々電波きた』と返ってきた。


 世間というものは本当に冷たい。それ以上SNSに頼るのはやめ、友人にメッセージを送ろうと試みる。しかし、『逃げるの手伝って』の『に』を打った瞬間、背後からぬっと現れた大柄な男にスマホを奪われてしまった。


「ちょっと、何すんのよ!」

「拙者を置いて、どこに参られるつもりですか巫女どの!」

「どこでもいいでしょうが! いいから返せっつーの!」


 頭上に掲げられたスマホに向かって必死にジャンプする。しかし、こちとら百五十センチ台のか弱い乙女である。どう頑張っても百九十センチ近くある男に届くはずもない。


「ふふふ、何だか懐かしいでござるな。拙者も昔はよくされたでござる。ニンジンをこう、鼻先にひらひらと……」

「アタシは馬じゃないっての!」


 男が笑うたび、少し青みがかった黒髪が粉雪まじりの風に揺れる。よく日に焼けた浅黒い肌に映えるつぶらな黒い瞳は、怒りに顔を染める天音(あまね)だけをただ映していた。


 この男は一見すると体格のいい若者にしか見えないが、実は人間ではない。天音の生家岩倉(いわくら)家が祀る十二柱の獣神のうち(うま)年の歳神、蒼馬大神(そうまのおおかみ)なのだ。


 歳神とは毎年元旦に降りてくる来訪神で、地上に五穀豊穣をもたらしてくれる神様だ。


 千年前、女の身でありながら陰陽師として腕を鳴らしていた岩倉家の初代ご当主様が契約を結んで以来、天音を含む子孫たちは巫女や神巫(かんなぎ)として担当の歳神に誠心誠意仕える役目を負わされている。


 けれど天音は男を神とは呼ばず、単に蒼馬と呼んでいた。


 不敬なのは重々承知しているが、相手は昨夜初顔合わせしたばかりの若神。その上、若干デリカシーがないというか、色々なことに好奇心丸出しの中学生男子みたいな性格だった。昨年引退した穏やかで知的だった先代の老神と比べると尊敬する気持ちは一ミリたりとも湧いてこない。


 ――それに、アタシにそんな資格があるとも思わないし。


「巫女どの?」


 大人しくなった天音を不審に思ったのだろう。蒼馬が大きな体を屈めてきた。すかさずその背後を指差す。


「あっ、向こうに暴れん坊な将軍がいる!」

「何ですと?」


 素直に背後を振り向いた隙をついてスマホを奪い返し、駐輪場に向かって全速力で駆ける。こうなったら雪道が怖いとか言っていられない。このままなし崩しに巫女にされるぐらいなら盛大に転んだ方がマシだ。


「念の為に鍵持ってきてよかった!」


 ダウンコートを翻し、兄のマウンテンバイクに飛び乗る。幸いなことに、ちゃんとスノーチェーンがついていた。心の中で兄に感謝しながら思い切りペダルを漕ぐ。


 大鳥居の外はどこまでも続く銀世界だ。右手側には駐車場。左手側には父親の経営する牧場がある。道に沿ってまっすぐに伸びる木柵の中では、これから始まる馬追いに向けて厩舎から出された馬たちが寒さに負けずに走り回っていた。


「じゃあね、駒子。怪我しないように頑張んのよ」


 兄の愛馬に手を振り、自由への逃走をはかる。冷たい風に耳の先端がジンジンと痛むのを感じながら、キョトンとした顔の駒子の前を颯爽と通り抜けようとした時、雪の下に埋もれていた石にハンドルを取られてしまった。


「あっ」


 ――転ぶ!


 衝撃に備えて目を閉じる。予想した痛みは一向に襲ってこない。むしろ何か弾力のある暖かいものに包まれていた。恐る恐る目を開くと、蒼馬の逞しい両腕の中にすっぽりと収まっていることに気づき、「ぎゃっ」と可愛くない声を上げる。


「巫女どの、大丈夫でござるか」


 背後から覆い被さるように覗き込まれ、口元がひくひくと動く。


「……ありがとう。さすが午の歳神。足早いわね」


 絞り出すように答えると、蒼馬は今にも尻尾を振らんばかりに喜んだ。


「なんのなんの。鉄の馬には負けませんぞ。乗るなら拙者に乗っていただきたく! この背中はいつでも巫女どののために空けてありますゆえ」

「新年早々アウトなこと叫ぶんじゃないっつーの!」

「何がアウトなのでござるか?」

「あー、ここにいたんか天音。もう時間ねえぞ。はよ用意しれ」


 怒鳴る天音の声を聞きつけて、先に準備を終えていた若武者姿の兄たちが駆け寄ってきた。


 蒼馬と変わらない体格で、いかにも無骨そうな見た目なのが長兄の空音(そらね)。二年前に畜産大学を出て父親の経営する牧場で働き始めた社会人だ。その隣にいる柔和な見た目なのは次兄の青音(あおね)。空音が卒業した畜産大学で獣医を目指す大学生である。


「そうそう。ダメだよ逃げちゃ。みんな楽しみにしているんだから。今日は天音の第四十二代目襲名の大事な日なんだよ?」

「勝手に決めないでよ。誰もやるなんて一言も言ってないじゃん」

「仕方ないでしょ。初代様がお決めになったんだから。文句があるなら本人にいいな。聞いちゃくれないだろうけど」


 百歳という平安時代の人間としては破格の寿命を全うした岩倉家の初代ご当主様は、神たちの住まう高天原で子孫たちを見守っている。昔は夢占や神託などで連絡を取っていたようだが、ある巫女仲間のおかげで高天原にも現代化の波が押し寄せたらしく、暇を見つけては親戚のおばあちゃんよろしく電話をかけてくるのだ。


 京都にある本家からも、千年続くお役目だと口を酸っぱくして言われている。しかし、だからと言って大人しく従いたくはなかった。


「蒼馬だってお兄ちゃんの方がいいでしょ。どこからどう見ても若武者だよ? 侍乗せて走るのが夢だって言ってたじゃん」


 期待を込めて見上げるも、蒼馬は満面の笑みで首を横に振った。


「いやいや。馬たるもの、主君以外は乗せぬ誓いを神に立てましたので!」

「主君じゃない! 逆! 私があんたに仕えるんでしょうが! それに神が神に誓い立ててどうすんのよ」

「かのスサノヲ様も姉君と誓約(うけい)を交わしたと高天原で習いましたぞ!」


 ああいえばこう言う。どう言い返してやろうかと蒼馬を睨む天音に業を煮やしたのか、空音が不意に天音を担ぎ上げた。


「ぎゃー! やめて空兄ちゃん! ハナコ(生まれたばかりの豚の赤ちゃん・メス)みたいに運ばないで!」

「しゃーない。遅れたらわやだべや(台無しだろ)けっぱれ(頑張れ)、けっぱれ」

「もー、訛らないでって言ってんじゃん。離せー!」



 ***



 渋々家に戻ると、スマホにメッセージが届いていた。岩倉(こよみ)という、巳の歳神を祀る巫女からだ。彼女は天音と違って歳神が大大大好きだったので、十二年越しの想いを成就させて神の嫁になった。今年の夏には子供も産まれるそうだ。


『もうすぐ神事だよね? 中継楽しみにしてるからね^^』


 最後の顔文字が天音を煽っている。


 昨年、逃げ出した巳の歳神を必死で探していた暦を揶揄(からか)った仕返しをしているのだろう。天音よりも七歳も歳上のくせに大人気ない。


「暦ちんめ……。他人事だからって呑気に……」

「いいから早く着替えな。それとも、子供の頃みたいに兄ちゃんが着せてやろうか?」


 ブツクサ言う天音に呆れた顔を向けつつ、青音が着物を差し出す。


 部屋に漂う沈黙。氏子衆と馬追いの最終確認をしているらしい。遠くから空音の声が聞こえた。蒼馬は障子の向こうで呑気に鼻歌を歌っている。


「絶対にやだ。セクハラだよそれ」


 断固拒否して衝立の向こうに身を隠し、ノロノロと狩装束を身につける。


 甲冑姿の兄たちとは違い、天音の衣装は直垂(ひたたれ)という鎌倉武士みたいな装束だった。頭に綾藺笠(あやいがさ)を被り、射籠手(いごて)という左手だけの籠手をつけ、行縢(むかばき)という鹿の毛皮を腰に巻けば完成だ。本来であれば腰に刀を差すのだが、小柄な天音には重すぎるので省略させてもらっている。


「うん。いいじゃない。似合うよ」


 満足げに頷く青音に渋面を浮かべる。


「似合いたくないよ。アタシ、花も恥じらう女子高生なんだよ? それに受験生なんだからさあ。風邪ひいたらどうすんの」

「大丈夫、大丈夫。昔から滅多に風邪ひかないじゃん。模試の結果も安全圏なんでしょ? 心配しなくても、いつもの調子で射れば、ぱぱっと終わるよ。そのために子供の頃から頑張って練習してきたんじゃない」

「やりたくてやってたんじゃないっつーの!」


 そう。初代ご当主様が「巫女は天音」だと宣言したその日から、否応なく後継として期待を背負わされてきた。百年に一度の逸材だと言われていた母親が若くして亡くなったのも影響しているのだろう。


 俯く天音に兄が苦笑する。


「そうは見えなかったけど。ま、いいや。また後でね」


 優しく頬を撫で、青音が部屋を去っていく。部屋の中に響くのは古い柱時計の音だけだ。蒼馬の鼻歌はいつの間にか止まっていた。


「仕方ないじゃない。だって、アタシは……」


 それ以上は口にしたくない。しばらくそのまま畳を見つめていたが、いつまでもそうしていても仕方がないので、ため息をつきつつ廊下に出る。


「おお、よくお似合いですぞ! 実に素晴らしい女武者ぶりで!」


 顔を輝かせた蒼馬が文字通り黒い尻尾を振って走ってきた。余程浮かれているのか、長い黒髪の側頭部からも馬の耳がひょこりと覗いている。


「嬉しくないっつーの。それより耳と尻尾出てるわよ。隠行(おんぎょう)使ってないんでしょ。参拝客に見られてもいいわけ?」


 隠行とは人外がよく使う、姿を隠すための術だ。神は精神体なので依代の力を借りて顕現(けんげん)しない限り、見鬼という人ならざるものを見る才能を持つ人間にしか姿が見えないが、獣神は肉体が残っているため普通の人間も見ることができる。


 兄たちや天音は生まれつき見えるので今更驚いたりはしないが、オカルトに免疫のない人間には受け入れ難いだろう。


「お祭りでみんな浮かれているから、馬のコスプレにしか見えないので大丈夫だと言われたでござる。何なら牧場と神社の馬グッズを宣伝してこいと音蔵(おとぞう)どのが」

「じいちゃんったら商魂逞しいわね。お守りをグッズ扱いすんなって何度も言ってんのに」

「さすが巫女どの。職務に忠実でござるな」


 嬉しそうに目を細める蒼馬を無視して家を出る。


 いよいよ馬追いが始まるとあってか、さっきよりも参拝客が増えていた。 


 他に娯楽がないからか、蒼馬町の祭りはやけに規模が大きい。


 無駄に広大な境内の中には屋台も出ているし、牧場で育てた馬のお披露目会も兼ねて、重い荷物やそりを引くミニ輓馬をしたりもする。武者姿の騎手を乗せた馬たちが競馬場みたいに柵でコース取りした馬場を一斉に駆け抜ける馬追いもその一つなのだ。


 中でも流鏑馬神事はトリ中のトリ。今年一年の安寧と豊穣を祈願して、腕に覚えのある氏子衆と神職が数メートルおきに立てられた木の的を射抜く。


 特に今年は青音が言っていたように亡き母親の後を正式に継ぐ就任式も兼ねているので、天音の気持ちとは裏腹に周囲は盛り上がるばかりだった。


「巫女どの、馬追いの会場はあちらですぞ」

「今からじゃ人が多くて見えないわよ。穴場があんの」


 向かうのは拝殿裏の森の中だ。境内からほど近いものの、禁足地になっているため人気はない。噂によると最奥に何かを封印した祠があるというが、近寄らせてもらえなかったので真偽は定かではなかった。


「ほら、ここよ」


 目の前の空間を指差す天音に蒼馬が首をひねる。


「何もないでござるが……」

「あんたそれでも神なの。参拝客の興味をひかないように普段は術で隠してんのよ。よく目を凝らして見てみなさいよ」


 素直に目を細めた蒼馬が「おお」と声を上げた。


「こんなところに物見櫓が」

「明治時代に先祖が建てたんだってさ。ちょっとレトロでいい感じっしょ?」


 白いペンキで塗られた木の梯子を上り切り、蒼馬と肩を並べて祭りを眺める。


 予想通り、牧場の周りは人でいっぱいになっていた。馬場の入り口には紅白の馬具で飾られた馬たちが列をなし、開始の合図を今か今かと待っている。


 先頭の一際目立つ騎手は空音だ。岩倉家の家紋を描いた旗が風にはためいている。青音は例年通り殿(しんがり)を務め、油断なく馬たちの状態を見定めていた。


「くーっ、見ているだけで足がウズウズするでござる。拙者も混じりたいでござるなあ」

「別に混じってもいいけど、アタシは乗らないわよ。神事だけで十分」

「つれないことを。拙者、今日という日を一日千秋の思いで待っていたでござるのに」


 しょんぼりと尻尾を垂らす蒼馬に複雑な気持ちになる。


「……あんたは嫌じゃないの。いつ終わるとも知れないお役目を背負わされてさ。自分で言うのも何だけど、巫女は全然可愛げがないし」

「とんでもない! この身に余るありがたいお役目でござるよ。それに、我らとても相性がいいと思うのでござるが。いかがか」


 背中に長く垂らした黒髪が風に揺れ、つぶらな黒目がまっすぐに天音の目を見つめる。その表情はとても真剣で、嘘をついているようには思えなかった。


「は? 昨日会ったばかりで何を言うのよ。一目惚れでもあるまいし」

「一目惚れ……? おお、そうかも知れぬ!」


 内心の動揺を隠して噛み付く天音に、蒼馬がぱっと顔を明るくする。


「拙者、独身で生涯を終えたのでござるが、初めて会った瞬間から巫女どのこそが運命の(つがい)だとビビッときたのでござるよ」

「いやいやいや、ありえないから! 百歩譲って彼氏だとしても、歳の差ありすぎでしょ。暦ちんとこみたいに千歳も上なんて絶対に嫌!」

「千歳などとんでもない。生きておれば今年で二十五歳でござるぞ。寿命を全うしたのは去年でござる」


 まさかの回答に思わず「嘘!」と叫んだ。


「妖怪から神になったんじゃないの? 口調もござるじゃん」

「飼い主のじいちゃんがいつもスマホで時代劇を見ていたので移ったのでござるよ。侍への憧れもござったゆえ」


 何だそれは。がくりと肩を落とす天音を尻目に、耳と尻尾を器用にぴこぴこ動かしながら過去を懐かしむように話を続ける。


「拙者はしがない農耕馬でござった。けれど環境に恵まれた幸せな馬生だったでござるよ。叶うならば、まだ人間と離れたくない。これからもずっと守っていきたい。神に相成れたのは、その気持ちが通じたのだと思っておりまするよ」


 境内に集う人間たちを見渡して両目を細める。それはまるで命の一つ一つを慈しんでいるようで、天音の胸をちくりと優しく刺した。


「人と馬。巫女と神。我ら種族や役職は違えど、同じ気持ちではござらぬか。だからこそ、ずっと修行に励んでおられたのでしょう。巫女どのの弓の腕前は歴代一だと岩倉の初代様もおっしゃっていましたぞ」

「……そんな綺麗な感情じゃないって。それに歴代一だなんて言い過ぎだっつーの。先代の巫女に比べれば、アタシなんて道端の石ころみたいなもんよ」


 懐に忍ばせていたスマホを手に取り、アルバムの写真を蒼馬に見せる。そこには天音と同じ狩装束に身を包んだ女性が、雪みたいな毛並みの牡馬の横で満面の笑みを浮かべていた。


「おお、綺麗な女性でござるな。……はて、どことなく巫女どのと似ているような」

「アタシのお母さん。十年前に病気で死んじゃったの」


 蒼馬が目を見開いた。物言いたげな瞳から逃げるようにスマホに視線を落とし、極力暗く聞こえないように言葉を続ける。


「定めの巫女って知ってる?」

「祀る歳神が降りる年に生まれる巫女のことでござるな」

「そう。お母さんは定めの巫女で力も強かった。先代の歳神とも仲が良かったし、流鏑馬の腕もすごくて、百年に一人の逸材だって言われてたって。だけど癌には勝てなくて……先代の歳神も後を追うようにいなくなっちゃった。神は信仰が廃れない限り死なないのにね」


 胸の奥がキリキリと痛む。今でも忘れられない。病院にお見舞いに行くたびに痩せ細っていく母親の姿を。窓の外を眺めて、もう歳神様には会えないかもと呟く姿を。それでも天音を不安がらせないように、最期の息を引き取る瞬間まで微笑んでいた姿を。


「アタシ、お母さんが弓を射る姿が好きだった。馬に乗って風みたいに駆け抜ける姿が大好きだった。だからお母さんみたいになりたかったし、お母さんの分も頑張らなきゃって思ったの。でも……」


 ごくり、と唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。


「修行してわかった。定めの巫女じゃないアタシにはお母さんみたいな力はない。蒼馬の力だって、きっと引き出してあげられない。岩倉の本家はもちろん、口には出さないけど氏子さんたちや兄ちゃんたちもお母さんみたいな活躍をアタシに期待してる。このまま後を継いで、失望されると思うと……」

「巫女どの、それは」


 今にも消え入りそうな言葉を遮るように蒼馬が声を上げる。その時、馬追い開始の放送が流れ、眼下の歓声がより一層大きくなった。


「……こんなのアタシらしくないね」


 囁くように呟いて笑みを浮かべる。


「ごめん、変なこと言った。忘れて。兄ちゃんたちの勇姿を見届けなきゃ」


 何か言いたそうな蒼馬を無視して牧場に視線を向ける。ちょうど若武者姿の空音が堂々と口上を述べているところだった。相棒の駒子も気合十分のようだ。開始の合図とともに、馬たちが解き放たれた矢の如く馬場に駆け出していく。


 兄たちは天音よりも長く馬に乗っている。脇を固めているのも馬術クラブの熟練者たちだ。きっと今年も難なく役目を終えるだろう――しかし、その予想はすぐに裏切られた。


「……何か、馬たち興奮しすぎてない?」


 いつもよりも走るペースが早い気がする。それどころか、我先にと前に出ようとしているみたいだった。騎手たちも馬の動きを上手く制御できていないようだ。このままでは暴走して柵を越えてしまうかもしれない。そうでなくとも落馬すれば命に関わる。


「蒼馬はここにいて。アタシ、様子見てくる!」


 逸る気持ちを抑えて櫓から降りようとした瞬間、蒼馬が天音を横抱きに抱え上げた。そして、そのまま櫓の縁に足をかけて飛ぶように空中に身を踊らせる。


「ちょっと、蒼馬……ぎゃあ!」


 激しい風音を天音の悲鳴が切り裂いていく。地面に着地すると同時に蒼馬は一頭の青毛の馬に変化すると、間髪入れずに天音の首根っこを咥えて背中に乗せた。


 どういう仕組みかわからないが、着ていた服は馬具に変化したようだ。しっかりと手綱を握り、振り落とされないように太ももに力を入れる。


 境内を爆走する人馬に参拝客はこぞってカメラを向けたが、おそらく綺麗に撮れてはいないだろう。元農耕馬とは思えない速度で大鳥居を抜けて馬場に飛び込んだかと思うと、暴走する馬たちの前に躍り出る。


『皆、落ち着くでござる! 騎手を振り落としては馬の名折れでござるぞ!』


 蒼馬の(いなな)きを聞いた馬たちは一斉に大人しくなった。口々に嘶きを返すと、海を割るモーセのように天音たちの左右をすり抜け、何度か足踏みをして止まる。周囲の参拝客たちは呆気に取られていたが、やがて万雷の拍手がその場を包み、何とか無事に馬追いは終了した。


「はあああ、もおお、どうなることかと思ったわよ」


 厩舎に戻っていく馬と騎手たちを見送り、肩の力がどっと抜ける。幸いにも誰一人として怪我はなく、馬たちの興奮もすっかり落ち着いた様子だった。


 背中で脱力する天音を励ますように、蒼馬がひひんと鳴く。


「駒子が申すには、急に意識が曖昧になったと。気づいたら足が勝手に動いていて、止めたくとも止められなかったとのことでござる」

「何それ。まさか病気? いやよ、そんなの。馬はアタシたちの大事な家族なのに」

「いや、あの感覚は……」


 黒い立て髪の中の耳がぴくりと動き、さっきまでとは打って変わった鋭い目つきで横を向く。


「巫女どの、あやつ」


 目を細めて蒼馬の視線の先を追う。毛むくじゃらの河童みたいな何かが、牧場の柵にもたれるように立ってニヤニヤと笑っていた。周囲の参拝客が誰一人として気に留めていないので、おそらく隠行か人化の術を使っているのだろう。


「あれって……妖怪?」


 天音の視線に気づいた河童もどきが忌々しそうに舌打ちをした。そのまま逃げ出そうとするも、こちらは馬だ。あっという間に追いつき、牧場の隅に追い詰めた。


「おいおい、熱烈だねえ。こんなしがない人外一匹を追い回すなんざ」


 河童もどきは「ヒッヒッ」と泣き出す直前の赤ちゃんみたいな声で笑い、卑屈な目つきで天音を見上げた。


 よく見ると河童なのは顔だけで、体はやたら腕の長い狒々だった。口裂け女のように大きく裂けた口から鋭い牙が覗いている。身にまとった赤いちゃんちゃんこは擦り切れてボロボロになっていて、河童もどきが重ねてきた月日の長さを想像させた。


「あんた、一体何者なの? もしかして、さっき駒子たちに悪さをしたのって」

「定めの巫女でもないくせに、オイラの本性が見えるとは大した見鬼……いや、神の巫女だから神眼持ちか。相変わらず小憎らしい顔をしてるねえ、岩倉の後継さんよ」

「っ! あんた、アタシのこと知ってるの?」


 蒼馬の背中から身を乗り出す天音に、河童もどきは媚を売るように両手を擦り合わせた。


「そりゃあもう。あんたの先祖にはとてもお世話になったからね。こう見えても、かつては蒼馬沼のヌシだったのさ。開拓時代にはミントゥチと呼ばれたこともあったっけね」

「堕ちた神でござるな。名も神格も奪われ、ただの妖に成り下がったか」


 嫌悪感が滲んだ蒼馬の言葉に、元ヌシはにぃっと笑った。


「そうとも簒奪者(さんだつしゃ)が。お前らのせいでオイラはこんな姿になっちまった。多少人を食ったぐらいで千年も封印しなくてもいいだろう」


 蒼馬沼は千年前にこの地にあったとされる底なし沼だ。あまりにも人や馬を飲み込むので天音の先祖が埋め立て、その上に神社を建立したという。


「まさか禁足地の祠って……」

「窮屈な住まいを与えてくださり、慈悲に感謝するよ。この千年、ずうっと封印が解ける機会を伺っていたのさ。あんたの母親が死に、先代の歳神が後を追ってくれたおかげで、こうして自由になれた。さっきのは今までの意趣返しさ」


 かあっと頭に血が上り、蒼馬の手綱を握る手がわなわなと震えた。身勝手な復讐心で馬や兄たちに危害を加えたこともそうだが、母親たちを嘲る口調が何よりも許せなかった。


「ふっざけないでよ! 元はといえばあんたが悪さしたからでしょうが!」


 突然の大声に周囲の参拝客たちが一斉に天音を見た。関わらない方がいいと判断したのか、そそくさとその場を離れていく。


 人外相手にここまで怒りを覚えたことはない。制止する蒼馬を振り切って背から飛び降り、近くにあった鋤を元ヌシに突きつける。


「ご先祖様みたいに封印なんて生ぬるいわ。現世から消し去ってやる!」

「おやあ? 定めの巫女でもないあんたにオイラを祓う力があるのかい? 見たところ、歳神も神になりたての若神じゃないか。オイラのことを聞かされていなかったのも、可愛い可愛い子孫を無駄死にさせたくなかったからだろうに。その想いを無駄にしていいのかい?」


 ニヤニヤ笑いを返され、喉が詰まる。ちらりと肩越しに蒼馬を伺ったが、否定しないところを見ると元ヌシの言うことは正しいようだ。


「残念だねえ。悔しいねえ。あんたの母親ならオイラなんて一瞬で追い払えただろうに。定めの巫女じゃないばかりにねえ」


 ――アタシだって、お母さんみたいになりたかったわよ!


 そう心の中で叫んでぐっと唇を噛み締めた時、馬から人の姿に戻った蒼馬が静かに口を開いた。


「どうも貴殿は娯楽に飢えているようでござるな」

「そりゃあねえ。さすがのオイラも千年は長かったさ。久しぶりの自由だ。これから何をしてやろうか楽しみで仕方ないよ」

「――では、僭越ながら拙者と賭けなどいかがでござるか?」


 ちらりと天音に目配せし、蒼馬が話を続ける。


「これから始まる流鏑馬神事で、我が巫女どのが全ての的を射抜けばこちらの勝ち。大人しくこの地より退散していただきたい」

「はあ? あんた何言って……」


 目を剥いて食ってかかろうとしたが急に声が出なくなった。


 きっと神力を使ったのだろう。巫女とはいえ神には勝てない。うーうーと唸りながら睨みつける天音を尻目に、蒼馬は「どうでござるか?」と返答を促した。


「嫌だね。この地の岩倉は先祖代々弓の名手じゃないか。賭けに乗ったところで、オイラに得はないだろう」

「もし射抜けなければ、拙者は貴殿に力を渡して大人しく消えるでござるよ。悪い話ではなかろう?」

「へえ?」


 元ヌシの耳がぴくりと動いた。興味深そうに蒼馬を見やり、柵にもたれて両腕を組む。


「オイラをまた神にしてくれるってことかい。そりゃまた豪気なことだ」

「神に二言はござらん。堕ちたとはいえ貴殿も神。誓約の強制力は存じているでござろう?」


 しばしの沈黙の後、元ヌシはチェシャ猫のように口角を吊り上げた。


「その賭け乗ってやるよ。せいぜい天命ってやつを見せてみな」


 耳障りな引き攣り笑いを響かせ、体毛に包まれた膝を長い手でポンと叩く。


 周囲に風が巻き起こり、舞い上がった積雪が天音たちの視界を隠した。そして、風がおさまった時には元ヌシの姿はどこにもなかった。


「やれやれ。神のくせに大層タチの悪い御仁でござる。巫女どののご先祖と当時の歳神は相当苦労したでござろうな」

「やれやれ、じゃないわよ! あんた一体何考えてんの!」


 ふうとため息をつく蒼馬に食ってかかるも、向こうは平然とした表情を崩さなかった。元ヌシの消えた場所を見やり、淡々と言い募る。


「あやつは巫女どのの母上なら祓えたと言うておったが、おそらく嘘でござろう。千年も封印に留めたということは、岩倉と歳神が束になっても及ばぬほど強大な力を持っている証左。このまま野放しにしておくわけにはいかぬ」

「だからって……!」

「それに、拙者はこの日のために頑張ってくれた兄上や氏子衆の想いを無為にしたくはないでござるよ。巫女どのも同じ気持ちでござろう?」


 蒼馬は不敬にも胸ぐらを掴む両手を優しく握り込むと、まっすぐに天音の目を見つめた。


「拙者は我が巫女どのを――天音どのを信じるでござる」


 それ以上何も言えなくなり、蒼馬の胸ぐらから手を離す。奇しくも同じタイミングで神社の放送が流れ、三十分後に流鏑馬神事を開始すると告げた。天音の出番は最後とはいえども、そう時間はない。


「おーい、天音! そろそろ準備しな。兄ちゃんたちもすぐに行くから!」

「おお、いかん。早く参ろう天音どの。皆に我らの晴れ姿を見てもらわねば」


 厩舎から叫ぶ青音に「承知した!」と返し、天音の手を優しくひく。


 目の前で悠々と揺れる尻尾を眺めながら、天音は荒れ狂う胸の内を抑えるので精一杯だった。


「――初めて名前を呼ぶなんて卑怯だっつーの」


 ポツリと呟いた声は、踏みしめる雪の中にただ消えていった。



 ***



『皆様、大変お待たせいたしました。最後の射手を務めますのは、当社の第四十二代神子・岩倉天音と神馬の蒼馬号です。繰り返しのお願いになりますが、馬が驚いてしまうためフラッシュ撮影はご遠慮いただいております……』


 鳴り響く拍手の中、紅白の馬具で飾られた蒼馬の手綱を操り、所定の位置で止まる。


 左手側には森に沿って並んだ三つの的。右手側にはまっすぐに伸びた木柵。氏子衆が張り切って技を披露してくれたおかげか、元ヌシが起こした事故の後にも関わらず、場内は多くの参拝客でざわめいていた。


 家族や氏子衆も本部の白いテントの下で天音を見守っている。さりげなく周囲に視線を巡らすが、元ヌシの姿は見当たらない。きっと、どこかであのニヤニヤ笑いを浮かべて賭けに勝つ時を待っているのだろう。

 

 喉がカラカラになり、手綱を握る手が震える。天音が失敗すれば蒼馬は消えてしまう。それどころかこの地に災いを呼んでしまう。


 脳裏に母親の姿がよぎる。空に向かってまっすぐに伸びた背中。重圧をものともしない笑顔。もしも、ここにいるのが母親だったなら堂々と前だけを見つめていただろうに。


『天音どの、皆が待っているでござるよ』


 蒼馬の声にはっと我に返り、大きく首を横に振る。


 ――ダメ、集中しないと。


 心を落ち着かせるために深呼吸する。


 たとえ母親に及ばなくても、やるだけのことはやらなければ。この世の安寧と五穀豊穣を祈ること。それが千年続く天音のお役目だ。今ばかりは逃げ出すわけにはいかない。


「行くわよ、蒼馬!」

『合点承知!』


 空音が放った鏑矢の音を合図に、丁寧に除雪された馬場を駆ける。


 矢を射るためには手綱から両手を離さなければならない。いつもの訓練を思い出しながら冷静に弓を構え、矢をつがえる。


「エーイヤアッ」


 天音の声に呼応して矢が的に突き刺さる音が響く。


 一つ目、成功。


 二つ目、成功。


 一斉に巻き起こる歓声。残るは一つだけだ。


 最後の的に向けて矢をつがえたその時、森の中から飛んできた雪玉が天音の顔に命中した。弾みで大きく手がぶれ、解き放たれた矢が空に向けて飛んでいく。


 漏れる嘆息。


 天音の名を呼ぶ兄たちの声。


 そして、地を駆ける蒼馬の蹄の音。


 三つ目の的が無情にも後方に流れていく。額から滑り落ちた汗が風にさらわれて宙を舞う。


 ――もう終わりなの?


 そう思った刹那、不意に蒼馬の声が耳に蘇った。


 ――拙者は天音どのを信じるでござる。


「負けてたまるかっつーの!」


 吠えるように叫び、馬上で九十度体を捻って後方に矢を放つ。不思議と手の震えは完全に消え、ただ目の前の獲物だけを見つめていた。


 ――当たれ!


 その祈りは天に通じたらしい。


 放たれた矢は鋭い音を立て、見事的の中心を射抜いた。


『ぜ、全的命中。全的命中です! 皆様、神事を終えた神子と神馬にあたたかい拍手をお願いいたします』


 嘆息から一転して、周囲が再び歓声に包まれる。訓練では一度も成功したことがない押捩(おしもじ)りという技だ。西洋ではパルティアンショットと呼ばれ、古代ローマ軍を翻弄したらしいと歴史オタクの友人が言っていた。


「天音! よくやったべさ!」

「本当に頑張ったね。押捩りなんて、いつできるようになったの」


 荒い息をつく天音の元に、涙を浮かべた兄たちが飛ぶように駆けてきた。


 しかし、こちらはそれどころではない。満足げに嘶く蒼馬の手綱を引き、さっき雪玉が飛んできた方向へ全力で駆ける。


 案の定、森の中には元ヌシがいた。随分と張り切って作ったのだろう。足元には歪な形をした雪玉がいくつも転がり、体毛には雪が絡みついていた。


「あんた、ふざけんじゃないわよ! 妨害なんて反則でしょうが!」

「ヒヒッ、嫌だねえ。ムキになっちゃって。可愛い顔が台無しだよ」


 こちらを揶揄うように両手を叩く。ただ顔には先ほどのニヤニヤ笑いは浮かんでいない。それどころか猛然と近づく天音の姿を認めた途端、するすると櫓の梯子を上り始めた。


「逃すかっつーの! 蒼馬!」

「応とも! しっかり捕まっているでござるよ」


 人に変じた蒼馬が天音を背負ったまま梯子を駆け上がる。さすが馬の脚力。あっという間に上まで辿り着いた。


 勢いを殺すことなく、櫓の柵に足をかけてどこかに飛び去ろうとしていた元ヌシを隅に追い詰める。元ヌシは最初に会った時と同じ卑屈な笑みを浮かべると、鼻息荒く迫る天音に向けて両手を掲げた。


「まあまあ、ちょっとした悪戯じゃないか。賭けに負けたからには大人しく退散するとも。だからその弓を収めてくれないかい」

「信じられるか!」


 間髪入れずに元ヌシに向かって矢を放つ。しかし、相手は千年もご先祖様たちを困らせてきた手練れだ。ほぼゼロ距離だったにも関わらず、あっさりと避けられてしまう。


「やれやれ。優しく言っているうちに退くべきだったねえ。――後を継いだばかりの小娘が!」


 耳をつんざくような獣の咆哮と共に激しい風が巻き起こり、長い腕が鞭の如く迫ってきた。


 避けなくてはと思うものの足が動かない。死を覚悟した刹那、蒼馬が天音の腕を強く引き、大きく半円を描いて前に躍り出た。


「蒼馬!」


 目の前の広い背中に左手を伸ばす。毛むくじゃらの長い腕が蒼馬の顔面目掛けて振り下ろされる。


 天音が悲鳴を上げるのと、頭上が俄に暗くなるのは同時だった。鼠色の分厚い雲の向こうで激しく雷鳴が轟いたかと思うと、恐ろしい速度で降ってきた矢が一筋の稲妻のように元ヌシを貫いた。


「は……馬鹿な、こんな……」


 元ヌシは驚愕に見開いた目で天音を見つめると、そのままぬいぐるみからこぼれ落ちる綿みたいにボロボロと崩れ去っていった。


 黒い塵が風に煽られて雪景色の中に消えていく。その場に残ったのは酷い耳鳴りと床に突き刺さった矢だけだ。


 しばし呆然とした後、恐々と矢を見下ろす。一見すると、どこにでもある矢に見える。しかし、矢羽は天音が使っているものと全く同じだった。


「もしかして、この矢ってさっきすっぽ抜けたやつ? 何で空から」

「堕ちたとはいえ神同士の契約でござるからな。あやつの言った通り、まさに天命というやつでござるよ。誓約の力を舐めるからこうなるでござる」

「……あんた結構頭脳派なのね」


 天音の呆れた声に、蒼馬は見事な白い歯を見せて笑った。



 ***



『お疲れ様、天音ちゃん。神事見てたよ。堕神も祓ったんだって? すごいね!』

「ありがと……っと。暦ちんったら本当にマメなんだから。さすが十二年かけて歳神様を落とした巫女」


 ポチポチと返信を打ち、スマホをジャージのポケットにしまう。境内の奥にある大集会場には、すでに顔を真っ赤にした家族、親類、氏子衆が揃って今日の神事について語り合っていた。


 酒臭い部屋の空気から逃れたくて縁側に移動する。窓の外は真っ暗だ。雪が音を吸収するのか、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。


「……何か、夢でも見てたみたい」


 今日一日の出来事を反芻する。神事から逃げ出して、捕まって、蒼馬と櫓に上り、堕ちた神と賭けをして見事に勝った。


 知らぬ間に弦で傷ついた右手を眺める。後方の的に向けて無我夢中で矢を放ったあの瞬間、天音の中で凝り固まっていた何かが一気に流れ出した気がした。


 例えるなら、冬の間に踏み固められた雪が春の訪れと共に溶け出したような。朝の自分と今の自分が同一人物とは思えない。


 窓に映る天音の背筋は天井に向かってまっすぐに伸びている。まるで元気だった頃の母親みたいに。


「ここにいたの、天音。主役なんだから目立つところにいればいいのに」


 両手にグラスを持った青音が天音の隣に腰を下ろした。すっかり若武者から大学生に戻っている。青音は下戸なので二つともオレンジジュースだ。差し出されたグラスを受け取り、遠慮なく口をつける。


「嫌よ。じいちゃんたち延々と神事の動画流すんだもん。恥ずかしいったらないわ」

「まあまあ、みんな嬉しいんだよ。十年ぶりに神子が誕生してさ」


 神子は歳神の巫女が家を継いだ時に贈られる称号だ。岩倉の中でしか聞かないので、他所がどうなのかは知らない。ちなみに神子の語源は単純に巫女からきている。


「神子って言っても、神社の経営なんて欠片もわかんないよ。大学だって兄ちゃんたちと同じ畜大に行くつもりだし」

「はは、それはみんなで手分けしてやっていこう。幸いにも、うちは人手が多いからね。もし回らなくなっても本家から人が派遣されるだろうし、心配しなくていいよ。昔ならともかく、この多様性の時代に家のために夢を諦めるなんておかしいしね」


 空になったグラスを床に置き、青音が天音を見つめる。


「本当に立派だったよ。まさかご先祖様たちが封印していた堕神も祓っちゃうなんてね。初代様の言った通りだったなあ」

「え? 初代様が?」

「そう。歳神様がこっちに降りる前に連絡もらってたんだ。まさか馬たちが暴走するとは思わなかったけどね。天音たちは絶対にやり遂げるから心配するなって言われてもハラハラしたよ」


 初代様には予知能力があったと言われている。はからずとも本当だとわかってしまったわけだが、それなら最初から教えて欲しかった。


「もー! 何で隠すのよ! こっちは必死だったのに!」 

「言ったら余計逃げるでしょ。それに俺もその方がいいと思ったんだ」

「どうしてよ。可愛い妹が苦労した方が良かったってわけ?」

「母さんが亡くなってから、ずっと気負ってたでしょ」


 ずばりと言い当てられ、二の句を継げなくなる。


「あれだけ楽しそうにしていた弓や馬術の訓練もどこか苦しそうでさ。でも、無理やりやめさせるのは違うよねって空音と話してたんだ。口では嫌がってたけど、母さんみたいになりたいっていうのは本心だってわかってたし、そのために頑張ってたのを知ってるからさ。今回の件をきっかけに、天音が自信を取り戻してくれればと思ったんだよ」


 雪が溶けた後の大地に草木が芽吹くように、青音の言葉は驚くほどすんなりと胸に入ってきた。きっと神事に挑む前の天音なら、聞く耳を持たずに突っぱねていただろう。


 天音は元ヌシとの賭けに勝っただけじゃない。母親の背中を見たあの日の――子供の頃の自分との誓約も果たしたのだ。


「……兄ちゃんたちはアタシにお母さんみたいに強い巫女になって欲しいんだと思ってた。だから自分にその力がないのが苦しくて、お役目から逃げようとしてたの」


 ぬるくなったグラスを床に置き、青音を見つめ返す。天音とそっくりな少し茶色がかった瞳だ。その奥には母親と同じ優しさが確かに宿っている。


「でも、あいつを祓ってわかった。たとえ強い力がなくても、逃げずに挑み続ければ誰かを守ることができるんだって。今まで積み重ねてきた技術はアタシを裏切らなかった。お母さんみたいにはなれないかもしれないけど、アタシはアタシらしい巫女になるつもり」

「そうだよ。天音は天音なんだから母さんとは違う巫女でいいんだよ。本家の期待とか、俺たちの気持ちとか、そういうのは考えなくていい。天音が思う通りにやればいいんだ。お役目に縛られて天音が苦しむ姿を見るのが兄ちゃんたちは一番嫌だから」

「――うん、ありがとう青兄ちゃん」


 青音の大きな手のひらが天音の頭に触れる。


 子供の頃と変わらないぬくもり。思わず目を細めたその時、外から聞き覚えのある鼻歌が聞こえてきた。


「ごめん、青兄ちゃん。アタシ」

「行っておいで。じいちゃんには適当に言っとくから」


 お言葉に甘え、集会場をそっと抜け出す。


 冷え切った空気が肌を刺したが、ちっとも寒さは感じなかった。


 歌を頼りに禁足地の中に踏み入る。蒼馬は櫓の上にいた。柵に両腕をかけて尻尾を左右に振りながら月を眺めている。


「何、黄昏てんのよ。お酒もお団子もないのにお月見のつもり?」


 ぴんと耳を立てた蒼馬が素早く振り返る。予想に反してその目は鋭かったが、天音の姿を認めた途端にほっと息を漏らして相貌を崩した。


「いやいや、先代の歳神に報告していたところでござる。我が巫女どのは見事お役目を果たされましたぞ、と」


 蒼馬の横に並び、同じく柵に両腕をかけて顎を乗せる。どこまでも広がる地平線は、夜のベールに包まれてひっそりと眠りについているように見えた。


「あんたも初代様に聞いてたの。今日のこと」


 さっき青音に聞いたことを話すと、蒼馬は首を横に振った。


「いいや、拙者は先代の遺言を受け取っただけでござる。『思うままに巫女と大地を駆けなさい。お前たちの前を阻むものは何もないのだから』と。その通りでござったな」

「そんなこと言ってたんだ……」


 呟きながら先代の歳神の姿を思い出す。


 六歳の頃に一度会ったっきりだが、蒼馬と違って物静かな老神という印象しかない。交わした言葉もそう多くなく、暦の歳神のようにスマホを使いこなせるわけでもなかったので、最期まで天音をどう思っているのかわからずじまいだった。だから、こうして蒼馬の口から先代の歳神について聞くのは不思議な気持ちだった。


「天音どのは先代の歳神が消えたのは母上の後を追ったからだとお思いか」

「まあ、そりゃ……。お母さんと仲が良かったし、後継のアタシは定めの巫女じゃないしさ。現世に下りるのが嫌になっちゃったのかなって」

「逆でござるよ。母上が亡くなられて苦しいだろうに、挫けずに頑張り続ける天音どのを見て、もう大丈夫だと満足して神の生を終えられたのでござる。人の強さには神とて及ばぬと笑ってらっしゃったそうでござるぞ」


 柵から体を離し、頭上に輝く月を仰ぐ。生を終えた神がどこに行くのかは知らない。けれどもし見ているのならば、さぞかしほくそ笑んでいることだろう。結局のところ、人は神の手のひらの上で踊っているだけなのかもしれない。


「何それ。良いように解釈し過ぎ。言ったじゃん。アタシにはお母さんみたいな力はないって。こう見えて、しっかり悩んでたっつーの」

「まあまあ、長生きすると人の心の機微には鈍くなるゆえ。拙者もそうならぬように気をつけなければいかんでござるなあ」


 はは、と笑みを漏らし、蒼馬が眉を下げた。豊かな黒髪をくしゃくしゃと掻き混ぜ、言いにくそうに言葉を紡ぐ。


「実は拙者も少々気負っていたでござる。神としてはまだまだ未熟な拙者が、天音どのを背に乗せて駆ける資格があるのかと」

「何、言ってんの。神事が無事に終わったのも、元ヌシを祓えたのも、あんたのおかげよ。――アタシを信じてくれてありがとう」 


 まっすぐに黒い瞳を見つめ、我ながら百点満点の笑顔を浮かべる。


 天音の気持ちは十分に伝わったらしい。蒼馬は一瞬だけ目を伏せると、静かに口角を上げてふっと息を漏らした。


「なんの。拙者こそ、侍を乗せて野をかける夢を叶えてくださり、誠にありがとうでござる。人馬一体とはまさにこのことでござるな!」


 先ほどまでの殊勝な様子はどこへやら。大きく胸を張る蒼馬に思わず吹き出す。


「確かにね。あんたの背中に乗った時、まるで風になったみたいだって思ったもん。あんたが言う通り、アタシたち案外相性いいのかも」 


 けらけらと笑う天音を蒼馬はただ口を開けて眺めている。かと思えば浅黒い肌を朱に染め上げ、飛びつくようにこちらに向き直った。


「な、なら拙者の番になってくださらんか。結婚の約束をしたものならば、十二年に一度ではなく十二日に一度会いに来られるゆえ」

「ええ? それ本気だったの? まさか時代劇見たいからとかじゃないよね?」

「本気でござるよ! 言ったでござろう? 拙者、一目見た時から天音どのを……」

「ちょ、ちょっとストップ! でかいのにグイグイ来られると怖いから少し離れて。これから頻繁に現世に降りるなら人との距離感考えなさいよね」


 目に見えてしゅんとする蒼馬に内心笑みを噛み殺しながら、少しでも頭の位置が近くなるように背筋を伸ばす。


 こうして改まると少し気恥ずかしい。こほん、と咳を一つしてやや早口に言葉を続ける。


「まあ、いいわ。でも私たち、まだ新米同士だからね。これから何があるかわかんないし、とりあえずは婚約までってことで」


 かすかな月明かりを掴むように、すっと右手を差し出した。


「これからもよろしくね、相棒」

「もちろんでござる! 我が巫女どの」


 ぱあっと顔を輝かせた蒼馬が力強く天音の手を握り返す。


 細い腕と、逞しい腕。正反対の腕が手綱みたいに一人と一柱の間を繋いでいた。


 どうやら、歳神様から逃げる方法はないらしい。

一人と一柱の物語は始まったばかりだ!

というわけで、元旦から十日以上も過ぎた投稿でしたがお楽しみいただけたでしょうか。

作中の北海道弁ですが、当方関西民ですので間違っていたら申し訳ございません。

皆様にとって、良い一年でありますように。


↓登場人物まとめ


岩倉天音いわくら あまね 18歳

蒼馬磐座神社の巫女。花も恥じらう女子高校生。弓道部所属。受験生なのに流鏑馬神事をさせられることを嫌がっていた……が、実際は怖がっていただけ。

人外の姿を目視できるが、そこまで力は強くない。

馬の25歳は人間で言うと70歳以上だということをすっかり失念している。


蒼馬大神そうまのおおかみ 25歳(神としては1歳)

神になったばかりの午の歳神。元・農耕馬。

主人のお爺ちゃんとスマホで時代劇を見るのが何よりも好きだった。なので、口調がやや時代がかっている。

侍を背中に乗せて走るのが夢。

天音に一目惚れして、まっしぐらに婚姻を結ぼうとしている。馬だけに。


岩倉空音いわくら そらね 24歳

天音の兄。畜大を出て、父親の経営する牧場で働いている。ハナコ(生まれたばかりの豚の赤ちゃん)の名付け親。

無骨で無口だが妹想い。たまに喋るも、訛りがちなので天音によく注意されている。


岩倉青音いわくら あおね 22歳

天音の兄。畜大獣医学部在住。神事の手伝いのために帰省してきた。空音と違い、穏やかで知的なタイプ。ほとんど訛らない。空音よりはシスコンではない。

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