雷鳴歌 ‐‐‐‐大正ノイズ、魂の叫びは時を超えて‐‐‐‐
序章:金色の鳥籠、沈黙の弦音
大正十年、東京。華族の邸宅が立ち並ぶ一角に、葉月の住まう侯爵家の屋敷はあった。磨き上げられた檜の廊下、季節の移ろいを映すように生けられた床の間の花、庭園の松や楓は、名うての庭師の手によって寸分の狂いもなく手入れされ、その全てが完璧な調和を保っている。しかし、その完璧すぎるほどの静謐と調和は、十八歳の葉月にとって、まるで美しく磨き上げられた金色の鳥籠の柵のように、息苦しい重圧となって細い肩にのしかかっていた。朝、小鳥のさえずりよりも先に聞こえるのは、遠くで微かに響く使用人たちの衣擦れの音と、規則正しい足音。それすらも、定められた作法に則っているかのように控えめだった。
葉月の時間は、まるで精巧な時計のように細かく区切られていた。茶道、華道、書道、そして琴。どれもが日本の伝統美を体現する、尊く奥深い芸事であることは理解している。しかし、葉月の魂は、その型にはめられた美しさに決して満たされることはなかった。琴の師匠は、葉月の指運びの正確さと、淀みない音色を褒めそやす。けれど、葉月自身には分かっていた。その弦から生まれる音は、まるで美しく装飾された人形が奏でる自動演奏のように、感情の温度も、魂の震えも伴っていなかった。ただ、決められた譜面を、決められた通りに、美しくなぞっているだけ。その行為が、葉月には耐え難い虚無感を伴っていた。
「葉月、またぼんやりとして。近々、高倉様がいらっしゃるのですよ。少しは心構えというものを…」
母、綾乃は、刺繍の手を休めることなく、しかし鋭い視線を葉月に向けた。綾乃にとって、娘の葉月が新興財べる高倉家の御曹司、静也と結ばれることは、没落しかけた侯爵家を立て直し、何よりも葉月自身の幸福に繋がると信じて疑わなかった。高倉静也は、若くして欧米遊学の経験を持ち、その明晰な頭脳と大胆な事業手腕で財界にその名を轟かせ始めている、まさに時代の寵児だった。
「高倉様は、あなたに望外の幸運をもたらしてくださる方。伝統ある我が家と、新しい力を持つ高倉家が結びつくことは、未来永劫の安泰を意味するのです。あなたも、もう子供ではございません。女の幸せとは何か、よくお考えなさい」
母の言葉は、いつも正しい。そして、その正しさが、葉月の胸を締め付けた。定められたレールの上を、ただ静かに、美しく進んでいく。それが、本当に自分の望む生き方なのだろうか。庭の隅に植えられた名も知らぬ草花が、時折強い風に吹かれても必死に花を咲かせようとする姿に、葉月は自らの姿を重ねていた。誰にも気づかれずとも、自らの力で咲きたい、と。
心の奥底に燻る小さな火種は、明確な形を持たないまま、しかし確実に熱を帯びていた。それは、この息苦しい鳥籠をいつか焼き尽くすほどの炎になるのではないか、という漠然とした、しかし抗いがたい予感だけが、葉月の魂を微かに震わせていた。父が生きていた頃は、まだ屋敷にも違う空気が流れていたように思う。世界中を旅し、奇妙なもの、美しいもの、時には得体の知れないものまで持ち帰っては、幼い葉月に目を輝かせて語って聞かせた父。その父が亡くなって十年。父の面影は、日に日に薄れていくようだった。
ある長雨の続く日の午後。しとしとと降り続く雨音は、まるで葉月の内にある晴れない憂鬱を増幅させるかのようだった。華道のお稽古も上の空で、師範の言葉は右から左へと通り過ぎていく。午後の時間を持て余し、自室の窓から雨に煙る庭を眺めていると、言いようのない焦燥感が葉月を襲った。このままではいけない。何かが変わらなければ、私はこの美しい鳥籠の中で、本当に感情のない人形になってしまう。
ふと、屋敷の離れにある古い蔵のことが脳裏をよぎった。そこは、父の遺品の中でも、特に珍しいものや、母があまり人目に触れさせたくないような品々が収められていると、幼い頃に乳母からこっそり聞いたことがある。普段は南京錠で固く閉ざされ、使用人たちも滅多に近寄らない、忘れられたような場所だ。父の旅の痕跡、葉月の知らない父の一面、そして、もしかしたら、この息苦しさから解放される「何か」が、そこに眠っているのではないか――。
そんな淡い期待と、禁じられた場所への抗いがたい好奇心に背中を押されるように、葉月は母や使用人たちの目を盗み、父の書斎から古い鍵束を持ち出した。いくつかの鍵を試すうち、重々しい音を立てて蔵の錠が開いた。
第一章:蔵の中の雷鳴、魂の覚醒
重い木の扉を押し開けると、ひんやりとした湿気と、長年閉ざされていた空間特有の埃っぽい匂いが葉月の鼻腔をくすぐった。差し込むわずかな光が、空気中に舞う無数の塵をきらきらと照らし出す。薄暗い蔵の中には、父が集めたのであろう異国の品々が、まるで忘れられた記憶のように無造作に積み重ねられていた。見たこともない意匠の陶磁器、象牙の彫刻、読めない文字がびっしりと記された羊皮紙の束、そして、用途の分からない奇妙な形をした金属製の機械類。それらは父の情熱の断片であり、葉月にとっては未知の世界への入り口のように感じられた。父は一体、これらの品々に何を見て、何を感じていたのだろうか。
蔵の奥深く、他の荷物に埋もれるようにして置かれていたのが、煤けて古びた大きな木製の箱だった。上部には朝顔の花のように開いた金属製のラッパのようなものが取り付けられ、側面には銀色のハンドルといくつかのダイヤルが見える。蓄音機だ。父がどこかの異国から持ち帰った珍品の一つなのだろう。葉月も、西洋音楽の演奏会などで何度か目にしたことはあったが、これほど古めかしく、そして異様な存在感を放つものは初めてだった。
その蓄音機のすぐ脇に、まるで主を待つかのように数枚の黒い円盤が立てかけてあった。蝋のような光沢を放つ表面には、細かく複雑な溝が無数に刻まれている。そして、そのどれもが無地だった。レーベルも、曲名も、演奏者の名も何一つ記されていない、ただただ深い黒。それはまるで、全てを吸い込んでしまう夜の闇のようでもあり、まだ見ぬ宇宙の深淵のようでもあった。
葉月は、まるで何かに導かれるように、その中の一枚をそっと手に取った。指先に伝わる、冷たく滑らかな感触。溝を軽くなぞると、微かな振動が伝わってくるようだ。言いようのない好奇心と、わずかな恐れを感じながら、葉月はその円盤を蓄音機のターンテーブルに慎重に乗せた。ゼンマイを巻くハンドルを回すと、ぎしぎしと固い金属が軋む音が、蔵の静寂に響いた。そして、震える指で、針が付いたアームをそっと円盤の上に下ろした。
針が黒い円盤の溝に触れた、その刹那――。
予期せぬ轟音が、蔵の淀んだ空気を引き裂いた。それは、葉月がこれまで耳にしたどんな音とも、決定的に異質だった。まず、腹の奥底を直接掴んで揺さぶるような、地を這う重低音。まるで巨大な獣の咆哮か、あるいは大地の怒りのようだ。次いで、鼓膜を突き破り脳髄を直接かき回すような、鋭く歪んだ高音の連続。それは悲鳴のようでもあり、ガラスが砕け散る音のようでもあった。そして、それらの音塊を縫うように、あるいは叩きつけるように刻まれる、複雑で野蛮なリズム。鎖を引きずるような重々しさ、嵐が全てを薙ぎ倒すような激しさ、そして、原始の儀式で打ち鳴らされる太鼓のような呪術的な響き。葉月は立っていることすら忘れ、全身の血が逆流するような衝撃にただただ貫かれていた。それは音楽というよりも、音の洪水、混沌の奔流だった。
その混沌とした音の奔流の上に乗っていたのは、人間の声とは思えない、全身の血を沸騰させるような叫びにも似た歌声だった。それは、美しい旋律を奏でるのではなく、怒り、悲しみ、絶望、喜び、そして抗いがたい渇望といった、剥き出しの感情そのものを叩きつけてくるようだった。今まで葉月が、淑女として、侯爵家の令嬢として、心の奥底に押し殺し、蓋をし続けてきたあらゆる感情が、その音と声によって強制的に抉り出され、解放されていくような感覚。
葉月はあまりの衝撃に、その場に縫い付けられたように立ち尽くした。耳を塞ぎたくなるような、不快で暴力的な音の塊。それなのに、なぜか身体は硬直し、その音から逃れることができない。それは、ただ耳障りなノイズの集合体でありながら、葉月の魂の最も深い場所に、今まで眠っていた何かを根源から叩き起こし、激しく揺さぶっていた。抑圧され、閉じ込められていた感情が、音の波に乗って暴力的に解き放たれていくような、恐ろしくも甘美な感覚だった。
音は数分で唐突に止まった。嵐が過ぎ去った後のような、異常なまでの静寂が蔵の中を満たした。その静寂は、以前よりもずっと深く、重く感じられた。葉月は震える指先で、まだ回転を続ける円盤にそっと触れた。冷たく、硬い感触。これは一体、何なのだろう。父が世界中から集めた珍品の中でも、これは最も異質で、理解を超えたものだ。まるで、遥か遠い未知の場所から、あるいはまだ存在しないはずの未来から、誤って届けられた音のようだ。それは、後の時代に『ロック』と呼ばれることになる音楽の、最も原始的で純粋な魂の叫びであったのかもしれないが、大正時代の葉月にそれを知る由もなかった。
しかし、葉月の心を占めたのは、恐ろしいという感情よりも、もう一度あの音を聴きたいという、抗いがたい強烈な衝動だった。まるで禁断の果実を味わってしまったかのように、葉月は再びゼンマイを巻き、震える手で円盤に針を落とす。
再び、雷鳴が轟く。
二度、三度と繰り返し聴くうちに、葉月はそのノイズの奔流の中に、奇妙な「構造」のようなものがあることに気づき始めた。繰り返されるリズムのパターン、感情の起伏をなぞるように変化する歌声の抑揚。そして、複数の異なる音色の楽器が、複雑に、しかし意図的に絡み合っていること。それは、葉月が知る日本の伝統楽器とも、西洋のオーケストラで使われる一般的な楽器とも全く違う音色だった。地を這うような低い轟音を出す弦楽器。空気を切り裂くような鋭い高音を出す、これもまた弦楽器だろうか。そして、全身を叩きつけるような激しいリズムを刻む、いくつもの打楽器。それぞれが独立した個性を持ちながら、一つの巨大なエネルギーの塊となって葉月の魂に突き刺さってくる。
これは、音楽だ。葉月が知るどんな音楽とも全く違う、しかし、紛れもなく、これは音楽なのだ。
葉月はその音を「雷鳴歌」と心の中で名付けた。初めて聴いた時の、まるで天から落ちてきた雷鳴のような衝撃と、魂を根こそぎ揺さぶる歌声に相応しい名だと思えたからだ。
誰にも見つからぬよう、細心の注意を払い、葉月は蓄音機とあの無地の黒い円盤を数枚、自室の押し入れの奥深くに密かに持ち込んだ。それは、彼女だけの秘密であり、この息苦しい現実から逃れるための、禁断の扉となった。
それから毎夜、家族が寝静まり、屋敷全体が深い静寂に包まれた後、葉月は自室で密やかに雷鳴歌を聴いた。音量を最小限に絞り、布団を頭まで被り、耳を澄ませる。蓄音機から漏れる微かな音は、それでも葉月の鼓膜を震わせ、魂を揺さぶった。雷鳴歌は、聴けば聴くほど葉月を深く捉えて離さなかった。それは単なるノイズではなく、強烈な生命力と、人間の最も根源的な感情に満ち溢れた音だった。定められた様式美や、計算された調和の中には決して存在しない、野生的な、あるいは衝動的な、剥き出しの輝きを放っていた。
そして、いつしか葉月の心には、新たな、そして抗いがたい渇望が芽生え始めていた。
この音を生み出したい。この魂の叫びを、私自身の声で、私自身の楽器で、この世界に響かせたい。
その衝動は、日を追うごとに雪玉のように大きく、そして強くなっていった。それはもはや、単なる憧れではなく、生きるための強烈な目的意識へと変わりつつあった。
第二章:古物商源三郎と異形の楽器
葉月は手持ちの琴や三味線で、あの雷鳴歌の断片だけでも再現しようと試みた。琴の絹糸を、いつものように優雅に爪弾くのではなく、まるで怒りをぶつけるかのように、手のひらや撥で強く叩いてみる。優美で繊細な音色は見る影もなく失われ、不協和音に近い、歪んだノイズが響く。しかし、その歪みの中に、葉月は確かに雷鳴歌の持つ荒々しさの片鱗を感じ取った。三味線を床に置き、太い弦を指で強く押し付け、胴に響くような低音を出そうと試みるが、あの地を這うような轟音には程遠い。あの雷のような轟音と、稲妻のような高音は、一体どうすればこの手で生み出せるのだろうか? そして、あの嵐のような激しいリズムは? 従来の楽器とその奏法では限界があることを痛感した葉月は、あの音を出すための未知の「何か」を探し求めるようになった。華族の令嬢としての教養や嗜みとはかけ離れた、まるで禁断の知識を求めるかのような探求だった。
そんな中、葉月は街の賑やかな表通りから一本入った、薄暗い裏通りにひっそりと佇む一軒の古物商の噂を耳にする。店の名は「源泉堂」。主の源三郎という老人は、古今東西の珍しい品々、曰く付きの骨董品からガラクタ同然の奇品までを扱い、その目利きは確かだが、相当な変わり者だという。もしかしたら、そこに何か手がかりがあるかもしれない。一縷の望みを胸に、葉月は母や使用人の目を盗んで、初めて一人でその店を訪れた。
店の古びた木の扉を押すと、カラン、と乾いた鈴の音が鳴った。店内は薄暗く、様々なものが所狭しと置かれていた。それは骨董品というよりも、世界中から集められた用途不明の道具や、見たこともない形をした楽器の残骸のようなものの山だった。埃っぽい空気の中に、古い木や金属、そして微かに異国の香料のような匂いが混じり合っている。奥の帳場には、長い白髪を後ろで無造織に束ね、仙人のような風貌の老人が座って古書を読んでいた。彼が源三郎だろう。
「……いらっしゃい。お嬢さん、このような場所に何か御用かな?」
源三郎は顔を上げ、値踏みするような、しかしどこか面白がるような目で葉月を見た。葉月が侯爵家の令嬢であることなどお見通しだと言わんばかりの、落ち着いた声音だった。
葉月は緊張で震える声を抑え、自分が探し求めている「音」について、そしてその音を生み出すための「楽器」について、必死に説明した。蓄音機から流れる雷のような音のこと、それが自らの魂を激しく揺さぶったこと、そしてその音を何としてでも自らの手で再現したいという、切実な衝動を。それは支離滅裂で、他人が聞けば狂人の戯言としか思えないような話だったかもしれない。
しかし、源三郎は眉一つ動かさず、葉月の話を最後まで黙って聞いていた。そして、ふむ、と一度深く頷くと、皺だらけの顔に不思議な微笑を浮かべた。
「雷鳴歌、とな。雷の音のような歌、か。ほう、それは面白い。わしも長年、世界中の様々な音と、それを生み出す道具を見てきたが、お嬢さんの話すその音は、どうもこの世の音ではないように聞こえるのう。あるいは、まだこの世にはっきりと生まれ落ちていない音、とでも言うべきかのようだ」
源三郎は葉月の言葉を一笑に付すことも、否定することもしなかった。むしろ、その瞳の奥には深い共感と、強い好奇心の光が宿っているように見えた。彼はゆっくりと立ち上がると、「こっちへ来なされ」と葉月を手招きし、店のさらに奥、薄暗い一角へと導いた。
そこには、数本の太い金属弦が張られた奇妙な形の絃楽器、動物の皮を張った大小様々な太鼓、そして金属製の板や棒がいくつも吊り下げられたものなどが、埃を被って置かれていた。どれも、葉月がこれまで目にしたどんな楽器とも似ていない、異様で原始的な雰囲気を放っていた。
「これらはな、遠い異国の地で、名もなき職人たちが作ったものや、あるいはわしが旅の途中で見つけたガラクタ同然のものじゃ。西洋の洗練された楽器とは違うが、それぞれが面白い音を出す。お嬢さんの言う『雷鳴歌』の欠片が、この中にあるやもしれん」
葉月は恐る恐る、その中のひとつ、ごつごつとした木製の胴を持つ絃楽器に触れた。数本の太い金属弦が、不格好なまでに頑丈な棹に張られている。それは、優美さとは無縁の、力任せに叩きつけるように弾くことに耐えうるような無骨な造りに見えた。指でそっと弦を弾くと、硬く、低く、そして長く尾を引くような響きがした。いくつか試させてもらううち、思い切り弦をバチのような木の棒で叩きつけた時、腹の底を揺るがすような鈍い轟音や、耳を劈くような鋭く荒々しい金属音が出せることに気づいた。別の、大きな羊皮の太鼓は、強く叩くと体の芯にズシンと響くような重いリズムを刻み、吊り下げられた金属片は、叩くとあの雷鳴歌の中で聴いた耳障りな高音によく似た、鋭く歪んだ音を発した。
これらの異形の道具は、この時代の洗練された楽器からは決して生まれることのない、原始的で力強い、剥き出しの響きを秘めていた。音量は小さく、未熟ではあったが、その響きには、紛れもないあの「雷鳴歌」の片鱗があった。それは、あの嵐のようなリズム、あの雷のような轟音、あの稲妻のような高音を呼び起こす可能性を秘めた、希望の音だった。
「面白いだろう?音楽というのはな、なにも美しい旋律や調和だけが全てではない。魂を揺さぶる衝動、それ自体が音になることもあるんじゃよ」
源三郎はそう言って、葉月に発声の訓練も施し始めた。それは淑女教育で教わるような、喉で美しく歌う技術とは全く異なるものだった。腹の底から声を絞り出すこと、感情を濾過せずにそのまま声に乗せること、時には叫び、時には呻くように。それは、葉月にとって淑女としての仮面を剥ぎ取り、内なる獣を解き放つための、苦しくも解放的な訓練だった。最初は戸惑い、声にならない声しか出せず、恥ずかしさで顔を赤らめるばかりだった葉月も、雷鳴歌を奏でたい一心で、源三郎の奇妙だが的確な指導のもと、懸命に取り組んだ。
葉月の生活は、源泉堂と雷鳴歌の探求によって一変した。日中、決められたお稽古の最中も、頭の中では常にあの激しい音が鳴り響き、指先は無意識にリズムを刻んでいるようだった。琴の稽古は、以前のような退屈な義務ではなくなり、どうすればこの伝統楽器で雷鳴歌の持つ衝動の片鱗を表現できるだろうか、と試行錯誤する実験の場へと変わった。源三郎の店に通う時間は日増しに増え、帰宅が遅くなることも多くなった。
第三章:高倉静也の困惑と引力、そして決別
当然のことながら、周囲の人々は葉月の変化に気づき始めていた。特に母の綾乃は、日に日に痩せ、どこか上の空で、時には異様な熱っぽさを瞳に宿す娘の奇行に心を痛め、侯爵家の名に傷がつくのではないかと深く憂慮していた。医者を呼んで診察させようとしたり、外出を厳しく制限しようとしたりもしたが、葉月の内なる炎は、もはや誰にも消し止めることはできなかった。
そんな葉月の内面の激しい変化と、周囲との間に生じ始めた不協和音に、縁談相手である新興財閥の御曹司、高倉静也が鋭敏に気づき始めていた。彼は、伝統や旧習に必ずしも重きを置かず、西洋の合理主義や新しい技術、芸術文化にも深い理解と関心を持つ、新時代の旗手のような青年だった。母は彼との縁談を一日も早くまとめることに躍起になっていたが、当の高倉自身は、葉月との何度かの面会のうちに、彼女がただの美しく従順な人形ではないことを見抜き始めていた。
以前の葉月は、確かに非の打ちどころのない美しさと教養を備えた令嬢だったが、どこか生きた感情の温度が感じられなかった。しかし、今の葉月は、何かに取り憑かれたかのように瞳を輝かせ、時折、常軌を逸したような言動を見せる。その危うさと、内側から迸るような強烈な光に、高倉は困惑しつつも、抗い難い興味と、そして微かな引力を感じ始めていたのだ。
ある日の午後、高倉は葉月との面会のため、いつものように侯爵家の屋敷を訪れた。応接間で型通りの挨拶を交わした後、母がお茶の用意をさせるために席を外した、ほんの短い時間だった。庭の剪定された皐月を眺めていた高倉が、不意に静かな声で葉月に語りかけた。
「葉月さん。近頃、何か…あなたの内側で大きな変化があったように見受けられます。もし差し支えなければ、お聞かせ願えませんか? あなたの瞳は、以前とは違う輝きを放っている」
高倉の真っ直ぐな瞳は、探るような鋭さと共に、どこか憂いを帯びたような、そして深い知性を感じさせる光を宿していた。彼は葉月の「淑女」としての完璧な振る舞いの下に、何か巨大な、そして測り知れないものが隠されていることに気づいていたのだ。
葉月は一瞬言葉に詰まった。この人に、自分の秘密を、あの雷鳴歌のことを話してしまっても良いのだろうか。常識ある彼に理解されるはずがない。軽蔑されるかもしれない。しかし、彼の真摯な眼差しと、どこか新しいものを受け入れようとする柔軟な雰囲気を感じ取り、葉月は賭けてみる気になった。もしかしたら、この人なら…という微かな、しかし確かな期待が胸に込み上げてきた。
葉月は意を決し、訥々と、しかし熱を込めて語り始めた。父の蔵で見つけた奇妙な蓄音機と無地の円盤のこと。そこから流れた、今まで聴いたこともない衝撃的な音のこと。それが自らの魂を根底から揺さぶり、新たな生きる意味を与えてくれたこと。そして、その音をこの手で生み出したいと願い、古物商の源三郎の元に通い、見たこともないような絃楽器や響胴と呼ばれる太鼓、金打という金属楽器に触れていること。それは、誰にも理解されない孤独な探求であり、自分自身でもまだ掴みきれていない衝動なのだと。
高倉は葉月の話を遮ることなく、眉間に皺を寄せ、時には驚きの表情を浮かべながらも、終始真剣な面持ちで聞き入っていた。彼の瞳の奥には、最初は純粋な驚きと困惑の色が濃かったが、次第に深い興味と、葉月の語る言葉の奥にある純粋な情熱に対する畏敬の念のような光が宿り始めていた。
「……雷鳴歌、ですか。まるで神話か何かのようなお話ですね。そして、それを貴女様ご自身の手で再現しようとされている、と。…正直に申し上げて、私には貴女様が語る音の概念も、その価値も、すぐには理解できそうにありません。しかし」
高倉は一度言葉を切り、葉月の目をじっと見つめた。
「しかし、その未知なる音に貴女様がどれほどの情熱を傾けていらっしゃるのかは、痛いほど伝わってきます。その、全てを擲ってでも追い求めようとする純粋なまでの渇望は……私の心を打ちます。新時代の担い手として、常に新しいもの、常識を覆す革新的なものを求めてきた私自身の琴線に、予期せず触れたのかもしれません」
高倉は困惑していた。彼の合理的な精神は、葉月の語る超現実的な体験と、そこから生まれた衝動を容易には受け入れられない。しかし、同時に、彼女の放つ剥き出しの情熱、旧弊な殻を打ち破ってでも自己を表現しようとする強烈な意志は、彼が信奉する「新しい時代」の精神そのものと共鳴する部分があった。葉月の存在そのものが、彼の確立された価値観や世界観を静かに、しかし確実に揺るがす「ノイズ」のように感じられたのかもしれない。
「もし、もしご迷惑でなければ……貴女様がその『雷鳴歌』とやらを再現しようとされている試みを、ほんの少しだけでも、私に聴かせていただくことは叶いますでしょうか? 私の理解が及ぶかは分かりませんが、貴女様が見ている世界の一端に触れてみたいのです」
高倉の突然の、そして真摯な申し出に、葉月は息を呑んだ。この秘密を、まだ形にもなっていない未熟な音の欠片を、誰かに聴かせるなど考えたこともなかった。ましてや、定められた婚約者である彼に。しかし、彼の真剣な眼差しと、あの音への探求心を頭から否定しない懐の深さに、葉月は再び賭けてみようと思った。この人になら、あるいは。
葉月は無言で頷くと、一度自室に戻り、源三郎から借り受けていた小さな、しかし頑丈な造りの絃楽器を持ってきた。それは、まるでリュートを原始的にしたような、あるいは琵琶を荒々しくしたような奇妙な形をしていた。高倉の前に再び座ると、葉月は深く、長く息を吸い込んだ。そして、一瞬目を閉じる。脳裏にあの蔵で聴いた雷鳴歌の轟音と叫びを蘇らせる。淑女としての全ての抑制を振り払い、内なる獣を解き放つ。
次の瞬間、葉月は絃楽器の太い金属弦を、まるで憎悪を叩きつけるかのように、源三郎から教わった木の撥で力任せに掻き鳴らした。弦が悲鳴のような軋みを上げ、振動が床を伝わって高倉の足元まで響く。
――ドゥンン……ギシャアアアン……!
それは調律も何もあったものではない、耳障りで暴力的な金属音の塊だった。次いで、葉月は発声の訓練で掴みかけた、腹の底から絞り出すような、喉を潰さんばかりの声を張り上げた。それは美しい歌声とは程遠い、優雅さとは無縁の、獣の咆哮にも似た原始的な叫びだった。
――アアアアアアアアアアアアッ!
それは、到底音楽とは呼べない、不連続で、耳障りで、破壊的なノイズと叫びの断片だった。しかし、そこには確かに、あの蔵で聴いた「雷鳴歌」の持つ、歪んだ力強さと、剥き出しの感情の奔流の、ほんの僅かな、しかし確かな片鱗があった。葉月の顔には、極度の集中と、そして魂を絞り出し解き放つ苦痛と恍惚が入り混じったような、鬼気迫る表情が浮かんでいた。肩で息をし、額には汗が滲んでいる。
高倉は、その音とも言えぬ音と、叫びとも言えぬ声を聴いて、言葉を完全に失っていた。それは、彼がこれまで耳にしてきた、美しく調和のとれた西洋音楽とも、あるいは日本の伝統音楽とも、あまりにも違いすぎた。彼の整った顔には、最初は純粋な衝撃と困惑、次いで理解不能なものに対する生理的な拒否反応、そして――最後に、まるで未知の神の顕現を目の当たりにしたかのような、畏怖に近い感情が複雑に浮かんでいた。しかし、彼の視線は、その不快なはずの音そのものではなく、その音を生み出す葉月の姿に釘付けになっていた。彼女の全身から放たれる、常軌を逸した、しかし純粋で圧倒的な魂の輝きに。
短い、しかし永遠にも感じられたデモンストレーションが終わると、葉月は激しく息切れし、全身がわななくように震えていた。高倉は、まだ呆然とした表情のまま、言葉を発することができずにいた。
やがて、葉月はか細い、しかし凛とした声で言った。
「ご覧の通りです、高倉様。私は…私はもう、定められた道を、淑女として美しく静かに歩むことはできません。高倉様は素晴らしい方だと存じます。家柄も、お人柄も、将来性も、何一つ不満はございません。ですが、私は、私自身の音を、私の魂の叫びを、この世界に響かせずにはいられないのです。たとえそれが、誰にも理解されない騒音だとしても」
葉月は、高倉の揺れる視線から逃げることなく、はっきりとそう告げた。それは、紛れもない縁談を断るという意思表示だった。彼女の言葉は、静かだが、揺るぎない決意に満ちていた。
高倉はしばらくの間、押し黙っていた。彼の心の中では、常識と驚嘆、理性と感情が激しくせめぎ合っていたに違いない。やがて、彼は深く、長い溜息をつくと、静かに、しかし確かに頷いた。その表情には、期待した縁談が破れることへの落胆や哀しみと共に、葉月の狂気とも言えるほどの純粋な決意に対する、深い敬意と、そしてどこか羨望のようなものが浮かんでいた。彼は、葉月という稀有な女性、そして彼女が狂おしいほどに追い求める「雷鳴歌」という異形の存在に、抗いがたい、そして危険な魅力を感じてしまっていたのだ。彼の整然とした世界は、この日、葉月が放った魂のノイズによって、静かに、しかし決定的に揺さぶられたのだった。
「……分かりました、葉月さん。貴女様のその決意、お受けいたします。この縁談は…残念ながら、なかったことにしましょう。貴女様が選ばれた道が、いかなるものになるのか、私には想像もつきませんが…どうか、お身体だけは大切に」
彼の声には、かすかな寂しさが滲んでいた。
その後の、母の綾乃を交えての正式な話し合いは、想像を絶する修羅場となった。葉月が自らの口から縁談を辞退する旨を告げると、綾乃は最初信じられないという顔をし、次いで激しい怒りに震え、泣き崩れた。勘当も同然の言葉を叩きつけられ、葉月は侯爵家の令嬢としての地位、約束された安泰な未来、そして親子の縁さえも、その瞬間に全てを失った。しかし、葉月の心は不思議なほど晴れやかだった。金色の鳥籠の扉は、ついに開かれたのだ。
葉月は、数点の着替えと、あの無地の黒い円盤数枚、そして父の形見の小さな装飾品だけを風呂敷に包み、慣れ親しんだ屋敷の門を静かに後にした。雨上がりの空は、皮肉なほど青く澄み渡っていた。
彼女が唯一向かうべき場所は、分かっていた。源泉堂の、あの仙人のような古物商、源三郎の店だった。
第四章:路地裏の雷鳴、共鳴する魂
源三郎は、屋敷を飛び出してきた葉月を、何も聞かずに温かく迎え入れた。店の二階の、物置同然だった小さな部屋を片付けて住まいとして提供し、食事の世話まで買って出た。
「お嬢さん、いや、葉月。お前さんの進む道は、茨の道じゃろう。じゃが、魂が本当に求めるものを追いかける人生は、どんな安楽な人生よりも尊い。わしにできることは少ないが、お前さんのその『雷鳴歌』とやらの探求、とことん付き合おうじゃないか」
源三郎の皺だらけの顔には、まるで孫娘を見守るような優しい眼差しと、未知なる音楽の誕生に立ち会えることへの密やかな興奮が浮かんでいた。
葉月の新たな生活は、雷鳴歌の探求と、その音を生み出すための試行錯誤に明け暮れる日々だった。源三郎は、店にある様々な異形の楽器を惜しげもなく葉月に提供し、それぞれの楽器が持つ可能性を共に探った。葉月は、源三郎が見つけてきた、西洋のギターに似ているがもっと原始的で頑丈な作りの絃楽器「蛮絃」の金属弦を、爪や木の棒で激しく弾き、叩き、擦り付けた。皮の張られた大小の太鼓「響胴」を、まるで心臓の鼓動のように、あるいは嵐の前の地鳴りのように力強く、そして複雑なリズムで打ち鳴らした。真鍮や鉄で作られた大小の金属板「金打」を吊るし、それを叩いては、あの雷鳴歌で聴いた耳をつんざくような高音や、空間を切り裂くような鋭い残響を追い求めた。
日本の伝統楽器である琴や三味線の素養は、意外な形で彼女の助けとなった。弦の押さえ方、撥さばきの基本的な技術は、蛮絃を操る上でも応用が利き、また、日本の伝統音楽が持つ独特の間や抑揚、そして何よりも「魂を込めて音を出す」という精神性は、葉月の雷鳴歌に、西洋の音楽とも東洋の音楽ともつかない、独特の深みと個性を与え始めていた。
葉月が源泉堂の奥の作業場で生み出す音は、相変わらず歪で、荒々しく、多くの者にとってはただの不快な騒音、あるいは理解不能な不協和音にしか聞こえなかっただろう。しかし、葉月自身と、そしてその音に何かを感じ取って集まり始めたごく僅かな聴衆にとっては、それは魂そのものの響きであり、抑圧された感情の爆発であり、新しい時代の到来を告げる産声のようにも感じられた。
蛮絃の激しいかき鳴らし、響胴の地の底から響くような重い連打、金打の脳髄を直接刺激するような突き刺す高音、そして葉月の、訓練によって少しずつだが確実に力を増してきた、魂を絞り出すような原始的な歌声。それらは、技術的な洗練や音楽的な完成度とはまだ無縁だったが、この時代のどんな音楽にもない、剥き出しのエネルギーと根源的な衝動に満ち溢れていた。それは、未熟ながらも、紛れもない葉月自身の「雷鳴歌」だった。その音は、確かにあの蔵で聴いた未来の雷鳴の片鱗を宿しており、聴く者の魂を、快不快を超えたレベルで根源から揺さぶる、不思議な力を持っていた。
源三郎の店には、いつしか葉月の「雷鳴歌」に惹かれた、風変わりな人々が集まるようになった。伝統的な絵画の様式に行き詰まりを感じていた若い無名の画家。社会の欺瞞や矛盾に言葉にならない苛立ちを感じ、それを詩で表現しようと苦悶していた詩人志望の学生。西洋帰りの、新しい演劇の形を模索する活動家。彼らは皆、既存の価値観や芸術に飽き足らず、何か新しいもの、魂を直接揺さぶるような表現を渇望していた。そして彼らは、葉月の奏でる荒削りなノイズの中に、自分たちの内なる魂の叫びと同じもの、あるいはその代弁を聞いたのかもしれない。彼らにとって、葉月の雷鳴歌は、美しくも息苦しい大正という時代に対する、痛烈なアンチテーゼであり、抑圧からの解放と自由への賛歌のように響いたのだ。
葉月は、彼らに背中を押されるような形で、源泉堂の薄暗い土間で、ごく内輪の小さな演奏会を開くようになった。聴衆は多くても十数人。しかし、その狭い空間には、いつも異様なほどの熱気と、強烈なエネルギーが満ち溢れていた。葉月が蛮絃を獣のようにかき鳴らし、響胴を嵐のように叩き、魂の底から絞り出すように叫ぶ。それは、技術的に洗練された演奏でもなければ、美しい旋律があるわけでもない。しかし、そこには確かに、未来から届いた雷鳴歌の魂の片鱗が、そして葉月自身の生きる意志そのものが、凝縮されて存在していた。魂が粟立つような音、感情が剥き出しになる叫び。それは、理屈ではなく、聴く者の五感と魂に直接訴えかける、原始的で根源的な音楽体験だった。
ある晩の演奏会が終わった後、詩人志望の学生が、興奮冷めやらぬ様子で葉月に語りかけた。
「葉月さん、あなたの音楽は…まるで、言葉になる前の感情の塊だ。僕らが詩で表現しようと足掻いている、そのもっと奥にある、名付けようのない衝動そのものだ。これを聴いていると、僕も何かを壊したくなるし、何かを創りたくなる!」
彼の言葉は、葉月にとって何よりの賛辞だった。誰にも理解されないかもしれないと思っていた自分の音が、確かに誰かの魂に届いている。その事実は、葉月にさらなる勇気と、自らの道を進む確信を与えてくれた。
葉月が蔵で見つけ、その後の人生を賭けて追い求めた「雷鳴歌」。あの衝撃的で異様な音の真の起源も、あの無地の黒い円盤がなぜ父の遺品の中に、そして葉月のもとにあったのかも、そしてあの音が、遥か未来の時代に『ロック』と呼ばれることになる音楽であったことも、結局のところ、最後まで誰にも解き明かされることはなかった。それは、ただ葉月の魂だけがその真の響きを捉え、まるで遥か別の世界から、あるいはまだ見ぬ未来から、彼女の内なる宇宙に直接届けられた、抗いがたい衝動の震源のように、彼女の中で永遠に響き続けた。
葉月は生涯独身を貫いた。「雷鳴歌」の探求と表現こそが、彼女にとっての結婚であり、子供であり、人生そのものだったからだ。彼女は自らの魂の命ずるままに、世間の評価や理解を求めることなく、ただひたすらに激しく、そして誰よりも清々しく、自分自身の音を生きた。
葉月がひっそりと亡くなった後、彼女が長年暮らした源泉堂の二階の小さな部屋からは、数枚の無地の黒い円盤と、彼女が「雷鳴歌」と名付けた音楽の構造や楽器の奏法、そしてその精神性について記した膨大な手書きのメモが見つかった。だが、あの蔵で最初に見つけた蓄音機は、いつの間にかどこかへ姿を消していた。そして、残された円盤は、もはや何度試しても音を発することはなかったという。まるで、その役目を終えたかのように。
巷の噂では、葉月が侯爵家を飛び出し、源泉堂に身を寄せた後も、彼女が音楽の探求に必要な高価な異国の楽器や資料、そして日々の慎ましいながらも困窮することのない生活を送るための金銭に、不思議と困ることはなかったという。その出所について、源三郎は生涯口を閉ざしていたし、葉月自身も多くを語ることはなかった。しかし、葉月が自らの音を追い求めるその孤独な道のりの影には、常に陰ながら彼女を見守り、物質的にも精神的にも支え続けた一人の男の姿があったらしい、と囁かれていた。その男が誰であったのかは、葉月を取り巻くごく僅かな人々も知る由はなく、それは大正の喧騒の中に消えた、もう一つの秘められた物語だった。
伝え聞くところによれば、その男は、その後も誰とも添い遂げることなく、生涯独身を貫いたという。彼の心の中には、あの日、葉月が放った魂の「雷鳴歌」という強烈なノイズが、決して消えることのない美しい残響として、永遠に響き続けていたのかもしれない。
終章:時を超えた雷鳴、終わらない物語
時は流れ、激動の昭和、そして平成を経て、令和の時代。かつて葉月が生きた大正時代は、歴史の教科書の中の遠い昔語りとなっていた。高層ビルが天を突き、情報が瞬時に世界を駆け巡る現代都市の、その片隅にある、忘れられたような小さな古物店。インターネットにあらゆる情報が溢れ、指先一つで世界の音楽にアクセスできる時代に生きる彼女――名を美雨という――は、しかし、古いもの、人の手の痕跡が残るものに、なぜか強く惹かれる十六歳の少女だった。情報だけでは決して得られない、過去の息遣いや魂の欠片に触れることで、何かを見つけようとしていたのかもしれない。
ある雨の日の放課後、美雨はいつものようにその古物店に立ち寄った。埃をかぶった品々が雑然と並ぶ薄暗い店内で、ふと、片隅に置かれた古い木箱が目に留まった。中を覗くと、いくつかの欠けた陶器や錆びたブリキのおもちゃに混じって、数枚の黒い円盤が収められていた。その中の一枚を手に取ると、ずしりとした重みと、ひんやりとした感触が伝わってきた。表面にはレーベルも何も書かれていない、ただのっぺりとした黒い円盤だ。しかし、その深い黒と、表面に刻まれた細かく複雑な溝に、美雨は何か抗いがたい、不思議な魅力を感じた。
「おや、お嬢ちゃん、そんな古いレコードに興味があるのかい」
店の奥から顔を出した白髪の店主が、優しげな目で言った。
「それはね、ずいぶん昔の、SPレコードというものだよ。もしかしたら、大正か昭和初期の頃のものかもしれないねえ。残念ながら、盤面には傷だらけだし、まともに音が出るかどうか…いや、もう出ないだろうなあ。それに、これをかけられる蓄音機も、今じゃなかなか無いからねえ」
店主はそう言って笑ったが、美雨はその円盤から目が離せなかった。黒い表面の細かな溝に、指先でそっと触れる。それはまるで、遠い時間の記憶に直接触れているような、不思議な感覚だった。何か、とても大切なものが、この円盤の中に封じ込められているような気がしてならなかった。
「これ、いただけますか?」
美雨は、ほとんど衝動的にそう言っていた。
家に持ち帰った美雨は、祖父が大切にしていた古いオーディオセットの中に、様々な回転数に対応できるレコードプレイヤーがあることを思い出した。ホコリを払い、おそるおそるその黒い円盤をターンテーブルに乗せ、回転数をSPレコードに合わせてみる。そして、祈るような気持ちで、そっと針を落とした。
ジジ……というノイズの後、一瞬の静寂。やはりダメなのか、と美雨が肩を落としかけた、その瞬間――。
轟音が、現代の静かな部屋の空気を、まるで暴力のように引き裂いた。
腹の底を揺るがし、内臓を直接掴まれるような、地鳴りのごとき重低音。脳髄を劈き、意識を白く染め上げるような、稲妻のごとき高音。そして、それらの音塊を縫うように、あるいは叩きつけるように刻まれる、鎖を引きずるような、あるいは嵐が全てを薙ぎ倒すかのような、激しく原始的なリズム。そして、その全てを統べるかのように響き渡る、人間の声とは思えない、剥き出しの感情を叩きつけるような、魂の叫びにも似た歌声。
美雨はあまりの衝撃に、息を呑み、その場に立ち尽くした。それは、彼女が普段スマートフォンで聴いている、デジタル処理で完璧に整えられた現代の音楽とは、あまりにも、そして決定的に異なる音だった。歪で、荒々しく、ノイズにまみれ、しかし、どうしようもなく強烈に、彼女の魂を揺さぶり、鷲掴みにする音。全身の細胞が、その音に呼応してビリビリと震えるのを感じた。
まるで、遠い遠い過去から、誰かの魂の叫びが、時空を超えて直接自分の鼓膜に、いや、魂に届けられたかのようだ。
美雨の心臓が、経験したことのないほど激しく脈打った。全身の血が沸騰し、頭の芯が痺れるような、強烈な感覚に襲われる。それは、かつて大正の空の下、蔵の中で葉月という名の女性が初めて「雷鳴歌」を聴いた時に感じたのと、寸分違わぬ衝撃だったのかもしれない。時代も場所も、生きる世界も全く異なる二人の少女が、同じ音の洗礼を受けていた。
円盤から流れる激しい音の奔流は、やがて嵐が過ぎ去ったかのように、唐突に止まった。訪れた静寂の中で、美雨はまだ震える手で、回転の止まった円盤にそっと触れた。冷たく、硬い、確かな感触。
この音は、一体何なのだろう? 誰が、いつ、何のために、こんな途方もない音を?
美雨は知る由もなかった。この黒い円盤が、遥か昔、大正という華やかで息苦しい時代に生きた葉月という一人の女性が、未来から届いた雷鳴に導かれ、自らの魂を燃やして生み出そうとした、「雷鳴歌」という名の音楽の、始まりの音の一つであったことを。
そして、その音は、決して消えることなく、時代から時代へと、魂から魂へと、奇跡のように受け継がれ、今、この現代を生きる彼女の魂に、確かに、そして鮮烈に響き渡ったことを。
雷鳴歌は、一人の女性の物語では終わらない。それは、時代を超え、魂から魂へと受け継がれていく、終わりのない物語だったのかもしれない。
遠い過去に生まれた魂のノイズは、誰にも気づかれぬまま、静かに、しかし確実に、未来へと繋がり、新たな魂を揺り動かし続けていく。
そして、またどこかで、新たな雷鳴が轟くのかもしれない。
(了)
ろっくんろーる
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