論は璞(あらたま)
このエッセイは文章に登場するワードそれぞれ関係ないように見えながら、どこかで結びつき変化する様を楽しめるよう、構成することを目指してます。
つまり、推敲作業や添削作業を行う様が実際に見れるようになっています。
今よりインターネットが一般的になる前の話で言えば、最新の思考方法を取り上げる媒体は週刊雑誌や著名人のインタビューなんかで影響受ける人達が多かったなっと記憶に残っています。
それからしばらくすると著者がどういう価値観で生き成功したのかという体験談交えてエピソードが展開されるといったものが新書やビジネス書で幅を利かせはじめた印象があります。
印象なので、細かくどういう流れなのか正確性や詳細な経緯については自分なんかが調べて当てずっぽうで話すよりかは出版社の刊行物を調べて分析し発表してる方が探せば出てくるかとは思いますのでその辺は正確性やら時代認識やらは省略します。
先に断り、謝罪しておきます。ここから2000文字ほど面白くない話が本当に続きます。斜め読みである程度、読み飛ばしながらしばしお付き合いください。ごめんなさい。
おそらく多く方が目にし聞き覚えがあるのは結論から先に話して、その後にその裏付けを展開するといった手法ではないでしょうか。他には三段論法なんて言葉も聞いたことがあるのではないでしょうか。
ビジネス書や知的好奇心を煽りながらコンテンツとして売る動画作成者であれば「それ全て正しくないです!それだけではないんですよ!最新の研究を~etc~」とかって、人の羞恥心を上手く利用しながら言うのだと思います。消えろ…
おっと…添削のし忘れかな?
冗談は置いといて、安心してください。論理を作るまでの作成工程としてそれらは全て正しいです。
全部が全部そうだとは言いませんがこれらの手法はちゃんと言葉があって演繹法や帰納法といった物が一般的に流通しています。この辺もちょっと興味がある方だと「知ってる!知ってる!」みたいな反応する人がいらっしゃる場合があります。
初めて見聞きする人のために簡単な説明を以下に記載しますが読み飛ばしても全然構いません。
演繹法:変わらない法則や前提を見つけて、そこから発展して更に変わらない結論を見つけ出す方法。
参考例:
1.前提:生物はエネルギーを得るために呼吸を行う必要がある。
2.具体的なこと:動物や植物は酸素を使って呼吸を行う。
3.結論:したがって、酸素がない環境では、生物はエネルギーを得ることができず、絶対に生きることができない。
次に帰納法です。
帰納法:具体的で似たような事例をいくつか拾い上げ結論を見つけ出す方法
参考例:
1.観察1: 魚は水中で酸素を使って呼吸し、酸素がないと死んでしまう。
2.観察2: 人間は空気中の酸素を吸って生きており、酸素が不足すると健康を害する。
3.観察3: 植物も光合成を行う際に酸素を必要とし、酸素がない環境では成長が難しい。
4.結論:だから酸素がないと生物は絶対に生きられない。
どちらの論理も「なるほどな」、「当たり前!」などの感想を抱くと思います。察しのいい方なら、酸素がなくて生きられる生物を検索して探していることだろうと思います。まぁ、全然本題ではないのでさっさと正確な答えを言いますが、細菌とか原生生物は酸素がない環境で生きられます。
論理を作成して変わらないと思った理を見つけても、前提や過程を間違えたら普通に間違えるんです!って商業で成功したい媒体なんかでは強調するんでしょうね。そういう物を自分が見つけた日なんかは、本当に思ってることを素直に言えば「どうでもいいよ…知識マウントとか気色悪い…」です。
さて、さっさと本題に入りたいので、こっからはどんな論理を作成する方法があるかをいい加減なダイジェスト作って気持ち良くすっとばしていきたいと思います。
弁証法:自分の意見と正反対の意見を作ってポケモンバトルみたいなことをするやつ。最後に残ったやつが正義です。
アブダクション:もしかしたらみたいなことを思って、一杯色んな可能性を見つけて名探偵コナンみたいなことをするやつ。真実はいつも一つ!
フェルミ推定:すごい数多いものとかを何となくそれっぽい数字を拾ってきて、雑に計算したらそれほど正解から離れてない数字を言い当てる。飲み会とかでやれば知識マウントとりつつ盛り上がるやつ。
大体ざっくり説明するとこんな感じです。他にもあるとか説明が正確ではないとか揚げ足取るなら、「だから、お前らは友達に嫌われるんだぞ」って言い返しておきます。
個人的に一番大事なのはどれもこれもが理を見つけるため、自分の意見を強固するってやり方をしてることの方が自分にとっては重要なことだと思うのです。
長々と個人的には意味もなく、目新しさもない文章を書き連ねたのはこれからの話に持っていくためです。
紹介した論理を作成する方法に他に自分が気づく点はどれだけ強い意見で相手をねじ伏せるかという見方も出来るなっと思うところです。
ビジネスで通じるわけです。創作物なんかでも社内政治はよくこの自分の意見がどれほど強いのかを見せられて食傷気味にすらなります。論理って、その程度ですか?
論理という物を色々と勉強しようと雑多に読み漁ってた時はまさに自分もこれまでの文章を読んでくれたあなたのような気持ちだったと思います。
お疲れ様です。
そして、ここまで読んでくれて本当にありがとうございます。
少年ジャンプ作品なら○○先生の次回作にご期待ください!で、打ち切りですね。
ここからがエッセイです。
主題として書いていきたいのは、論理的思考方法やロジカルシンキングの方法などの本が物凄く増えたという話とその理由をしたいからです。そういった本を論って、自分の方がより論理的だとか主張するようなことはしません。
個人的には低俗で、卑劣で、何とも愚かしいことだと思うのと自立した考えを持つ大人になる過程でそういう遊びは卒業した方がいいというのが自分の考えです。
まずは、今回のサブタイトルのメモはどのように考えて自分が作った文章かとという所から説明からしていきます。
論という一字だけみれば論うという先ほども登場した言葉があるように人の意見をやたらめったら否定する意味かと僕は思っているのです。
今日までの日本のビジネス書界隈や知的?インフルエンサーが流行らせた意見を強化する手法は本当に最近の話で、OECD加盟国の学力向上の話し合いの中で世界標準に合わせた論理作成手法を日本で導入しようとというのがそもそものきっかけです。年代で言うと2000年代頃で、「え?」って、なりました。
このままでは誤解されそうなので付け加えると、哲学とか論理学ではもっと先に確立してましたが、論理的に文章や言葉選びの手法を一般的にも流通しようとしたのは極々最近です。
意見を強化、最近流行った言葉で言い直すと論破力と言った方が合点がいくのでしょうか。これはもっと言えばベトナム戦争後に最新手法が作成されたというのが、実のところです。理由はベトナム戦争後の帰還兵が大量に米国内の大学に戻ったので、教授達がもっと素早く採点するため論文の統一した作成方法を作ったのが5パラグラフエッセイというものです。
結論から先に言うというのは5パラグラフエッセイの方法です。つまり論理の作成方法の一つで別にそれが出来れば論理的に優れたものというわけではまったくありません。ただ、米国式のやり方がビジネス界隈でも使われて、なおかつグローバル企業として世界展開する会社が多かったから流行っただけです。共通言語としてそのやり方をやれば会話が成立しやすいと言えばわかりやすいでしょうか。
色々と自分で分析したのですが、また面白くない話を書きたくないので演繹法や帰納法等を使ってドラクエで例えるとスカラとかバイキルトを唱えてモンスターを倒す感じです。反対意見も持ち出しはするんですけど、ルカニかけて弱らせて兎にも角にも倒します。
なぜに自分の意見を強化して、相手を弱らせて倒すんだい?って、なるかも知れませんがアメリカってそういう国だし、そうやって自分の力と選択で民主主義と自由を勝ち取ったから自分の意見を強化することが学習指導の方針で小学生からやるんだとか…というか、文章にもそれをやるんだ…そりゃ、トランプみたいな奴が生まれるよ…
自分の強力な意思があれば善悪は勝手に最良の選択がされるというのが学習指導方針で、素早く、強く意見を論拠を持って判断するのが論理的という考え方というのは多くアメリカ生まれの人と話してわかったことです。もう、お気づきでしょうか?大体流行ってるビジネス書だということを…
自分は読んだことないのですが、タイトルとか見出しでパラ読みするだけで…「あぁ…」と、なったのはいい思い出です。
論理を作るうえで他の作成方法はないものかと(少なからず自分の趣味に合わないと思ったので…)、色々と探したところ、そういった文章類の作成技法でディセルタシオンというものを見つけたのはその頃です。フランスで採用された論文の作成方法でまったく違う形で論文を作るという内容のこの本は刺激的でした。
どのように論を加工するのかというと、こんな感じです。
1.主題をもってくる。
2.自分の意見を先人達「マルクスは○○という中でこう論じている~~~」のように使用しながら意見を述べる。
3.反対意見も先人達の言葉を使って、自分の意見を批判する。
4.それぞれの意見の矛盾を見つけて、お互いで共通した意見と見つける。
5.共通した意見でも解決できない、次の問題も見つけて締めくくる
と、いった流れで論理を作ります。これが高校受験試験問題で出て、尚且つ確か4時間ぐらいで作るのだそうです。自分でもこの論じ方を作成しましたがめちゃくちゃ難しいです。フランスもフランスでこれを小学生の頃からやるんだそうです。学習指導方針としては国民がそれぞれ自律した自分で考える力を持たなければ共和政や民主主義を維持をできない。民衆が政府に自分で考えて必要であれば革命の意思をもてるぐらい考える力を持つべきという考え方だそうです。
論文の作成工程で先人達の言葉を使うのは論理の行き過ぎた飛躍や自分の意見の強化しすぎることにブレーキの機能を持たせる役割があります。これは実際に興味ある方は文章を作ってみると実感が持てます。少なからず自分はそうでした。
なお、ディセルタシオンで更に特徴的な教育方法は作成技法が正しいかの採点はするのですが、模倣は禁止されているため教員等が作成例文を見せないそうです。理由は生徒が模倣するからです。
論理というのは結論からっていう自称ロジカルシンキング野郎を見るとなんだかな…って、思えるようになったことは言うまでもないことかと思います。自分が実感として思うのは論理って国ごと違って、フランス式でやると同じ主題でもまったく別の答えになることです。
しばらくして、ここ最近ChatGPTなんかで話題のAIが登場したのですが、当初は文章を中々上手く加工するものだなっと感心したものでした。文章の作成技法を指定すればここまで書き連ねた、演繹法から5パラグラフエッセイはそれなりのものが作成できます。しかしながら、ディセルタシオンは今現在も作成することができません。
例えば先人達の言葉を使わない、自身の意見を強化することにフォーカスを当てているという問題が顕著に現れます。興味があればやってみてください。
論理というはアプローチの方法で、アメリカ式で言うならモンスターを倒すですが、フランス式だとモンスターを仲間にするという言い方すれば伝わりやすいでしょうか?
先日のエッセイを考えながら、思っていたことが一つあります。日本式の論理というのはなぜ存在しないのかということです。
ビジネス的な接点を増やす意味でアメリカ式を採用したのはわかります。でも、2000年より前にビジネスで成功した実績があるのに日本では論理の作成手法に名称がないのはよく考えたらおかしな話です。
直近までアメリカ式が採用されるまでは日本人は論理的ではなかったと説明する記事や内容をいくつか見ましたが腑に落ちません。土台がしっかりした論拠もなしに製品を世界で売るというの果たして可能なのかという仮説を立てて見ましたが、どうにも何かを見落としてる気がします。
現在の日本で採用されている代表的な論文の構成は大体こんな感じです。
1.自分の意見
2.意見ついての裏付け
3.しかしながら別の見方としてはどうなのか?
4.3の見方があったとしても1.意見はやっぱり筋が通ってそう。
アメリカ式の方法が採用されているのは、何となくわかりますけど…どうも3の部分に違和感があります。別の角度で歴史的な移り変わりで見てみようかと思い教科書に書いているようなことを書きだそうと思います。
1.縄文~飛鳥時代
2.奈良時代~平安時代
3.鎌倉時代
4.室町時代~戦国時代(安土桃山時代)
5.江戸時代~幕末
6.明治~現代
ざっくり書くとこんな感じかと思います。あんまり手がかりらしきものが見た感じではわかりそうにもなかったものですから、別の見方しようかと思ったところ
(文章の作成技法って創作物で良く表れるよな…)
と、思いフランス映画はやっぱり難解で、アメリカ映画はシュワちゃんが力強いし…日本ってやたらと心を考えるな…アムロはニュータイプだし…いつの時代からそれが必要で、それをやる必要があったのか?ということをエッセイを作成することにぼんやりと考えはじめていたわけです。
それはもしかしたら戦国時代かもしれないし、江戸時代かもしれないし…戦国時代では確か銃の所持数が世界で一番なんだっけ?模倣とか改良する…トヨタ生産方式では改善する…現代でも現地の人が使いやすいサービスを改良したりする…心を考えるって重要なのではないか…という所まではたどり着いたわけです。
論理がどのように作成する技法あったのかは言葉として成立していないので日本式論理とはというものは現在ありませんが、心を考えるという型だけ残った可能性はあるのではないかと、この文章を書きながら思ったことです。
仮に型があるという前提で考えるなら言葉として成立しなかっただけなのかなっとメモを見ながら考えてました。
伝統芸能を見ても落語や能、歌舞伎なんかは模倣し続けるし、その人の心の移り変わりを表現する芸が多いなっとも思いました。もしかしたらなのですが、心を考えるという型が残って日本式論文の構成を体系、言葉として纏める人がたまたまいなかっただけで、粗玉を加工して理にする方法がなんとなくだけ存在するというのが正しい見方だったりしませんかね。
最後にこの言葉で締めくくろうと思います。その前に一つだけ言うと、前回と今回のエッセイを合わせて可能限りですがディセルタシオン形式で作成してます。
そしてたぶん、今読むと自分も含めてお付き合いいただいた読者の皆さんも感想は違うかと思います。
“さかな”の気持ちになって考えろって、なんなのさ。
4/13 論は璞、理なりて論理という
サブタイトル変更 論は璞
4/13 理なりて論理に関する説明記述を削除。前後の文章を一部変更。