“さかな”の気持ちになって考えろって、なんなのさ。
このエッセイは文章に登場するワードそれぞれ関係ないように見えながら、どこかで結びつき変化する様を楽しめるよう、構成することを目指してます。
つまり、推敲作業や添削作業を行う様が実際に見れるようになっています。
※いつか魚の気持ちが考えられているのかもしれません。
日本の小学校では国語の授業に動物が登場する物語が度々出てくる。少なからず自分が小学生だった頃、そんな授業を受けていると(あー、そろそろ先生から、いつもの質問が出てくるんだろうな…)と思いながら、教科書の作品に紹介されている文豪たちの写真にいたずら心で髭やサングラスを描いたものだ。
案の定、動物たちが登場する物語の解釈を深めるための質問を彼や彼女たちはする。
「この時の魚の気持ちは皆さんはどうだったと思いますか?意見のある人は手を挙げて答えてください。」
小説の更新が止まって久しいのですが、さぼっているわけではありません。また、完結までの構成が考えられていないわけでもありません。
推敲作業や文章の構成を熟考していると、現在の自分の力を持て余すことなく完成度の高い作品にしたいという欲が出てくるものです。そうすると、何が起きるかというと、大量に文章は書けるものの、思春期のデート前の洋服選びのように、足りない中で最大限の魅力を出そうと奮闘しているのです。
言い訳がましいですか?だって、言い訳なんですもの、許してください。
そんな毎日を過ごしながら、そろそろ長いトンネルの出口が見えてきた今日この頃、僕の場合は作品作りのためにとりあえずメモを残しております。それはそれなりに結構な量の日常の気づきや自身の昔の記憶を思い出して、当時は言語化できずに違和感だけが引っかかっていた出来事を言葉として色々なところに残していることに気がついたのです。
その中に、「“さかなの”気持ちになって考えろってなんなのさ」という言葉だけがメモとして残っていました。
何を書いているのか自分でも分からなくなりつつも、思い当たる節があり、小学校時代の授業の内容を思い出していることに気づきました。
小説において何に役立つかはまったく未定でしたが、そういったことをヒントにしながら作品内では視点や角度を変えた人物やエピソードを手を変え品を変え、別の文章として成形していくのです。
ちなみにその横には「鉄鋼産業が盛んな街」という、今絶賛書いている途中の小説の設定メモが書いてありました。
それにしても、魚だけにどうさばくのかがまったく決まっていないこの文章が日の目を見る機会はあるのだろうか…などと考えていた頃、ふとアイディアが思いついたのです。
(作品発表が時間がかかるならエッセイにすればいいのではないか?)
エッセイ…
この言葉だけで連想されるものは自分にとってはポエミーな自慰行為に近い痛々しい文章の総称というイメージが先入観として出てしまい、散々な評価をしています。しかし、エッセイというのは思ったことや感じたことを文章としてまとめるという本来の機能通りに文章にしていけば、十分に楽しめるものになるのではないかと考えてこうやって書くことにしたのです。
普段、SNSでもメモを文章にしているわけですが、250文字の世界では表現できないものや認知負荷が高い単語はなるべく避ける発言が多いのが現状です。
エッセイという体裁を取るのであれば、これらの問題をクリアしながら、ある程度まとまった文章を作品として公開できる。エッセイというスタイルはもしかして有用ではないか!などと、自分の発見に自画自賛しながら今もキーボードをカタカタと叩いているのです。
そんなこんなで今回の主題、つまりテーマとして書き出した「“さかな”の気持ちになって考えろってなんなのさ」というのは、小学生時代に教師からの質問で思ったことでもあります。とはいえ、国語授業の正解らしきものが大体は当時も予想できていた自分は、それに反しない道徳的にも人道的にも生物の尊厳を傷つけることのない当たり障りのない答えを言っていたと思います。
大人になって思うのは、あれは何のために行われていた授業なのかということです。たぶん、教員用の学習指導要領には「他人や動植物を思いやる暖かい心を青少年に持たせることが大事です」といったようなことが記載されているのでしょう。
付け加えるなら、子供の頃の自分も学習指導要領なるものが存在することを知らなかったにせよ、きっとその辺の答えを求められていることは理解していたと思います。
今振り返ると、国語の授業では「この時、この人物は何を思ったか?」という質問が多いのですが、なぜそんなに自分以外の気持ちを考えることを授業でするのかという疑問が湧いてきました。
人の気持ちを考える=思いやりがあるというのは確かに必要な心の発育というのは理解します。しかし、「ごんぎつね」では「ごん」というきつねが、「スーホの白い馬」では馬、果ては虫や植物までも…仮に心があるにしても、やりすぎで大事にしすぎではないでしょうか。
それらの人物や動植物が仮に何らかの力で実在していたとして、国語の授業で習ったからと自信ありげに『あの時、こう思ってたんでしょ?授業ではそう習ったから正解だよね?』と言われたら、どう思うのでしょうか。たぶん、自分だったら(はぁ?何勝手に人の気持ち決めつけてんだ?喧嘩売ってんのか?)という風になると思います。たぶん、そいつを殴ります。
でも…あれ?これは…何か近い物を近年よく見るな…。
はっ!SNSじゃねぇか!
あれはもしかしたら、人の感情を勝手に推察している輩がうじゃうじゃいるけど、国語の授業で悪気なく育っているのかもしれません。
そうだ…あの有名人やら気持ちを勝手に代弁するキショクワルイ、やばいやばい行き過ぎた言動をする人になっては…
でも、だが、しかし、もはや人間以外の気持ちまで考えることで人の気持ちを推察するという英才教育されているのではないでしょうか…。
なんだこの複雑な気持ち…今、酷く動揺しています。
気持ちを考えすぎて、バランス感覚が抜け落ちた人間が、暖かさを通り越して太陽でギラギラ照りつける結果になっていることを誰が修正するのでしょうか…
はぁ、そういえばあの手の奴らはやたらと「○○の気持ちを考えろ!」とか「○○の気持ちを考えると…悲しいです」とか言って、人の気持ちを代弁しますね…
これでいいのか、劇物ではないか…。
学習指導要領に「やりすぎ注意、暖かい心の気温設定を間違えると照り付けて焼き殺します」とでも注意書きを書いた方がいいのではないでしょうか…。
とはいえ、これが自分にとって、エッセイを書くきっかけになった訳です。
最後に、自分にとって「心を考える」という今回の主題でよく思い出すエピソードがあります。
確か中学生の時、当時はBUMP OF CHICKENをよく好んで聞いており、インタビュー記事などにも頻繁に目を通すほど熱心でした。だからと言って、勝手にメンバーの気持ちを推察することはありませんでしたが…。
いくつか目を通した中で、今でも覚えているのはボーカルの藤原基央さんが小学校の道徳の授業でのエピソードを話していた内容です。要約すると、松葉杖をついて階段前で立ち往生している人を助けるかという質問を教員からされた際、彼は他の生徒が助けると答える中、助けないと答え、クラスメイトから猛批判を受けたというエピソードでした。
教員から「なぜ助けないのか?」と質問された際の彼の答えは、「その人にとっては、今日頑張って階段を登ろうと思っていた日かもしれないし、他にも色んな理由で登ろうと決意した日なのかもしれない。助けてくださいと言われた時に自分だったら助けるが、勝手にその人をできない人にするのはおかしい」というものでした。
それでも猛批判くらったそうですが…
正確な内容ではないかも知れませんが、そんなことを言っていたのを記憶しています。
今でこそ、自分も勝手に人の気持ちを推察するのは失礼だというバランス感覚を持っていますが、当時はそういう考えがあることを人に対しては考えたことがなかったため、自分にとっては衝撃的な内容でした。
「さかな」の気持ちになって考えることを、今、どうやって考えるかは発表しませんが、このエッセイのタイトルは「“さかな”の気持ちになって考えろってなんなのさ」にいきたいなと改めて思ったのです。