第3話:侯爵邸のあれこれ
私は小さいときに、自分が強運だということに気が付いた。
街のイベントに参加すれば大抵優勝するし、私が選ぶ食べ物には外れがない。
近くで何か事件が起きても、私が関わればすぐに解決するし、騎士団から表彰されたこともある。
小さいことから大きいことまで、私には運が味方してくれていた。
だから、一人で街で食べ歩きをしたいと言い出しても、両親からは「ノエルは強運だしね!」とアッサリ許可が出るのだ。
……少しは心配して欲しい気もするけれど。
とにかく、そんな私の強運は、ついには結婚相手を呼び寄せてしまったらしい。
先日私に求婚してくれたのは、ルキウス・エヴラール侯爵。
私より確実に美人な男性だ。年齢は私の七つ上で、二十三歳だと聞いた。
そんな若さで爵位を継いだのは、エヴラール侯爵らしい不運が理由だった。
「夜逃げ………ですか!?」
私は思わず大きな声を上げた。
テーブルを挟んだ向かい側にいるエヴラール侯爵が、こくりと頷く。
「そうなんだ。俺の両親は、領地経営が得意ではなかった。ある日借金と置き手紙を残して、邸宅から消えた」
「そんな…」
「俺の不運体質もあって、両親はもう無理だと感じたんだろうな」
そう言って侯爵は肩を竦めたけれど、傷付いていないわけがない。
もし私だったなら。突然借金を残して両親がいなくなったら、どうしたらいいか分からずすぐに没落するだろう。
けれどエヴラール侯爵は、見事に領地を立て直したのだ。そうでなければ、領民が幸せそうに笑い合っている姿は見えないはずだ。
私が今いるのは、エヴラール侯爵邸だった。
求婚を受けてすぐ、侯爵は私の両親とも顔を合わせた。
両親は手放しで喜んでいたし、婚約期間を飛ばして結婚させたがっていたくらいだった。
そこでエヴラール侯爵は、私にこの侯爵邸に移り住んで欲しいと提案してきたのだ。
お互いを知りたい、と言い出したのは私だったため、すぐに了承すると、あっという間に両親から追い出されるように家を出た。
そしてエヴラール侯爵と一緒に馬車に揺られ、領地に到着した。
私は馬車の窓から、自然豊かな領地の風景と、楽しそうに笑い合う領民の姿をこの目で見ていた。
「ここの領民は…エヴラール侯爵が当主となって、きっと幸せでしょうね」
「………」
「あ、決して前侯爵を…侯爵のお父さまを、批判しているわけでは……」
「……大丈夫、分かっている。ノエル嬢がそう思ってくれたことが、俺は嬉しいんだ」
エヴラール侯爵がふわりと微笑むと、私には背景に咲き乱れる薔薇が見えた。
このまま婚約者として近くでこの笑顔を見続けたら、そのうち目がおかしくなるかもしれない。
にこにこしている侯爵を見て、扉の近くに立っているバーネットさんが咳払いをする。
「……ルキウスさま、ノエルさま。少しよろしいでしょうか」
「なんだ?…また余計なことを言うわけじゃないよな?」
「俺は今まで、余計なことを言った覚えはありませんが……今回は間違いなく大切なことです。お互いの呼び名を、今ここで言ってみてください」
バーネットさんが、はいどうぞと言うように片手をスッと差し出す。
私とエヴラール侯爵は、お互いに顔を見合わせてから口を開いた。
「……エヴラール侯爵」
「……ノエル嬢」
「ほら、とても婚約者同士の呼び方じゃないでしょう!」
指摘されて初めて、確かにその通りだということに気付く。侯爵も衝撃を受けたような顔をしていた。
「まさか俺は……ノエル、と呼んでも許されるのか?」
その期待を込めた眼差しが、とてもむず痒い。許さない、なんて選択肢は、私には始めからないのだ。
「はい、もちろんです。……ルキウスさま?」
「…………ちょっと待ってくれ、呼吸が…」
「え!?なにか不運が起きましたか!?」
「ノエルさま。ルキウスさまは悶えているだけです」
冷静なバーネットさんの言葉に、私は顔が熱くなる。
名前を呼んだだけで悶える、って…まるで、侯爵…ルキウスさまが、私のことをものすごく好きみたいじゃない。
胸元を押さえたまま、ルキウスさまが私を上目遣いで見る。
「……婚約期間が終わって結婚したら、ルキウス、と呼び捨てで呼んで貰えるのか…?」
「……ルキウスさまが…、お望みでしたら」
「心から望む。…その瞬間、俺は膝から崩れ落ちるかもしれないが」
ルキウスさまがそう言って、困ったように眉を下げて笑う。冗談だとしても、私は口元を緩ませてしまった。
「ふふ。では私がルキウスさまを呼び捨てで呼ぶときがきたら、近くに危険なものがないか確認してからにしますね」
「そうだな、そうして欲しい」
「……言っておきますがルキウスさま、それはキリッとした顔で言うことではないですからね?」
バーネットさんの呆れたような視線を受け、ルキウスさまがムッと口を尖らせる。そんな顔も国宝級だ。
「ノエル、呼び名の件はバーネットや他の使用人たちにも関わることだ。君はいずれ俺の妻になるのだから、邸宅で働く者たちは呼び捨てに……いや待て、それだと俺だけ呼び捨てで呼んで貰えないことに……?」
ルキウスさまは顎に手を添えながら、なんだか可愛らしいことで悩んでいる。
バーネットさんが可笑しそうに笑いを堪えていた。
「その通りですね、ルキウスさま。ノエルさま、俺はルキウスさまに雇われた、ただの騎士ですので。どうぞバーネットと呼び捨ててください」
「分かりま……分かったわ、バーネット」
私が頷きながらバーネットの名前を呼ぶと、ルキウスさまがとても複雑そうな顔をしていた。
出逢った時から思っていたけれど、この二人は主従関係の他に、友人関係も成り立っているような気がする。
「……まぁいい。ここでノエルを呼び捨てに出来るのは俺だけだからな」
ルキウスさまは席を立つと、私に向かって綺麗な手を差し出した。
「行こう。この邸宅内を案内する」
当たり前だけど、侯爵邸は私がいた伯爵邸とは比べものにならない広さだった。
けれど、気付いたことがある。極端に置いてある物が少ないのだ。
特に廊下は、邸宅内によく飾られる花瓶や額縁が全く無い。
「ノエル、気付いたかな。この邸宅内は、俺の不運を考慮して物が少なくなっているんだ」
きょろきょろと視線を彷徨わせる私に気付き、ルキウスさまが苦笑した。
「少し殺風景だが、仕方ないんだ。花瓶があれば割れるし、照明も落ちることがあるから出来るだけ小さなものにしている。周囲に被害が及ぶ可能性を考えて、使用人も最小限しか雇っていない」
「……もしかして今は、私がいるから不運が落ち着いていますか?」
不運が落ち着く。自分で言いながら、なんて変な言葉だろうと思った。
「そうだな、それは間違いない。こんなに快適に廊下を歩くのは久しぶりだな、バーネット」
「全くです。ルキウスさまの不運は、むしろ呪いの域ですから」
「呪いなら祓えたかもしれなかったな。だが残念、俺は“不運に愛された男”だ」
そう言って笑うルキウスさまは、とっくの昔に自分の不運を受け入れているんだろう。
私にはそれが、なんだか悲しかった。
すす、と近くに寄れば、ルキウスさまが嬉しそうに私を見る。
「ノエル、もしかして俺の心配を?」
「はい。……出来るだけ近くにいれば、何かあっても被害は最小限に済むはずです」
「……ありがとう、ノエル」
優しく笑うルキウスさまは、一体どれだけの不運と戦ってきたのだろう。どうして、そんなに優しく笑えるんだろう。
私が自分は強運だからと調子に乗って、毎日を楽に過ごしていた間に……一体、どれだけ傷付いてきたの?
「ノエル……、ノエル。そんなに見つめられると、思わず手を出してしまいそうになるけど」
「!?」
サラリと髪を撫でられ、心臓がドクンと高鳴った。私の顔はこれでもかと真っ赤になっているに違いない。
慌てて視線を前に戻すと、廊下の先に誰かが立っていることに気付いた。
ドレスを着た少女が、腕を組んで行く手を阻むように立っている。
後ろからバーネットの「げ」という嫌そうな声が聞こえた。
ルキウスさまも少女に気付いたようだ。
「ああ、さすがに出てきたか。ノエル、妹のディアナだ」
「……ルキウスさまの、妹…?」
そのルキウスさまの妹は、それはそれは不機嫌そうな顔で、睨むように私を見ているのだった。