第1話:突然の求婚
綺麗な花束を手に、跪く男性。
私の目の前にいるのは、“歩く彫刻”や“生きる国宝”と称されるほど、美しい容貌を持つルキウス・エヴラール侯爵だ。
「―――ノエル・クレージュ嬢。どうか俺と、結婚してください」
端から見れば、女性なら誰もが羨む光景だろう。
私だって、普通なら両手を挙げて喜びたいくらいだ。そう、普通なら。
エヴラール侯爵の持つ綺麗な花束は、良く見れば半分ほど、花の茎が折れ曲がっている。
綺麗な金髪はどんな強風に煽られたのかと思うほどボサボサで、上質な生地の服はところどころ破れていた。
では彼は、私に求婚するために、他の男性と争いでもしたのだろうか。
残念ながら、そんなことはない。私は複数の男性に言い寄られるような、素敵な女性ではない。自分で言っていて悲しいけれど。
エヴラール侯爵が酷い格好をしているのは、彼の呼び名のせいだ。
“歩く彫刻”、“生きる国宝”……そしてもう一つ―――“不運に愛された男”。
そんな不運に愛された侯爵が、こうして私に求婚することには理由があるのだ。
私たちの出逢いは、数時間前に遡る―――……
***
「わぁ……!さすが美食の街!美味しそうなものがたくさんあるわ…!」
美味しいものに目がない私、ノエル・クレージュは、エヴラール侯爵領にある美食の街に一人で来ていた。
一応、私は伯爵家の令嬢だ。
けれど侍従も連れずに一人で食べ歩きを楽しむ私は、決して貴族の令嬢には見えないだろう。
そもそも、どうして一人で来ているのか。
それは私が―――強運の持ち主だからだ。
「―――おい!引ったくりだ!」
もぐもぐと焼きたてのパンを頬張っていると、突然そんな声が響いた。
一気に街中が騒がしくなり、人々はなんだなんだと騒動が起きた方向を見ようと身を乗り出している。
私も便乗して視線を向ければ、一人の男が高価な鞄を脇に抱え、こちらに向かって全力疾走で駆けて来ている。とても必死な形相だ。
「どけぇ!道を開けろぉ!」
「きゃー!刃物を持っているわ!」
「気をつけろ!おい、騎士はまだか!?」
人々が大慌てで道を開ける中、私はベンチに座ったまま食事を続けていた。
周囲の人たちは私に気付き、「おい、あの子大丈夫か?」「お嬢ちゃん!早くお逃げ!」とざわつき始める。
男も私に気付いた。冷静にパンを食べている私を見て、何か異質なものを見つけたかのように顔を歪めている。
―――この人も、私に出会ったのが運の尽きね。
そう思った瞬間、男は盛大にすっ転んだ。
石畳の道で、不自然に一つだけ盛り上がる段差に躓いたのだ。
一回転、二回転。転げ回る男の手から鞄が離れ、空中で弧を描く。そして、鞄は吸い込まれるように私の元へ飛んできた。
男は仰向けに倒れて気絶しており、引ったくられた鞄は私の腕の中だ。
その一部始終を見守っていた人々が、ワッと沸いた。
「な、何が起きたんだ…!?」
「勝手にすっ転んだんじゃないか?」
「あっ、騎士が来たわよ!」
「待ってあのお方は…エヴラール侯爵よ!」
数名の騎士と共に、輝きを放つ美貌の持ち主がやって来た。
ルキウス・エヴラール侯爵。私も名前と噂だけは知っていたけれど、実際に見たのは初めてだった。
艶のある長い金髪は後頭部で結ばれ、歩く度に背中でサラサラと揺れている。アクアマリンのような澄んだ水色の瞳に、全てのパーツが整った顔。
これが“生きる国宝”。とても納得する。
彼の隣に並べば、何もかもが霞んでしまうだろう。
ぼけっと侯爵を眺めていた私は、コツコツと靴音を鳴らしながら、侯爵が近付いて来ていることに気付くのが遅れた。
「……君が、俺の鞄を取り戻してくれたのかな?」
ベンチに座る私の視線に合わせるように、侯爵が膝をつく。私は瞬きを繰り返した。
……え?話し掛けてる?私に??
「い、いえ!私はここに座ってパンを食べていただけです!」
私は勢い良く立ち上がってから、ようやく状況を把握した。
今まさに騎士に捕らえられようとしているあの男は、あろうことかエヴラール侯爵の鞄を引ったくったのだ。
手に持っていた鞄を慌てて差し出すと、侯爵はふわりと優しく微笑んだ。近くにいた女性たちがきゃあきゃあと騒ぎだす。
その笑顔を間近で食らった私は、その場で卒倒しそうになった。太陽よりも眩しい。
「……ありがとう。あなたのお名前は……」
その時、空気がざわりと揺れた。
引ったくりの男が、騎士の拘束を逃れてこっちに向かって来ている。
「くそぉぉぉ!お前が何かしたんだろ、小娘がぁぁ!!」
男の後ろから騎士が慌てて追い掛けて来ているが、この男は足が速いようだ。
「………!下がって!」
エヴラール侯爵が、自身の背中に私を庇うようにして立つ。
思っていたよりも高い背にときめきながら、私はボソッと呟いた。
「―――大丈夫ですよ」
どこからか飛んできた鳥の大群が、男の行く手を遮った。男は「ぅわあ!?」と情けない声を出して尻もちをつく。
その隙に騎士が追いつき、暴れる男を今度こそ拘束していた。
あっという間に遠く羽ばたいていく鳥の大群を眺めながら、私は心の中でお礼を言う。
すると、侯爵が勢い良く振り返る。その水色の瞳が、キラキラと輝いていた。
「あなたの名前を、教えてくれないか?」
「は、はい。クレージュ伯爵家長女、ノエルと申します」
「ノエル嬢……このあと少し、時間を貰えないだろうか?」
とても眩しい笑顔でそう言われ、断れる女性はきっといない。私がこくりと頷けば、エヴラール侯爵は嬉しそうに笑うと、誰かを探し始めた。
人垣を掻き分け、一人の男性がこちらに向かってくる。腰に剣を携えているところを見ると、侯爵の護衛騎士だろうか。
「……ルキウスさま!これは何の騒ぎですか?いつものやつですか?」
「そうだ。けど、いつもと少し違った。彼女のおかげかもしれない」
そう言って、侯爵が私を見る。護衛騎士の男性もつられるようにして私を見ると、首を傾げた。
「……誰ですか?」
「クレージュ伯爵家のご令嬢だそうだ」
「ご令嬢?……侍従はどちらに?」
もっともなその問いに、私は「ええと……」と視線を彷徨わせる。けれど、ここで嘘を吐いたところで仕方ない。
「……いません。私一人です。あ、でも、黙って出てきたわけではないので!」
「それはそれで…少し心配だな。まさか伯爵から虐げられていたりは…」
「し、しません!私が強運なので、家族は私の好きにさせてくれているだけです!」
両親にあらぬ疑いがかかりそうになり、慌てて首を横に振った私の言葉に、エヴラール侯爵と護衛騎士の口がポカンと開く。
「強運……?」
「はい、昔から……。あ、でも信じてもらえなくても構いませんので……」
「いや、俺は信じるよ」
エヴラール侯爵は優しく笑い、未だにポカンとしている護衛騎士を振り返る。
「バーネット、少し確かめたいことがある。ノエル嬢と街を歩いてもいいか?」
「……俺は構いませんけど……」
「じゃあ、少しだけ。行こうか、ノエル嬢」
ごく自然に差し出された手を、私は躊躇いながらも取る。これも、私の強運の内に入るのだろうかと思いながら。
エヴラール侯爵との散歩の感想は、一言で言えば「嘘でしょ」だった。
十歩でも歩けば、侯爵は何かしらの不運に見舞われる。
急に物が飛んできたり、服がどこかに引っかかったり……とにかく、小さな不運が立て続けに起こるのだ。
狙われたかのようにスコールに遭い、びしょ濡れになったワンピースの裾を絞っていると、エヴラール侯爵が申し訳無さそうに口を開く。
「……すまない、俺は不運体質なんだ」
水が滴る前髪を、侯爵が掻き上げる。色気が三割増になった。
すっかり晴れ間を見せた空を眺めながら、私はフフッと笑う。
「こう言ったら失礼かもしれませんが、存じ上げております。エヴラール侯爵は、“不運に愛された男”だと……私の住む街にも噂が届いておりました」
その噂を初めて聞いたとき、私と正反対の人もいるんだな、くらいにしか思わなかった。
でも、こうして少し一緒に過ごしただけで、“不運”というのはあまりにも大変だということが良く分かる。
エヴラール侯爵は同じように空を眺めながら苦笑した。
「“不運に愛された男”……全く、誰が洒落た言い方を考えたのか。ただ……ノエル嬢。普段の俺の不運は、こんなものじゃないんだ」
「えっ?」
「先ほどのスコールも、俺だけだと絶対にすぐには止まない。いつもは俺が自分の邸宅に戻った瞬間に降り止むんだ。まるでどこからか見ていたかのようにな」
エヴラール侯爵の瞳が、私を捉える。
「ノエル嬢……これは、強運な君が隣にいるおかげだと思う」
「そ……んな、ことは…」
「あるさ。引ったくりのときも、君がいてくれたおかげで助かった」
「……私がいなければ、斬られていたということですか?」
私の問いに、侯爵が曖昧に微笑む。それだけで、過去に似たような出来事があったのだと気付いた。
強運の持ち主である私が同情するのは、嫌な気持ちにさせてしまうかもしれない。
それでも、と私はエヴラール侯爵に笑いかけた。
「……では、良かったです。私の強運が、エヴラール侯爵を護ってくれたのですから」
「………」
侯爵は艷やかな笑みを浮かべると、そっと私の手を取った。そして、そのまま手の甲にキスを落とす。
雷に打たれたかのように固まった私をよそに、侯爵は何故かスッキリとした顔で護衛騎士の名前を呼ぶ。
「バーネット、邸宅に戻ろう」
「え、あ、はい。……このタイミングでですか?」
「ん?何か問題が?」
バーネットさんの憐れみの視線が私へ向く。私は変わらずその場から動けない。
「では、ノエル嬢。近いうちに、改めて助けてくれたお礼を言いに、君の伯爵家を訊ねたいんだけど……いいかな?」
こてんと首を傾げたエヴラール侯爵の言葉を、私はやはり断ることなんてできない。
なんとか小さく頷けば、侯爵は顔を輝かせ、手を振りながら去っていった。
そして侯爵の眩しさに当てられた私は、街の外で待機させていた馬車にふらふらと乗り込み、家に帰った。
しばらく余韻に浸り、部屋でぼーっとしていた私の元へ、両親が焦ったようにやって来る。
「―――ノエル!大変だ!エヴラール侯爵がお前を訪ねていらっしゃったぞ!」
「……えっ?」
そして―――話は冒頭に戻る。
駆け足で玄関へと向かった私の前で、エヴラール侯爵は花束を差し出し、あろうことか求婚してきたのだ。