26話。月の祈り。
月の明かりが、ウィンザード城の瓦礫の山に影を落とす夜の闇。
エミルの土の魔法と闇の錬成に取り込まれていた人たちが、その瓦礫の上に臥すように倒れ込んでいる。なんとか、生きていてくれてたんだ。良かった……。幽かだけど呻くような声が何処からともなく聞こえて、私は、希望を持つことが出来た。何とかして、早く助けてあげたい──。
「うぅっ……。ガッ! カハッ!!」
──ジャンゴは、私の視界の右前方。
エミルの攻撃に弾かれたまま、暗がりの地面に身体を横にして、うずくまっている。
竜の血の効果が切れかかっているのか、身体を時々震わせて、鱗のような皮膚がもとの素肌に戻り掛けている。背中の銀狼の鬣を残して。
急速に何度も変身したジャンゴの容態が気がかりで、私は今すぐにでも駆け付けたかった。
けれど──。
私の目の前の中央に、しゃがみ込む黒色と雷光の異形。額に浮かぶ三本の角。
人とは想えないほどの筋肉が隆起し、闇夜に光の筋を身体に幾重にも走らせ、胸と頭だけになった地面に転がる魔人のエミルの頰に、そっと触れている。
私の心臓が再び波打つように大きく鼓動する。それは、死の恐怖と言うよりは、言葉にし難い驚きが全身を貫いたようだった。
「同じ魔人とは言え、幼き命。多くの人の命を奪った罪。人と魔人の価値観は、心の物差しでは測れない。が、死ぬにはまだ早い……」
風の洞窟で私が初めて会った魔人──。
姿は変わらないけど、何かあの時とは雰囲気が変わっていた。
その魔人が、地面に線を引くようにして、指先でエミルの首が浸食される手前で切断し、あっさりと刎ねた。
大事そうに、エミルの魔人の生首を拾い上げ、ユラリ……と背後の闇に消えようとしている。
「ま、待って!」
何を想ったんだろう。どうして、魔人なんかに声を掛けたんだろう。自分でも分からない。
そう言えば──。パトト爺ちゃんとの盟約。
この魔人の魂は、パトト爺ちゃんの中にあって。罪無き人たちを殺められない様になってる──そんなことを想ったのかも知れない。
それと。何故、私たちの目の前に? どうして、今現れたのか──。
「フフフ……。もうすぐマスターパトトが来ますからね? そろそろお暇しますよ。リリルさん。貴方には、やらねばならない事が沢山あるでしょう? 例えば、そこのジャンゴ君とか? まだその辺に転がっている息のある人々の救助とか? フフフ……」
「あ、貴方は、どうして……。な、何を企んでいるの?」
時折、魔人の全身を包む黒色に隆起した筋肉に、夜の稲妻のような光が走る。それが、稲光の様に明滅するたび感じる……途轍もない魔力。私の栗色にウェイブした髪先がチリチリと揺れる。
けれど、何故かその様子は穏やかに。私やジャンゴに攻撃して来る様な気配は、少しも感じられなかった。
「私はね、リリルさん? パトトとの盟約で人を殺められない。まだ消えたくは無いですからね。しばらくは、この星の行く末を見守らせて頂きますよ? それに、私の核を成す魂は、パトトの中と言う世界一安全な場所にある。これ以上の安心は他に無いでしょう?」
確かに。
パトト爺ちゃんの中なら、ある意味、いつも一緒にいた私より安全だと想う。それに、盟約って言うくらいだから、パトト爺ちゃんも約束を破る訳にはいかない。
「わ、私は……。あ、アンタなんかと行かない。お、お母様が……」
「おや? 気丈ですね。エミルさん。私も貴方のお母様と同じように見てましたよ? フフ。土の魔女の思念が、月を覆う雲に紛れて流れて行きますね」
僅かな動きにも躍動する黒色の筋肉を全身に纏い、雷光の瞳を月の浮かぶ夜空へと向けた風の洞窟の魔人。
瞳から光の筋を全身に流れる様に走らせ、立ち上がったその魔人が、まだ息のあるエミルの頭部を左腕に、そっと……抱えている。
「そうですね……。名を伝えてからお別れにしましょう。リリルさん。風……。風の魔人とでも言っておきましょうか?」
その時。私の小さな胸の辺りが、パァ……と青く光って、何かを言いたげなお星様の声が聞こえた。
「(──風は、僕の名前だけど……)」
「フフ。風の星に怒られてしまいましたね。これは失礼。風無き私は、そう……。凪──『ヴェレス』と名乗っておきましょうか」
どう言う訳なのか……。
魔人の『ヴェレス』にもお星様の声が聞こえてたみたいだ。
それに、仮にでも自分の名前を私たちに告げるって、一体……。
パトト爺ちゃんとか、私たちより何て言うのか、遥かに力を持った存在には聞こえるんだろうか。
まあ、私にもバッチリお星様の声は、聞こえてたんだけれども……。
それと、名前には縁とか結びつきって言うのか、誰かを呼んだり──魔法においては、召喚や契約──魔力の作用の仕方や運命的なものに何か関係があるってパトト爺ちゃんが、言ってたような。それこそ、星にも……。
「(フン……。何か、嫌だな……)」
「フフ。まあ、そう言わずに」
お星様の声を聞いた魔人の『ヴェレス』が、私に雷光の瞳を向けて笑っているように見えた。私たち人とは違って、表情が読み取りにくいせいか、不気味に見える。偏見かも知れないけど、やっぱり魔人は、魔力的な存在感が大きすぎて……。相変わらず、私たちの命を脅かす存在には変わりないんだって気がした。
「わ、私……を、お、お母様のもとへ、か、帰し……て」
「エミルさん? 私にも都合と言うものがありますからね。おいそれと、貴方を土の魔女のもとへと帰す訳には……」
「うぅっ……。そんな、そんなっ! 嫌っ!!」
「今は、少しばかり休息が必要かと? 身体を癒し、お母様から離れて、自分の心を見つめる。世界を見渡すべきです。エミルさん」
「それでも、嫌なものは、イヤッ!!」
「我が儘ですね……」
首だけになったエミルが、魔人のヴェレスに、その赤い瞳を光らせて。
泣いているのか、眼から流れる血のような筋が幾つも頰に光る。首だけなのに、エミルは自分の赤い髪の毛を振り乱し、口から魔人の牙を覗かせ、ヴェレスの腕の中で暴れているように見えた。
「さて。長居が過ぎました。そう言う訳で、エミルさんは私がしばらく預かります。その方が、貴方たちも安心するでしょう? フフフ……。おっと、そろそろ行かねば。パトトが来たようです。出会うと何かと、面倒ですからね。では──」
飛び立つ訳でもなく──。魔人のヴェレスの背後の闇が、渦巻くように歪む。
月の僅かな光が、ヴェレスとエミルの影に吸い込まれるように消えて。
そして、後には、初めから何も無かったかのように、ただただ、夜の闇がシン──として広がっていた。ウィンザードのお城の瓦礫と、魔法陣の生贄にされた人たち……それと、私とジャンゴを残して。
魔人の──ヴェレスとエミルが、消えた。
♢
「遅れて、すまぬ。手間取った。魔人が来ていたようだな……」
「パトト爺ちゃんっ!!」
ウィンザード城の瓦礫の山に残された私たち。
魔人のヴェレスとエミルが消えた夜の闇の向こうから、いつもの白いお髭を揺らしたパトト爺ちゃんが、小さなもとの姿に戻って歩いて来た。けど、月の明かりに見えたパトト爺ちゃんの上半身の筋肉も、魔人のヴェレスに負けず劣らず。相変わらず、凄い力を感じる。
私は、もう、安心しきって……パトト爺ちゃんに駆け寄り、想わず抱きついた。
「リリル。息災で何より……。ジャンゴは?」
お酒を呑んでいないせいか、パトト爺ちゃんが真面目な顔して返事した。
けれども、ほんの少しだけ照れくさそうなのを、私は見逃さなかった。
「よ、よう……。ぱ、パトトのジジイ……いや、師匠。げ、元気か……よ」
あれだけの深い傷と変身のダメージを負ったジャンゴなのに。
ヨロヨロと立ち上がり、私とパトト爺ちゃんのもとへと、足を引きずりながらも何とか歩いて来ていた。変身が解け、もとの金の髪に青い瞳──それに、月明かりには私と変わらない肌色の素肌が見えた。
「ふむ。ジャンゴよ。ワシの可愛い弟子よ。初陣にしてはよくやった。が、まだまだ『獣の力』が扱い切れていない様子。もっと強く鍛えねばな? 刀刃のように……」
「ハハ……。今は、カンベンしてくれよな? ハァハァ……。休みてぇぜ」
珍しく。パトト爺ちゃんが、ジャンゴを褒めてる。でも、ダメ出しは健在?
ジャンゴが、ドカッ!と暗がりの地面に胡座をかくようにして座り込み。パトト爺ちゃんが、白いお髭を風に揺らし月の夜空を見上げている。私も、少しジャンゴの姿を見て安心した後──小高いこの場所から見える、ウィンザードの城下の街並みを見下ろした。
不思議なことに──。
瓦礫と化したウィンザード城を円形に取り囲む街並みからは、炎が消え。
代わりにボンヤリとした幻想的な明かりが、光の粒が月の夜空へと立ち昇る様にして輝いていた。
どう言う訳なのかは分からないけれど。ジャンゴが立ち上がれたのと同じように──瓦礫の上の生贄にされた人たちも、息を吹き返した様に身体を起こし始めていた。
「破壊するつもりだった──土の魔女の大規模魔法陣。が、それでは多くを救えぬ。時間は掛かったが、魔法転用の技術を用い、聖大星魔法陣への書き換えに成功した」
『聖大星魔法陣』? 何だろ、それ。
けど、パトト爺ちゃんの言葉からは、とんでもなく凄いんだってことだけは分かる。
「なんなの、それ……?」
私は、パトト爺ちゃんに抱きついたままで、パトト爺ちゃんの懐かしい匂いを嗅ぎながら聞いた。ついでに、白いお髭をクリクリと手で触って。
「ふむ。ウィンザードの民の命と魂の復元。皮肉にも、土の魔女の大規模魔法陣があってなればこそ。が、しかし、それでも全ては救えぬ。数多の魂が土の魔女に持ち去られた……」
「やっぱり……。そう、なんだ……」
(──ゴゴゴゴゴゴ……)
何処かからか。地面の奥から激しく響き渡る地鳴り。私の足もとにも、その振動が伝わる。
瞬間──。
ピシッ!と瓦礫のウィンザード城を中心に、城下の街並みへと光の筋が走った。
それは、まるで夜空の大地に光の五芒星──星を描くようにして。深く影を落とすタモタモの森にも、その明かりが届くほどに輝いた。
「な、なんだよっ?! か、身体が急に軽く……。え?」
「ジャ、ジャンゴ!! あれっ!!」
「なっ?!」
「ようやくだな……。『時の巻戻り』。全ては還らぬが、傷ついた時間と空間が元に戻ろうとしておる。『時を渡れる秘法』。もしかすると、土の魔女は『太古』或いは『未来』から来たやもしれぬ……」
信じられないことに──。
瓦礫の山と化したウィンザード城の石垣や、城壁が……。月の夜空に宙に浮くようにして、元の姿へと戻ろうとしている。
こ、これが、ほ、本当の魔法の力……? と、とんでもない目を疑う様な光景。
けれども、それ以上に。
私が耳を疑ったのは、パトト爺ちゃんの言葉……。土の魔女が『太古』? それも『未来』から、来た?
「そ、それって、どう言う意味なの……? パトト爺ちゃん!」
「うむ。『時を渡れる秘法』──。魔法転用の際に表れた古の呪文。しかも、古代より遺されたその秘術は解明されず、今なお眠る。さらに太古に遡れば、人は遥かに高度な文明を携えていたと。ホーリーホックの言葉が真実ならば、再びその叡智を手にするには時を超え、未来に渡らねばならぬとも聞く……」
その言葉を聞いた私の身体に、恐ろしい戦慄が走る。
いつか見た悪夢と、パトト爺ちゃんの言葉が結びつく。
──『未来』。
高度な文明と呼ばれた見たこともない世界。その光景。
今の時代には、存在するはずの無いそれは……空に浮かぶ建物や風景。
そして、私は……。
孤独だった。一人だった。誰も居なかった。パトト爺ちゃんも、ジャンゴも。
ただ、そこで見たのは──私に似た誰か。もう一人の別人の私。その姿。
そして──。
あの時の悪夢に聞いた、響き渡るような不気味な声。
その恐怖が、再び私を支配して。
ジャンゴからもパトト爺ちゃんからも、私は目を離せずに、胸に宿っている風のお星様に手のひらを重ねて──、ひたすら必死で祈るしかなかった。
神様──。創造主ホーリーホック様……。どうか、どうか、私を遠くへ連れて行かないでください。
お願いだから、ジャンゴとパトト爺ちゃんの傍に、ずっとずっと……居させてください──。




