25話。戦慄! 魔女の巫女。③
「さて。さっさとやっちゃぉっか? リリル?」
魔女の巫女──。
漆黒の闇夜に輝くお月様を背に、魔人へと姿を変えたこの子。その胸に、美しく光るような赤色の髪の毛が流れ落ちる。
そして、その艶やかな紅色の素肌の上に、黒の呪いの牙のような螺旋の紋様を滑らかにしならせて……私へと近づいて来た。
(──う、動け、動いてよ、身体!)
ガタガタと立ちすくむ私の身体。言うことを聞かない。足が震えて立っていられない。
身体の中が、血の気が引いたように冷たい。まるで、指先まで凍りついたように。
けれども、目の前の魔人──この子は……。
私のその怯えた様子を楽しむように、首をかしげては笑う。赤い瞳を光らせ、その口には、人ではない獣の牙が生えていた。
「終焉の時。こう言うのを罪って言うのね? だって、星の巫女──美しい貴方を傷つけて、星だけ取り出すなんて……」
「や、やめろぉぉっ!!」
その時──。
切り裂くような叫び声が夜空に木霊した。ジャンゴだ。
月明かりに膝を突いていた体勢から、炎の塊を纏ったジャンゴ。竜の口から白い煙を吐き出し、凄まじい勢いでエミル──魔人のあの子の身体にぶつかった。
エミル……。魔人のエミル。そうだ……。あの子にも名前があった。そして、土の魔女──あの子の母親にさえ。
(──ゴオォォォォ!! ドゴォォォォン!!)
火の玉と化した赤い竜のジャンゴの背中に、銀狼の鬣が走る。
月のように光るジャンゴの金の眼。途轍もない衝撃音が、あの子の半身を引き裂いた。
片膝を突き「ハァハァ……」と、竜の口から白い煙を吐くジャンゴ。息苦しそうだ。ジャンゴの周囲が、その身とともに赤く炎に照らされている。
けれども、もう一人──。
夜空を焦がすほどの炎が煌々と立ちのぼる。魔人と化したあの子が、地面から仁王立ちになったまま、その身を影とともに赤々と焼いていた。身体の表面がグツグツと沸騰したように泡立っている。
「アハ! 何だろ、この安心感? 痛くも無いし、熱くも無い!! こんなにお腹がぐちゃぐちゃなのに、もう再生し始めたよ? アハハ!!」
魔人のエミル……。
胴体から肋骨と背骨が露わになり、ほとんど千切れ欠けていたのに──。
闇で出来ているのか、その身体には黒色の液体のようなものが、溶けた蟲のように動く。
そして、私が、ほんの少し瞬きをした間には、もう元の魔人の姿へと戻っていた。
まるで、負傷すら負っていない。あの時の──風の洞窟に現れた魔人と同じように……。
身体を焼いていた炎も、エミルが手で払うようにして撫で下ろすたび、その身体から消えて行く。
「チッ! これなら、どうなんだよっ!! 【火炎十字双牙】!!」
「うるさい……」
(──ガッ! ガクゥン……)
【双頭竜狼爪】の状態から、両腕の爪とその身に赤い炎を纏わせたジャンゴが、魔人のエミルへと走り抜ける瞬間──。
鋭利な爪とその指先で、エミルがジャンゴの竜の首をギリギリと食い込ませ、締め上げていく。
──まるで、赤い炎の松明を漆黒の夜空に掲げるようにして。
ジャンゴの赤い血が、エミルの魔人の指先から伝い落ち、竜の爪の足先が地面から浮く。
「グッ!! カハッ!! ア、アァ……」
魔人のエミルが掴む手を──振り解こうとしていたジャンゴの竜の両腕が、力無くダラリ……とぶら下がっていた。その身を火炎で燃やしたまま。捕らえられた獣のように。
「あんたって、さぁ? 本当に竜人なの? ジャンゴ君? お母様から、竜人はもっと強いって聞いてたけど?」
(──ブン!!)
「カッ! ガハァァッ!!」
まるで、必要の無くなったものを投げ捨てるようにして。
軽々と片手で、竜のジャンゴを夜の暗闇へと放り投げた魔人のエミル。
地面に激しく背中を打ちつけた衝撃で、ジャンゴの呼吸が一瞬止まりかけた。
変身が解けかかっているのか、地面に横たわるジャンゴの身体が震え、強張らせたその全身が硬直し始めているように見えた。
けど──。震えが止まらないのは私も同じだった。足が強張ったまま身体が動かない……。
「(リリル! 僕を解き放って!!)」
お星様の声が、私の胸から頭の中へと響いた。
私の小さな胸の隙間で青く光るお星様……。
けれども、挫かれた私の心が諦めていて、もうダメなんだって叫ぶ。
今さら、腰の小袋から竜の血の入った小瓶を取り出そうにも、手が震えて……。
──ゆっくりと、赤い瞳に笑みを浮かべる魔人のエミルが、赤色の髪を掻き上げて私に近づく。
目と鼻の先ほどの至近距離。呼吸が止まりそうになり、息を呑んでは吐き出すたびに、心臓も止まりそうになる。
私の震える視界には、ジャンゴと魔女の生贄にされた人たちが、地面に横たわっている。だけど、どうすることも出来なくて。私は、ただ震えたまま魔人のエミルの射るような赤い瞳を見ることしか出来無かった。
呪縛──それよりも、一瞬で呑み込まれるような……。死の恐怖に支配される。
「そう怖がらなくて良いよ? 大丈夫。安心して? リリルは、星の巫女──不死者だもん。星を抜き取ったら楽になれるよ? 痛みは、一瞬だけ……」
まるで、心まで支配するエミルの甘く囁く声が──、エミルの吐く温かい息とともに、私の耳もとに掛かる。何もかもを忘れて、心から休まるような……そんな不思議な空気に包み込まれる。
何故か、私はホッとして、この身体をエミルに預けようとしていた。
「今だっ!! 放って、リリル!!」
今度は、ハッキリと聞こえた。お星様の声が。
けれど、私の抗う意思は消えたまま。「終わりにしたい……」そんな気持ちが、喉の奥に湧き上がる。
泣いていたのか、ツー……と私の頰を伝い流れ落ちる涙。自分自身の体温を感じ取った。まだ、あたたかかった。それなのに──。
(──私が星の巫女? 風のお星様さえ、守ってあげられやしない……)
ずっと、ずっと……。私は、私の力の無さを責める。
どうしようもないくらい自分の力の無さを。
「うぐっ! あ、あぁ……」
強烈な痛みが、痺れるように身体の中に突き抜ける。一瞬の耐えられない痛みの後、その感覚が麻痺して──意識だけがハッキリと残った。
ツツツ──と、エミルが鋭利な魔人の指先で私に触れた。その爪が、私の胸を柔らかく切り開く。
まばゆい光だった。それは、心臓のように。青い光が明滅して、鼓動を繰り返す。まぎれもない──私の心臓と……それは、私の心臓そのものに宿った風のお星様の姿だった。
「フフ……。綺麗よ、リリル? 青く輝く貴方は……。あ、あれ?」
痛みが麻痺した感覚が、胸から頭の中へと徐々に伝わる。
次第に眠くなる意識の中で、私の心臓と風のお星様が、ズルズルと──魔人のエミルの鋭い爪先で抉り取られ、繋がっていた血管ごと引きずり出されて行くのが分かる。
私の心臓から噴き上がる赤い血が、風のお星様の青い光に混じる。そう……。エミルが言うように。綺麗……。
けれども、エミルが不思議そうに首をかしげていた。赤いその瞳に、私の青い心臓のお星様を映して。
エミル……。手にしていたはずなのに。私の心臓と風のお星様を──。
──乗せていたはずのエミルの手のひらが、水飴の様にダラリと溶け落ちる。青い光の浸食がエミルの右の肩の手前にまで迫って来ていた。
「くっ! ハハ!! そうだった! 星は邪悪な者を弾く!! けど、それも決めつけよ?」
躊躇いもなく──。
赤い瞳を光らせたエミルが、魔人と化した左腕の指先を、まるで剣の切っ先を向けるようにして──。
青の光が浸食する右肩のその付け根から、自らの手でゴッソリと削ぎ落とし切断した。
「ハハハ!! 痛くない! 痛くないよ、お母様っ!! 何も感じない!!」
まるで、泣いているかのようなエミルの魔人の頰。その素肌の紅色と黒色の牙のような呪いの紋様が混じる皮膚に、血液のような赤い涙の筋が伝い落ちる。
夜空に浮かぶお月様を、エミルの赤い瞳が見上げた瞬間──。私の心臓が、風のお星様の青の光に包まれて、体内へとギュルル!──と、渦を巻く様にして戻って行くのを目にした。そして、信じられないことに、私の胸の開いた大きな傷が塞がり、何事も無かったかのようにお星様の青い光が消えた。
辺りが──シン……とした静寂に包まれ、もとの暗闇に戻る。
「やっぱり、貴方は不死者ね。リリル? 私たち……気が合うよね?」
泣いていた頰の赤い光の筋は、そのままに。
エミルが、赤色の長い髪の毛を魔人の尖った指先で掻き上げた瞬間──。
エミルの右肩から、ズバン!──と、勢い良く夜の暗闇を切り裂くようにして、失われた右腕が再生して飛び出した。
「何も、気が合うだなんて、あり得ないよ……。貴方が、魔人じゃなくて人殺しじゃなければ……」
「ハハ!! 貴方が星の巫女になったせいで、大勢の人たちが死ぬ羽目になったのよ! これからも争いは続くわ……?」
魔人──エミルの赤い瞳。
私は、エミルから目を逸らすようにして、足もとの暗い地面を見て俯く。
月明かりに、食人植物の魔物で出来た私の可愛らしい緑のブーツと、頼りない細くて白い自分の足が見えた。
旅だ冒険だなんて、胸を躍らせていた自分が本当に恥ずかしい。それに、私のウェィブした栗毛の髪先が、小さな胸の上で風に揺れる。
不死者とか星の巫女とか、嘘みたいな現実を次々と目の前に突きつけられても、私はもう何をどうしたら良いのかさえ分からない。
ジャンゴが倒れてる。けど、パトト爺ちゃんがもうすぐにでも、駆け付けてくれるのかも知れない。
私には、どうすることも出来ない。考えることを放棄した私は、ボーッと突っ立って居るだけだった。
(──リリル。リリル……。目を覚まして。僕は、消えたく……ない)
風……のお星様?
一度は、魔人のエミルの指先で、切り開かれた私の小さな胸の膨らみが、パァ……と青く光り──お星様の悲しげな声が頭に響いた。
「直接、星には触れられない。やっぱり、器は必要なようね? まずは、リリル。貴方からバラバラにしちゃぉっかな? どうせ、死なないんだし? アハッ!! それから、鋼鉄の鎖で別々に縛って……」
目の前で、魔人と化したエミルが、指先の紅色と黒の紋様を螺旋状に絡ませて、私の赤い唇に触れた。エミルの赤い瞳には、怯えたままの私の顔が映っている。
(──リリル。僕はまだ、消えたくない。リリル……。僕は、君と一緒に……いたい)
リリル──。風のお星様が、私を呼ぶ。
リリル……。私の名前。
誰が名づけたの? パトト爺ちゃん? それとも、私のお父さん? お母さん?
私は、ハッとして気がつく。そうだ……。私は、誰かに祝福されてきっと生まれたんだ。そのおかげで、ウミルの村の人たちも、ジャンゴも、パトト爺ちゃんも……風のお星様も、今──呼んでくれている。リリル──私の名前を。
「私だって! まだ、消えたくないっ!!」
瞬間──。
私の小さな胸の真ん中が、服の上から輝きを増して、青い光の閃光が飛び出した。
(──ギュルルルル!! バシュン……!!)
「な……?! くっ! カハッ!!」
エミルの魔人の胴体に、青い光の筋が走る。
私が叫びながら斜めに振り上げた右腕と同じような角度で、エミルの上半身が、ブスブスと青い光に焼き切られ、黒い煙が月明かりの夜空に昇った。
「あ、アァ……」
(──ドサッ……)
エミルの呼吸が止まりそうになる瞬間、その上半身がズルリ……と月明かりの地面に落ちた。
残されたエミルの半身も、無造作に暗がりの地面へと音を立てて倒れ込む。
風のお星様の放った青色の閃光の光が、尚も、エミルの胴体の切断面を焼き続ける。そして、それは再生を蝕むようにして、黒色の闇の身体を浸食し続けた。エミルが消えようとしている。
「いや!! 死にたくない! 死にたくないよっ! お母様ぁっ!!」
振り絞るような声で、魔人のエミルの泣き叫ぶ声が、夜空に響いた。
──と、その時。
消えかけている魔人のエミルの上半身に寄り添うように、もう一本の魔人の腕が、夜の闇から現れた。
(──ズズズ……)
黒色の皮膚に、雷の電光が幾重にも走るように光る紋様。
その腕の鋭利な指先が、エミルの魔人の顔を慈しむ様に撫でる。
「おやおや? イケませんねぇ? うら若き少女が二人。喧嘩はよくありませんよ? この星の行く末を憂う私としては、少々心が痛みますが……」
夜の闇から突如として現れた黒色と雷光の異形。その全身。
真夜中に大きな雷が落ちたような衝撃が、私の心に走る。
「フフフ……。このお嬢さんは、虫の息。今にも死にそうです。生まれたての魔人が、ここまで星の浸食を受けると再生に相当の時間を要しますから……」
いつかのあの姿をして、愛おしい表情さえ浮かべて、尚も朽ちようとしているエミルの顔を見つめる。その黄色に光る瞳──。
首の下あたりまで、風のお星様の青い光の浸食を受けたエミルが、赤い瞳でその眼を見つめ返した。
「だ、誰な……の?」
「フフ……。今晩は、エミルさん。私は、名前など持ち合わせておりませんよ? が、仮の名前でしたら幾らでも。ね? お久しぶりですね。リリルさん? お元気でしたか? フフフ……。おっと、イケない。急がねば」
黄色に光る夜空の雷のような瞳が、私を見つめ返す。
それは……もう一人の──魔人。風の洞窟に現れた、あの時の。そう……それは私が最初に会った魔人だった。




