そうか! わかった! 一人称形式と三人称形式、どちらが初心者向けなのか!
答え:三人称小説。
それも三人称多元視点。
いわゆる神視点。(多元視点と神視点を別モノと定義してる場合は異なるけど)
理屈の上ではあるが、圧倒的に初心者向き。
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■なんでそうなるの?■
さて。結論だけ書いても理解を得るのは不可能に違いないし、論理的ではない反射的・感情的な反論も出てくるだろうから、説明していこう。
一人称・三人称がどういったものかは、小説を書く上でのHow Toでも見れば散々語られていることだろう。
・一人称形式小説:作中登場人物によって語られる物語
・三人称形式小説:作中に登場しない誰かによって語られる物語
ここではこういった定義だけで語っていく。
執筆初心者が小説を書こうとして、まず悩むひとつがこれだろう。
物語を一人称視点で書くべきか。三人称視点で書くべきか。
で。これに対する答えは、割とふわっとしている。
自身の経験でどちらか片方が書きやすいと語っている人もいるが、多くの場合は『どちらでも』だ。
一人称形式・三人称形式のメリット・デメリットを列挙し、書き手が書きやすいやり方を選べばいい、と結論している創作論が多い。
間違いではない。得意なやり方は人それぞれだから、その人に合ったやり方を選ぶのが一番とは思う。
だが個人的には『正しい』とまで言える確証性を感じないのだ。
だから深堀りして考えてみた。
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■圧倒的に書きやすいのは一人称視点文章■
一般教養を受けて文字を知り文章を書く機会もある人間ならば、誰しもに言える話なのだが、ここはわかりやすく現代日本人に限った話にしよう。
取り立てて執筆活動をしていない人でも、文章を書く機会は結構ある。
小中学生の頃には宿題で読書感想文や作文、夏休みの日誌を書かされただろう。
成長して高校・大学に進学しても、小論文・論文を書く破目になる。あと自己PRとか履歴書とかエントリーシートでも悩む。
社会人になればビジネスメール、報告書や業務日誌などを書くことになる。
この辺りは個人個人で違うだろうが、パソコンやスマホを持てば、掲示板サイトやSNSといった、ネット上のコミュニティに書き込む機会もある。ノートにキチンとした日誌を毎日書いている人もいるだろう。
でだ。
客観性の有無といった点で多少は異なるが、それらの文章は例外なく、一人称視点による文章なのだ。
自分が見聞きした経験を知らない人間にも説明し、それをどう分析して、どう思ったかを文章で伝えている。
9年間の義務教育を受けて、多くの人は更に3年ないし7年の高等教育を受けて、社会人になれば義務でも趣味でも文章を書くことになる。
長年鍛えられて、日常的にも使用しているのだから、特異な人生を送っていない限り、誰しもが一人称視点による文章のほうが、圧倒的に書き慣れてて書きやすいのだ。
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■ノンフィクションとフィクションでは、『一人称視点』の意味が違う■
『三人称形式が書きやすい』としてる結論と違う?
そりゃそうだよ。話は結論どころかようやく前提が終わったところだから。ここからが本題だ。
長年訓練し、日常的に書いている文章は、ノンフィクションだ。
実際に自分の経験を文章に起こしている。
は? フェイクニュース? 嘘松?
ンなの知らネ。
実話であるかのようにフィクションを書き込むヤツも、それまでの人生で書いてきた文章はノンフィクションが圧倒的に多いのは、どう考えても間違いないから、そんなのごく少数の例外として無視する。
そしてここから先はフィクション――小説に限った話になる。
現代日本人がノンフィクションの一人称視点文章を書き慣れているなら、フィクションを書く場合も一人称視点文章のほうが書きやすい……とはならないのだ。
しかも理屈の上では絶対と言っていいくらいに。
ノンフィクションの一人称視点は、書き手自身、実在する作者のものだ。
対してフィクションの一人称視点は、主人公ないし、ストーリーテラーとなる架空の登場人物のものだ。作者の視点ではない。
ここに決定的な違いがある。
なので一人称形式小説は、作者が登場人物の立場に立つ配慮、なりきって書く演技力を要求される書き方と言える。
そんなの不要な三人称形式小説より、一段階難易度が上なのだ。
だからよくあるミスに、『語り手が知らない情報を一人称形式で語る』がある。
鏡もないのに自身の目の変化や、後頭部や背中の負傷をこと細かく語ったり。
あと個人的ブラバ案件の『この時あんなことが起こるなんて、俺は思いもしなかった』なんて文章を引きに使うとか。
作者が知っていても、主人公は知るはずのない情報は、一人称形式では書いてはならないのに、無意識に『作者=主人公』で書いているから、そういうミスを犯す。
一人称形式のままだが、語り手となるキャラが容易に変わったり、三人称形式文章で全く別の場面を挿入するのもこれに当たる。
昨今ではある程度は許容されているが、視点変更は読者を振り回すのが間違いないし、主人公の役目を奪うので、やらないに越したことはないのだ。
それでも頻繁に視点変更するということは、主人公に思い入れがなく、『(コロコロ変わる)語り手=作者』という立場で語っていると言える。
しかも初心者だとキャラの書き分けが難しいのに、更に視点変更で主人公と立場が同じ登場人物を増やすと、余計にキャラの個性薄まって見分けつかなくなるから。
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■だから三人称多元 (神)視点が書きやすい■
ならば小説において、『作者の視点』はどこにあるのか?
第三者の立場で俯瞰的に全てを見ている。
プロットとまで言わずとも大雑把でも展開を考えているなら、冒頭の段階で結末までの未来を知っている。
登場人物同士では共有していない情報どころか、登場人物当人たちすら知らない情報まで知っている。趣味嗜好はもちろん、ある場面での心の声も全員分正確に知っている。登場人物が記憶喪失でも、誰も目にしていない過去の記録でも、作者は正確に知っている。
当たり前だ。
作品作りにおいて、作者は神なのだ。
自作品の全てを知っているのだ。知らないことは作っていく内容だ。
であるならば、作者=神の一人称視点、徹底的に観察者の立場で書いていけばいい。
全部知ってるのだ。一人称視点や一元視点ではかけない、フォーカスしているキャラ以外の心の声も書きたい放題。場面転換も思いのまま。
一人称形式小説ならば、作者と登場人物の間に情報量の格差があるため、語り手がなにを知りなにを知らないか、考えながら書く必要があるが、それが不用なのだ。
地の文で『俺』とか『私』とか書いちゃうとややこしいになるけど、それさえ気をつければ、書き慣れた神の一人称視点で、登場人物を観察する三人称を書けるのだ。
しかもこれ、マンガの描き方でもあるのだ。
大抵の場合、主人公をフォーカスしている三人称単元視点だけど、視点変換・場面変換は思いのままで変更する。
複数人の心の声も好き勝手書ける。
登場人物が知らない情報を好き勝手出せる。
特徴が重なっている。
文章の書き方も、発想も、思考回路も、現代日本人なら慣れ親しんでる。
初心者が初めて小説執筆するなら、三人称多元形式が書きやすいという結論になる。
ん? 違う? やっぱり一人称視点形式文章のほうが書きやすい?
その理由は? 最近は一人称形式小説が多いし、読み慣れてるし、こっち書きたいから?
ンな個人の思い入れまで考慮した場合は知らんわ。