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ふたりはずっといっしょ~百合と林檎の物語~  作者: 館西夕木
第一部 灰谷百合の青春
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第五話  奪われる星の下に

 1



 翌日。


 辰夫と正子がそれぞれ出かけた後、わたしは小さな希望を胸に、楓の携帯へ電話をかけた。事情をしっかり話せば、楓なら判ってくれるはずだ。しかし、その期待も無残に打ち砕かれた。


 聞こえるのは単調な呼び出し音だけで、その電話が楓に繋がることはなかった。


(楓さん)


 目の周りが痛い。


 さっき鏡で顔を見たら、蜂にでも刺されたのかと思うほど腫れていた。昨晩は枕に顔をつけ、ひたすら泣いた。図書室で借りた本を読む気にはなれず、かといって宿題をしようにも、頭が上手く働かなかった。


 少しでも気を抜けば、涙がぽろぽろとこぼれてしまうのだ。そうして結局、布団の中で眠るまで泣いた。


 朝になっても悲しみは去ってくれなかった。


 どれだけわたしが精神的に打ちのめされていようとも、それはわたしの私情であり、灰谷家には関係のないことである。やるべきことをやらなくては、わたしはこの家に置いてもらえない。その日は悲しさを紛らわせようと、必死に家事をこなした。


 この時、わたしは光緒と二人きりという状況がいかに危険か気づいていなかった。


 彼は珍しく昼前に起きると、リビングのソファーに座り、何をするでもなくぼうっと中空を見つめていた。


 普段ならどうでもいいことを口にしながらわたしの体をさりげなく触り、にやけた笑みをこぼすのだが、今日はどうも様子が変だった。


 深刻に何かを考えているふうに真剣な表情を作っていたかと思うと、いきなりにやりと口角を上げ、怪しげな微笑をこぼしたりもする。


 ぽっかりと胸に穴があいたような心地で、わたしはその日を過ごした。楓はもうわたしのことを友達だとは思っていないだろう。月曜日、どのような顔をして楓に会えばよいのか。どう弁解すればよいのか。


 家の事情を話してしまおうか。わたしは親戚の家でこき使われています、と、誰にも言えなかった惨めな境遇を、彼女にさらけ出して許しを請うべきか。


 いや、そうするべきだ。


 そうでもしなければ、きっとわたしは楓というたった一人の友人を失ってしまう。


 そうだ、そうしよう。


 昼食後、わたしはキッチンで皿洗いをしていた。私服を持っていないので、休みの日も学校の制服を着ている。洗剤が跳ねないよう、しっかり腕まくりをして水仕事に勤しむ。その時だった。


 突然、光緒は跳ねあがるようにしてソファーから降り立つと、ずかずかとこちらへ向かってきた。その顔にはある種の覚悟めいたものが窺え、そのあまりの迫力に、わたしは蛇に睨まれたカエルのように固まってしまった。


「あ、あの」


 光緒はわたしの手首を掴み、キッチンから引っ張り出した。その力はとても強く、手がちぎれてしまうのではないか、と思うほどだった。


「な、何を」


 彼はリビングまでわたしを引っ張ってくると、ソファーの前で立ち止まり、わたしをソファーに押し倒した。

 悪いことはどうして立て続けに起こるのか。彼の異常な目を見て、わたしはこれから自分が何をされるのかを悟った。


 親というタガが外された今、光緒の性欲を邪魔するものは何もない。顔はゆでだこのように紅潮している。右手はズボンを下ろしている最中で、その下に履いている白ブリーフは中心部分が醜く盛り上がっていた。


「いやあ」


 わたしはすぐにソファーから飛び起きて、廊下へ駆け出したが、すぐに捕まり、光緒の怪力とも呼べる異様な腕力によって床に組み敷かれてしまった。

 テーブルが大きくずれ、置かれていた陶器製の花瓶が床に落ち、砕ける。つんざくような音を立て、花瓶の破片が散らばった。


「やめて」


 不快だ。全身が粟立つ。


「うるせぇ」


 怒号が飛ぶ。


「くぅっ」


 拳を光緒の腹や腰に打ち付け、何とか抵抗を試みる。が、それが無駄な抵抗であることは明らかだった。力があまりに違い過ぎる。


「なんで、わたしばっかり」


 本当に、どうしてわたしばかりがこのような目に遭わなければならないのだろう。もしかすると、前世で悪行を繰り返した罰なのだろうか。母を奪われ、友を奪われ、もうわたしには何も残っていないのに、なおも運命はわたしから奪おうとする。


「なあ、一宿一飯の恩義って知ってるか? ん?」


 光緒は顔を近づけ、囁いた。上下の歯の間に、不透明な唾液が糸を引いている。生暖かい息と、獣のような荒い鼻息が混ざり合い、顔にかかった。


(気持ち悪い!)


「恩は必ず返さなきゃいけないんだ。返せないなら、体で払わなきゃいけない」


 暴行を正当化するためか、光緒は唾を飛ばしながらそのようなことを繰り返した。


「家の、はぁ、はぁ……手伝い、してるじゃない」


 光緒の体重が腹部を圧迫し、それだけ口にするのがやっとだった。


「そりゃパパやママのいいつけだろうが。俺はまだ何も返してもらってないぜ」


「あなたの、食事だって、洗濯だって……」


「だから、それは俺が頼んだことじゃない」


「くぅ」


 ダメだ。言葉が通じない。


 わたしが体を起こそうとすると、光緒はもう片方の手でわたしの喉元を掴んだ。首に指が食い込み、本能的に死の恐怖が頭をよぎった。


 もしこのまま抵抗を続ければ、命の危険があった。わたしの細い首など、光緒の気分次第で簡単に折れてしまう。


「やめてください」


 恐怖のあまり、消え入りそうな声量しか出なかった。これが聞こえたのかは判らないが、光緒はちらとこちらに目をやると、おぞましい笑顔を見せた。どうやらわたしの反応が彼の嗜虐心を刺激するらしい。


「お願い、やめて……」


 どうしてこんなにひどいことができるのか。正子とは違い、少なくともわたしと光緒には同じ血が通っているのに。


 光緒がわたしの上から降り、圧迫感がなくなったことで楽になった。彼はわたしがもう抵抗しないと判断したようだ。

 

 この世は弱肉強食だ。弱いものは強いものに食われる。そんな当たり前の常識に、わたしは今さら思い至った。弱いから母を奪われ、弱いから友を奪われ、そして弱いから、遂には自分の純潔まで奪われる。

 わたしは弱者の星の下に生まれているのだ。きっと、これからも奪われ続けていく人生なのだろう。わたしにこんな運命を押し付けた神を心から恨んだ。


「百合」


 光緒の顔がゆっくりと近づいてくる。彼は再びわたしに馬乗りになり、上半身を折ってキスを求めてきた。そのあまりの醜悪な顔に、わたしは不快感を覚えるよりも早く、強い怒りを感じた。


 わたしの心に蓄積された数々の不満、憤り、悲しみが今この瞬間、怒りに変換されたのだ。


 同時にこれはチャンスだとも思った。


 今、光緒は目を閉じ、唇を突き出しながらゆっくりと顔を近づけている。完全に主導権を握ったとたかをくくっているのだろう。頭は沸騰しそうなほど怒っているのに、わたしは状況を冷静に分析することができた。今、完全に光緒は無防備な状態だ。


 わたしは素早く右手を伸ばし、先ほど割れた花瓶の破片、それもなるべく大きく鋭利なものを掴んだ。そして、それを勢いよく光緒のまぬけ面めがけて突き立てた。





「ぎゃあっ」





 手ごたえを感じた。


 ぷちっと何かが弾けるような音と共に、赤い液体が爆ぜる。


 破片は光緒の右目に命中した。彼は両手で顔を覆い、大きくのけ反った。赤い血飛沫が彼の指の隙間から噴き出している。


 わたしはこの機を逃すまいと渾身の力を込めて上半身を起こし、体当たりをするように光緒の体を押した。すると彼はわたしの腹部から飛び上がるようにして浮き、そのまま後ろに倒れて行った。


「いぎゃあああ」


 それほど激しい出血ではないはずだが、光緒が頭を振りながら床を転がり続けるので、わたしが今朝綺麗に磨いた床の上は、おびただしい量の血で汚れていく。


「ふざっけんんんあぁよぉおお、てめぇ!」


 言いながら、光緒はなおも床を転がり続けている。花瓶の破片を握った右手に目をやると、べっとりと返り血がついていた。


 息が整ってきた。


 そうしてようやく、わたしは自分がしでかしてしまったことの重大さを認識した。


 手が震えた。


 とんでもないことをしてしまった。


 右手に付着した暖かい血と、その手が握る鋭い角を持つ破片。やがて、光緒は動かなくなった。死んでしまったのかと不安になったが、仰向けになった彼の胸が静かに上下しているところを見ると、息はあるようだった。


 四肢を大の字に投げ出し、血まみれになった顔を天井に向けている。右目の傷は相当深く、眉毛の下辺りから目の一センチ下まで、引き裂かれたような傷が生々しくできていた。眼球の状態は不明である。いまだに血が湧き水のように右の眼房からあふれているからだ。


 これをわたしがやった。


 やってしまった。


 激情に駆られて人を傷つけたという衝撃が、今なお私を支配している。たしかに光緒はわたしを強姦しようとしたし、わたし自身も彼から逃れようと必死だった。が、ここまでやるつもりはなかった。


 もう光緒の右目は使い物にならないだろう。きっと傷跡も残るはずだ。


 興奮が冷めていくと同時に、これから自分を待ち受けるであろう運命を悟った。


 わたしは人を傷つけた。


 この事実に変わりはない。正子が帰ってくれば、彼女は警察に通報し、わたしは御用となるだろう。そしてわたしは逮捕され、刑務所に入れられてしまうに違いない。

 そうなれば、わたしにはもう帰る場所も頼るべき人もなくなる。


 手の力が抜け、花瓶の破片が床に落ちた。


 硬質の音が響く。


 光緒のうめき声が耳に反響する。


 全身を悪寒が支配する。


 何が何だか判らなくなり、底なしの恐怖が体を震わせた。


 後悔が波のように押し寄せる。


 こんな野蛮な方法でなくとも、この場を穏便に解決できる手段はなかったか?


 自分が何をしたのか判っているのか?


 これでもう、この家にはいられない。


 やはりわたしは奪われる星の下に生きているようだ。わたしは最後の最後で、自分で自分の日常を奪ってしまったのだ。



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