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ふたりはずっといっしょ~百合と林檎の物語~  作者: 館西夕木
第二部 八神邸殺人事件
50/55

第四十九話  生まれてから一度も

 1



「事件の概要をおさらいしましょう。

 犯行が起きたのは七月四日の午後十時から翌日五日の午前一時までの三時間。被害に遭ったのは八神家当主である八神勇心さん。現場は被害者の寝室で、死因は左の側頭部を鈍器で強打されたことによる脳挫傷。八神邸の立地、現場が被害者の寝室であったこと、そして犯行時刻が深夜帯であったことなどを考えると、外部の人間が犯人であるとは考えられない。

 事件が起きた日の夜、八神邸には被害者である八神勇心さんを除いて、八人の人間がいました。名前を挙げていきましょう。八神明雄さん、八神空さん、そしてこのお二人のお子さん、太刀川まゆさん、松戸大輔さん、高石旗子さん、そしてあなた――八神林檎さん。このうち明雄・空夫婦の子供は除外します。まだ四歳と二歳だそうですからね。とても殺人なんてできないでしょう」



「当然ですわ」



「よって容疑者は当時屋敷にいた六人に絞られます。全員が全員とも確固たるアリバイを持ちませんでした。つまり、誰でも犯行が可能だった。ここで一つ付け加えたいのが、犯行現場に残された毒入りの紅茶です。現場には二つのカップに入った紅茶が手つかずで残されており、その片方から致死量をはるかに上回るニコチンが検出されました。警察の調べでは、煙草を煮詰めた液体を紅茶に混ぜたものと思われます。何者かが、ニコチンによる毒殺を企てたのです」



「そういえば、そんなことを聞きましたね」



「これこそがこの事件最大の謎であり、真相を解明するための重要な鍵なのです。紅茶を用意し、犯行現場まで運んだのは太刀川まゆさんと松戸大輔さんの使用人コンビでした。彼らの証言によると、紅茶が現場に届けられるまで、誰かが近づいてきて毒を仕込もうとしたり、もう片方の使用人が隙をついて毒を仕込むといったことはなかったそうです。つまり、毒が盛られたのは()()()()ということになります。ここで問題になるのが、二人の使用人が部屋を訪れた午後十時の時点で、その場には勇心さん一人しかいなかった、ということです」



「毒を盛る機会があったのは犯人だけ、ということになるのですね?」



「ええ、しかし犯人が勇心さんを毒殺するために紅茶に毒を混ぜたと考えるのは、少し無理があるのです。なぜなら、犯人はすでに金槌という凶器を隠し持っていた。事実としてこれが勇心さんの命を奪っています。目の前にいるターゲットの目を欺いて、毒を素早く紅茶に混ぜるというのは相当なリスクを伴いますし、そんな小細工を弄するくらいならさっさと金槌で相手の頭をかち割ればいい。さらに付け加えると、撲殺に用いた金槌は現場に残しているのに、毒を保管していた小瓶は中庭に捨てられている。凶器の扱いに()()()がないのです」



「同一犯によるものではないと考えられるわけですね。では撲殺犯とは別の人間が毒殺を目論んだのではないでしょうか」



「それもありえません」



 梢は人差し指を振った。



「もし毒殺犯が別にいて、その人物が撲殺犯よりも早く現場にやってきたとしましょう。もし勇心さんがお茶に招いたのが撲殺犯の方だった場合、毒殺犯は招かれざる客なわけですから、勇心さんが彼もしくは彼女の前に紅茶を注いだカップを差し出すことはありえません」



「お父様がお茶に招いた人物が毒殺犯でない場合、毒殺犯はニコチンを紅茶に混ぜる機会を得られない、ということですね」



「その通りです。では勇心さんがお茶に招いたのが毒殺犯であると仮定しましょう。こうなると、毒殺犯は隠し持った毒を勇心さんのカップに仕込む機会を得るわけです。それが勇心さんにバレたかどうかはさておき、結果として片方のカップからニコチンが検出されました。毒を盛ること自体は成功したと考えられます」



 梢はアイスコーヒーで喉を潤し、続ける。



「しかしながら、どちらのカップにも口をつけた形跡はありません。毒殺犯はともかく、お茶に招いた張本人である勇心さんが紅茶を飲まないのはおかしい。これが意味するのは、勇心さんは自身のカップに毒が盛られたことを見破り、あえて口をつけなかった、ということです。こうして毒殺犯の計画は失敗に終わってしまいます」



「その後、撲殺犯がやってきて、お父様を殴り殺したわけですね。ストーリーとしては特に矛盾点はありませんが」



「そうでしょうか。この場合、勇心さんは毒殺されかけたのですよ? 当然、この事実を誰かに伝え、助けを求めるでしょう。殺人未遂事件が発生したのですから。また毒殺犯も証拠となるニコチン入り紅茶をそのまま現場に残しておいたというのは考えられません」



「なるほど、それはそうですね」



「しかし毒入り紅茶は現場に残されていた。これが意味するところは、毒殺犯などはなから存在していない、ということなのです」



「ではいったい誰が毒を仕込んだのですか? 撲殺犯でもなく、別に毒殺犯がいるということもない」



「一人だけ該当者がいるでしょう?」



 梢が挑発するように言うと、林檎は眉をひそめた。考え込むようにしばらくそうしていたが、やがて彼女も思い至ったようで「ああ」と息を漏らした。



「あえてお訊きしますわ、梢さん。それはいったい誰でしょう」



「勇心さんですよ」


 梢はそっけなく言った。



 2



「お父様が?」


 林檎は目を丸くした。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。撲殺犯でもなく、別に毒殺犯がいるとも考えられない。二人の使用人は互いに見張り合える状況だった。となると、残る該当者は一人だけ。すなわち、八神勇心さん本人しかいないのです」



「お父様が誰かを毒殺するために計画を立てていた、と?」



「ええ。そしてその誰かこそ、彼が自室に招き、お茶を振る舞おうとした人物、すなわち犯人なのです」



「では犯人とお父様は互いが互いを殺す目的であの夜のお茶会を開いたということですか」



 林檎は細い肩を震わせながらそう呟いた。



「松戸さんと太刀川さんが紅茶を届けた時、寝室には勇心さん一人だけでした。彼らが去ってしまえば、勇心さんは誰にも見咎められることなく紅茶に毒を盛ることができました。

 車いすで生活を送っていた勇心さんが安全に人を殺す方法は限られます。刃物や鈍器で相手を襲っても返り討ちに遭うのは目に見えていますから、毒殺という手段を選んだことは不思議ではありません。彼の身の回りの世話を担当していた高石旗子さんの証言によると、勇心さんは数か月前から禁煙を破って煙草を吸い始めたそうです。彼女は自暴自棄によるものだと判断したようですが、おそらくこれは煙草からニコチンを抽出し、入手するためだったのでしょう。唯一の誤算は、彼が殺そうとしていた人物の殺意に気づけなかったことです」



 梢はぐいっと残りのアイスコーヒーを飲み干した。



「それにしても、そこからいったいどうやって真相を看破したのですか? 今の説明だと、特定の個人を示す証拠などはなかったように思われますが」



「ええ、今現在も犯人特定に繋がる物証は出ていません。ニコチン入り紅茶の謎を解いたはいいが、そこからもう一歩踏み込むことはできず、あたしの推理はそこでつまずきました。勇心が殺そうとした人物が犯人である。ここまで推理を進めたのにも関わらず、壁にぶつかったのです。正直に告白してしまうと、真相に辿り着いたのは偶然でした」



「偶然?」



 林檎は怪訝そうに首を傾げた。



 そう、林檎が犯人である、と梢が見抜いたのは偶然によるところが大きかった。


 ただ、私も同じ条件でその「偶然」に巻き込まれていたが、そこから真相を見抜くことはできなかった。姉の観察力、推理力があったからこそ、その偶然は立ちはだかった壁を打ち破る鍵に昇華したのだ。



「それを話す前に、現場に残っていたニコチン入り紅茶についてもう詳しく説明しておきましょう。紅茶からはニコチン以外にも、タールやヒ素といった毒物が検出されました。これらは煙草に含まれる有害物質で、このことから勇心が用意した毒は煙草の煮汁であると考えられます。彼の部屋にはキッチンがあったため、容易に準備を進めることができたでしょう。ところで、水につけた煙草というのはひどく()()()()()を発します。ご存知でしたか?」



「……いえ」



 初めて林檎の顔が曇った。私は時おり林檎が灰皿代わりにしていた空き缶の悪臭を思い出していた。煙草から煮詰めることで手に入れたニコチン液は、当然胸が悪くなるような悪臭を放っていたことだろう。


「ヘビースモーカーのあたしでも顔をしかめるくらいのひどい臭いがするんですよ」


「煙草は吸わないので、よく判りません」



「八神勇心はいったい誰を殺そうとしたのか。その最大のヒントが、この『臭い』なのです。いくら鈍感な人間でも、紅茶から不快な臭いが立ち上ってくれば、口をつけるのはためらうはず。相手に怪しまれたその時点で、勇心さんの殺人計画は失敗です。しかし彼はこの計画を決行した。相手がニコチンに気づかずに嚥下するだろうと、作戦の成功を確信していたのです。これが何を意味するのかお判りですか?」



 問われて、林檎は自嘲気味な微笑を返した。



「はい、自分の体のことですから」



 息苦しいほどの沈黙が流れた。私は胸が引き裂かれるような思いで林檎を見つめた。



「あたしはこう考えました。勇心さんが殺そうと企んでいた相手は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。この考えが脳に舞い降りてきたのは、八神邸である光景を目撃した時でした。憶えていらっしゃいますか? 地下室で、あなたが白骨死体と対面した時のことです」



 林檎は顔を伏せて、



「……あの恐ろしい遺体は今も脳裏に焼き付いております」



「あの時地下室には、遺体が埋められていた壁から流れ出た死臭が満ちていました。誰もがあの悪臭に鼻を押さえ、悶え苦しんでいたのです。しかし――あなただけは違った。異様な状況に対する困惑は窺えたけれど、室内を満たす臭気に気づいた様子は微塵も感じられなかったのです。あなたは壁の向こうに隠された何かに全く警戒心を抱くことがなかった。壁の向こうの闇の中に何があるのか、あなたは全く見当がつかなかったに違いない。あの死臭を一度でも嗅げば、ある程度の想像はつくでしょうに、あなたは遺体をその目で確認するまで、遺体の存在に気づくことがなかった」



「……」



「では事件当時八神邸にいた他の関係者たちの嗅覚はどうだったか。まず八神明雄さん。彼は地下室での様子を見る限り、あの死臭に気づいていた、と思われます。また彼は事情聴取の終わり際、楓が()()()ことを指摘しました」


「ちょ、ちょっと何言ってんのさ、お姉ちゃん。誤解ですよ林檎さん。あれはお姉ちゃんがシャワーを浴びさせてくれなかったからであって、いつも汗臭いわけでは――」


「次に彼の妻である八神空。彼女もまた臭いを知覚することができていました。彼女は事情聴取の際、あたしが直前まで吸っていた煙草の臭いを嗅ぎつけ、場所の移動を嘆願したのです。次に使用人の松戸大輔さん、彼も地下室を掘り起こすとき、あの臭気に鼻をしかめていました。後から合流した太刀川まゆさんや高石旗子さんも、こちらが何の説明もする前に臭気を感じ取り、鼻を押さえていました。また高石さんはけっこうきつめに香水をつけてもいました。臭いを知覚できない人間が香水をつけるはずもない。残るはあなただけなのですよ。改めて伺います。八神林檎さん、あなたは臭いを知覚することができないのですね?」


 顔を上げ、林檎は言った。




「はい、わたしは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


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